続・千年愛して



「すみませーん、こっちお銚子三本追加で! あ、それからこの特上の刺身盛り合わせも〜」

 週末、こぢんまりとした高級割烹。
 くノ一の艶のある声が、カウンタの奥に向かって軽快に響く。
 途端、彼女の向かいに座っていた髭面が引きつった。
「――オイオイ、おめぇまだ呑むつもりかよ?! しかも、特上刺身だぁ?!」
 周囲に聞こえないよう、男が極力小声で異議申し立てをすると。
「あ〜ら、いけない? 私ならまだまだイケるわよ〜。それに漢に二言はないんじゃなかったかしら? ねぇ、間違っても今のは二言じゃない……わよねぇ〜?」
「む……ぅ…」
 猿飛アスマは、二の句が継げずに黙り込む。
 大きな手指に挟んだ煙草が、吸われないまま短くなっていく。


 全ては1ヶ月前の、あの場末の居酒屋での賭が元凶だった。
 アカデミーの水面下にて大いに盛り上がった『千年殺しゲーム』において、もし万が一にもアスマが後ろを獲られたなら、「1ヶ月間、ただひたすら紅の呑み代を奢り続ける」という、何の気ない(いや、実は下心も少なからずはあった)約束。
 しかし、その賭に負けた代償は、とてつもなく大きかった。
 先週は一日も休むことなく、連チャンで『場末の居酒屋ハシゴ週間』だった。
 先々週末は、里一番の高級料亭で暴飲の限りを尽くされ、目の玉が飛び出る程の請求額を被っていた。
 その前の週末は、アンコまで加わって、オカマバーで盛大なドンチャン騒ぎだ。
 バーでの数時間というもの、アスマはやたらとオネェ連中にモテまくって終始もみくちゃにされ、全く生きた心地がしなかった。
 未だに町中を歩いていると「アスマちゃ〜ん!」とダミ声で呼ばれながらいきなり後ろから抱き付かれて、相手が一般人である事も忘れ、思わず忍の習性で投げ飛ばしそうになるのだ。
 しかもアンコが自分の後ろを獲った際、何の手加減もしなかったために、暫くの間ことあるごとに局部の酷い痛みに悶絶する羽目に陥っていた。
 そんな状態なのだから、いきなり背後からダミ声と共に抱き付かれようものなら、忍でなくとも投げ飛ばしたくもなるというものである。
 更に、そんな現場をカカシに見られた日には、目も当てられなかった。

「へぇ〜、アスマって、後ろ獲られてそーゆー店に開眼しちゃったワケ〜?」
 ニター、とすごい右目を向けられて。
 もう散々だった。
 また間の悪い事に、こういう時に限って何の遠方任務も入ってなかったりするのが、何とも恨めしい。
 しかし、果てしなく長かった1ヶ月が過ぎ、今夜ようやっと最後の週末を迎えていた。
(これでもまだ、今夜が一番マシってか…)
 アスマはこの1ヶ月間の事を思い出すたびに、無意識のうちに紅のことを所詮女だとナメてしまっていた事を、今更ながら酷く後悔する。
(――やれやれ…)
 顔色一つ変えず、高い徳利を次々と倒していく向かいの妖艶な美女を見ながら、大きな溜息を一つつく。
 髭面の漢は、『一旦本気を出したくノ一は、元暗部の写輪眼男などより遥かに怖いのだ』という事を改めて、そして身をもって思い知ったのだった。




