カカシは、目の前で明らかに愕然としている様子のイルカを見て、内心抱きつきたいほどの喜びに震えながらも、一方で酷い罪悪感に胸を痛めていた。
 今、イルカの目の前で彼の袖を引いているのは他でもない、ナルトに変化したカカシ本体だ。
 ついさっき、ナルトがこの廃寺について来てしまった、と分かった地点で、カカシは潔く自来也との勝負を諦めていた。もしこのまま続けたなら、どんなに厳しく戒めていようともナルトはいきり立ってカカシの加勢に入り、間違いなく怪我をするだろう。
 大木の裏でナルトを見た瞬間、もうカカシの腹は決まっていた。イルカ先生を連れて、ナルトと共に消える。それはつまり試合放棄であり、敵前逃亡だ。だが今の状況を冷静に考えれば、上忍としてのプライドなど簡単に隅に追いやれた。
 それに今更かも知れないが、イルカやナルトをいつまでも自分の都合だけでここに居させるのも、どうも良くない事のように思えてならない。
 しかし、ただそのまま消え去るのは少々惜しい気もした。どんな大技も通じないあの伝説の男を、最後に少しからかってから消えるのも悪くない、と思う。
 それにはナルトは適任だった。それはもう、彼を置いては他にいない、というくらいに。
 あの好色男の、唯一にして最大の弱点など先刻承知だ。それをナルトに伝えて、「思い切り揺さぶってやれ」と言ったら、恐ろしいほど的確にオヤジの心理を突いてきやがった。
 これは全て解った上での迫真の演技なのか? それとも無垢な少年のみがなせる、全くの天然ワザなのか。まぁ恐らくは後者なのだろうが、いずれにせよちょっと怖いな、と思った。
 何故ならあの独特の生娘オーラには、藪で気殺して様子を伺っていた自分までが少し揺さぶられかけて、内心少し焦ったからだった。
 ちなみに、あの娘はナルト本体だが、それとは別に脇の茂みにもう一人影分身を潜ませておけ、と指示してある。
 最後の最後、男の前から逃げ去る直前に、女に目が眩んだ隙だらけの自来也の背後から後ろを獲りに行け、と言っておいた。
 但し、いくら酒と女に酔っているとはいえ、相手は自来也だ。下忍の影分身相手では恐らくそれはかわされ、すぐに消されるだろう。よってその一瞬の隙を狙い、更に向かにいた自分の影分身も連続して後ろを狙う手はずだ。
 その間にナルト本体はカカシやイルカの待つ本堂裏に向かって合流し、自来也が影達を倒して気付いた頃には周囲にはもう誰もいない、というのが一連の作戦だった。まぁ後ろが獲れるかどうかは自来也の酔い次第と言ったところだが、少なくとも驚かす事くらいは出来るだろう。
 ただ当初の目論みでは、自分は変化などせずにイルカの元へ行き、すっかり酔いつぶれたイルカを担いで帰るつもりでいた。だが実際には予測が外れ、行った時には彼はもう既に起き上がってしまっていたために、とりあえずややこしい状況説明をしなくても済むナルトに咄嗟に変化して近付いていた。だがそのお陰で、イルカの本心を知ることが出来たなんて、何という幸運だろう。これは思ってもみなかった大収穫だ。
 しかし、この目の前の落胆ぶりを見ていると本当に申し訳なく、後でどのように説明したらいいのか、上手い言葉が思い浮かばない。
『違うんです、あそこに居るのはカカシとナルトの影分身で、あなたを好色中年から奪回して、一気にトンズラするための迫真の演技だったんですよ』と、やはりここは正直に言うべきなのだろうが、一体どこからどう切り出せば納得してもらえるのか? 帰った後の事を考えると、正直頭が痛かった。
(ごめんなさい、本当にごめんなさい、イルカ先生…)
 今すぐにでも抱き締めたい衝動をひたすら押さえ込みながら、カカシは少年の姿のまま、ショックで呆然としている男の名を呼び、肩を揺すり続けた。





