振り返った背高い上忍を見上げたイルカの顔は、今まで見たことのないほど不均等に歪んでいた。更に羞恥で真っ赤になり、内側で渦巻き、ぶつかり合う思いのせいで、口元はきつく噛み締められている。
 そのせめぎ合いの極みといった様子の思い人を見たカカシは、己が二度と取り返しの付かないことをしでかしてしまった予感に心底怯える。
「ごめんなさいイルカ先生。オレが悪かったです。事情は帰ってからゆっくり話しますから。あのっ、大丈夫? イルカ先生落ち着いて」
 上忍が心からの申し訳なさそうな声と、どこか怯えの入った目でイルカを宥めようとすればするほど、彼はますます逃げ場を失って、二度と戻れない袋小路に追い詰められていく。
(俺が、カカシ先生に対して勝手に抱いていた思いを、あろう事か本人の目の前で知られてしまった…)
 きっと大いに呆れられたことだろう。困ってるだろうな。
 お願いですからそんな済まなそうな目で俺を見ないで下さい。頼むから謝らないで。今そのまま踏み込まれたら、ますます立ち直れなくなる気がする。
(お願いだから、そっとしておいて)


 イルカがよろめきながら、後ろに数歩下がった。
 真っ黒な両の瞳には、痛恨の色がありありと浮かんでいる。
 咄嗟にカカシが手を貸そうと差し出すと、もの凄い勢いでなぎ払われた。
「…っ?!」
 驚いて息を呑む上忍を見て初めて、イルカは今自分が咄嗟にやってしまった事が、ますます彼を遠ざけ、同時に自分を打ちのめしているということに気付いて愕然とする。
 本当は手を握りたかったのに。何よりそれを渇望していたはずなのに。
(…はは、なんか最悪…)
 イルカは小さく呻きながら、再び両手で頭を抱えた。
 体が、胸から裂けていきそうだ。
 苦しい、耐えきれない、と思ったとき。
 体の奥底で、何かのスイッチがぱちりと入ったような気がした。


 カカシはその瞬間、イルカが精神的ショックのために、気がふれたのではないかとギョッとした。
 ただでさえ、何か大きな勘違いをしていて自身を追い詰めているらしいのに、その上泥酔状態での無理な覚醒が、何倍にも苦痛を増幅してしまっているようだった。
「イルカ先生、どうしたんですか、落ち着いて!」
 カカシが声を掛けた途端、もの凄い形相のイルカがキッと顔を上げた。
 瞳の奥だけがどうしようもなく悲しげだったが、その表情はカカシにあの二ヶ月前の一件を思い起こさせ、凍りつかせるに充分なものだった。かつてない、いやあの時よりもより凄まじい冷たい気が、イルカを包み始めている。カカシの全身が総毛立って、とても側に立って居られなかった。本能的に危険を感じ、思わず数歩後ろに下がる。
 イルカの中で、何かが滅茶苦茶に荒れ狂っている感じがした。



「――そっとしておいて…欲しかったのに…」
 ぎゅっと目を閉じ、何かに耐えるような表情でようやく言葉を絞り出す。
 言葉が出たと同時に、真っ暗だったイルカの瞼の裏に、白い火花がぱしっと散ったのが見えた。火花は見る間にその量を増しはじめ、イルカの中心から外側に向けて爆発的に広がりだすと、抑えきれない何か巨大な力が体の内側から一気に沸き上がってくるのが分かる。
 何かおかしい。駄目だ、おいやめろ、いけない、と、弱い小さな声が心の何処かで微かに聞こえる。が、もうそんな事では押さえ込めない激しい衝動のようなものが、出口を探しながら膨れ上がっている。
 苦しい。このままでは壊れてしまう。
 全部吐き出してしまいたい。
 何もかも、全部。



 イルカと真正面から目が合ったカカシは、その時、彼がふっと身構えたように見えた。
 いや正確には構えは見えてはいない。それらしき気配を感じて、見えたような気がしただけだ。だが、次の瞬間にはすぐ脇の大きな賽銭箱が粉々に砕け散っていた。
 細かな破片が、耳を聾する衝撃音と共に崩れかけた堂内に四散する。自分が身構えている暇など一切なく、ただ一方的に破片を浴びた格好だった。
 間違いない、この速さと破壊力は、忘れもしない「あの時」のものだ、とカカシは確信する。
(よりによってこんな時に…!)
 真冬の寒風の最中にもかかわらず、カカシは気持ちの悪い冷や汗が背筋に幾筋も伝うのを感じた。
(イルカ先生が壊したかったのは、あんな箱じゃない…)
 カカシはあらん限りの力で本堂から跳び出した。
(本当に壊したかったのは…)
 そう、このオレだ。



