「――ッ…はぁっ…!」
 もの凄い勢いでベッドから飛び降りた。
 …と思ったのに、真っ暗闇の中で、ベッドの上に一人でぼうっと起き上がっているだけの自分に気付く。
(…あ、れ…?)
 慌てて己を見下ろすと、今の今まで素っ裸だったはずが、随分と寝乱れてはいるものの、見慣れた寝間着を纏っている。すぐ隣にはきちんと寝間着を着た黒髪の男が、髪を解いた姿ですやすやと寝息を立てていた。
(…ゆ…め…?)
 ぱちぱちと目を瞬かせる。
 確か今、イルカに強引にイかされそうになった上、後ろに指を入れられそうになって、思わずベッドから逃げ出したのではなかったか?
 慌てて股間に手をやる。
(――…ぁ……あった…)
 思わず安堵の溜息が出た。可哀想なくらい縮こまってしまっているけれど、ちゃんと揃っている。後ろにも違和感はない。
(…よ…、良かった…)
 S級任務で激戦を永らえた時より、遙かにホッとした。
(――ハァーー…しかし何ともこれは…情けないねぇ〜)
 思うがこればっかりはもうどうしようもない。たった数日間イルカにお預けを食らっていたことが、思っていた以上に堪えていたらしい自分を、脱力しながら嗤うくらいしか出来ることはない。
 じっとりと額に浮かんでいた冷や汗を手の平で拭って一息吐くと、再びイルカの隣りにそっと横たわった。

 まだ幾分高鳴っている鼓動を感じながら、男の安らかな寝顔を見つめる。
 今日に限らず、なかなか寝付けない夜などはよくこんな風にして時を過ごしているが、今夜の中忍の寝顔はいつにも増して穏やかなように思えた。
(…あーあー。いー調子で寝入っちゃってまぁー)
 ちょんと口先を尖らす。
 ついでに鼻の一つでもつまんでやりたいところだが、流石にそれは逆恨みもいいところだなと思い直した。
 すっかり深く寝入ってしまっている中忍の口元には、ほんの微かだが笑みが浮かんでいるようにも見える。
(…どんな夢、みてんだろうねぇ…)
 今夜ばかりは、彼の夢に自分が出ていないことを願った。




 しらしらと夜が明け始めていた。
 あれからもどうにも上手く寝付けず、オレは早ばやとベッドから起きだしていた。
 イルカを起こさぬよう気配を消し、カーテンの隙間から青白く朧に浮かび上がりだした外の世界を、ただぼんやりと見つめる。
(頭でも冷やすか…)
 シャワーを浴びようと、窓際から離れた時だった。
(…おや?)
 目の端に見慣れない装丁の書物が映った気がして、ふと目を留めた。本はイルカの手荷物から半分ほど覗いている。珍しいこともあるものだ。恋人の家まで来て、家主が寝入った後でわざわざ何を読んでいたのだろうか。
(ちょーっと失礼しますよー)
 ふと興味が沸いたこともあり、何気なくその本を取り出してぱらぱらとめくったオレだったが、直後に大声を張り上げた。
「ちょとアンタッ! さっさと起きなさいよ! 一人で勝手に熟睡してる場合かッ!」
「…っ、な…なんですかー…大声出して…んもう…まだ暗いじゃないですかー…」
 しかし目を擦りながら渋々起きてきたイルカは、上忍の手の中にある本を見るや、さっと表情を硬くして俯いた。
「お目覚めの所すいませんけどね、なーんーであなたの鞄にこんなものが入ってんのか、この際だからとっくりと説明して貰いましょうかね?」
 その本には『詳解・サルでも分かる睡眠中幻術』とあった。


