「――…ぅ…ぁ……あ?」
 いつもの一人ぼっちの寝起きとは違う妙な気配を感じ、ナルトは青い目をぱちりと見開いた。
 と、すぐ目の前にある自分の両の拳を、見覚えのある指無しの革手袋をはめた手が握っている。
(ぅげぇ?!)
 慌ててその手をどかそうとするが、なぜか体が動かせない。
(何だぁ? このぎゅうぎゅうの狭さは?)
 もう少しもこんな所には居られないとばかり、器用にちょこちょこと体を動かして、その狭苦しい中から外に出る。立ち上がりながらぷはぁと一息、振り返ると。
「あれっ、イルカ先生? カカシ先生も。何やってんだってばよ、こんなとこで?」
 自分を両脇から挟んでいたのは、いつも見慣れたあの大人二人だが、両者からの返事が無いばかりか、崩れかけた廃屋のようなこの場所にも全く見覚えがない。
(…んん? まてよ…? オレよぉ…家でねてたんじゃなかったっけぇ? いつの間にこんな所に出てったんだろ…っかしいなぁ〜夢かなぁ…?)
 布団に入る直前まで読んでいた漫画の事は思い出せるのに、どうしてもここに来るまでのいきさつが思い出せない。
 多分この二人に聞けば分かるのだろうけど、何だかやたらとよく寝てるし? しかもこんなワケのわからない場所で寝てるっていうのに、やたらと無防備だし。
(ったくしょうがねぇオトナだってばよ〜)
 ナルトは両手を腰にあて、そのしょうがない二人を見下ろした。
 僅かだが東の方角が明るくなってきていて、寄り添って眠る二人を浮かび上がらせつつある。
 イルカの方はだいぶ疲れている様子で、カカシにぐったりともたれかかっている。カカシの方はイルカの肩に腕を回して、しっかり抱き寄せているように見える。顔を寄せ合って、まるで何か大事な内緒話でもしているかのような二人を、少年は暫く黙って見つめていたが。
(…も〜〜なんかよー……なんかよォ〜)
 少年の唇が突き出され、への字に曲げられて、次第に不機嫌そうな顔になっていく。自今まで自分がその両者の間で守られるようにして眠っていた、などという事はもうすっかり忘却の彼方だ。
 なぜだかずっとそのままにしておくのが嫌で、ナルトは上忍の肩を揺すりにかかる。
「なぁなぁカカシ先生〜、起きてくれよぉ〜!」
「――…ん…?」
 暫く揺すり続けていると、ただでさえいつも眠そうな男の灰青色の瞳がようやく薄く開かれて、ぼんやりとナルトを見上げた。
 しかしすぐ傍らに、頬を触れ合わさんばかりに寄りかかってきている男を見るや、その瞳が大きく見開かれる。明らかに驚いている様子だ。だがもう一度少年をチラリと見上げたあと、再び傍らの男をすぐ間近で黙って見つめ続けている。
 顔を離すでも、抱き寄せている手を下ろすでもなく、同じ姿勢のままイルカの方を向いている。放っておいたらいつまでもそのままで居そうな感じだった。
「なぁっ、起きろってば〜っ!」
 痺れを切らしたナルトが声を掛けると、上忍はあぁと生返事をしながら、如何にも渋々と言った調子でようやく腰を上げた。
「先生、オレってばよ、なんでこんなとこに来てんだっけ?」
 立ち上がり、手の中の何かをじっと見つめているカカシに向かって、ナルトが訊ねるが。
「――ん…あぁ…そうだな。何でだろうな〜?」
 到底上忍とは思えない頼りなげな、恐ろしく内容のない返事が返ってきただけだった。
「先生もワケわかんねぇのか?」
「あぁ…いや。ここが何処かという事は解ってるぞ。…まっ、とりあえず家に帰ろう」
 跪いて黒い外套の掛けられたイルカを抱き上げている。
「どこだってばよ、ここ」
 歩き出した上司の後を追いながら、少年が訊ねた。
「十三演習場の奥…、だそうだ」
「演習場?! だそうだぁ?? なんなんだってばよ、それぇ?」
 本堂の階段を降り、すたすたと大股で歩いていく銀髪の男の後ろ姿を見ながら、ナルトが驚きと呆れの混じった声で問いかけるが、男はもう何も喋る事が無いかのように、イルカを抱いたまま足早に森の中へと消えていこうとしている。
「ちょっ…カカシ先生〜! 待ってくれってばぁ〜〜!」
 こんな見ず知らずの場所に置いて行かれたらそれこそたまらないとばかりに、少年は慌ててその後ろ姿を追った。



