「――ふぅ…」

 俺の相棒が分厚い参考書から目を離して、目と目の間を指先でぎゅうっとつまんでいる。細い眉が寄って、かなり辛そうだ。
『あーあー、そりゃあ目の使いすぎだ。いいからちょっと俺を外して、外でも見てこいよ、な?』
 すると彼の白くて長い手指が伸びてきて、鼻の上に乗っかっている俺をすっと外す。
『そうそう、わかってるじゃないか。たまにはいいよな。少し休憩しようぜ』
 彼はずぼらなところもあるけど、俺のことはとても大切にしてくれている。外して机の上に置く際も、必ずきちんと折り畳んでから専用の木製トレーの上に乗せてくれるんだ。へへっ、いいだろ。
 カカシは椅子からゆっくりと立ち上がると、窓にかかっていた遮光カーテンを開いた。


『どうだ、少しはお月様見えたか?』
 二階の窓辺に座って夜空を見上げていたカカシが、再び戻ってきて俺を取り上げた。都会の夜空は明るすぎて、例え俺と一緒だったとしても星は殆ど見えないけれど、遅い時間になって高く上がってきた月なら、俺無しでも何となくなら見えるはずだ。
 数年前、俺と出会う前までは、夜空を見上げるたび「お月さまは三つある」と信じて疑ってなかったらしいが、実は一つだけだったと知って驚いたらしい。
 彼はこの半年ばかり夜更かしが続いているから、夜の間はお月見休憩が多くなった。あとはこの時間になると、もうトイレくらいしか一緒に行かないが、まぁなんだ、そっちの詳細は想像に任せることにする。
 俺の相棒の畑カカシは、とにかくめちゃくちゃに頭がいい。一昨年までの定期テストは、大抵毎回学年一位だった。ただその後は色々あって、学校の成績は少し…いやかなり落ちてきている。けど今は、もっとずっと大きな規模の、全国の奴らを相手に行う模試ってやつの結果が良ければ大丈夫なんだそうだ。
 進学校の中でも最近人気急上昇中の中高一貫校に、十倍もの倍率を突破して入学したカカシは、授業中になると決まって窓の外をボーッと眺めていて、ムッとした先生にいきなり当てられることもしばしばだった。けれど、答えはいつも不思議なくらい合っていた。
 そうして高校生活も終盤となった今では、どれだけ授業をさぼっているように見えていても、当てられるようなことは無くなった。先生も学習した…というか、諦めたらしい。
 そんな男が本気を出して、毎晩自宅での勉強をみっちり七時間、欠かさないようになったらどうなるか?
 何でも来年早々には将来を左右するような大事な試験があって、これまでの成果が出るらしいのだが、俺はその日を今から心待ちにしている。ちなみに塾という所には、必要ないから行かないんだそうだ。

 月を眺め終わったカカシは、トレーに置いてあった俺を取り上げ、いつもやるようにクロスでレンズ部分を拭いてくれたが、なぜかしげしげとこちらを眺めているばかりで一向に掛けようとしない。しかも何を思ったのか、つるの曲がっている所…つまり耳に掛ける部分を、指の腹でもってゆっくりなぞりだした。
『うひゃっ?! なんだよカカシ、くすぐったいよ! うはははバカやめろって!』
 目の悪いカカシは俺のすぐそばまで顔を近づけてくると、つるの曲がっている辺りをじいっと見つめている。
『なっ、なんだよ急に…、あんまジロジロ見るなよ、恥ずかしいだろ…』
 眼鏡ってのは、レンズを通して世界を見るものだ。幾ら裸眼でつるなんか眺めてみたところで、なんにも見えやしないぜ?
 とその時だった。カカシがぴょこんとおっ立てた右手の親指が、俺のつるの曲がっている部分にぴたりと寄せられてきて、俺のカーブときれいに重なった。
「…あらま、ぴったり」
 普段独り言など言わない唇から、ぽろりと言葉が転がり出る。
『おっ、そこに気がついたか? やっぱ冴えてるなぁお前』
 そうなのだ、人間の親指が反った角度と、眼鏡のつるの折れ曲がった角度は、丁度一緒なのだ。でも恐らくこれは、単なる偶然なんかじゃない。人が使って心地いい形ってのは、すべからく人の体がどこかでは体現しているということなんだろう。
『最初に出会った頃はほんっと華奢で、ぜんぜんこの角度に合ってなかったのになぁ』
 そんな小さかった手指が、いつの間にか俺をすっぽり包み込んでしまうくらいすらりと細く長く、大きくなった。
「――ふーん?」
 カカシが凭れた回転椅子の背をキコキコいわせながら、感心したように俺を見つめている。
『へへん!』
 どうだい。俺のことますます気に入ったか? 改めて見直したか?
 お前と常に一緒にいるため、俺には色んな工夫や知恵がぎっしり詰まっているんだぜ。