 師走最終週。
「イルカ先生、今夜久しぶりに呑みにお邪魔してもいいですかね?」
 人気の無くなった受付所で帰り支度をしていたイルカが、聞き慣れた上忍の声に振り返ると、いつものあの三日月目の男が両手を後ろに回した格好で立っていた。
「あ、カカシ先生! お久し振りです。もちろん構いませんよ、あんな散らかったところで良ければどうぞ」
(まだ酒の買い置きあったかな?)などと巡らしながら答えると、いかにも高級そうな白磁の瓶子がずい、と目の前に差し出された。見ると高価なことでつとに有名な、幻の銘酒だ。
「ここのところ、ずっと里の外へ要人護衛で出てたんですが、昨日最終日だってことで貰っちゃいましてね。子供達には悪いですが、先生と山分けってことで」
「えっ、えっ?! これってあの『愛(め)で惑ひ』ですか? うっわー凄いなぁ〜、これが呑める日が来るなんて、思ってもなかったですよ! え、あのっ、本当にいいんですか?!」
「えぇ、どうぞどうぞ。雪見酒といきましょう」
「うはっ、いいですねぇー。掘り炬燵も作ってありますんで、久しぶりにキュッといきますかぁ!」

 カカシはもうすっかり顔がほころんで浮かれはじめている中忍を促し、チラチラと粉雪が舞う屋外へと向かった。
 アカデミーの玄関で、イルカが茶色い油紙の張られた番傘をさして振り返ると、黒い外套を袖を通さずに羽織った銀髪男が、瓶子を抱えた格好でこちらを見ている。
「あ、どうぞ、入って下さい」
 雪はチラチラとではあるものの、昨夜から止むことなくずっと降り続けていたのに、何故カカシが傘を持って来ていないのか、という事に思い至ることもなく、イルカは男に向かって少し傘を差し出す。
 すると男は「じゃ、お言葉に甘えて」とにっこり笑うや、すぐにすっと隣へ入っていった。

 二人は殆ど同じような歩幅で、いよいよ白さの増してきた道を歩き出した。
「月日の過ぎるのって、早いものですねぇ。つい先日、カカシ先生と縁側でススキや萩を見ながら酒呑んでたっていうのに、もう明後日は正月ですよ」
 イルカが喋るたび、唇から流れ出る真っ白な息が後ろへと飛んでいく。頬と鼻先を僅かに赤くし、塗りつぶしたように真っ黒な瞳が、いつもより近い場所で瞬きをしている。
「そうですか? オレは案外長かったような気がしますよ」
 カカシはそんな横顔をすぐ側で堪能しながら、ようやく完治した脇腹の傷の事を思った。

 あの夜、イルカの謎の大技を受けて脇腹に負った傷は、通常通り任務をこなしながらの極秘の自己治療ということもあり、思った以上に時間がかかってしまって正直冷や汗ものだった。
 それと同時に、イルカが無意識のうちに発動した名も知らぬ大技のことも、ずっと気にかかっていた。今後も何がきっかけでこの男のとんでもない潜在能力が上層部に知れるかわかったものではない。カカシは内心、それを酷く恐れていた。
 そしてもしもそれが一旦知られてしまったなら、もう今のような平穏な関係はまず続けられないだろうとも思う。それだけは何としても避けたかった。
 ニセの禁止令を流した事で、例のゲーム自体はほぼ一夜にして鎮圧されていたが、カカシには秘守せねばならない事柄が一つ出来た格好だった。