 背後にナルトが付いてきているのを確認しながら、カカシは市街地へと足を早めた。
(『事情により、封刻術発動』か。…しかし事情って…一体何があったんだか)
 懐の男の温もりを堪らなく心地よく胸に感じながら、己の記憶を遡る。
 ついさっきまでイルカが居なくなったと思い込んで探し回っていたが、彼は結局新年会に呼ばれていただけだった。かなり酔って帰ってきた男は済まなそうな顔をしながら茶を淹れてくれ、オレを見送った。
 だが何故かその辺から先の記憶が、曖昧どころか突然途切れていて、いきなり今に繋がっている。途中、一体何があったのだろう。
 どうもこのぐったりした様子のイルカを見ていると、いつぞやの時の事を思い出させるのが気に掛かるが、とにかく早く帰ってゆっくり休ませる必要があるのは確かだ。
 後ろからは、同じ事を心配していたらしい下忍の疑問が投げかけられる。
「なぁなぁ〜、イルカ先生ってばホントに大丈夫なのかぁ? ぜんぜん起きないじゃんかよ〜」
「大丈夫だ。ちょっと宴会で呑みすぎて潰れてるだけだ」
「じゃあ、起きたら元気になってるのか?」
「ああ。なってるよ」
 恐らく酷い二日酔いだろうが、明日の任務は何とか可能だろう。
「あぁ、ナルト」
 カカシは急に足を止め、後ろを振り返った。
「あそこでオレ達が寝込んでたって事は、イルカ先生には内緒だぞ」
「は? なんで?」
「何でって…イルカ先生だってあんまりそんな事、人に知られたくないだろ?」
「ふーん? 大人ってばそんな事気にするのか? 自分で呑んどいて?」
「――ッ……まぁ、そう言うなって〜」
 年末は「愛で惑ひ」に呑まれ、年明けも早々におぼつかない足取りで帰ってきた男の事を思い、口布の下で思わず苦笑してしまう。
 素直な子供の言葉は時に手厳しく、容赦がない。いちいちごもっともだと思った。
(イルカ先生、子供に笑われてますよ。いくら好きでもお酒は程々に)
 そして目覚めた時、男の記憶がこの際酒の力を借りてでもいいから、何とか混乱無く繋がる事を祈った。



 周囲の景色の輪郭が、夜目を効かさずともはっきりと見て取れるようになった頃、ようやく三人は市街を見下ろす火影岩の上に辿り着いていた。
「一緒にイルカの家に行きたい」とだだをこねる下忍を、「一寝入りしてから夕方にでも来い」と何とか宥めすかして自宅に帰らせると、カカシは慎重に人目を避けながらイルカ宅へと向かった。
 家に辿り着くや素早く板塀を飛び越え、中庭を横切って、なぜか鍵の掛かっていない不用心な玄関から入る。
 昨夜二人で飲んでいた茶がまだ掘り炬燵の上に置かれたままの冷えきった居間を通り抜け、数日前に泊まったばかりの寝室へと向かった。
(ったく…こんな状況じゃなかったら……ねぇ? イルカ先生?)などと、布団を敷きながら良からぬ事を思い巡らす自分を叱責し、渋々ながらもそこに横たえる。部屋が寒かろうと、火鉢を持ってきて部屋を暖め、水差しとコップ、それに二日酔いの薬を枕元に置いてふと見ると、高く結んだ男の髪が酷く寝づらそうに見えた。
 そっと解いてやると、(ああそう言えばこないだの騒ぎの際も、酔って寝込んだこの人にこうしたな)などと妙なことを思い出す。
 だが一旦それに思い至ると、やはりどうしても今回の記憶のずれには、あのイルカの大技が関係しているように思えて仕方がない。
 確証はないが、恐らく十中八九は。
 但し封印術が発動されたのなら、もう心配は要らないのかもしれないな、とも思う。
 前回、酔って暴発したイルカは、起きた時には何も覚えていなかった。そして今回もそうあった方が良い、と現場で判断され、術が発動されたのではなかろうか?
 但し、オレは封刻法印の術を会得していない。あの術が使える木ノ葉の忍と言えば、三代目以外ではただ一人。
(…あの男しか、いないだろう…)
 そう考えると、先日の夜の諜報…いや、「のぞき」の件も面白いように解決する。
(…そうか…舞い戻って来てたのか…)
 その時、オレ達二人はどういう会話を交わしたのだろう?
 少しは成長した自分を見て、何か言っただろうか? イルカやナルトの事を見て、どう思っただろう?
 またいつか、会えるだろうか?
 カカシはイルカの枕元に片膝を立てた格好で座り、シーツに散った男の髪を静かに弄びながら、「四人の失われた時間」に暫しの間思いを馳せた。



