(ん、晴れたーね?)
 執務室に出向く時より1時間ほど遅くかけた目覚ましに起こされて、カーテンの隙間からわずかに射し込んでくる白い光線に目を細める。いつもなら照っていようが降っていようがさして気にも留めない空模様だが、今日ばかりは別だ。是が非でも晴れて貰わなくては。
 がりがりと頭を掻きながら、遮光カーテンを引く。
(まっ、晴れるとは思ってたけどね?)
 他でもない、今日はあの、遠目にも目映い太陽のような元弟子の、一世一代の晴れ舞台なんだから。


(――さて、と…)
 歯を磨き、顔を洗ってもまだ少ししょぼついている目を瞬かせながら、作り付けのクローゼットを開ける。20代の頃に比べて、目覚めが悪くなったように思う。あの頃の方が、よほど体力を消耗していたはずなのに。
(やートシだーねー、まったく〜)
 まあ元気だけが取り柄の小さな悪ガキだったあいつが、いつの間にか肩を並べるまでになり、ついには嫁さんを貰うまでになったのだ。それも当然だろう。
(えーっと…? ……あぁ、あったこれね)
 ハンガーにセットされたひと揃いを引っ張り出して、クローゼットの扉に掛ける。これに袖を通すのも何年ぶりだろう…ぁいや違った。作ったきり一度も通してないんだった。でも体型ならまだそんなに変わってないし、なんなら気合いで凹ませるから大丈夫〜。
(……なん、だけど…?)
「あれ? んーー? ええ? っ…と…?」
 手にした服を、いよいよ瞬きの回数を増やしながらまじまじと見つめる。続いて、ベッドサイドの置き時計。
(あらま)
 ちょっと、どうしましょこれ。


     * * *


「おぉーー、晴れたなぁ〜!」
 カーテンを一杯に開いて、ううんと大きく伸びをする。
 夕べは近日に迫ってきた教頭試験に備えるため、いつもより遅い時間に床に入ったが、なかなか寝付けなかった。しかも仕掛けた目覚ましより随分と早く目が開いてしまい、いそいそと起きだしてきている。昨日は朝から春の嵐で、ちょうど満開になった桜がもつか気を揉んだが、風もすっかり鎮まっている。よし、いい感じだ。
 ベッドを整えながら、(ねぼすけのあいつ、ちゃんと起きてるんだろうか?)と考え、即座に(あぁいや、違った)と打ち消す。
(そんな心配をする必要は、もうなくなったんだったな)
 あの二人なら、もうとっくに起きて準備を始めているはずだ。
 
 昨日のうちに買っておいた、食べ慣れた握り飯の朝食を済ませ、いつも通りに髪をまとめ、普段通り鏡を見ながら歯を磨く。それでも今日という日は、いつにない特別な一日になる。
(いいか、しっかりするんだぞ、俺?)
 念のため、鏡に向かってもう何度目になるかわからない心の準備体操をしてみる。体操といっても、なんとなく予想される幾つかの場面を、出来るだけリアルに思い描いてみるだけなのだが。
(うん、でも大丈夫そう……いいや大丈夫だ!)

 まぁ…多分な?

「――さぁてと。じゃあ着替えるか!」
 両手でぱちんと頬を叩いた時だった。まるでその瞬間を見計らったかのように、おおよそこの時間に鳴るはずのない呼び鈴の音が、軽やかに室内に響いた。


