薄い月明かりの下、糸の切れた人形のようにイルカがかくんと両膝を突くと、そのまま剥き出しになった石畳の上にどさりと倒れていく。
 しかし、向かいの三人は動くことすらままならず、ぜいぜいと肩で荒い息をついて、それを見守ることしか出来なかった。
 一番最初にイルカの元に駆け寄ったのはナルトだ。
「せんせぇ! イルカ先生! だいじょぶか?! なぁ起きてくれよ、早く起きろってば! なぁせんせえっ!」
 倒れた恩師の顔を覗き込んでは激しく揺すっているが、くたりとしたイルカの体には何の変化も見られない。
「――なぁ…なぁ…ウソだろぉ〜、まさか…死んじまったのかぁ?! なぁってばよぉ〜!」
「おいナルト、あんまり先生を動かすな。大丈夫だ、先生は死んじゃいないよ」
 イルカほどではないものの、かなり憔悴した様子のカカシが、ひどくだるそうに歩いてきて言った。
「ほっ、ほんとかぁ?」
 心配で居ても立っても居られないらしい少年が見上げる。
「ああ、ちょっと疲れて寝てるだけだ。二、三日もすればすぐに元気になる」
「そうか…、でも何であんなに怖くなっちまったんだ、イルカ先生…」
 酷くショックそうな顔で、先程の様子を思い起こしてはまた動揺している。
「――何でだろうな。…きっと、思い切り怒りたかった奴でも居たんだろうな……この中に」
 カカシが自嘲気味に誰に言うでもなく呟いた。もう既に右目しか見せていなかったが、灰青色のそれは伏しがちだ。
「えぇーそれってばよぉー…やっぱオレしかいねーじゃん?!」
 日々散々に怒られ通しだったナルトの顔がくしゃくしゃになる。
「――まっ、もしそうだと思うなら、もうイルカ先生を困らせるような悪さは二度とするなよ」
 カカシはナルトに悪いと思いながらも、どうしても「本当はオレなんだ」と白状して事情説明する事が出来ずに、そこで話を終わらせた。



「何であの大技を結界で凌ぎきれると?」
 自来也の元に戻ってくるなり、カカシが訊ねる。てっきりあの術には、大規模な技で正面からねじ伏せるしかないと思っていた。
 それが手伝えと言われてコピーし、発動した技はただの結界だったのだ。自来也の強力なチャクラがあったとは言え、あんなもので防ぎきれるとは正直驚きだった。
 だが問われた白髪の男は自信満々で言い放つ。
「そりゃそうだろうが。女だってヒステリー起こした時は、黙って嵐が過ぎるのを待つのが一番だからのォ〜」
「なッ?! そっ…そんな理由?!」
 カカシが目を剥いて聞き返す。
「そんなとは何だ、そんなとは〜!」
 百戦錬磨の希代の色事師が、口をへの字に曲げてムッとしている。
「…ったく…よく助かったもんだな」
 カカシはガシガシと銀色の頭を掻いた。
「んな事言っとるが、お前あのイルカの技の事知ってた所を見ると、前にやりあった事があるんじゃないのか?」
「ぇッ? ……あぁ…」
「で、雷切で正面からいって、えらい目に遭ったんだろ? 違うか?」
「――――」
 もう上忍は黙るしかなく。
「ほほっ、お前もまだまだ青いのォ〜。恋人の扱いくらいよーく覚えとかんと、これからも度々痛い目みるぞ〜?」
 自来也がさも愉快そうに笑うと、今度はカカシがムスッとする番だった。


「しかしまぁ、とんでもない忍がまだまだ里にはおるもんだのォ、カカシ」
 少年が本堂から外套を取ってきてイルカにそっと掛けてやる様子を見ながら、自来也が半ば呆れ顔で呟く。
「頼む、この事は他言無用にしてくれ」
 男の言葉にハッとしたカカシは、慌てて男に懇願した。
「何故〜? こんな面白い男は滅多におらんぞ。ワシの創造意欲を掻き立てる、またとない逸材ではないか。お前の独り占めは許さんぞぃ」
 すぐに悪戯っぽく茶化してくる。
「ふざけるな。オレは真面目に話しをしてる!」
 思わずカカシが詰め寄ろうとすると、すかさず「何だ、暗部にイルカを取られるのがそんなに怖いのか?」と、ニヤリとしている。
「――こっ……あぁ、怖いよ。…怖くて悪かったな」
 もう何もかもすっかり見透かされていると悟ったカカシは、観念して半ば投げやりに白状する。
「ワシは無駄じゃと思うがな。んなもの、遅かれ早かれいずれは知られてしまうものだぞ? この世にお前ら二人だけしか存在してないなら話は別だがな。もうナルトにも知られてしまったし、イルカだって今夜の事は途中まではきっと覚えてるはずだ。お前一人がこの火種を揉み消そうと躍起になったって、結局いつかはバレるんだ。諦めろ」
「嫌だ」
「諦めろ。無駄な悪あがきだ」
「断る。だったら一日でも長く悪あがきするまでだ」
「ふ…カカシ、お前もいつの間にかそうやってワシに盾突くようになったのォ」
 黒い隈取りの目が、ちろりと細められる。
「――――」
「まぁいい。昔はこんな会話の一つすらまともに成り立たなかったんだからな。あの男に会って、少しは進歩したって事か?」
「―――…」
 問われた男はぎゅっと両の拳を握り締めたまま、ひたすら爪先の辺りを見つめている。
「ふん……仕方ない。じゃあその悪あがきとやらに、ちーとばかし荷担してやるかの」
 と、灰色の頭が、勢いよくぱっと上がる。
「封印術。使ってみるか」
 言った男の手には、もう既に一巻の巻物が握られていた。