『毎日こんなに頑張ってるんだもんな。入試なんてきっと楽勝だぜ』
 再び俺を掛けるや参考書をめくりだした相棒に、すぐ側からそっと声を掛ける。
「――――」
 数年前まではふっくらとして愛らしい曲線に縁取られていた額から顎にかけてのラインが、今ではぎゅっと引き締まった薄い肌にぴったりと覆われている。
『なぁお前、ここのところちょっと勉強しすぎじゃないか? ぜんぜん寝てないだろ』
「――――」
 そのただでさえ大人びた顔立ちが、最近いよいよ削ぎ落としたようになってきているように思うのは気のせいだろうか? 特に眼孔は、すぐ間近で見ているせいか、以前より落ち窪んできているように感じられてならない。
『試験の時に具合が悪くなったりしたら、それこそだぞ? 大事にいかないと』
「――――」
 カカシは何も言わないまま、一度だけぐるりと首を回すと、再びシャープペンを握って参考書に向かった。




  
glasses




 俺が初めて彼と会ったのは、街の眼鏡屋だった。まぁ当然だな。
「カカシ、どれにする?」
 朝から雨だった日の午後。彼と彼によく似た銀髪の親父さんが入ってきて、「どれでも好きなのを選んでいいよ」と言っていた。「値段は気にしなくても構わないから」と。
 ピカピカに磨かれて指紋一つないメインの大きな棚には、最近流行りの羽根みたいに軽いヤツとか、万一踏んで曲がっても元に戻る摩訶不思議な軟体系とか、あと値札の0の数がいっこ多くてツンと取り澄ました高級ブランドの連中とかがズラリと並んでいて、店員はそちらばかり盛んに勧めている。ちぇっ。
 でもカカシはそれらを横目でチラと見ただけで、「その人の相手はお父さんがしてて」とでも言うかのように、さっさとその場を離れ、店の中を歩き始めた。
 多分その時にはもう、彼の頭中では「こういう感じ」という具体的な形が浮かんでいたんじゃないだろうか。
「今日はもう、何軒か?」
 店員が親父さんに探りを入れている。
「ええ…もう四、五軒ほど」
 どうやらカカシは眼科で視力検査を終えた後も、頑張ってあちこち探し回っているらしかった。その間ずっと付き合っていたらしい親父さんは穏やかな声で答えてはいるが、流石にちょっと苦笑い気味だ。
 一人になったカカシは両の眼を細めながらも、すごいスピードで店内を見渡しはじめた。直後、俺の所でぴたりと視線が止まる。
(!?)
 その時の俺の驚きったら…。あんまりにも緊張したせいで、危うくフレームからレンズがころんと外れるところだった。危ない危ない。そんなんじゃ、選んで貰う以前の問題だ。
 真っ直ぐ俺の所に歩み寄ってきた彼は、細っこい指で俺を掴み上げると、掛けもしないうちから「これにする」と言った。まだ声はその体に似て、如何にも子供らしく可愛らしいものだったが、すでにきっぱりとして、どこか譲らないものが感じられた。
