「あれ、カカシ先生? 先にお帰りになったんじゃなかったんですか?」

 あまりの因果応報ぶりにすっかり脱力して、人気もまばらな通りをふらふらと自宅に向かう道すがら。
 折角耳に心地良いはずのその声に呼び止められたにもかかわらず、カカシは無意識にひくっとその体を縮めた。
(…つっ…!)
 と、またぞろ脇腹が痛みだして、(きっとこの脇腹の傷は、オレのなけなしの良心と裏で繋がっているに違いない)などと思う。
「――イルカ先生こそ…早く帰って休んで下さいよ?」
 振り返りながら言うと、その黒目がちな両の瞳が、自分の脇腹付近に注がれているのが映った。その目線を辿りながら自身を見下ろしていくと、全くの無意識のうちに、己の左手が昨夜負った打撲部分を押さえている。
「カカシ先生、脇腹…さっきからどうかしたんですか? …まさか任務で、怪我でも?!」
「いえいえ〜、怪我なんてしてないですよ。ほら」
 ぱっと手を離す。
 しかしやせ我慢の言葉とは逆に、心臓が脇腹に直結でもしたんじゃないかと思いたくなる程、そこはずきずきと痛んだ。まさに「裏腹」とはよくいったものだと、身をもって思い知る。

 実のところ、昨夜イルカの側でうとうとしたまでは良かったが、痛みで早々に起きてしまい、その後は殆ど眠れていない。
 医療部隊のいる専門病院に行けばこんなに苦しむ事もないのだが、浅からぬ傷の具合から昨夜の一件がバレてしまいかねないために、行くに行けないでいた。
 もし行けば、任務にも行っていないトップクラスの上忍が受けた不審な深手の事などすぐに火影の耳に入ってしまい、そこからあっという間に事実は探り出されてしまうだろう。そうすればイルカの潜在能力の事も、芋蔓式に白日の下に曝されてしまうはずだ。

「カカシ先生……顔色、あんまり良くないんじゃないですか?」
「その言葉、そのままお返ししておきますよ。イルカ先生」
 お互いに指摘し合って苦笑する。
「まっ、今日はお互いに帰って早く寝ましょ」
「そうですね」
「では、また明日」
「お疲れさまでした!」


 だが二人が別々の方向に一歩歩き出した時、イルカの背中に思い出したような感じで上忍の声が投げかけられた。
「――あぁ、イルカ先生?」
「え、はい?」
「一つ聞いていいですか?」
「? 何でしょう?」
「その…ですね、あくまでも例えばの話として、聞いて頂きたいのですが」
「??……はぁ?」
「もしも、もしもですよ? イルカ先生が何らかの理由で、今よりも遙かに高度な忍術や体術を会得したとしたら、先生はその力を使ってどこで何をしたいと思いますか?」
 問いかけた上忍の声はいつもと何ら変わらず、静かでよく通っている。
「は? …高度な忍術や体術? …何を、したいか…?」
 だが、その内容はどこか掴み所が無く、みるみるうちに中忍の眉が真ん中へと寄っていく。
「ええ。もしもの話です。オレなんかより遙かに高度な技が身に付いたとしたら、先生はどうしたいですか?」
 ポケットに両手を突っ込んだままの男が、猫背気味のまま訊ねてくる。
「どっ…どうするって…、そんなこと考えたこともないですから、急に聞かれても…」
 だだでさえ二日酔いで曇っていた中忍のおもてが、眉間に皺を寄せてううんと唸りながら固まってしまっている。
「まっ、確かに急に聞かれても困るでしょうね。じゃあこの質問は、月見の夜までの課題と言う事で」
「…はぁ? …じゃあ一応、考えておきます…」
 イルカは質問の答えは勿論の事、カカシが今なぜそんな事を訊ねだしたのかもあわせて考え始めてしまい、ただでさえきつかった頭痛がますます高まってくるような気がした。

「じゃ、そういうことで。月見は明後日でどうでしょう?」
「いいですよ。でも明後日だと寝待ち月ですから、少し遅く来て下さい。でないと月の出をだいぶ待つ事になりますから」
「わかりました」
 イルカの風流さと細やかな気遣いに、思わず小さな笑みが出る。
「では、お疲れさまでした」
「おやすみなさい」
 二人は夕べ一晩ですっかり弱ってしまった体を休めるため、数日ぶりに別々の方向へと別れ、家路に着いた。





「おう、また会ったな」
 カカシが脇腹の痛みを騙し騙ししながら、ようやく自宅の前まで辿り着くと、すっかり暗くなった戸口付近に、黒い外套を羽織った大男が立っていた。その顔には、幾つもの古傷が独特の陰影を作っている。
「………」
「なんだ、その目は」
「あぁ…いや。今、薬の臭いがしたから。もう怪我の事がバレたのかと思って」
「ふん、相変わらず察しがいいな。…ほらよ、いつも個人的に世話になってる医療部隊の奴から貰っといた。口の堅い奴だから足はつかねぇ、心配するな」
 言いつつ懐から白い包みを差し出す。
「…………」
 カカシは俯きながら、左手でそれを受け取った。
「足りなかったら言ってくれ」
 そのまま踵を返して歩き始めた特忍を、カカシの小さな呟きが追いかける。
「――すまない」
 と、ひた、と男の足が止まった。
「せいぜい大事にするんだな。――あぁ、お前のその腹の傷も」
 直後、ふっと気配が消えた。

