ガタン――ガシャー…、という聞き慣れない大きな物音に、驚いたカカシが台所に一足飛びに行ってみると、イルカが呆然とした顔で床に座りこんでいた。
「どうしました?! イルカ先生!」
 下げようと盆に載せていた徳利や食器の類は割れてはいないものの、見事に床に散らばってしまっている。
「いっ、いえすみません。大丈夫、何でもないです。…っかしいなぁ…何か今、急に足にきちゃって。まさか、こんな早く酔ったってことは…」
「いや、そのまさかでしょ。さぁ、もう今夜は呑むのはやめにして。あの酒は桁外れに旨いし強いから、どうしても回りが早くなりますよね。これ以上呑んでると、またいつぞやの時みたく酷い二日酔いになりますよ?」
 イルカはその『いつぞやの時』という言葉を聞くと、眉をハの字にしてバツの悪そうな苦笑いをした。
 『いつぞやの時』とは、無意識のうちに怒りと泥酔で大技を発動した、あの夜の酒のことなのだが、本人もその際の酷い二日酔いの苦しみだけは今でもよく覚えているとみえ、その台詞は何かの術のようによく効いた。
「そ、そうですね。私も大人げないですよね。もっと味わってゆっくり呑めばいいものを、すっかり浮かれちゃって」
 カカシが腕を取ろうと手を出したのを、いいですいいです大丈夫ですからと断り、自力で立ち上がる。
「カカシ先生、良かったら今夜は泊まっていって下さい。外もだいぶ積もりましたし」
 言いながら、もう風呂の準備を始めようと土間の焚き付け口へと向かっていく。
「ぇ? あー…、そうですか? そりゃまぁ…大変に、有り難い、ですが…」
 カカシはその後ろ姿を見ながら、急な申し出に少なからずどぎまぎする。
 イルカの口から泊まって行け、という言葉が出たのはこれが初めてだ。別に大雪の中を自宅に帰ることなど造作もないことだったし、イルカもそれは分かっているはずで。
(…ってことは、もしかしてオレ、なんか期待しちゃっても…いい…?)
 カカシの胸中を、至極自分本位な解釈が駆け抜ける。
「明日私、遅番ですから。ホント気になさらないで下さいね」
 土間の奥からイルカの声と、薪をくべている乾いた音が聞こえてくる。
(いや、あの、気にしないでって言われても、ね?)
 先程表で妙な気配を感じた気がしたため、いずれにせよイルカの家の屋根裏で一夜を明かすつもりではいたのだが、まさかこんな願ってもない幸運が降って湧くとは思いもよらなかった。
 掘り炬燵の天板の上をいそいそと片づけながら、カカシは急速に浮かれた気分になっていく己を押し止めるのに四苦八苦した。



 イルカの家の風呂は、昔ながらのいわゆる五右衛門風呂というやつだった。
 湯船に浮いた丸型のすのこを踏んで入るのだが、湯船の周囲はとんでもなく熱くなり、とても寄りかかる事は出来ない。
 よくもまぁこんな不便で危ない風呂を使い続けているな、と最初カカシは半ば呆れたり感心したりしていたものの。
 イルカが外から湯加減を聞いてくれ、薪を足してくれる風情は、それはそれで捨てがたいものがあるな、などと、上がる頃にはすっかり気に入ってしまっていた。

「ありがとうございました。とてもいい湯でしたよ」
 イルカの用意してくれていた浴衣と半天をつけ、脱衣室を出ると、カカシは流しで洗い物をしているイルカに礼を言った。
「あはっ、良かった。客間に布団も敷いておきましたから。どうぞ先に休まれてて下さい」
 中忍は洗い物をしながら、少し体を捻った格好で上半身だけ振り向いて答える。
「すみませんねぇ」
「いえ、こちらこそ。いつも大した事も出来ませんで」

(――客間、か)
 予め予想されていた事とは言え、カカシは内心がっくりとする。
(まっ、屋根裏より数段マシって事で)
 とぼとぼと素足のまま冷えきった廊下を歩き、古めかしい行燈型の灯りのともる部屋の障子を開ける。
(!!)
 と、そこには布団が二組、きっちりと敷かれてあった。
(…………)
 カカシは棒立ちになったまま、色違いの瞳をぱちくりさせる。
(ちょっとちょっとおぉーー…これはひょっとすると…ひょっとしますよぉ〜!?)
 カカシはぴょんっと奥の布団の上に陣取ると、首に掛けていたタオルで銀色の髪をがしがしと勢いよく拭きはじめた。きっと今、自分はとんでもなくだらしない顔をしているだろう。
 この部屋に、鏡が無くて良かったと思った。