 自来也がナルトに近寄り、倒れたその小さな体を抱き上げようとしたのを見るや、イルカの中に渦巻く衝動は、最後の限界点を目指して一気に駆け上がり始めた。
「――その子に…ナルトに…さわるな!」
 御神木の間に、張り詰めたイルカの声が響き渡る。
「どうした、イルカよ」
 自来也がぐったりしたナルトを両手で抱え上げながら、ゆっくりと頭を上げた。その姿には先程までのふざけた様子は微塵もなく、堂々として一分の隙も無い。
 先程からずっと、本堂の中で未だかつて感じたことのない、強大な力が蠢くのを感じてはいた。最初カカシかと思ったが、それにしては気配が妙に冷たく、悲壮感すら漂っている。しかもそれはまるで何の制御も出来ていない、とても未熟な力のようにも思われた。
 ほどなくして本堂の中から凄まじい衝撃音が聞こえると、いよいよこのままではカカシの部下らしいこの少年も危ういと判断して急ぎ抱きかかえた所だった。
「子供相手に、あんな掌底出すなんて…あんたそれでも忍か! 絶対に許さない!」
 前回の時と同様、やはりカカシやナルト以外の人間を認識出来ていない。
「駄目だ、今のあの人には何を言っても通じない」
 あの日の事を思い出し、防衛のためにいち早く自来也達の元に近付いてきていたカカシが小声で囁いた。既に額当ては上がり、右手がチリチリと白く発光し始めている。
 それを見た白髪の男は、一瞬で大方の事情を察したらしかった。
「オイ、聞こえとるかイルカ! そんな無制御な力を外に吐き出した所で、何も解決しやせんぞ?」
 落ち着いた静かな声が男にかけられるが。
「…その子を、離せ!」
 そんな言葉など、全く聞こえていないといった返事が返ってくる。
「断る。もし離したら、お前はその無軌道な力を一気に解放するだろう? 違うか?」
「――離せ!!」
 その時、自来也の懐に抱かれていた少年が、大きな声に反応したのかもぞもぞと動き出した。
「ナルト!」
 カカシとイルカがほぼ同時に呼びかけると。
「ん…ぅ……うわぁッ?!」
 気が付いたナルトは、自分を抱きかかえているのが誰か知るや否や、凄い勢いで暴れ出した。無理もない。ナルトにとっては初対面の伝説の三忍など、ただの通りすがりの奇怪なエロオヤジでしかない。
 いくら「バカ、大人しくせい!」と自来也がなだめて押さえつけ、カカシが「大丈夫だ、ナルト!」と叫ぼうとも、それらはもう全てイルカの強い保護本能を悪戯に刺激しただけだった。
 暗闇に、イルカの中で制御出来ずに暴れ狂う強大な力が、はっきりと色と形を持って彼の体から洩れ漂いだしていた。
 その鬼気迫る様子を見たナルトが息を呑んで絶句し、自来也の腕の中で小さく固まっている。目の前の恩師が、果たして自分のよく見知っているあの優しい人物と同一なのかと、きっと大混乱のさなかに居るに違いない。
(起こる出来事の全てが、悪い方へと加速していく…)
 カカシはどこか他人事のように、ぼんやりと思った。
 イルカの圧倒的な眼力は三人を呑み込み、制御出来ない力がその限界点を超えて、男に『あの』長い印を切らせ始めた。
「カカシよ、雷切しまってオレを手伝え。急げ!」
 自来也はナルトを抱き直して両手を空けると、即座に目で追うことが難しいほどの速さで何らかの印を切り始める。
 伝説の、という通り名を持つだけあって、男の切りはじめた印は尋常でない速さだったが、カカシの紅い左目は難無くそれを捉えて瞬時にコピーを完了した。
「しっかり捕まっとれぃ!!」
 自来也が懐の少年に言ったのと、カカシが男と視線を合わせただけで何らかの意志疎通を図ったのは、ほぼ同時だった。
 直後、イルカのあの大技が発動された。
 イルカの手から放たれる真っ白な光が、境内はおろか、御神木の生い茂る遥か奥の方までくっきりと浮かび上がらせる。
 間髪置かず、地を揺るがす大音響と共に、怒濤の衝撃波が三人を襲った。
 その強大な波動を真正面から受けたのは、カカシと自来也が全精力を注ぎ込んで張り巡らした強固な結界だった。
 だが、その圧倒的な破壊力の前では、二人がかりで張った結界も大きく軋み、たわみ、反り返って捩れ、少しでも気を抜けば、そこから破れて一瞬で術に呑み込まれそうになる。
 全力で結界を維持していたカカシは、イルカの大技との激突で生じた激しい摩擦により、一瞬気が遠くなった。耳を聾する轟音や眼底にまで届きそうな閃光、それに肌を突き刺す衝撃波で、全ての感覚器官が麻痺してしまいそうだ。
 自来也ですら、その見た事も聞いた事もない常識を遙かに超えた大技に押しに押され、僅かでも気を抜けば間違いなくそのまま押し潰されるであろう紙一重の恐怖を肌身で味わっていた。
 ナルトは今にも結界を突き破らんとぶち当たってくる波動に怯えきり、無我夢中で自来也の首にしがみつくばかりだ。

 その数秒間は、三人にとって永遠とも思われた。
 しかしイルカから放たれたそれは、結界の中にいた三人の肝を散々に冷やすと、ほんの数秒で出し抜けに終わった。
 残響が収まると辺りは不気味な程に静まり返り、再び何の代わり映えもしない凍てついた真冬の月夜へと戻っていった。













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