 上忍のいつにない強い態度に、流石のイルカも何か想定外の良からぬことが起こったのだと気付いたらしい。言いにくそうではあったが、ぽつぽつと質問に答え始めた。

「…でっ、アンタにお預け食らったオレがふて寝した後、こっそり起きだしてきてその術をかけてから、また寝たと」
「はっ…はい…。だって本当に効くとは思わなくて…。すみません、もうしません」
 ベッドに座り込んだイルカは、項垂れつつ頭を下げた。
 オレは気勢を削がれて、短い溜息を吐きつつ肩を落とす。
 睡眠中に施す幻術自体は、昔からあるものだ。だが、その上から更にイルカがかけた術は、『写し身』とかいう実に厄介な代物だった。
 要するに脳内を弄られることで、自分の持っている技や知識なのに、あたかも相手がそれを持っていて実行しているように感じてしまう、という術だ。
「でも見た目は普段通りの俺なんだし、カカシ先生の持ってる術そのままなんですから互角で大して効かないだろうし…、そもそも写輪眼があるから、途中ですぐ気付いて解かれると思って…」
 イルカがとつとつと話せば話すほど、何やらこちらは気が滅入って深みに落ち込んでいく気がする。
(それがもう、ぜんっぜんだったんだなー)
 長く深い溜息が出た。

「ったく…おかしいと思ったんですよね。なんで急にあんな夢見ちゃったんだろうって」
 やれやれと頭を掻く。
「あんな夢って…どんな夢ですか? ――え?! もしかしてそんな激しい戦闘だったんですかっ?!」
 イルカの顔が急に不安げに曇った。夢の中とはいえ、上忍同士の本気の戦いがどれほど熾烈なものかは、イルカとて容易に察しが付く。
 但し、ベッド上の戦いだったとは、夢にも思ってないようだが。
「――あ〜〜〜ん〜〜…まぁー…そーねぇ〜、確かに激しいと言えば激しかったですかねぇー。…まっ、でもオレもこう見えても上忍ですからぁ? その辺はホラ、ちゃちゃっとやっつけておきましたけどー?」
(――やっつけられたのは、オレ本体だったりするけどね…)
 はたけカカシ、生涯最大の大不覚。
(あぁくそー一体誰だ、こんなムカつく下らない術を開発したのは!)
 密かに面目丸潰れなオレは、苛々と考えを巡らす。
 強者の側が「相手は自分より弱い」という認識をしていると、その強者へのダメージは非常に大きいのに、万一弱者側がかけられたとしても何ら影響のない術、なんて。
(まっ至極平和な術といえばぁ? そーなんだろうけどさ…)

 向かいの中忍は、ベッドの上で神妙な顔付きをして平謝りしている。
「嘘じゃないんです。信じて下さい、ただっ…ただ朝起きた時、カカシ先生が今よりもう少しだけ、そのっ…疲れてて、多少元気が無かったら…助かると…思って…」
「ハァ?」
「だってそんなっ、朝も夜もなんて…あんまりも、その…何というか……あの…」
「うん?」
「――そっ、その…っ…」
「はい?」
 その後、随分と時間を掛けてようやくイルカが打ち明けた言葉を繋ぎ合わせてみると。
『朝となく夜となく、頭もアソコも気持ち良すぎるせいで、そのうち自分がヘンになるんじゃないかと怖かった』ということらしい。
 なのにオレが回数ばかり増やすから、このままではもたないと思って、とうとうあの奇策に出たのだという。
「やっ、でもオレ、お陰で危うく不能になるところだったんですからね? 術はよく考えて使って頂かないと、お互い困るでしょ?」
「ふっ…不能?? そんな、大袈裟な! とにかくっ、カカシ先生には少しは控えて貰わないと、本当にこっちが困るんです! そもそも俺があんなに言ってるのに、あなたが全然聞き入れてくれないからいけないんじゃないですかっ!」
「へ? そんなこと……いつ言ったっけ?」
 途端キッとこちらを睨み付けたイルカによると。
 行為の最中、彼は「もういけないから、もうだめだから」と何度も訴えていたらしい。けれどオレはまるで聞く耳を持ってなかったのだという。
(んーーんーー、そう言われてもねー)
 あんな目くるめく時間の真っ最中に、アンタが何をどう言ったとしても、オレの興奮にせっせと薪をくべているに過ぎないのだ。この人はどうしてその辺が分からないんだろう。
(まぁ…分からない所がイイんだけどー)
 一人鼻の下を伸ばす。
「じゃあエッチしてない、普通の時にそう言えば良かったじゃない」と、今のうっかり発言のせいでプイッと横を向いてしまった赤い顔に言うと。
「そッ…そんな恥ずかしいこと、素面で言えるわけないでしょうッ!」
 今にも破裂しそうなほどの赤い顔で叫ばれた。
(…はぁー、だから最後はもう、その方法しか無かったってワケですか…)
 オレはまた長い長い溜息を吐いた。