「相変わらず決める時は早いね。掛けてみたのかい?」
 振り向いた親父さんは特に驚いた様子もなく、静かに訊いている。
「掛けてないけど、これがいい」
「頭やお顔に比べて、ちょっと大きすぎませんか?」
 けれど店員は、店の片隅で開店当初からいる超古株の俺では納得いかなかったらしい。いつもそうなのだ。実をいうと俺はオープン初日に三割引のセールタグを付けられて以降、何度棚卸しをしてもタグも置き場所も一度も変わったことがない。
 更に店員は二人がかりで「色がお白くて繊細なお顔立ちですから、軽くて軽快な感じのこちらの濃紺のフレームなど…」と言って、盛んに親父さんに外国製のを勧めだしている。ええい余計なお世話だ! 日本生まれの何が悪い。この人がいいっていってんだからいいだろ!
「カカシ、一度だけ掛けて見せてくれないか」
 と今度は、親父さんまでが店員達の声をきれいにスルーしだした。おお親父さん、わかってるじゃないか。嬉しいね。
「…いいけど」
 今思えば、あの時のカカシは、生まれて初めての眼鏡が照れ臭かったのかもしれない。少しぶっきらぼうに答えると、目の前にある鏡に向かって俺をかけた。
『うわっ?! ゆるゆるっ! 落ちるっ!!』
 その時初めてカカシの鼻の上に乗っかったわけだが、瞬間『これは無理だ』と俺ですら感じていた。
 当時のカカシは、すんなりと長く伸びはじめていた手足に比べて、頭や顔がまだ随分と小さかった。でも俺はというと、大柄で男っぽくて骨太で、頑丈なのが唯一の取り柄なのだ。
 つまり、大人の男のための眼鏡。今までも時々女の子が「あははっ、ねぇ見て見てー、こんなのどう〜?」なんて言いながら、興味本位で俺を掛けることはあったけれど、決まってぷっと笑われては外されていた。
「確かに、少し大きいみたいだね」
(ああーやっぱりダメか〜)
 親父さんも納得いってないんじゃ、どうしようもない。また居残り決定だ。次に誰かに手にとって貰うのは、一体何ヶ月先になるのやら。しかもそれだって、殆どが冷やかしじゃあ先が思いやられる。
 明けても暮れても、店内の片隅で同じ景色ばかり映し続けるこの日々が一変する日なんて、果たして来るんだろうか?
 十数年前、俺と一緒に開店を彩った仲間達は、みな派手な色のセールタグを付けて貰ったこともあって、次々とこの店を後にしていた。もう当時を知っている者は、今では俺しか残っていない。店員ですら全員入れ替わっているのだ。
 最近では俺は、その日焼けをして微妙に色褪せてしまったセールタグがかえってマイナス要因になっているらしく、滅多に手に取られなくなっていた。俺自身は最初から真っ黒だし、頑丈さが取り柄だから、どんなに日に焼かれようが変色はおろか変質のひとつもしてないのだけれど、印刷された紙類は違う。どんどんみすぼらしくなっていってしまうのだ。ああそうさ、要するに俺は売れ残りってヤツだよふんっ!