「――だが、必ず成功するという保証はないぞ。なんせ相手はこの頭ん中なんだからな」と言いつつ、男は本堂の埃っぽい床の上に両膝を突いて、まだ真っ白な巻物にどんどんと墨書きを施していく。
「その時はその時だ」
 数々の複雑な呪印や文言が書き連ねられていくのを、カカシが脇から見つめながら答えた。
 側では外套を掛けられたイルカが横になっていて、ナルトがぴったりと寄り添っている。
「なんだこれ? 今からなにするんだってばよ?」
 ナルトが不思議そうにその巻物と男を交互に見ている。
「ん……ま、ちょっとした事後処理みたいなもんだ。安心しろ」
 カカシがナルトの肩を軽く叩く。
「こらカカシ。ちゃんと説明してやらんか。術をかけられる者に対する最低の礼儀だろうが」
 筆を止めることなく、巻物に向かったままの男が注意を促す。
「ん……あぁ…。ナルト、これはな、封印術という秘術だ。よく見ておけ」
「ふう…ぃん?」
 少年は全く意味が分からないといった様子で、金色の頭を傾げている。
「これから、ここに居る全員の記憶を、数時間分だけこの呪印環の中に封印するんだ」
「ふぅ〜〜ん?」
 それでも意味が解っていないような顔つきの少年に代わって、自来也が筆を走らせながら口を開く。
「さっきここであった事を、お前や、カカシや、ワシの頭の中から消すと、まぁそういう事だな」
「けす? えーと…んじゃ、ここであった事は、みんな忘れちまうって…ことかぁ?」
「そういう事だ」
「じゃあよ、じゃあよ、あのイルカ先生のおっかねぇ術の事も忘れるのか?」
「ああ」
「オッサンの事も忘れんのか?」
「オッサ…ああ、みんな忘れる。きれいさっぱりとな」
「ふぅぅぅ〜〜ん?」
 まだ解ったような解ってないような顔だが、とりあえず頭の中をいじられることに関してはさほど怖がっていないようだ。端でやりとりを見ていたカカシは、少し安心する。
 ひょっとしたら…いや、ひょっとしないまでも、自分の方がナルトよりも遥かに怖がっていると思う。
 もし、万が一にも術にミスが生じて、イルカ達の事を一切合切忘れてしまったとしたら? 或いはイルカに、自分のことを忘れられてしまったら…。
 そう考えると、思わず脇の自来也に『やっぱり封印はやめてくれ』と言い出してしまいそうだった。



「さぁ、出来たぞ」
 自来也の言葉に、カカシはハッとして我に返った。
 見れば広げられた巻物には、ある種の芸術とも呼べるような美しささえ漂う封印式がびっしりと書き込まれ、後は全員の血判を所定の位置に押すだけとなっている。
 早速カカシがクナイを取り出して自分の親指を傷付けると、真っ先に半紙に押しつけた。内心ではまだかなりの葛藤があったが、最終的にはこの術に賭けてみたいという気持ちが勝った。
 あったことを、無かったことにする。
 そんなことが本当に許されるのかは分からない。許されないとするなら、後にきっと何らかの形で相応の報いがあるのだろう。
(それらはオレが、全部まとめて引き受ける)
 
「――ナルト」
 まず見本を見せたカカシは、少年にクナイを手渡した。
 最初何となく不安そうな様子だった少年も、上忍師の落ち着いた目元を見て安心したらしく、すぐに親指を切ってカカシに倣った。自来也も続いた。
(イルカ先生、ごめんなさい。オレの我が儘にいつまでも付き合わせてしまって)
 カカシは心の中で何度も謝りながら、イルカの力の抜けた手を取って親指をそっと傷付け、巻物を近くに寄せてくると紙の上に指を押し当てた。
 ゆっくり指を離すと、そこには小さな丸い血痕が残った。
 それはイルカがまだ生ある確かな存在であるという事を、必死で主張しているかのようだった。