     * * *


「あっちゃーー…」
「でしょ」
 訪ねてきたのは、銀髪の寝ぐせも目映い六代目火影その人だった。だが先日の話では、彼とは「式場集合」にしていたはずだ。それがなぜこんな時間にひょっこりやってきたのかは、持ってきた礼服を目にしたことですぐにわかった。
「こりゃあまた…派手にやられましたね」
 一目で高級な素材とわかる黒い礼服のあちこちに、上から下までぽつぽつ、点々と丸い穴が開いている。その小さいけれどやたらと目立つ風穴は、目に痛いくらいだ。
「ね。一度も着てないのに、びっくりしちゃった」
(ねじゃないでしょうが〜)
 びっくりしたのはこっちだ。あと1時間ほどで家を出ないといけないってのに、今から掛けはぎしろってか。包丁一本まともに使えない男に、そんな高等な針仕事が務まるとでも?
「カカシさん」
「んー?」
「さては今朝になって、ようやく礼服をクローゼットから取り出しましたね?」
 数日前からでも出しておけば、予期せぬ虫食いでも折れシワでも、まだなんとか回避できた可能性が高いのに。
「あはー、バレちゃった〜?」
 だが「まホラ、喪服は虫がつく暇もないくらいしょっちゅう着てるけど、礼服って作っても着る機会なかったからね〜」とふんにゃり笑う姿に、怒る気も失せてしまう。
(ったく…)
 最近の六代目火影は、油断がならない。ちょっと目を離していると、何かしらやらかしてくれるようになっている。
 昔の彼はもっと近寄りがたい雰囲気をまとっていて、手がかかることなど皆無だったはずだ。だがどうも里長になって以降、そのぼんやり脱力傾向は顕著になりつつある、ような…。その姿はまるで、周囲の支えに気づいた一本足のかかしみたいだ。
(やっぱり…一緒に住んだ方が、いいのか…?)
 もうずいぶん長いこと心密かに繰り返している自問自答を、改めて思い返してみる。これまで幾度となく話題にのぼり、それとなく誘われているが、そのたびに話半分と考え、酒の場の冗談だと思うようにして、ずっと断り続けているそれ。
 向こうは「二人で住めば、家事労働だって半分になるよ?」なんて調子のいいことを言っているが、長年ラーメン屋を台所としてきたような男に、半分だって期待してもらっては困る。俺に火影の生活面を支えるだけの能力がないことは明らかだ。
(ん…まぁでも確かに…)
 今のこの虫食い騒ぎについては? 一緒に住んでいれば起こらなかったわけなのだが…
 まさか、わざわざそんなことを伝えに来たわけじゃあ、ないよな?

(――はーー、にしても、どうするかなこれ…)
 無駄に風通しのよくなってしまっているスーツを、片方だけ口端をつり上げながら見下ろす。恐らく俺の給料半月分はするであろう未使用のオーダー服が、小さな虫達のエサと寝床に消えたのかと思うとやるせない。
「仕方ないですね。とりあえず俺が持ってる中で組み合わせて、何とか形になるか見てみますか?」
 ダメそうなら早々に切り上げて、式場内の貸衣装屋に駆け込めばいいだろう。
「うん、お願い。あぁイルカ先生スキ。大好き〜」
 大きな組織のトップというのは、依頼と謝罪の達人だというが、(教え子に見せられない達人もあったもんだ)と、盛大に苦笑いしながらクローゼットを開けた。


