宥 免
もう暦の上では春になったというのに、吐く息はまだ白い。
手袋をしていても悴む手を擦り合わせつつ、イルカは通い慣れた道を急いだ。
別段急ぐ必要がないのは、これまでの経験で解りきっている。
それでも歩みが速くなるのは、彼の喜ぶ顔を見たいから。
誰もいない部屋が彼を出迎えるのは、心苦しいから。
…結局は自分のエゴでしかないのであろう。
自嘲の笑みを浮かべながら、イルカは彼の部屋へと進める歩みをさらに速める。
宙には欠けるところのない、完璧な満月が淡い光を放ち、一人早足で歩くイルカの足元を冷たく照らしていた。
目的地に着く頃、イルカの顔はほんのりと赤く上気していた。
鼻をすん、と啜り上げ、慣れた手つきで鍵を開ける。
無人の部屋特有の、何ともいえない香りが身体を包んだ。
「ただいま…」
一応声に出してはみるものの、その音は誰もいない空間へと吸い込まれ、静かに消えていった。
やっぱり帰ってなかった。
解りきっていたはずなのに、残念だと思う気持ちが湧き上がる。
そんな自分にまた、少し笑った。
暗闇の中、手探りで電灯のスイッチを入れると、人工的な光が鋭くイルカの目を刺した。
ひとの気配がない部屋の灯りをつけるのは、少し寂しい気がする。
12年前、一度に両親を失くしたときから、ずっと感じ続けていることで。
誰もいない家に帰ってくることは、どこか寂しくて悲しいと思う。
ストーブに火を入れて空気が暖まる頃には、部屋全体がまるで生き返ったかのように、
帰ってきた時とは別の空間が出来上がった。
イルカはこうやって雰囲気が変わっていく過程を、じっと見ているのが好きだ。
任務で命のやり取りをしている時よりも余程、『生きている』、という実感を得られるから。
今日も一日ご苦労様、と誰かが言ってくれているような気がするから。
だから明日もがんばろうと、そういう気持ちになれるから。
それは早くに両親を亡くしたイルカが、自分以外誰もいない家の中でやっと見つけられた、やすらぎだった。
(そういえば、カカシ先生はどうなんだろう?)
部屋の中が十分に温もって人心地ついた頃、イルカはこの部屋の持ち主のことをぼんやりと思った。
カカシは他人に、自分の本当の姿を見せない。
これは恋人であるイルカに対しても、例外ではなく。
寝ている時でさえ、カカシはどこか緊張している空気をその身に纏わりつかせていた。
イルカはそれを寂しいと思うのと同時に、カカシが酷く、不器用に思えて仕方がなかった。
いつでも何か殻を纏っているような。
他人の表情を常に窺っているような。
カカシというひとは、自分の感情を上手く表現できない子供のようだと、イルカは思う。
アカデミーで受け持つ生徒の中に、毎年一人か二人はいるタイプ。
カカシが他人を見る目は、他人と関わるのに慣れていない子供のそれで。
そんなところも可愛くて、愛しいと思うところだけれど、それでもやっぱり寂しいなぁと、
イルカは溜息をひとつ、吐いた。
ボーンボーンと時計の鳴る音が、どこか遠くで聞こえる。
イルカは急に寒気を感じて、ハッと目を覚ました。
コチコチと、時を刻む時計の音だけが、部屋の中に響き渡っている。
(居眠りしちゃったのか…)
時間を確認すると、もう日付が変わって二時間が経とうとしていた。
カカシが帰ってきた気配は、ない。
(今日はどこに行ってるんだろう…)
イルカは軽く苦笑した。
今日の任務は7班のものだけだったはず。
それならば、こんなに遅い時間になるわけはないのだが。
(心配なんて、これっぽっちもしないけどね)
家族を失って久しいイルカは、家で人を待つということが結構新鮮だったりする。
でもそれ以上に一人ぼっちの時間、というものを厭うのも事実。
(早く帰ってこないかな…)
一人でいる時間を持て余し、イルカは目の前の炬燵に突っ伏した。
イルカが再びうとうとと目蕩みはじめた時、玄関の戸が音もなく開かれた。
いくらアカデミーの教員とはいえ、イルカは中忍試験を勝ち抜いた忍である。
すぐにその気配に気が付いた。
足を忍ばせて自分に近付いてくる影。
目を閉じているイルカの顔を、その人物は覗き込むようにした。
イルカは閉じていた目をパッと開け、「お帰りなさい、カカシ先生」と、一言だけ言った。
急に起きたイルカに驚く風も見せず、カカシも「イルカ先生、ただいま」とだけ。
そのまま次の瞬間には、イルカはカカシの腕の中にいた。
ふうわりと抱き込まれたその腕からは。
馴染みのない、香り。
恐らく女のひとのものであろう、香り。
ひくり、とイルカの身体がその香りを拒絶する。
その拒絶を、カカシは敏感に察知する。
それでもイルカは、何も言わない。
それでもイルカは、カカシを責めない。
遊んでいた両腕を、イルカはしっかりとカカシの背中に回した。
同時にカカシの口から零れる、ほぅという溜息。
「イルカ先生…」
「…何です?」
「ごめんね…」
イルカは、しおらしくそう告げたカカシの言葉には何も答えず、黙って腕に込める力を強くした。
(まるで放蕩亭主みたいだ)
可笑しくなって、イルカはちょっと笑った。
(彼が他のひとの臭いをつけて帰ってくるときは、必ず俺の愛情を量りたいときだから)
だから謝る必要なんてないのになぁ、とイルカは思う。
愛されている実感が湧くのがこんな瞬間だなんて、ちょっと歪んではいるけど。
元々、男同士で関係を持つこと自体が歪んだ関係なのだから、これはこれでいいんだろう。
カカシの匂いを胸いっぱいに吸い込んでみる。
一人でいた時間の寂しさ、虚しさが、一気に霧散していくようだった。
(俺たちはこれでいいんだ)
イルカはそのまま、何も尋かず。
何も気付かない振りをして、カカシを許す。
カカシはイルカに、許される。
他の人から見れば、何の意味もない、実にくだらない茶番に過ぎないだろう。
でも二人にとっては大事な儀式。
とても、大切な、儀式。
― 宥免 終 ―
この作品はいつも大変お世話になっております「ソラマメ」の四葉様より頂戴しました。
以前私が捧げさせて頂きました「悪戯したくて」のお礼とのコメントが添えられていたのですが、
いっ、いいんでしょうかね。海老で鯛を釣ってしまった気分なのですが・・・。
静かな、何気ない一日の終わりの一コマなんですが、その一瞬に二人の複雑ながらも一途な思いを
巧みに織り込んでいらして、何度読んでもじんとします。
シンプルな中に、キラリと光って訴えるものがある作品だと思いました。
四葉さん、本当に有り難うございました。