巨大な御神木の林立する暗闇の奥に消えたカカシは、幾らもしないうちに一人で戻ってきた。
 そして相変わらず唇から滴る幻酒を手の甲で拭っている男に向かって、よく通る声で言った。
「中断して悪かった。今夜こんな事が無ければ、本当は出掛ける所があったんでね。なかなか行かないから向こうから探しに来ちまって。暫く待たせておくから、さっさと続き、…いくぞ!」
「探しにって…誰がー?」
 若干とろんとしてきた目で、白髪の男は茂みの向こうに佇んでいるらしい人の気配を探っている。
「―――…」
 しかし問われたカカシは、あらぬ方向を見て黙ったままだ。
「あ〜っ、わかったぞォ〜。さては…女だろう?」
 目を細め、ニヤニヤしながら茂みの奥を指差す。
「うるさいよ。アンタには関係ないだろう。油断してると後悔するぞ!」
 カカシがバッと構えるも。
「おーやはりかぁ。お前がどっちか一方で済むわけがないと思っとったんだ! どうだ、図星だろう、カカシ!」
 戦意のかけらも見せず、酒でますます調子が上がってきた自来也がニヤつく。
「チッ、馬鹿、声がでかいっ」
 珍しく男は真剣に焦っているようだ。
 自来也はその素の動揺ぶりを見ると、確証を得たのかふふんと鼻で笑い、カカシの背後の暗がりに声を掛けた。
「おい、そこで隠れとる女! ワシは怪しいもんじゃない。大丈夫だ、出て来ていいぞ!」
「やめろ! ふざけてる場合か。もっと真面目にやれ! オイ、お前も出てこなくていいからな!」
 だが、二人が声をかけた方角は、相変わらずしんとしている。
「ワシは自来也っつう物書きじゃ! お主も名前くらいは聞いたことがあろう? どうだ、こっちで一杯やらんか?」
 すると一拍置いたのち、輝くような長い金髪と白い手指が木々の間からチラと垣間見えた。
「ォ?」
 続いて戸惑うように顔の半分だけを出して、十代後半とおぼしき青い瞳の娘がそっとこちらを覗く。
「おぉッ?!」
 言いながら、もうすっかりヤニ下がった表情で何度も手招きしている。
 すると大木の陰からおずおずと一人の女が現れて、おっかなびっくり周囲を警戒しながらも、こちらにゆっくりと歩きだした。
 膝下までの暗橙色の厚手の着物から、すんなりとした真っ白な手足が伸び、弱い月明かりの下でもしっかりと光を撥ねている二つに分けた艶やかな長い金髪が、歩くたびに左右に揺れ動く。
 きゅっと結ばれた小さな唇とふっくらとした頬はいかにも健康そうだがまだ少し幼さも残していて、伏せ目がちの長い睫毛の下には、時折上目遣いでチラチラとこちらの様子を見やるくっきりと青く澄んだ瞳が輝いている。
「このエロオヤジ…覚えてろ…!」
 カカシが悔し紛れに睨み付けるも。
「ウホッ! おいカカシお前、あんなウブい上玉どっから見つけてきた?!」
 全く聞いていない。
 女はカカシの所まで来るとさっとその背後に隠れ、脇から憂いを湛えた青い宝石のような瞳で自来也をじっと見つめる。
「おおぉぅ! これぞ遠路遙々取材に来た甲斐があったというものよのォ〜! まさにワシの作品のイメージにピッタリだ! お前、名はっ? 年はっ?」
「…………」
 しかし女は押し黙ったまま、腰まである長い金髪を北風になびかせながら、困ったような表情で二人を交互に見つめるばかりだ。
 カカシに対して『この男に名前を言ってもいいの?』と訊ね、その表情から一生懸命答えを読み取ろうとしているようだった。
「人の連れに軽々しく手を出すな!」
 カカシが再度睨むも。
「うぅむ、その初々しい表情がまたどうにもこうにもタマランのォ〜」
 やっぱりまるで聞いてない。
「まぁちょっと、こっちへこんか? 安心しろ、何も獲って食おうってわけじゃない」
 だが、本音はそれが最終目的の希代の好色男は、孫弟子との戦いの事などもう全く眼中にない様子だ。