「へーイルカ先生、結構礼服持ってるんだ?」
「ええ。こう見えても駆り出される回数だけは多いんで」
 もちろん「駆り出される」の中には、会場警備などもたっぷり入っているわけだが、お陰で枚数だけなら新しいのから古いのまで色々ある。だが問題はサイズが合うかどうかだけではない。
「オレは何だって構わないから。着られるのでいいよ」
(はぁ〜言うと思った)
「そうはいきませんよ」
 着るものにまるで頓着しないうえ、いざ購入となると高いものを言われたまま買っているらしい男はこれだから困る。
「だって、着れなきゃしょうがないでしょ」
「そりゃそうですけど、それだけじゃなくっ」
 彼が幾らハレの日の場数を踏んでないからって、幾ら普段から支給ジャケットと火影マントしか着てないからって、ここまでいい加減でいいものだろうか。十やそこらの子供じゃないんだぞ? 仮にも現役火影だぞ?
「カカシさん、俺達、今日は一応っ」
「新郎の、両親の立ち位置、でしょ」
(っ、なんだ、わかってるじゃないですか…)
 絶妙のタイミングでさらりと返されて、後が続かない。いつも思うことだがこの男、何をどこまで知ったうえで話しているのかがいまだに上手く掴めない。グレーゾーンが広すぎる。
「だからそれって、オレたちも夫夫(ふーふ)って、ことだよね♪」
「えぇッ?!」
 訂正。グレーじゃない。赤だ。
「だってー、どう考えたって、誰が見たってそうでしょ。オレ達は今日、みんなの前で正式にお披露目ってことだと思ってたけど?」
「はああっ?!」
(オヒロメて…)
 冗談じゃない。間違っても今日はそういうネタを突っ込む日じゃないだろうが?!
 だが向かいの男は、「んーんーそうなるとー、やっぱどこか1か所くらいは『お揃い感』を出したいんだよねー」などと言いながら、勝手にクローゼットの中からスーツを選びはじめている。オイコラ、ちょっと待てッ!
「あ、これとこれなんてどう? 織りは少し違うけど、襟のデザインとかおんなじ」
「お披露目ってなに勝手なこと言ってんですか! 俺そんなの聞いて…いや今日の主役はあいつらなんですよ?!わかってます?!」
 全力で全面否定。なのになぜこんなに顔が熱くなっているのか。自分でもおかしいと思うのに、一向に冷めていかない。
「ふふっ、ねぇ、これってどう? 意外とよくない?」
 男は口布を顎まで下ろし、選んだ二着のスーツをそれぞれ手に持って、やたらと楽しそうに自分の体に当てながら鏡を見ている。
「っ、カカシさんっ!」
(どうもっ、こうも…っ!)
 さらに自分の前にも当然のように当てられて、閉じた目の奥でエア拳をグッと握り締めた。あぁもうっ!
「それっ!」
「へ?」
「あなたが持ってる、そのスーツっ!」
「? うん?」
(くっ…くっそ〜…)
 最初から貸衣装屋に行く気など、これっぽっちもなかったらしい男を睨む。
(幸せそうな顔、しやがって…)
「――右が俺のでっ、…左はっ………親父の、…ですよ…」
 当時彼が奮発してあつらえたらしいそのオーダー品もまた、作ったきり一度も袖を通した気配がない。多分そういう時代だったんだろう。
「――ふふっ、決まったね」
 言うや男は、親父のジャケットを俺に持たせるや、まるでそうすることが当たり前と言わんばかりに、俺のジャケットにさっさと袖を通しはじめた。
「あらま、ピッタリ」
 随分とゴキゲンな様子の男に、あーはいはいそーですねーと棒読み台詞で頷いてみせる。続いて「ね、そっちは? 早く早く」と急かされるまま、「一度も着たことないのに…絶対大きいですよ」と保険をかけつつ渋々部屋着を脱ぎ、十数年間眺めるばかりだったそれに袖を通した。と、意外なほどすっきりと体が収まったことに驚く。
(へえ…)
 てっきり記憶の中の親父の方が大きいと思っていたのだが、父親とは一生そんな風に見えるものなのかもしれない。
「じゃ、次はボトムだね」
 いつの間にか役割が交替してしまっているアドバイザーが、続きを促した。



「――あぁもうっ、いいから黙って脱げ! ほらッ!」
「やーん、イルカセンセったら、積極的〜」
(っ、黙れこの標準体型逸脱野郎っ!)
 上衣は一発で決まったというのに、下衣がなかなか合わずに難航している。どれもこれも、すその丈が変に短いのだ。この際ウエストが緩いのは筋トレ法の違いとするにしても(ぁ?誰だラーメンとか言ってるヤツは〜?)、すその短い礼服なんて、格好悪い以外の何者でもない。
(くッ…)
 それにしても屈辱だ。内心、(上がぴったりだったんだから、下も言うほど変わらないだろう)と思っていただけに、ショックは大きい。
「ま、仕方ないでしょ、イルカセンセのほうが少し低いんだから」
 そんな何気ないフォローですら、癪に障るのはなぜなのか。そしてベッドの上には、彼が脱ぎ散らかしたスーツのボトムばかりが所狭しと放置されている。ほらな、やっぱり家事は半分じゃなく2倍だろ?
 結局、ほぼ全てのストックを試着した挙げ句に、彼が一番最初に手に取っていた、上品な光沢のあるプラチナホワイトのボトムへと戻ってきていた。要はそいつのすそが一番長かったのだ。
(はいはい、いまだにあなたの目がいいのはわかりましたよ)
「でも、それはダメです!」
 きっぱり。俺にだって譲れないラインてものがある。
「えぇー、なんで〜?」
「色ですよ。仮にダークグレーならそういう着こなしの礼装スタイルもあるからまだしも、白系の、しかも光沢のあるボトムなんて、完全に新郎の色じゃないですか。主役より目立ってどうすんですか」
「あぁそういうこと? なら問題ないでしょ」
「は?」
「だってオレも新郎…って、ちょと待った!! あぁホラもう時間ないでしょ! わっ、落ち着いてイルカセンセっ!」