「いや、これにする」
『ぇっ?』
 思わぬ声が近くで響いて、カカシと一緒にもう一度鏡を覗いた。そこにはどう見ても「眼鏡にかけられてしまっている」色白の少年が映っている。
「父さん、これに決めたよ」
「そうかい。じゃあそれで」
『「「ええっ?!」」』
 俺と店員達の声が見事にハモった。
 その後、店員が「サイズの合っていない眼鏡は、例え度が合っていても負担が大きくなるかと…」と何度か説得を試みていたものの、彼らの意向が撤回されることはなかった。店員達も、見た目より遙かに大人びた物言いをする少年が「大丈夫、体育の時はかけなくても何とでもなるし。すぐにこの眼鏡が合うような大人になるよ」と言ったことで、最終的には諦めたようだった。
 そんなことになって初めて、この店の店員も一応まともだったんだなと思ったが、今日から俺は当分の間、不安定なカカシの鼻の上で何とかバランスを取りながら頑張らないといけないわけで。
(こりゃ大変なことになったぞ…)
 紙袋の底で揺られながら、前途を案じた。


 眼鏡屋の帰り、二人は駅の近くで和食の店に入った。どうやら晩飯らしい。カカシは目を細めながら、一生懸命店の壁に貼られた品書きを読もうとしていたが、親父さんに「折角買ったんだから眼鏡をかけなさい」と言われて、渋々俺をケースから取りだした。
「どうだい?」
「ぅん」
 だがやっぱりカカシはまだ照れ臭いらしい。短く曖昧に答えて店内の品書きをざっと見渡すと、さっさと俺を外してテーブルに置いてしまった。
『おいおい、男ならもっと堂々としようぜ!』
 自分で言うのもなんだが、俺は結構主張の強いスタイルをしている。店員の反対を押し切ってまでわざわざそんな俺を選んでおいて、いつまでもかけるのを恥ずかしがっているようじゃ困る。いいか、俺は今日から、お前の顔の一部になるんだぜ?
「カカシはどうしてそれにしたんだい?」
 ほら、親父さんも疑問に思ってるだろ。
「どうって…別に」
『この際だ、正直に言っちまおうぜ、な!』
 その理由、俺も興味あるし。カカシだって店で俺を掛けたとき、かなり違和感あっただろうに、なぜ俺なんだ?
「だって……安かったし」
『そこかよッ?!』
 まっ…まぁ確かに、値段は俺の取り柄の一つではあったんだろう。でもなんか傷付くよなぁ。トホホ〜
「お金のことは、気にしなくて良かったんだよ」
「してないよ」
 優しい親父さんが気を遣ってくれているというのに、カカシは相変わらず素っ気ない。なんだお前、反抗期か?
 けれど茄子の煮浸しを独りじめしてつついている最中、何を思ったか急にぽつりと呟いた。
「――だって、この眼鏡ならさ」
「うん?」
 親父さんも彼の唐突さには慣れているらしく、静かに続きを促している。
「この眼鏡なら、80年後でも掛けていられるでしょ」
「あぁ――そうだね」
 やー泣けたね。非球面プラスチックレンズだから涙は出ないけど。なかなかいいヤツだよお前は。見直した。
 へへん、どうだい俺の新しい持ち主は。まだ若いけど、なかなかしっかりしてると思わないか? 最近はTPOだとかいって眼鏡を沢山買ってひっかえとっかえするのが流行ってるらしいけど、カカシは俺と死ぬまで一緒にいると言ってくれたんだ。嬉しいね。
 食事が終わったカカシは俺を手に取ると、親父さんの前でちょっと難しいような、真面目くさった顔をしながら、クロスでもって初めて俺を拭いてくれた。
『うはあ〜、気持ちいいなぁ〜』
 まだ眼鏡というものを触り慣れてないせいで、少しおぼつかない手付きではあるけれど、誰かの仕草を見ていて覚えたんだろうか。一人前に光に透かしては、小さな口ではーっと息を吹きかけて拭いている。すぐ間近から薄い色の睫毛に縁取られた澄んだ瞳の少年にじっと見つめられ、その様子を親父さんが向かい側で静かに見つめている。
『ははっ、何だか照れるなオイ』
 もちろん店頭に並んでいる時だって、たまには拭いて貰っていた。けどこんなにふわふわしたいい気分じゃなかった。長いことあの場所で待っていた甲斐があったというものだ。俺はついている。
『よしっ、任せてくれ!』
 俺は眼鏡としての能力はもちろんのこと、丈夫さなら誰にも負けない自信があるんだ。
 今日ここに、ずっとあんたの鼻の上で役に立ち続けることを約束するよ。