 他愛ない会話を交わしつつ、真っ暗な空から落ちてくる粉雪の中を歩くこと数十分。
 ようやく町外れのイルカの自宅へと辿り着く。気のせいか、ここまで来ると町中よりもだいぶ寒く、雪も沢山積もっているように思える。
 真っ白な道路は足跡もまばらで、遠くの曲がり角に唯一ある小さな街灯がの灯りが、観音開きの板門や雪を頂いた平屋造りの屋根を朧に浮かび上がらせている。
「今年は珍しくよく降りますよね。来年の米は豊作ですかね」などと言いながら、イルカが雪の吹き寄せた板門に設えられた通用口の木戸を横に引いている。
 カカシが雪がかからないようにと受け取った番傘をさしかけてやり、自分も傘を閉じて通用門をくぐって中庭へ…と思った時だった。
 ふと、何者かの視線を感じたような気がして、腰を屈めたまま男の動きが止まる。
 はっきりとではなく、あくまでも何となく。強いて言うなら気のせいと言えなくもない程の、ごく弱いそれ。
(――視線…?)
 カカシは屈んだままの姿勢で灰青色の右目を素早く動かし、周囲を油断無く見回したが、その時にはもう既に今し方感じた感覚は四散してしまっていた。
(気のせい、か?)
 昨日までの十数日間、要人警護に当たっていた為に、神経が過敏になっているのだろうか? それとも今し方まで(イルカの潜在能力を決して気取られぬようにせねば)などとつらつら考えていたせいか?
 いずれにせよ、カカシは長年信頼し続けてきた己の鋭敏な感覚を、全く無視することは出来なかった。
(念には念を入れよ、か…)
 今夜の酒は、互いに程々にしておく必要があるかもしれないな、と思った。




 イルカ宅・居間。
 手あぶり火鉢にかけた鉄瓶からは小さく湯気が上がり、掘り炬燵の天板には白磁の瓶子とイルカの用意した幾つかの酒の肴が並んでいる。
 カカシは縁側を覆っていた雨戸を二枚だけ開けて、室内の照明はできるだけ落とし、雪見障子の硝子越しに中庭を眺められるようにしつらえていた。
 中庭の大小の木々はすっかり白いものに覆われ、全ての音や色を消し去りながら、尚もしんしんと降り続いている。
 最高の景色と最高の酒と肴、そして最高の人が目の前に揃って、(これは絶好の口説きのシチュエーションだな)などとカカシは思う。
 が。
「ちょと、イルカ先生! 何だか呑むペースが早すぎやしませんか? もっとゆっくり楽しみましょうよー」
「あはっ、大丈夫ですよ〜、さっ、カカシ先生もほら、どうぞどうぞ!」
「やっ、オレはそんなには……あぁ、すみませんね…」
「いやー、それにしてもカカシ先生には何と御礼を言ったらいいか。まるで夢のようですよ。年の締めくくりにこんないい酒が呑めるなんて。うん、きっと来年もいいことずくめに違いない!」
 掘り炬燵に腰を落ち着けてからというもの、幻の酒を一口口にしたイルカは、そのあまりの旨さにすっかり心を奪われてしまったようだった。さっきから用意した肴もそこそこに、盃ばかりが重なっている。
 確かにカカシもこんな旨い酒は初めてだった。幾ら大金を積もうが、次にいつ呑めるかもわからぬ希少な銘酒だ。いや、もう一生呑めない可能性だって大いにある。それでこの旨さとくれば、イルカが夢中になるのも分からなくはない。
 しかしカカシは、今夜に限ってはあまり酔って欲しくない気がしていた。
「イルカ先生、もう顔が赤いですよ。だいぶ回ってきてますって。肴も食べて下さい」
 だが、イルカははいはいと返事はしつつも、この酒がどんなに旨いか、また今までどんなにか呑みたいと思っていたか、そしてどんな場所で、どういう製法でもって昔の手法を頑なに守りつつ大切に作られているかという事を、尚も盃を重ねながら至極熱心に、満足げに、そして心の底から嬉しそうにカカシに説くのだった。
 もうその陶酔の表情は、本当に酒に酔っているのか、それとも憧れの酒を呑めた感動に酔っているのかわからないほどで、カカシもその可愛らしさには思わず苦笑してしまう。
 また、イルカは教師だけあって流石に博識で、酒造りに関わる様々な分量や日数などの細かな数字から専門用語までをちゃんと覚えていて、若干頬を赤らめながらもそういったデータがすらすらと口をついて出てくる。
 そんな様子から、カカシは当初「この人はまだ、さほどには酔ってないのだな」と思っていたのだが。
 実のところ、イルカは確実に『幻酒・愛で惑ひ』に心も体も呑まれはじめていたのだった。











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