 しかし、嫌がうえにも期待に胸が膨らんでくるのと同時に、どうにもさっき感じた気配の真偽が頭の隅からきれいに追い出しきれないでいる事にも気付いて、ふと髪を拭く手元が止まった。
 そして夜気にさらされた頭が少しずつ冷えてくると、ますますその事が心の何処かにしぶとく引っ掛かってくるような気がする。
 カカシは布団の上にどさりと寝転がると、天井を見ながらつらつらと考えだした。
(あの場に万一本当に誰かが居たのなら、狙いはオレではなく、イルカ先生である可能性もあるな。――いや待てよ? もしかして、もう既にあの人の能力が、上層部に嗅ぎ付けられてるって事は…?)
 全くの杞憂かもしれぬと片隅では苦笑しつつも、カカシはイルカが風呂に入ったのを確認するや、浴衣の上に外套を羽織った酷く寒々しい格好のまま、こっそりと外に出た。

 見渡すと、すぐ目の前から視界の及ぶ限りの遠くの暗がりまで、後から後から白いものが舞い降り続けていて、瞬く間に吐く息が真っ白になりはじめる。静寂が世界を圧すように積もっていく。
 そんな中、居間からの灯りに照らされた白一色に染まった周辺を、両の目で注意深く見回すと。
(…あった…!)
 そういう疑いの目で見なければ、まず見逃していたであろう、極僅かな痕跡。
 自分達が先刻石畳を歩いた際に付けた足跡の上を、ぴったりとなぞるようにして二ヶ所、中庭の隅の松の太い横枝に一ヶ所、そして恐ろしいことに、縁側の板戸を開けてあった所に一ヶ所。
(全く、気付かなかった…)
 雪で大半の物音は吸われ、その姿も見えにくくなる、という先方の有利さはあるものの、イルカとの会話に夢中になっていて、まるで気付かなかったとは。
 カカシは、その今にも雪で消えかかりそうになっている足跡を、暫し厳しい表情で見つめた。
 間違いない、これはトップクラスの忍の痕跡だ。だが十中八九、殺し目的ではない。
 もしも殺し目的だったならば、こんな千載一遇のチャンスを目の前にしてみすみす立ち去ったりせず、風呂にでも入った時に狙い澄まして、とっくの昔に押し入ってきているだろう。
(先方の目的は、最初から諜報にあったのか…?)
 カカシの中で、緊張の度合いが一気に高まっていく。
(…暗部、か…)
 言い知れぬ不安が胸中に渦巻きはじめ、今し方まで心に強く焼き付いていた、あの幸せそうなイルカの笑顔を掻き消さんとしている。
 白いものは、そんな男の足跡の上にも、無音のまま次々と降り積もり続けた。