「……っ?」
 人の動く気配にハッとなったカカシが頭を上げると、イルカがいかにも具合の悪そうな面持ちで目を開けた所だった。
 いつの間にか、片膝に頭を乗せたままの格好で眠り込んでしまったらしい。夕べの失われた数時間の間に何があったかは分からないが、どうやら相当な量のチャクラを使ったようだ。
「――ぅ…っ……あ…れ…カカシ、先生…?!」
「目、覚めました?」
「ぁ…はぁ……ええっ…と…」
 頭痛と胸焼けと朧な記憶の呼び出しのため、眉間に深い縦皺が寄っている。
「イルカ先生、新年会で呑みすぎたでしょう? 思い切り酔っ払って玄関で寝込んじゃってましたよ」
「えっ…! ホント、ですか?!」
「――はい」
「すっ、すいません…ごめんなさい! それで…今まで…?」
 側にあった古いねじ巻き式の置き時計を見ると、あろうことか既に夕刻の時間だ。これにはカカシの方が驚いてしまった。
「ッ?! えっ…えぇ…、いやオレもついウトウトしちゃいまして…ははは〜」
 額当ても口布も付けていない素の状態では、もはや笑って誤魔化すしかない。
 目の前ではイルカが布団から上半身を起こし、あいたたと額を押さえている。
 水と薬を差し出すと相当に喉が乾いていたらしく、三杯立て続けに飲んでようやく四杯目で薬を飲んだ。そのコップの水まで全て飲み終わると腹の底から大きな溜息をついて、また具合の悪そうな、済まなそうな顔をしている。
「もう正月三が日も終わりですから、暫く酒は控えたほうがいいですよ」
「…はい、そうします」
 しょぼんとして、すっかり懲りた様子のイルカが応えた。
(本当に、この人が再びあの大技を発動したんだろうか…?)
 目の前の男のあまりの気落ちっぷりに、先程までの確信がふと揺らぐカカシだった。
「――あっ、あのっ…カカシ、先生…」
 イルカが布団を見下ろしたまま、何か言い淀んでいる。
「はい、何でしょう?」
「…えーと、…その……あの…」
 何か言おうとして一生懸命言葉を探しているらしく、無意識に鼻梁の傷を人差し指で掻いている。
 カカシはすっかり火が落ちてしまっていた火鉢の炭を足しながら、男の言葉を待つ。
 程なくして再び火鉢に赤々とした火が回り、じんわりと温かな空気が立ち上りだして、ようやくイルカの口から何かしらの言葉が紡がれようとしたまさにその時、長屋門の外から聞き慣れた明るい下忍の声が響いた。
「イ〜ルカ先生ーッ! あけましておっめでとうだってばよ〜< 一楽に初ラーメン食いに行こうぜぇー!」
「ナルト?!」
 イルカは思わず大きな声を上げたが、続いてこめかみを押さえ、ひどい顰め面になる。
「ほらほら。今日はもう寝てたほうがいいですって。オレはもう帰りますけど、無理しないでちゃんとあいつにもそう言って下さいね? わかりましたね?」
「えっ、帰るって…そんな、急に…あのっ…もう少し…!」
 慌てて引き留めようとするも、既にカカシは外套を掴んで立ち上がっている。
「いや、オレも帰ってちゃんと寝たいんで。じゃっ、お大事に」
 何となく今ナルトと鉢合わせするのは良くないような気がして、言うが早いかカカシはそのまま部屋から消えた。
 後には髪を垂らしたまま、布団の上で呆気にとられるイルカが残された。

 男の気配が部屋から無くなると、大きな溜息を一つつく。
 そして痛む頭を一生懸命絞って言おうとしたのに、またもや照れて言い出せなかった言葉を心の中で何度も反芻した。
(…いつも私を気に掛けて下さること…とても嬉しいです…)
 勢い良く玄関を開け、元気一杯の少年がバタバタと駆け上がってくる音が、もうすぐそこまで近付いてきていた。