(――ったくもう〜〜っ!)
 今しがた、「もしも会場でそのネタを出したら、1ヶ月間自宅出入り禁止ッ!」と釘を刺したうえで、百歩譲って「白もやむなし」としたところだ。というのも。
「はーーー、いっつもぼっさーとしてるのに、こういうコスプレ臭いの、憎たらしいくらい似合いますねぇ」
 試しに上下とも着させてみたところ、思わず正直な感想が口をついて出てしまっていた。口布をしているせいもあって、そもそも結婚式の礼装スタイルからは大きく逸脱しているというのに、さしたる違和感もなくなっている。この男、きっとどんなシーンでどんな服を纏ったとしても、「らしく」着こなしてしまうんだろう。当時余りの値引率の高さからうっかり衝動買いしたものの、結局すそが微妙に長すぎて一度も着てなかったものだけに、こちらの心中は複雑だが。まぁ良かった…いややっぱ憎ったらしい。
「えぇーぼっさー余計でしょ。正直に『つい見惚れた。相変わらずカッコイイ』って言って〜」
「余計なもんですか。ほらっ、さっさと洗面所行って、頭のぼっさーも直すッ!」


「――いいですか、ハレの場での礼装ってのは、男の見せ所なんですからね」
 寝ぐせを直してきた男の襟元を今一度ぴしっと直し、「白いのと、色柄もの、好きなのを一枚ずつ選んで下さい」といって数枚のポケットチーフを見せる。カラーのほうは色も柄も様々だが、どうせどんな派手な色柄でもすんなり自分のものにしてしまうんだろうから、放っておくことにする。
「選んだら、色のついてるほうを胸に差して」
「はぁ…?」
 上と揃いのスラックスを履きながら先を促す。こちらもジャストフィット。他の荷物は全て昨日のうちに用意してある。よし、何とか間に合った。
「センセ、中は白いシャツにしないの?」
 この男、表向きは無頓着を掲げているくせに、一通り全部見てチェックはしているから始末が悪い。
「ええ、白は畳んだまま持っていって、向こうに着いたら着替えます」
 サックスブルーのシャツを手に取りながら答える。
「ふうん?」
 このシャツに合わせるため、家から付けていくポケットチーフも地味な色柄ものだ。タイは紺色のアスコット。これだけでもぐっと礼装感は薄れる。
「カカシさんも、向こうに着いたら白いポケットチーフに忘れず入れ替えて下さいよ」
「え〜、べつにチーフなんて飾りだから何でもいいんじゃ?」
 と、ここまできて、再び火影にマナー講習だ。
「礼装のしきたりでは、少なくとも両親は白ですよ」
 とはいうものの俺自身、『似合っちまってるから仕方ないか〜』と、白のボトムなんてものを許してしまっているわけだが。
「そーお? 大事なのはそんなルールより、祝いたいっていう気持ちでしょ」
 若い頃はあれほどルールにうるさかった人が、火影になってこんなことを言うようになるなんて。変われば変わるものだ。
「ねぇ、それよりさっきからなんで、向こう、向こうって」
「会場で着替えるならここで着てっても同じでしょ。ここからキメていっちゃ、ダメなの?」という男に、咄嗟に何と答えるべきか巡らす。間違っても「あんたと二人だけの町中礼装外出が死ぬほど気恥ずかしいから」とはとても言えそうにない。
「っ、それは…その…っ、あんまりここからキメていったら、目立ちすぎておかしいでしょう〜?」
 街中では街中らしく装うのも、礼装上級者のマナーだと思うのだ。
(よし、俺上手いこと言った!)と思った時だった。
「別にそんなのいいじゃない。今日があいつの結婚式だってことは、里のほとんどが知ってますよ。いまさらでしょ。こんなにめでたいことの、何がおかしいもんですか」
(うー…「だから遠慮なんてせずに、ここから堂々と着ていってやりましょう」、か…)
 とん、と胸の奥を直接指で衝かれたような感覚に、目の前がすっと開けたような気分になる。暗に「うつむくな。顔を上げろ」と言われたような…。
「――そっ…そりゃあまぁ確かにカカシさんは〜? 何をどう着たところで、どのみち目立っちまっては…いますけど…」
「んっ、決まり!」
 だが、にゅん、と目尻を下げた男が、自身のスーツバッグの中から真っ赤なポケットチーフを取り出したのを見て、再びハッとしていた。今のその銀幕スターのような装いでは飽き足らず、さらに目立つつもりらしい。
(カカシさん…)
 もうTPOは気にしないことにしたわけだが、なぜ彼は赤にしようと思ったのだろう。確かに以前の彼は、赤い瞳が怖いくらい合っていたが。
 ふと、(もう一人、参列させたかった人がいたのかもしれないな)と思う。
 あえては、聞かないけれど。