 立ち上る湯気の中、イルカの立てるぱしゃっという水音だけが風呂場に響く。
(ぁーー、やっぱり俺、結構酔ってるな…)
 今し方すのこを踏んで湯船に浸かろうとした際、また視界がぐらりと傾いて、うっかり湯船の壁に肩が触れてしまっていた。そのあまりの熱さに、鈍っていた感覚が一気にはっきりした所だ。
 両手で湯をすくっては、何度も顔を洗う。
「イルカ先生?」
 と突然、頭の上の少しだけ開いていた小窓の外から名を呼ばれ、どきりとする。
「はッ、はい?!」
 何故か声が上擦ってしまう。
「薪、足しますか?」
 落ち着いた、あの上忍の声だ。
「いっ、いえ! いいです。大丈夫ですっ!」
「――そうですか。じゃあオレ、先に休んでますんで。ごゆっくり」
 それきり小窓の外はしんとなったが、イルカは湯船の中で動けなかった。
(何をどきついてんだ。本当に酔ってるなぁ、俺)
 気を取り直して苦笑しながら風呂から上がる。いつも寝間着として使っている厚手の作務衣を身に付け、肩まで伸びた黒髪を拭き拭きふと洗面台を見ると。
 先程カカシに使って下さいと出しておいた歯ブラシが、水に濡れてコップに立っているのが目に入った。
 するとまた、どういう訳かはっとするような感覚が胸をよぎる。
(え…?)
 しかしその意味がわからず、何だか腑に落ちないまま暗い廊下を歩いて、何気なく客間の障子を開ける。
 と、今度は、布団に入ってこちらに背を向けて寝ているカカシの後ろ姿が真っ先に目に飛び込んできて。
 今度こそ、どきんっ、とした。
 障子を閉めるのも忘れ、一瞬その後ろ姿を食い入るように見つめてしまう。
 男は脱いだ半纏を、布団の肩口に掛けていた。暗く絞った暗橙色のおぼろな灯りの中でも、銀色の髪が艶めいている。普段は口布の下で見えていない頬や首筋が、暗い中に妙に仄白く浮いて見えた。
(…そっ…そうだ、俺がここにカカシ先生の布団敷いたんだよな。何をそんなに驚く事があるんだよ、ったくもう…)
 実は、自分の寝室が足の踏み場も無いほどに書物や書類の山になってしまっていて、ここ暫くずっと客間で寝起きしていたために、こんな事態に相成ったのだった。
 敷く時には半ば酔っ払った状態で、よく考えもせず「カカシ先生だし、まぁいいか。失礼じゃないよな?」くらいにしか思ってなかったのだが。
 冷たい布団に入って酔いが醒めてくるにつれ、イルカはだんだんと己の心臓の音が耳につきだした。
(馬鹿っ! 一体何だってこんなにどきどきしてるんだ! 相手はカカシ先生だぞ?! 男だぞ?! そりゃあ、非の打ち所のない凄い人で心から尊敬してるけど、そういう心臓のどきどきは違うだろ俺?! ああぁまずいなぁー…こりゃ相当酔ってるぞ。おっかしぃなぁ…俺、そんなに呑んだかなぁー…呑んだんだろうなぁ〜。それであんなに早くお開きにしちゃうなんて、折角凄い酒を持ってきてくれたのに、俺ってヤツは浮かれて何やってんだ。カカシ先生、気ぃ悪くしてないといいけど…。明日起きたらもうすぐにでも謝らないといけないな、うん謝ろう。しかし俺、本当にどうかしてるぞ? 何でこんなに落ち着かないんだ…?)
 イルカは、カカシに背を向けた格好で、ひたすら悶々と考え続けた。


 降り止まない白いものは、二人の周辺に少しずつ少しずつ、でも確かに積もり続けていく。
 一方のカカシも、焚き口に寄りがてら『先に寝ています』などと言ってみたものの、到底眠れる訳がなかった。
 特に背後にイルカが横になった気配を感じると、それまで「イルカの潜在能力をいかに上層部から隠し通すか」という至極真面目な案件を子細に検討出来ていたにも拘わらず、まるで考えがまとまらなくなってしまう。
 時折イルカが布団の中で小さく身じろぎしている気配が伝わってくると『まだ寝てないのか。何か話しかけてみようか?』と周囲への警戒などすっかり忘れ、全神経が背後の男に集中してしまう有様だった。
(とりあえず振り返りたい…。いやでも、一旦振り向いてあの人の無防備な寝姿を見ようもんなら、オレはまず間違いなくおかしくなるな…。あぁ参った、こんな事なら屋根裏のほうがまだマシだったか…。まったく、イルカ先生の一生がかかってるかもしれないこの一大事に、オレは一体何を期待してるんだ? 馬鹿な事考えるのも大概にしろ、…ああでもこんなチャンス、もう二度と無いかもしれないしなー。だってやっぱりイルカ先生が布団並べてくれたって事は、OKの意思表示なんじゃ……あぁくそっ、駄目だ駄目だっ、ったくこんなことだから諜報されても気付かないんだ、間抜けカカシいい加減にしとけ…!)
 カカシはイルカに背を向けた格好で、ひたすら悶々と考え続けた。



 あれほど降り続いていた雪は、明け方に白い光が射してくるのとほぼ同じ頃、まるでその光の中にとけ込むように止んでいった。
 二人がようやく長い自問自答から解放されて浅い眠りにつけたのは、折しもそんな雪が止んだ頃だった。










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