 カカシは寝室を出た後、冬晴れの夕焼けに瓦が照り輝く、イルカ宅の屋根に座った。
 耳を澄ますと、真下から二人の会話が聞こえてくる。

「――うわっ、イルカ先生ってば、なんかすっげぇぐあい悪そうじゃん? マジ大丈夫かよー?!」
「あぁナルト、あけまして、おめでとう。…おいおい、そんな心配そうな顔するな。大丈夫だって、平気だよ。本当に何でもないんだから」
 思わずカカシの口布の下が片側だけ歪む。
「カカシ先生に聞いたぜぇ〜。イルカ先生ってばよ、エンカイで酒のみすぎたからぐあい悪いんだってぇ?」
 悪戯っぽい声が響く。
「ぇッ?! あはっ、あはは〜、いやその……うーん、参ったな…」
「酒のむとよ、ホントーにそんなに何もかもワケわかんなくなっちまうもんなのかぁ?」
「うっ…あ…あぁ・・・そーだな。まぁー…何というかだな、時と場合にも、よるがな? …あは、あはは〜…」
 屋根の上の上忍は必死で笑い声を噛み殺し、肩を小刻みに震わせる。酷い二日酔いの上、どう答えていいかほとほと困りきっている、バツの悪そうな顰め面の中忍の顔が目に浮かぶ。
「そっかぁ…、そしたらオレもよ、もしかしたら酒、のんだかもしれねぇ」
「えぇっ?!」
「だってよ、きのうの夜、たしかに布団に入ったつもりなのに、気がついたらどっか知らないところで寝てるしよ。何かこう…服がちょっと酒くせぇしよ……って、うわわっ! イルカ先生、そんな怒んなってばよぉ〜っ!」
 真下ではドタンバタンとナルトが逃げ回っているらしい音がしている。きっとイルカは二日酔いの気持ち悪さも忘れ、青筋立てて怒っている事だろう。
(でもあなた自身がそんな状態じゃ、全然説得力ありませんよ? 怒るなら早く良くなって下さいね、イルカセンセ?)
 上忍の下がり気味の眦が、柔らかく細められた。
 どういういきさつでナルトの体に酒が付いたのかは知らないが、「あの男」と一緒だったのなら充分可能性はある。
 カカシは、少年の記憶がその幼さゆえに面白いところで整合性をとりつつあるのが可笑しくて、小さく微笑んだ。
 この分なら、記憶のずれでいつまでも悩む事もあるまい。
 それさえ確認できればもう長居は無用だとばかり、カカシは腰を上げた。
 が、いつものようにポケットに両手を突っ込むと、左側に何か入っている感触がある。
「?」
 取り出すと、それは今朝本堂の中で目覚めた時に握り締めていた、あの小さなメモだった。
 その明らかに自分の筆跡ながら、全く書いた覚えのない紙切れを、カカシはもう一度しげしげと眺める。
 紙には走り書きで三行、

 『事情により封刻術発動』
 『現在地・第十三演習場奥』
 『両者宅へ至急送還の事』

 と書かれてある。そして少し下の四行目に、

 『イルカ先生は、オレを   』

 と、記されていた。
(んー何だろうねぇ…この『イルカ先生は、オレを』ってのは?)
 カカシは銀色の髪を夕陽に紅く染めながら、その小さな紙きれを穴の開くほど見つめる。
(はぁ〜、一体オレは……オレに何を伝えたかったんだか…)
 しかし、どんなに見つめたところで、その紙にはそれ以外の記述は無いし、自身にもまるで記憶は無いのだ。もうそれ以上はどうしようもなかった。
(…まっ、思い出せないものは仕方ない。もしかしたら知らない方がいい事なのかもしれないしな)
 カカシは無理矢理そう思うことにして、その紙きれを手の中で一瞬にして焼いた。瞬間、ふと脳裏のずっと奥深い所で、つい最近も同じ事をやったような既視感が過ぎるのを感じ、己の手の平をまじまじと見つめる。
 しかし、それとてどう頑張っても、いつ、どこでやったのか、という事はまるで思い出せなかった。
 結局あれこれ考えてみたものの、カカシが確実に解けた疑問といえば、あの「覗き魔の正体」たった一つだけだった。
 だがもうそれで充分だと思った。
 下からは、イルカとナルトの会話に混じって、二人の笑い声が絶え間なく響いてくる。

(今良いと思えるなら、それでいい)
 頭の中は疑問符ばかりなのにもかかわらず、カカシの心はなぜか晴れ晴れとしていて、屋根から眺めた冬空の夕映えがいつになく心地よく胸に染みた。







                                                    千年愛して 弐 [潜伏編]  終



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