 自来也は娘を散々なだめすかし、すぐ目の前まで呼び寄せる事に成功していて、すっかり有頂天になっていた。娘は近くで見るとますますもって愛くるしく、(カカシに独り占めさせるには如何にも勿体ないな)などと酔いの回った頭で半ば真剣に思う。
 相変わらず怯えの入った吸い込まれそうな青い目でじっとこちらを見ているが、先程よりは幾分警戒を解いていて、もうあと一押しで触れそうな所まで来ていた。
 自来也という名前を聞いただけで騒ぎ立てて簡単になびいてくるような女には、食指が動かぬというものだ。口説き落としが滅法得意で、その過程にこそ得も言われぬ愉悦があるのだと公言して憚らない男なだけに、そういう意味でもこんなに夢中にさせる女は滅多にいないと思った。
(是非ともカカシから暫く借り受けたいものだ)などと、よからぬ思いを巡らす。
「どうだ、向こうで酒でも一杯やらぬか? 呑めるんだろう?ん?」
 だが娘は慌ててふるふると首を振った。
「未成年だ、勝手に呑ませるな」
 カカシがふてくされた様子で、少し離れた所から声を掛ける。
「その未成年とイイことするのは良くて、酒如きが駄目という理屈がワシには分からんのォ。ほら、まぁ試しに呑んでみろ」
 途端、あからさまにムッとするカカシを尻目に、腰の瓢箪徳利の栓を抜いて差し出す。
「…………」
 それでもいつまで経っても娘が躊躇して手を出さないで居ると、あのどこか愛嬌のある、闊達な笑顔が向けられた。
「何にでも、誰にでも初めてってもんはあるわい。呑んでみて駄目ならやめればいいだけの事だのォ」
 すると、女は一度だけ後ろを振り返ってカカシの目を見た後、ようやく細い手を出しておずおずと徳利を受け取った。
 そして自来也の目を黙って見上げながら、『ホントにいいの?』としきりに訴えてくる。
 もう男は完全にその仕草に魂を抜かれきって、『うんうん、いいよいいよ〜』とただただ鼻の下を伸ばすばかりだ。これではもし娘が『火の国を獲って欲しいの』と言ったら、二つ返事で何の躊躇もなくやってしまいそうである。
 娘はきゅっと固く瞼を閉じ、小さな唇を徳利に付けると、恐る恐るといった様子で徳利を傾けていく。唇の端から一筋、透明な液体が顎に向かって流れると、青い瞳がぱちりと大きく見開かれた。
「どうだ〜、旨かろう〜? ん〜〜?」
 白髪の大男が、娘に向かって身を乗り出すように一歩踏み出した、瞬間。
「んなワケねぇだろ! このエロジジィ――ッ!!」
 男の背後の黒い森から、凄い勢いで何者かが飛び出してきて叫んだ。
「なぬ?!」
 自来也が長い白髪を波打たせてガバッと振り返ると同時に、背後にいたカカシが寅の印を組んだ格好のまま、ふっと掻き消える。
(陽動成功っ! イルカ先生は絶対渡さないってばよッ!)
 娘に変化したナルトが思った時。
 二つの人影が、随分と離れた場所にドサドサッと立て続けに倒れ込み、どうっという音と共に白い煙が二つ立ち上ったかと思うと、跡形もなく消え去った。
(げッ…?!)
 自来也のすぐ側で娘に変化していたナルトには、一瞬影分身達が何かの渦にでも巻き込まれて大きく回転したように見えた気がしたが、全てが余りにも刹那の出来事すぎて目が追い付かず、その場から離脱するのも忘れてただ立ち尽くす。
「――やーれやれ、これで五月蠅い邪魔者は居なくなったみたいだのォ?」
 酒を口に含んだまま呑み込むに呑み込めず、しかも唖然としている娘に向かって、自来也がにっこりと笑いかけた。
 すると女の細い眉尻がキリキリと吊り上がりだし、おどおどしていた表情がにわかに凄みを帯びはじめた。低く身構え、小さな口元が片側だけ持ち上がると、そこに上目遣いの不敵な笑みが浮かび上がる。
「おぉ〜ぅ、お前、その小悪魔みたいな表情もイカすのォ〜。何とも言えずグッとくるわい」
 そのまま自来也が何の警戒心も見せずに近寄る素振りを見せた時、女が口の中の酒をペッと勢いよく吐き出した。そして右手の甲で唇を乱暴に拭いながら、ぐっと深く構える。
「こんなマズイもん、よくのめんなァ。オトナの考えてる事って、マジでぜんっぜんわかんねぇってばよ!」
 酒と一緒に吐き捨てるように言った。
「――ふ…じゃあ、解らせてやるかのォ?」
 男の顔の黒い隈取りが、非対称に歪んだ。