 夢の中で、イルカに後ろを取られかけた時。
 今思えば、強い痛みとか一方的にイカされる不安よりも、後口を犯されるというその一点に、どうにも耐え難い恐怖にも似た何かを感じていた気がする。例えそれが心から愛してやまない恋人であっても、恐らく男としてそこだけは決して明け渡せない、絶対不可侵な場所だったのだろう。もしもそこを渡してしまったなら、己の中で確固たる核を成しているものが根底から崩れ去って、自分というものを堅持していけないような、そんな気がした。きっとあれは、オレの砦中の砦だったのだ。
 上忍として、牡として、人としての。
『そんなとこ、ただの排泄器官だろ。何でそこまでこだわる必要がある?』
 そう言って鼻で笑って済ませられないものが己の中に存在していることに、否応なく気付かされていた。
 大体四半世紀もの間、忍として生き抜いてきた身だ。どんな親しい間柄であれ、背後に他人が立っていると認識しただけで、既に鍛え抜かれた五感が警戒反応を起こすようになってしまっている。
 それなのに無防備極まりない素裸の体勢のまま、他人に急所や秘所を晒すなど、それだけでも自分にとっては有り得ない非常事態だったのだ。
 けれどイルカはそれらの本能を全て押し殺して、何もかもオレのなすがままに従っていた。この上忍のオレですら、あの夢の中ではパニックを起こしかけていて、下手をしたら彼に攻撃だって加えていたかもしれないというのに。
(まったく凄い人だよ、アンタって人は…)
 どこの誰だ、彼が凡庸すぎて釣り合わないなんて言った奴は? とんでもない、この人にはいつも驚かされてばかりだ。オレなどより遙かに柔軟で、予想もつかない力を秘めていると言っていい。
 ただそう率直に伝えたとしても、きっと彼は笑って相手にもしてくれないのだろうけど…。

(それにしても…またえらい術を覚えられちまったもんだなー)
 現実を思うと、その手強さには少しばかり手を焼きそうで、正直頭が痛かった。寝ていたら幻術返しも出来ないし、何とかこの術をイルカに返せたところで、彼には夢の中のオレが「大人しくて初心いプラトニックな恋人」に見えるだけで、これ以上ないってくらい何の影響もないわけだしー……うあぁもう〜!
 とりあえず暫くは、あまり彼を追い詰めないよう相当自制しないといけない。もしまた不意にあの術を食らったなら、本当に不能にだってなりかねないからだ。傍目にはかなり笑えるだろうけれど、こっちは笑い事じゃない。
(はー参ったなー…)
 額に手をやりながら、向かいの男をチラと見る。
 起き抜けたままの中忍は、寝癖の付いたくしゃくしゃの黒髪と真っ赤な顔のまま、ベッドの上で俯いてしきりに鼻の傷を掻いていた。その様子は以前と何ら変わらぬ、純朴で飾らない彼そのままの姿だ。
(――…まっ、いっか…)
 そんな彼を見ていると、いつしか眉や目尻は自然と下がり、口元には穏やかな笑みが浮かんでくる。
『この人の強さを認めることで、自分も今より強くなれないだろうか』などという、つまらない意地や力の張り合いはもうやめだ。

 やがてオレの中のちっぽけなもやもやは(今朝はどんな風に愛してあげようか?)という思いに次第に吹き消されていく。
 「優しくするから」なんていう、ありふれた形だけの言葉だけではなく、いつかもっとお互いに納得できる確かな何かを見つけられたらいいのだけれど。
 でも今は。


「降参、降参。もう十分参りました。ハイ、白旗〜!」
「は…ぁ…?」
「だからホラ、停戦の証しとしてね、友好条約、結びましょ?」
「あ、ええ、はい。……って、うわっ?! なっ、結局それですかっ! ちょっとっ、聞いてますっ?! もうっ、全然参ってないじゃ…ない、ですか…っ……ぁんっ…あふっ……」

 アンタがオレより遙かに強いのはよく分かったよ。
 嫌んなるくらいよーく分かってるから。
 だからオレに抱かれてる時だけは……ね?
 ちょっとだけ、譲って?








                       「ゆずれない」 終



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