 残念ながら人間達が気付くことはなかなかないけれど、「もの」達はみな、使う者に対して多かれ少なかれ、何かしら語りかけてコミュニケーションを取ろうとしている。常に人の役に立つ「もの」としてあり続けるためにな。ほら、みんながよく言うだろ? 「店で眺めていたら、何となくこいつが『俺を買ってくれ、連れて帰ってくれ』って言ってたように思えた」って。あれは気のせいなんかじゃないんだ。人間の側に何かしら感じるものがあったというのは、普段はズレていることの多いお互いのチャンネルがその瞬間ぴたりと合って、俺達の呼びかけが通じたからなのさ。
 そうして出会った人間が、俺達「もの」を大切にしながら使い込んでいくと、その使った時間や思い入れの強さによっては、今までになかった力を発揮するようになったりもする。それはひとえに「もの」との間に対話が成り立つようになるからだ。もちろん耳では聞こえないものだけどな。
 ちなみに俺達「もの」は、みんなとても真面目だ。時たま使用者に対して反乱を起こす「不良」品も居ることは居るが、基本素直で柔順ないいヤツばかりだ。保証する。
 あ、そうだカカシ、今のうちに言っとくが、将来好きな子が出来たとき、「男前が台無しよ!」とか言われて、コンタクトレンズの連中に浮気とかするなよな? お前は俺と一緒にいる時が一番格好いいんだから。俺と一緒に居れば、お前は必ず色んな事に力を発揮できるようになるはずだ。確かに今はユルユルでまだ少しバランスが悪いけど、将来絶対に合うようになるんだから安心しろ、自信を持ってこの眼鏡をかけるんだ。
 いいか、俺を通して、お前が立っているこの世界を、もっと、ちゃんと、しっかり見るんだ。



   * * *



 公立ではまだ珍しい中高一貫校に入学したばかりらしいカカシは、サラリーマンの親父さんと二人暮らしだった。でも「男鰥(やもめ)に蛆が湧く」なんてことはなく、そこそこきれいに、そしてとても静かに暮らしていた。
 彼は親父さん譲りなのかやたらと本が好きで、TVを殆ど見ないことも家が静かな一因だった。
 読書好きの彼はまだ子供といっていい年のクセに、読み進むのが驚くほど早い。街の図書館で限度一杯まで借りてきた、そこそこ厚みのある本でもものの数日で読み終えてしまい、またいそいそと借りに行っている。読書好きというよりは、もはや読書の虫だ。暇さえあれば一日中でも読んでいるのだが、昨夕なんて図書館から帰ってくる最中、薄暗くなった公園を横切りながら読み耽っていて、木の根につまづいて転んでしまった。
 幸い怪我はなかったけど、ゆるゆるの俺が草むらに落ちてしまい、暗い中目の悪いカカシに無事探して貰えるかヒヤヒヤものだった。もちろん見つけて貰ったのだけど、この一件は俺とカカシだけの内緒の出来事になっている。
「カカシ、姿勢が悪いよ。ちゃんと椅子に座って読みなさい」
「――ぅん」
 こういう時にしても、何かしら応えはするけど、本に夢中になっていて大抵生返事だ。けれどこれを二、三回繰り返すと親父さんが本腰を入れて叱りに来るから、カカシはその気配をいち早く察して、嫌な思いをする前にちゃっかり姿勢を正す。
 そんなカカシでも、家では眼鏡を掛けて過ごすようになっていた。本や新聞を読むためだ。以前から親父さんが仕事のために取っていた経済新聞だが、最近は殆どカカシしか読んでいない。経済新聞も夕刊や土日は中学生にも読みやすいテーマが多く、活字に目のない少年の格好の立ち寄りルートになっている。そんなわけでパソコンは親父さんと共用のものがあるものの、今のところさして必要性を感じてないらしい。
 とにかく俺が便利で何にでも使えるってことは、この数日で分かってくれたみたいだ。宜しい。
 ただ学校では恥ずかしいのか、まだ一度も使っていない。カカシはとても賢くて、耳で聴くだけでもちゃんと授業は理解出来ている。黒板の文字が殆ど見えてなくても、先生に当てられればいつでも完璧に答えられてしまうから、なかなか俺の出番が回ってこないのだ。でも、いつまでそんなことをしていられるかな?
 だがカカシが学校で俺を必要とする日は、意外と早くやってきた。参観日ってやつだ。
 前の日の夜、親父さんは「もうずっと母さんにつきっきりで行けなかったから、今度こそ行くよ」と言ってくれていたのに、カカシは「だったら仕事に行けばいいじゃない。来なくてもいいよ」などと生意気な返事をしていた。
 カカシ、お前は確かにちょっと可愛い顔をしてると俺も思う。けど今のお前はぜんっぜん、これっぽっちも可愛くないぞ?