 彼が赤いチーフをきちんと山に折り畳むと、自身の胸へと差し入れている。
 その成熟した大人の男然とした姿を横目に見ながら、向こうで着るつもりだったダブルカフスの白無地シャツを羽織った。

「じゃあオレがそのカフス付けてあげる」
 式場に持っていくはずだった荷物の中から、シルバーの台座に白蝶貝の入ったカフスボタンが取り出されるのも、彼は目ざとく見つけていた。あっさり取り上げたかと思うと、「一人で出来るからいい」という間もなく袖のボタンホールに通しはじめる。
「ね、このカフス、センセイの?」
「ぁいや……親父の」
 これだけはサイズも流行も関係ないため、ずっと同じものを使い続けている。
「そう、――いいね」

(この人…)
 出会った頃は、自ら笑うことを禁じているのかと思うくらいだったのに。
 今ではこんな風に微笑んだりもするようになったんだよな…と、すぐそばからそっと横顔のラインを辿っていた時だった。
「…はいできた。じゃあなたのために、ハンカチだけは多めに持ってきましたから。どーぞ、好きなだけ使って頂戴」
「は?」
 男がスーツバッグから取りだしてきた、何十枚もの四角い布に思わず苦笑する。なんだよ、売るほど持ってきてるんじゃねぇか。そんなものをコレクションする暇があるんなら、替えの礼服くらい作っとけ!
「間に合ってます」
「そう? でも途中で足りなくなったら、オレがすぐ出してあげるからね?」
「たっ…足りなくなんかっ、なりませんっ!」
(ああまったく、やめてくれ!)
 シャツのボタンも留まっていない情けない格好のまま、頭の中でぶんと手を振る。折角何日もかけて今日のために心の準備体操をしてきたというのに、こんな手前からぐだぐだになっちまってるようじゃお話にならない。
「ね、泣かないおまじない、してあげようか?」
(ぇ…)
 こちらの考えを丸読みしたような男を、うっかりまじまじ見てしまう。それはもう、イエスと同じだ。
「りょーかい。じゃあまず、チーフはこっちにしない?」
 男は「白一色じゃ、余計に老けて見えるから」などと失敬なことを言いながら、再び自分のスーツバッグを探っている。
「ぷはっ、余計に、は余計です!」
 けれど、彼が差し出してきた青いチーフを見た途端、それ以上抗議の言葉が見つからなくなる。
「うわ……すーっげえ、きれい…」
「でしょ」
 一体どうやって染められたのだろう? きらめく異国の海を思わせる、胸のすくような紺碧の布地を見入る。これ、かなり高価なものじゃないだろうか? 間違っても涙とか鼻水とか拭いちゃあいけないやつだ。
(いっ、言われなくても泣かない、けどなっ!)
 そのチーフが彼の白い手指のうえで丁寧に折りたたまれ、ハンガーへと戻されていた親父のジャケットの胸のポケットへと収められていく。ふと(父はこのジャケットに、どんな色のチーフを合わせようと思っていたのだろう)と思う。
(うん、でもこの色なら)
 きっと気に入ってくれるはずだ。