「…そだね」
 カカシは脇腹にそっと手をやった。
 あれほど続いていた焼けるような痛みが、心持ち楽になった気がした。





 翌々日の夜。
 約束通り縁側に陣取った二人は、夜半近くになって障壁の向こうから昇りはじめた月を眺めた。
 大株に育ったススキが時折重そうに頭を振り、萩の花が丸葉の側で恥ずかしげに咲いている。様々な虫の声が幾重にも重なり合って、心安らぐ心地よい空間を満たしていた。
 二人は個々の事由からあまり杯には口を付けなかったが、先般の酒の席で殆ど何も話さなかった分を取り戻すかのように、その時間を会話が埋めていく。

「イルカ先生?」
 呼び掛けると、青白く照らされた横顔が月からカカシへと向けられる。
「先日の質問の答え。…出ました?」
「ぁ…えぇ、まぁ…。あはっ、でも私にとってはあまりにも現実味のない例えなんで、何かこう…雲を掴むような話だなぁと…」
「そうですか? でもあなたは教師だ。生徒の力が何倍にも伸びていく姿は現実に見ているのに、自分の能力はもうこのままだと思っているんですか?」
「え…」
 咄嗟に返事が出来ず、イルカは押し黙った。
(くそっ、こんな事が言いたかったわけじゃないのに…!)
 カカシも勢いで言葉を返してしまった事に、内心舌打ちする。
 普段から探求心旺盛で、自己の研鑽に関しては何の怠りもないイルカなのに、こと自分の評価となるとまるで客観性に欠けるきらいがある、とカカシは思う。
 もっと自分をよく見つめて欲しい。そんな願いがつい、きつい言葉となって出てしまった。
「そりゃあ…もちろん私だって、このままでいいなんて欠片も思っていません。でもカカシ先生以上になんて、自分にはとても、とても」
 俯いたまま、ぽつりぽつりと話す。裏の空き地で、酔いと怒りから爆発的な力を解放したあの鬼気迫るイルカと、今この目の前の男が同一人物とはとても思えない。
「ですから、先日のご質問の答えですけど。私は、きっとそんな凄い力を急に持てたとしても、上手い使い方がわからないのが私なんだと思うから…だからもしあったとしても使わないと思います。あ、使えない、と言った方が正しいのかもしれないですが」
 イルカはまるで、空き地で暴発した自身を知っているかのような事を言った。
(意識下でも無意識下でも、やっぱ人の心ってのは最終的にはどこかで一つに繋がっているもんなのかねぇ)
 カカシは少なからず驚いた。

 彼にとって、力とはありすぎても身動きが取れなくなるもの。
 そして逆を返せばそれは、『力よりも、もっと他に信頼しているものがある』と言っているように、聞こえなくもなかった。

「…じゃあカカシ先、先生ならそんなとてつもなく大きな力を得た場合、どうされますか?」
 返答に窮していたイルカが、逆に問うてくる。
「オレの場合は簡単ですよ」
 カカシは色の違う両の目でイルカの瞳を真っ直ぐ見つめながら、即座に揺るぎない自信を持って言いきった。待ちに待ったここ一番の場面に、いつになく鼓動が高まっている。
「可能な限り、オレの愛する人を守るために使いたい。ま、今と何ら変わりません」
 途端、イルカの表情がふっと明るくなった。
「あぁ流石ですね! 私もカカシ先生のように常に高いレベルで確固たる意識を持ち続けていられたら、どんなに心強いか…! うん、俺も頑張らなくちゃな!」
(――ハ?)
 直後、上忍の内側で膨らみきっていた緊張と期待が、プシューと音を立てて抜けていく。
 だが思えばそれもまた、実にイルカらしい答えかと小さく苦笑する。
 すぐに次の新しい話題へと誘うと、中忍は瞳を輝かせながら、興味津々といった様子で相槌を打ってきた。

(――アカデミーを挙げて盛り上がったゲームにおいて、図らずも他を圧倒したイルカ先生)
 でもそんな自身の力の存在など知るよしもなく、今目の前でこうして優しく話しかけてくれるのもまた、イルカ先生。
 そんなあなたの「後ろを獲って」、尚かつ一生かけて守り続けるのは、このオレでありたい。

(イルカ先生。オレ、絶対に諦めませんから)
 博識な中忍の熱心な月の解説に耳を傾けながら、上忍は心密かに思いを巡らせる。

 やがて寝待ち月はすっかり雲に隠れたものの、ますます話に夢中になっていく二人がそれに気付くことはなく。

 ススキと萩だけが静かに揺れながら、月明かりを待っていた。










                    「千年愛して」 おわり


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