「いいだろう。ではカカシよ、術が発動された後で戸惑わないように、手の中にでもメモを残しておけよ」
 自来也が指示を出す。
「ああ。わかった」
 記憶を封印する範囲は、カカシの希望で『イルカがアスマに連れ去られた所から』に設定されることになり、彼と別れた際にたまたま見ていた懐中時計の時刻を告げていた。
 術が上手く発動されれば、次に目覚めた時には、その時の記憶のまま、場所だけがいきなりここに飛んでいるのである。
 あまりの食い違いに戸惑わないようにするため、すぐ分かる所にメモを残す必要があったが、あれこれ書きすぎると記憶封印の意味が無くなる事から、必要最小限に言葉を選び、限界まで絞って残す必要があった。
 カカシはポーチから小さな紙切れとペンを取り出すと、一寸黙考して素早く三行を書き記した。

 『事情により封刻術発動』
 『現在地・第十三演習場奥』
 『両者宅へ 至急送還の事』

 そして四行目を書き始めた所で、ふと何気なく向かいを見ると、自来也もまた紙切れに書き付けている姿が目に入る。
 が、なぜかやたらと書いている時間が長い。
「ちょっと待て! アンタ何か企んでないか?!」
 カカシが嫌な予感からその紙をひったくると。

 『木ノ葉の中忍、海野イルカの類い希なる究極の大技発動 を封印すべく、封刻術を発動!』
 『現在地・木ノ葉の里第十三演習場奥、廃寺。次の行き先 は、海野イルカ宅(イチャイチャ尻獲り取材♪の続き)』
 『金髪の少年(ナルト)のお色気術は素晴らしい!! (再度要 取材!)』

 などという記述がずらずらと書き連ねてあった。
 一目見るなりカカシは無言のまま、それを手の中に集めたチャクラで燃やしきる。
「あぁっ、バカ者何をするっ! ワシの仕事の邪魔をするでない!」
「何が仕事だ! 余計な事してる間があったらさっさと始めろ! この狸オヤジ!」
 その後も未練がましくいつまでもブツブツと文句をたれている自来也を無視して、カカシはイルカを本堂の壁にもたれ掛けさせて座らせた。そっと外套を掛けてやり、イルカの肩を抱き寄せながら自分も隣に腰掛けるとナルトを呼んで、二人の間に座らせた。
 大好きな大人二人に挟まれて、少年はこれから起こる事の意味もよく理解できぬまま、とても幸せそうに、くすぐったそうにしている。
 そんな少年に向かって、カカシが囁いた。
「ナルト、さっきオレが言ってた『イルカ先生が怒りたかったって奴』ってな、本当はお前の事じゃないんだ」
「んぁ?」
「オレなんだ。オレがイルカ先生を怒らせちまった」
「なんで?」
「オレが…イルカ先生を騙すような事をしたから」
「ふぅん?」
「済まなかったな、ナルト。お前のせいじゃない。お前は悪くない」
 カカシがイルカを抱いたほうとは逆の右手で、ナルトの頬をそっと撫でると、彼は戸惑い気味に首を引っ込める。
「んなのもういいじゃん」
 青い瞳がカカシを真っ直ぐ見上げて言った。
「え?」
「だって、それも次に起きた時にはみんな忘れちまってんだろ? さっき女になったオレをカカシ先生がギューとかした時もすっげーキモイと思ったけどよ、忘れんならもういいんじゃねえの?」
「ぷっ……そう、だな」
 カカシは、その瞬間の少年の笑顔だけは忘れずに心に留めておきたい、と切に願った。



「それではいくぞ。用意はいいな」
 自来也はしっかりと体を寄せ合って、こちらを黙って見ている二人と、尚も昏々と眠っている黒髪の男に向かって言った。
「ああ、やってくれ。――あぁそうだ。この術が解けるのは?」
「余力が残っとる順だな。まぁお前らが起きた頃には、ワシはおらんよ」
「わかった。じゃあ…世話に、なったな」
 灰青色の瞳が、隈取られた黒い目をじっと見つめる。
「今度会う時までにはもっと成長しとけよ、青二歳」
 自来也が、笑いながら素早く印を切り始めた。
「覚えてたらな」
 カカシは悪戯っぽく微笑み返して、イルカの肩に回していた腕にぐっと力を入れる。
 ナルトが二人の間でぎゅうっと体をすくめると、きつく握りしめた小さな拳に、指無しの手袋をはめた左手が力強く重ねられてきた。
 カカシは両の目を静かに閉じると、引き寄せた男の頬に唇を寄せた。
 直後。
「封印術・封刻法印!」
 男が片手で床板を叩く鋭い音がしたかと思うと、ガツンという、目の奥を直接拳で殴られたような重たい衝撃が走った。

 途端、ぷつり、と意識が途絶えた。












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