 やれやれとカカシが溜息をつく。
 娘はいかにも怪しげな風体の男に何度も手招きされ、ますますカカシにぎゅっとしがみついた。




 イルカは朦朧とした頭の片隅で、しきりに忍の警戒警報が鳴っているのを感じていた。そのうち警報音は次第に大きくなってきて、何かが激しくぶつかりあうような、ビリビリとした感覚までが全身に伝わりだしている。
(…なん…だ…)
 ごく薄く目を開けた地点で、初めて自分が眠っていた事も認識した。しかも廃屋のような奇妙な場所で。
 だが眠い、猛烈に眠い。瞼も頭もとにかく重くてどうしようもない。でも、このまま寝ていてはいけないような気もする。
 この奇妙な場所と、直接肌身に感じてくる異様な感覚が、一刻も早く起きた方がいいと訴えかけてきていた。
 無理矢理にずっしりとした重い頭をゆっくりと持ち上げると、ゆらりゆらりと大きく視界がうねっている。その上、胸が何とも言えず気持ち悪い。
(…み…ず…)
 両手を木箱につき、頭をがっくりと垂れた状態で、暫くの間その不快の大波をやり過ごそうと試みる。
 その間に激しかった雨音が止み、何かに照らされて異様に明るかった視界も暗く沈んでいき、いつしか自身の警戒警報も鳴らなくなっているが、不快の極みにいる本人が気付くはずもない。
(水…)
 周囲の朽ちた廃屋の様子は、イルカの視界に入ってはいるものの、それがどういう意味を持っているのかという事までは気が回らず、今はただひたすら水が欲しいとしか頭に浮かばなかった。喉の渇きと胸の悪さだけがイルカを支配し、動かそうとする。彼の体に掛けられていた黒い外套が、上半身を起こした際に肩からすべって落ちたが、それすら気付かなかった。

 ようやく不快の大波をやり過ごして頭を真っ直ぐ上げた時、初めて月明かりの下で男が二人、距離を取ったまま向かい合っているのが見えた。
(カカシ、先生…? 何…してるんだろ…)
 一人は見まごう事などあるはずもない、銀髪のあの人だ。そして向かい合っているもう一人の奇妙な格好の男も、何となく最近見たことが…あるような…?
 二人は何か話しているようにも思えたが、頭の芯が朦朧としていてよく聞き取れない。
 時折どろどろとした混濁の波が襲ってきて何も考えたくなくなり、この場にもう一度横になりたいのを必死で堪えていると。
「イルカせんせ」
 突然耳に優しい聞き慣れた教え子の声がして、暗く濁った意識の一部がぱっと鮮明になった。
 半開きの目で声のした方を見やると、あぁ、やっぱり。
「ナルト…! どうした…こんな所で…」
 自分こそこんな所で一体何をやっているのかという感じだが、今のイルカにはそこまで思い至る余裕が全くない。
「先生と一緒に帰りてえからよ、カカシ先生と迎えに来たってばよ」
 夜目にも輝いて見える青い瞳の少年は、飛び付かんばかりに駆け寄って来たものの、何故かいつもより随分と小声で話しかけてくる。それは酷く鈍くなっている感覚を必死で集中させていないと、聞き取れないほどだった。
(迎えに? そうか、オレはどこかで酔い潰れて…寝てたか…)
 しかし、それまでの、いつ何処で、誰と、何を呑んだのかという事を思い出そうにも、歯がゆいほどに思考が働かず、どうしても記憶が遡れない。
 そんな調子なのだから、どこか見知らぬ場所で酔い潰れた自分をナルト達が都合良く迎えに来ているという不思議にすら、イルカは気付いていない。
「先生、大丈夫かよ? 何かすっげぇぐあい悪そうだけど?」
 ナルトが心配そうに屈んで顔を覗き込んでくる。
「…あぁ、大丈夫だ…何でもない。…ありがとうな、迎えに来てくれて…」
 少年の金髪を優しく撫でると、小さな体の内側から震えるような喜びを顔一杯に広げてはにかんでいる。