「で、次はシャツのボタンね」
「はっ?!いや、それは…っ?!」
 父のジャケットにハンカチを入れている男の姿に見とれていたところ、急に向き直ってきた男にのけぞる。
「大丈夫。いま『死ぬまでイルカを大事にしますから』って誓いの言葉唱えて許可もらったから」
「っ?!はあ?? なんですかそれっ!?」
 いくら火影だからって、『大丈夫』の乱用がそこまで許されていいものか。
「いいですっ、自分でやれますからっ!」と何度言っても、「それじゃあおまじないにならない」といって譲らない。
 単なる礼服選びが、予想外の方向に展開している、気配。
(で結局……こうなるんだよ、な…)
 ここぞとばかりに近づいてきた唇を、うっかり受け入れてしまっている。顔が熱い。しかもすぐに離れていくのかと思いきや、今にも抗議の声をあげそうになる口先をなだめるように、何度も触れては塞ぎを繰り返している。そのうえ首元ではボタンも留められていて、怒るに怒れない。
(ぁ…?)
 と、胸元辺りで動いていた男の手が、何かに気付いたように止まった。かと思うと、どこにも行き場なく握り締められていた握り拳が、片方ずつ彼の首の後ろへと連れていかれ、また何事もなかったようにボタン留めが再開されている。
(っ、ぷっ…、…なんだ…それ…っ)
 ぴったりと合わせている唇が今にも弛んで笑いだしてしまいそうになるのを、片意地だけで引き結ぶ。
(まったく、も…)
 危うく挨拶の言葉から教頭試験の問題まで、ぜんぶ白飛びするところだったじゃないか。

(――まぁでも…なんだ)
 おまじないとやらに効果があることは? ひとまず認めてあげますよ。


「いい? 式場に行ったら、今みたいにしっかり笑うんだよ?」
「うっ…」
 名残惜しそうに離れていった男に余裕の笑みを向けられ、「わっ…わかってますよっ!」と慌ててジャケットを手に取る。どうやらすっかりバレていたらしい。

「その青いチーフ、よく似合ってるからあげる」
「ぇ、いいんですか、こんな高価なものを…」
 だが機嫌よさげに「うん」と答えた男を見た途端、ふと(もしかしてこれって、最初からそのつもりの訪問だったんじゃ…?)という考えが脳裏を過ぎる。
「あのカカシさん、もしかしてこのチーフって最初…」
「あー、言っとくけどこのシャツのボタンとカフス、外す時もオレがやるんだからね? 勝手に脱いじゃダメだよ?」

「――…バカ…」

 まさか流石の彼も、あの高価な礼服をわざと虫に食わせたわけではないだろう。けれど一事が万事この調子では、家事労働だけでなく、生活費も日々のドタバタも2倍…いや3倍コースな気がする。
(本当に…、本当にあなたは、それでもいいんですか?)
 本当に?

「…あのっ、カカシさん…」
「ん? なに? なんならベルトもいっとく〜?」
「――その…っ…」
 ……
 …


 たぶんこれからは、なんでもかんでもが倍以上になっていくんだろう。

「ぇ?! うわわっ、もうこんな時間?! やばっ!」
「んーー? まっ、大丈夫でしょ〜?」
 たぶん、遅刻の回数も。


「――いい? ここから式場までの間は、オレ達二人のウエディングロードなんだからね?」
 鍵をかけ、駆け出した背後から声が掛かる。
「タハッ、こんな全速力なのに?」
「うん。で、式場に到着したら、いい夫夫♪」
「もうっ……わかりましたよっ!」

 そしてきっと、幸せも。



                  「礼装ロード」 fin


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