「…なぁイルカ先生、どうしちまったんだってばよ〜。早く家に帰ろうってば、なぁなぁ〜」
 ナルトに変化したカカシが、本堂で放心状態のイルカの肩を揺すっていたまさにその時、境内の方からどぉっ、という大きな風鳴りのような異音が聞こえてハッとする。
(マズい、もう始まったのか!)
 弾かれたようにカカシが外を覗くと。
(あれま、瞬時に消滅…)
 自来也に挑ませた二体の影分身が、丁度煙となって消えたところだった。
(ま、ちょっとわざとらしい展開だった、かな…?)
 こりゃ早々に作戦を中止して、自来也に『ご免なさい、真剣に帰ります宣言』をしないとどうにも収まりがつかないな、と思った時だった。
 自来也の正面にいた娘がぐぐっと低く身構えたのが、良く利く夜目にはっきりと見えた。娘は細い手指で何かの印を切っている。
(なっ…)
 カカシの体から、一気に血の気が引いた。
 あれほど『お前にはどう足掻いても歯が立たない相手だから、絶対に直接は手を出すなよ』と言っておいたのに。
「馬鹿ッ! やめろ、ナルト!」
 思わずカカシはナルトの姿のまま、大声で制止する。だが小娘は見る間に大量分身を始め、ついには自来也をぐるりと取り囲んで甲高い女の声で一斉に叫んだ。
「「「」このスケベオヤジ! 覚悟しやがれ!」」」
「うっほォ〜〜! こりゃ壮観壮観! まるでハーレムだのォ。お前、気に入ったぞ! ワシと一緒に旅に出んか、なっ?」
 覚悟と言われた方のオヤジは、周囲をぐるぐると見回しながら、今にも踊り出さんばかりの喜びようだ。
「「「」ぜぇったい、やだッ!」」」
 その声が合図となって、無数の娘達が一斉に跳ぶと、長い黄金色の髪が何十本となく月夜に舞い上がり、周囲は一種幻想的な光景となる。
 だがそれもほんの束の間だけだった。
 先程の倍近い威力の掌底が発動されると、一瞬にして娘達は掻き消したように消え去り、その直後に金髪の小柄な少年が一人、自来也の前にごろごろっと転がって止まった。
「ナルト!!」
 そのナルトと同じ姿形のままであることをすっかり忘れたカカシが夢中で呼びかけるも、オレンジ色の服を着た少年は微動だにしない。
「なっ…ナルトって…――じゃあ…あの、あなたは…一体…」
 すぐ背後で、流石の騒ぎに幾らか我に返ったイルカが、おぼつかない足取りながらも立ち上がってきて、外の動かないナルトと自分を交互に見ている。
(…くそっ…当初の予定が……どんどん狂ってく…)
 これでは予定が狂った事で知ることが出来た幸運はもちろん、何もかもが全て台無しだ。
 カカシはこれまで、と観念して変化を解いた。
「――すみません、イルカ先生。その…騙すつもりは、無かったんですが…」
 言いながら恐る恐る背後を振り返ったとき。
 男は、未だかつてカカシが見た事の無い表情をしていた。




(…俺…なんでこんなに、最悪の気分なんだろうな…)
 脇でナルトに盛んに揺すられながら、イルカは揺れる視界とむかつく胸を抱えつながら、遠くで朧気に考えた。
 去年の末、カカシがひょんな事から初めて泊まっていった夜、なぜだか急にあの人の事が気になった事は確かにあった。でも彼に何を言われた訳でもないし、俺が特別何をしたって訳でもない。
(それなのに、どうしてこんなに落ち込む事があるんだよ…)
 そういや俺が居なくなったと探してくれた事があったっけ…あれは…いつだったか…。
 確かにあの時は、妙に嬉しかったな。何だかカカシ先生に大切にされてる気がした。
(そう、大切に…)
 でも、先生が本当に大切にしてた人は、他に居たんだな。
(そりゃそうだ。だって俺は男だし?)
 カカシ先生にとって、俺はどこまでいってもナルト達を介したただの知り合い教師の一人でしかないのだ。
(俺もいい加減、何でわかんないかな)
 勝手に自分だけが特別な存在だと思うなんて、どうかしてる。思い上がりも甚だしいし、図々しいにも程がある。
(でも、どうしても…どうしても…そう、思いたかったんだ…)
 あの人のことが、好きだから。


 イルカは絞るように大きく息を吐きながら、両手で頭を抱えた。でも脇にいる少年も心配しているだろう。出来るだけ早く切り替えなくては。
 とその時、側にいたナルトが急にびくっとして、格子の入った戸口へと走っていく。
 そして大声で「馬鹿ッ! やめろ、ナルト!」と叫んだ。
(――え?)
 今の言葉の意味が全然理解できなかった。考えようにも頭の中が今はぐちゃぐちゃでぼうっとしていて、しかも胸は気持ち悪くて、何かを考える気力も集中力も全然湧かない。でも、いつまでもここに座ってばかりいては何も解らないままだ、ということだけは解った。
 おぼつかない両の足で、下駄を引きずるようにしてナルトの背後へと歩きだす。
 途端に世界が大きく揺らいだ。気持ちも悪いし、とにかく悲しい…あぁもう何も考えたくない。今すぐ頭から布団を引っ被って、しばらくは誰にも会わずに一人で寝ていたい、そんな最悪の気分だけれど。
 それでも這々の体で、何とか数歩歩いてナルトの後ろまで行くと、あのカカシに抱きついていた娘がどんどん分身していく光景が目に飛び込んできてハッとした。
 肝心のカカシはと探すが、何処にも見当たらない。やがて、そのくノ一の影分身達は一斉に異様な風体の白髪の男にかかっていくも、凄い量のチャクラが一気に放出された感覚がして、一瞬で消失した。
(掌底?!)
 イルカは息を呑んだ。あんな威力のある掌底を瞬時に発動できる忍が、まだこの里に居たのかと。
 一拍後には、泥だらけになった金髪の少年が一人、ごろごろと白髪の男のすぐ目の前に転がって、動かなくなった。
 再び目の前のナルトが叫ぶ。
「ナルト!」
「なっ…ナルトって…――じゃあ…あの、あなたは…一体…」
 すると、ややあって目の前の小柄な金髪の少年の後ろ姿は、背高い銀髪の上忍のそれへと大きく変貌した。
「――すみません、イルカ先生。その…騙すつもりは無かったんですが…」
 目の前で、酷く申し訳なさそうな目をしながら振り返ったのは他でもない、あの思い人だった。













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