 そんな表情をされたら、もうこっちも気持ちの悪さなんて顔に出せない。
 無意識のうちに眉根に深く皺を寄せながらも、イルカは精一杯笑ってみせた。

 ナルトに笑いかけ、ゆっくりと木箱から降りようとした時、不安定に揺れ動く視界の端に、新たな人影が映ったような気がしてイルカはふと外を見た。と、スラリとした金髪の女性が一人、カカシの背後にゆっくりと近付いているのが見える。
(誰だ? …あの人…)
 その足取りを、目が自然と追っていく。
 だが脇では、ナルトがしきりに着物の袖を引っ張りはじめた。
「なぁなぁ、イルカ先生ぇ〜、カカシ先生なんてすぐに後から来るからよ、もう先に帰ろうぜ? なぁってばぁ。早くぅ〜!」
 それは子供にしては結構な力だったが、イルカはどうしてもその光景が気になって、まるで目線を留め置かれたように動けない。
 普段カカシは殆ど一人か、或いは誰かといても同僚の男と並んでいる所しか目にしたことがなかったが、女性と並んだ背高いカカシはそれがとてもしっくりきていて、いつも以上に輝いて見える。
 やがて金髪の娘は、そうする事がごく当たり前のような自然さで、ぴったりとカカシの背後に寄り添った。それは男の全てを信頼しきって、身も心もすっかり頼り切っている者の仕草そのものだ。
(…っ)
 その光景を見た途端、ただでさえ酒でもやもや、むかむかしていたイルカの胸一杯に、急に訳の分からない痛みがさっと走って、ハッとして思わず胸に手をやった。
 見てはいけないものを見てしまっている、という気がした。
 ただでさえ早かった鼓動が更に早く、うるさくなっていく。
 だが(これ以上カカシ先生のプライベートを見ない方がいい、見ては駄目だ)と繰り返し思っているにも拘わらず、どうしても目を逸らすことが出来ない。
 側ではナルトが何かを言いながら、ますますぐいぐいと強引に手を引っ張っている。けれど先程までは何とか聞こえていたその声も、強く引く手の力も、そして外の三人の会話も、今のイルカには何一つ届いていなかった。
 月明かりに、上忍の銀髪と寄り添った娘の金髪が相まって、例えようもなく美しく似合って見える。それはまるで、二人の存在を周囲に高らかに誇示しているかのようだ。
 二人を正視しているのが、訳もなくきつい。なのにどうしても二人から目が離せないという、おかしな状態が続く。
(あの女性は誰…? カカシ先生とはどういう…?)
 そう考えただけで、何やらぐらぐらと世界が揺らぐ。それが酔いからきているのか、他の理由でなのか、もはやイルカには判別がつかなかった。
 そのうち、娘のしなやかな細い片腕が、ぎゅっと男の腰に回されると、それに応えるように、すぐにカカシの腕もその細い腰に回され、向かいの白髪の男に見せつけるかのようにしっかりと抱き寄せる。
(――ぁ……)
 途端、視界が二つに割れてみしりとずれるような嫌な感覚を覚えた。
「イルカ先生? 先生? どうしたんだってばよー。マジ大丈夫かよ?! なぁってば…!」
 少年が肩に手を掛けてきて、恐る恐る揺すりながら顔を覗き込んでくるものの、何をどう答えて良いのかわからない。体に力が入らず、その力の入れ方すら忘れてしまったかのようで、ただぼんやりと視線が宙に浮いてしまう。
(俺は…俺は一体…どうしちまったんだ…)
 ついさっきまでのあまりの酷い胸の悪さに、(もうこれ以上は酷くなりようがない)と思っていたはずなのに。
(なんでかな……今が…最悪の、気分…)
 賽銭箱に力無く腰掛けたまま、イルカは暫くの間、そうやって少年に揺すぶられ、問われ続けた。












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