家に帰り着くと、履き物を脱ぐのももどかしく思えるほど、すぐさまイルカを抱いた。いや、いつもなら少しでも彼の気分が乗らないと感じたなら、幾らでも我慢が出来たはずだ。けれど、こと今日に限ってはどうしても駄目だった。
 イルカに済まないと思いながらも、彼が嫌だと口に出さないことをいいことに、最後まで気付かないふりをして抱いた。
(自分は、この人の優しさを逆手にとって利用している)
 彼の意志を尊重するより、己の欲を優先させてしまっていることに暗い罪悪感を覚えた。けれどそんな思いさえ次の瞬間には意識の外に押しやれるほど、イルカが欲しくて欲しくて堪らなかった。
 勿論、その分何とかして気持ち良くなって貰いたくて、出来る限りのことはしたつもりだ。けれどいつものような反応はなかなか返ってこない。
 それでも身勝手なオレは、片時も萎えることなどなかった。むしろより一層愛おしさが募って、いつにない激しさに明らかに戸惑っている様子のイルカを止めどなく愛した。
 まるでそれしか出来ることが無くなってしまったかのように。



「――まだ、気にしてます?」
 暗がりの中、隣の男に声を掛ける。
「…ぇ?」
「さっき、河原で話したこと」
「…そ……ぃぇ」
 イルカは天井を見上げたまま、出かけた言葉を慌てて呑み込んでいる。
 情事の後のたっぷりとした甘い空気が、彼のやり場のない不安や緊張によって急速に払われていくのが分かった。
 改めて悪いことをした、と思う。
(彼にここまで向き合って貰えてるっていうのに、オレはまだ何か不満でも?)
 内側に向かって訊ねる。
 帰る場所ならとっくに分かっている。
 なら、どこへだって行けるはずだ。


「実を言うとね、あの話したら、イルカ先生はオレにもっともっと優しくしてくれるかなと思って」
 思っていた以上に明るい声が出た自分に内心驚く。
「えっ…?」
 でも彼はそれ以上に驚いたらしい。真っ黒な瞳が大きく見開かれてこちらを見ている。そんな目で見つめられると、己の中で知らず飾ったりごまかそうとしていた部分はあっさりと洗い流されて、何の肩書きも飾りもないただの男が現れる。
「最初はね、黙ってようと思ったの。思ったけど、やっぱり我慢できなくて。いい年して欲深くてすみませんねぇ」
「―――…」
「でもあんまり効果無かったかな。今日はなかなかいけなかったみたいだし」
「…っ」
 イルカはムッとした表情の中に微かに失望にも似たものを滲ませると、くるりと背を向けた。あぁしまった、子供じゃあるまいし、つい余計な軽口を叩いちまったなと臍を噛むがもう遅い。
 黒髪のかかるその背中は、顔と同じくらい色んな表情があると見るたびに思う。当の本人より余程よく見慣れているはずの、古いけれど大きな傷跡が、今夜はことのほか痛々しく見えるのは気のせいだろうか。
「ごめん…。機嫌、直して?」
 拒否の意思表示とも取れるその背中を後ろから抱きしめて、まだ少し汗ばんでいる首筋に口づける。何度も何度も項や肩にキスを落としているうち、イルカに回していた手の甲に、温かな手の平がそろそろと重ねられていくのか分かった。やがて彼が目を閉じて気持ち良さげに深く息を吸う気配がすると、周囲の空気は再び穏やかなものへと変わっていく。
(良かった…)
 彼の吐息と交わるようにして、知らず詰めていた息をほうと吐いた。




「――イルカ先生?」
「…?」
「オレの左目が見えにくくなってるって、本当は気付いてたんでしょ?」
 あれからまた一頻り睦んだ後。
 すっかり赤くなった耳元で囁くと、前を向くイルカの目元がどこか落ち着かない色を帯びてくる。
 今日は何度も動揺させて、本当に済まないことをしていると思う。もうこれきりにするから許して欲しい。
「何となく気付いてたけど、言い出せなかった?」
「ぃえ、そんなこと、ないです」
 言い切った最後の部分が微かに震えている。それを悟られまいとしてか、目を逸らす横顔に胸を締め付けられた。
「やっぱそうなんだ。いつ頃からかなぁ、あなたオレの左側に立たなくなったもんね」
「っ……それは、その…、別に…」
「もっと早く言えば良かったね。――ごめんね」
 お互いこんなに想い合っているのだから、遠回りなんて必要なかったはずなのに。
 でも想い合っているからこそ知らずしてしまう回り道に、自分も少なからず心当たりがあった。

 確かに自分もこの目が何よりも大切に思えていた時期があったのだ。以前はその思いに必要以上に囚われ、縛られて……いや、今思えば己で勝手にがんじがらめに縛り付けていただけだったのだが……その結果、皮肉にも周囲が何も目に入らなくなっていた時期があった。
 でもこの目のお陰で何とか生き延びているうち、大切なものが少しずつではあるけれど増えていく。
 ある日ふと気付くと、心身に絡みついていた戒めは解けていて、左目も必ずしも一番ではなくなっていた。

 大好きなあの人、この人が、めいめいに手を叩いているのが聞こえる。
 お前の進むべき方向はこちらだよと。
 自分はその音が聞こえるたび、それを頼りに半信半疑でそちらに耳を傾ける。
 通り名で呼ばれ、上忍などという肩書きを持っていても、その実は恐がりで疑り深い、ちっぽけなただの男だ。
 この左目の元の持ち主は、ちゃんとそのことに気付いていたに違いない。
 きっとアイツは、オレが血みどろになって戦うためなどではなく、一日でも長く生き延びて生きる意味を見出す、そのためにこの目をくれたのだろう。

 イルカに「左目が無くても心配ない」と言ったのは、嘘や強がりなどではなく本心だ。だが、全く使えないとなると不便なのもまた確かだった。
(オイお前、聞いてるか? 妬くな腐るな投げ出すな。こんな所で諦めてないで、オレの最期までちゃんと見届けろよ)
 閉じた左目の奥に語りかける。
(やっぱオレも、出来るだけの事はすることにしたからさ)
 昼間の世迷い言は、全てあの川に流そう。
 そして明日は五代目に相談して、病院に行ってみようと思った。

 そう思い直すと、背中を向けたまますっかり黙りこくってしまっている男を、また性懲りもなくちょっとだけからかってみたくなる。
「イルカ先生って、そういう事だけは気付くの早いからなぁ」
 言うと、案の定ムキになった男が、がばっとこちらに向き直ってきた。
 瞬間。
 ゴッ、という鈍い音と共に目の前に小さく火花が散る。
「ッ?!」
 イルカが振り向きざまに額をぶつけてきたのだと分かったが、余りに唐突すぎて意味が分からない。額はズキズキと酷く痛んで、まるで彼の代わりに何事かを主張しているかのようだ。
「…ってぇ〜。…もぅー、相変わらず厳しいんだからー」
 額を押さえながらただ呻く。
「当たり前です! 頭突きはね、やった方だって痛いんですよ!」
 やたらと大きな声を張り上げている男の、そのくっきりとした目元一杯に、今にも溢れんばかりに透明なものが溜まっている。
(――ほんとに…もう…)
 彼らしい不器用なやり方に、思わず口元が綻んだ。
(痛み…分けか…)


 あなたが確かに手を叩いている。
 何も見えず、どこにも進めずにいたオレの耳にも聞こえるよう、ゆっくりと、でもはっきりと。

「ありがと」
 見る見るうちに赤くなっていくその額に、オレはそっと唇を押し当てた。







               「手の鳴る方へ」  終




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