 でもその参観日当日。
 父兄の人達が大勢教室の後ろに入ってきて英語の授業が始まると、カカシは急にそわそわしはじめた。彼は日頃からとても落ち着いているから、そういうことがあるとすぐに分かる。決して英語が不得意ってわけじゃない。むしろ先生がいいから得意なほう。
 そう、学校で眼鏡をかけていないことがバレると、後ろにいる親父さんに後で叱られるからだ。
 そしてそんな時に限って、ミナト先生はいきなりカカシを当ててきた。
「?! …ぁ…はぃ…」
 先生はとにかくめちゃくちゃに目がいい。カカシが授業に集中してないことくらい、すぐに気が付いていた。けれどカカシはずっとそわそわしていて先生の話をよく聞いてなかったから、黒板を見ない限りは何も答えられない。さあどうする?
『おい、何やってんだ! 早く俺をかけて黒板見ろよ。親父さんが見てるんだろ?!』
 机の下で狭っ苦しいケースの中に入れられたままのこっちは、気が気じゃない。
「ん? どうしたんだい、カカシ?」
 ミナト先生が、立ち上がったきり何も言わない少年に柔らかく訊ねると、周囲の生徒達が小声でざわつきはじめたのが気配で伝わってきた。おいおい、こりゃあホントに大ピンチだぞ?!
『大丈夫だ、勇気を出せ! お前の眼鏡姿は全然格好悪くないぞ。俺が保証する!』
 立ち上がったままのカカシが、何かを気にしているのは明らかだ。でも動けない。
『まわりなんて関係ないぞ。いいから俺を掛けて前を見ろ!』
 どうやらカカシは、質問に答えられない恥ずかしさと、眼鏡姿を見られる恥ずかしさを天秤にかけようとしているらしい。大人が読むような難しい本を毎日何冊も読んでいるくせに、やってることは普通に子供だ。ったく、しょうがねぇヤツだな。
『冗談じゃねぇ! 俺がついていながら、分からないなんて言わせるかよっ!』
 でも真っ暗な眼鏡ケースの中で、ネジが弛まない程度に暴れたところで、人間達が気付くはずもない。あぁくそ、焦れったいな!
『おっ?!』
 と、がたがたと音がして、ゆっくり眼鏡ケースが開いたかと思うと、さあっと眩しい光が差し込んできた。
『――ょっ……よおッ!』
 白い頬を強張らせた、どこか不安げな表情のカカシが、じっとこちらを見下ろしている。その澄んだきれいな色の瞳が、無骨で黒々とした俺の太い輪郭ですらぼんやりぼやけて見えているなんて、にわかには信じがたいけれど。
『でも、もう大丈夫だからな!』
 俺が、ついてるぞ!





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