自来也は、すっかり酔いつぶれて賽銭箱の上に伏して眠ってしまった中忍を、ただ黙って見つめた。
 男は両腕の上に左の頬を乗せ、すうすうと軽い寝息を立てている。自来也と正対した際、慌てて自分できっちりと打ち合わせていた襦袢や長着の襟元は今やもうすっかり緩んで、その下の薄桃色に染まった肌を露わにしてしまっていた。横座りした時には行儀良く閉じていた両脚も力が抜けて裾が広がり、膝上まで晒されている。かろうじてつま先に引っ掛かっている桐下駄が、時折小さく揺れ動く。
 長年会ってみたいと思っていた人に会え、呑みたかったものを呑み、話したいだけ話して眠りについたイルカの表情は、とても満足げだった。
(ふん…どこまでも無防備な男よのォ。ぬしはそれでも忍か…)
 自来也は苦笑しながらも、イルカの乱れた裾の打ち合わせを少しは整えてやるかと、そっと賽銭箱から降り、男の側に立って手を伸ばした。
 そして、膝上の辺りの紺地の布と襦袢を掴んだとき。
「――一回死んで出直して来い。このエロジジィ」
 抑えきれない怒りを辛うじて押え込んだというような、低い男の呻き声がして、イルカの着物の裾を掴んだままの自来也の背後で、ここ暫く感じた事の無かった物凄い殺気が一気に沸き上がった。
 その殺気は細かな針のような鋭さで、容赦なく自来也の全身を刺し貫いていく。
「ったく…死んだら出直したくても出直せないではないか。のォ、イルカよ?」
 普通の忍ならそれだけでも震え上がりそうな状況の中、自来也は何ら動じる風もなく、その男の見ている目の前でイルカの長着の裾をきちんと直す。
 そして悠々と歩いて再び元居た場所に腰掛けると、男の顔を見ながら瓢箪徳利を傾けた。
「――いつ、帰ってきたんです?」
 不信感を隠さぬ声で男は訊ねる。羽織っただけの黒い外套の下からは、まだ収まりのつききらない殺気が陽炎のようにゆらゆらと立ち上っている。
「久しぶりだのォ〜カカシ。また一段と逞しくなったみたいだが、元気でやっとったか? んん〜?」
 カカシの問いなどまるで聞こえていないかのように、白髪の大男は好きなように返答している。
「えぇ、お陰様で。あなたが覗きなんていう下らない事をやらかしてくれるまではね」
「カカシ〜、いつも言っておっただろうが。あれは断じてノゾキなどではない。神聖な取材と言って欲しいぞォ」
「ッっ…。オレは今、最高に機嫌が悪いんでね。悪いが失礼させて貰います」
 言いながら、カカシは深く眠り込んでいるイルカに近寄ろうと一歩前に踏み出した。と、いきなり自来也の右手の平が、バッとカカシの方に向けられる。一瞬垣間見えた大きな手の平の手甲止めの紐の下には、丸い文様のような黒い痣。
(螺旋丸?!)
 カカシは反射的に後ろに跳び下がり、今入ってきたばかりの朽ちて半開きになった扉から本堂の外へと飛び出した。
「おい、カカシ! 何もそんなにビクつかんでもいいではないか。今のは「ちょっと待て」というただのゼスチャーだぞぃ」
「ジョーダンでしょ。挨拶代わりに軽く掌底で脅かしてやろうと思ったくせに」
 雪上のカカシが「ったく…」とぶつぶつ言いながら、両の手を外套のポケットに突っ込んでいる。
(ほォ〜、よくわかったな)
 自来也は『まさか〜。久しぶりに会った奴にそんな物騒な事をするはずがなかろう〜』などと、うわべはニコニコと微笑んだまま、まぁ来い来いと手招く。
「勝手に人の家コソコソ覗いといてよく言いますよ…。一体何が目的でこんな所に居るんです? 何の諜報?」
 木の階段を飛び越えたカカシが、やれやれといった様子で再びゆっくりと本堂に入ってくる。
「だから取材だと言っておろうが」
「じゃ何でこの人なわけ? アンタがいつも書いてる話とは何の関係もないでしょ?」
 ついつい言葉遣いがぞんざいになる。他のことでなら雑作もないことのはずが、このことに関してはなかなか落ち着いて話せない。
「のう、カカシよ」
「?」
「恋愛の形とは実に色々だのォ」
「――何が…言いたい」
「そうさのォ…さしずめ『人生は、桃色の迷宮なり』という感じかの?」
「あぁ、人の質問を、いい加減な言葉で煙に巻こうって魂胆ですか」
 カカシの目元は片方しか見えてないにもかかわらず、明らかに胡散臭そうだ。
「失敬な。お前の心の内なんぞ、とっくの昔にお見通しだわい。ワシの取材力と解析力を甘く見るでない。…まぁお前にしてはなかなかに良い趣味だと誉めておいてやるがな」
 言いながら、傍らで気持ちよさげに眠りこけている中忍の頬にかかった髪を、指先でつつっと流れに戻してやっている。
「ッ…」
 遠回しに図星を突かれたカカシは次の言葉が出ず、苛々しながらも黙りこくった。
(この男…)
 一体いつから、そして何処まで自分達を「取材」していたのか。それを思うと、何やら頭痛がしてくる。
「あぁ、それとここに居るもう一つの理由はだな、お前達が去年から面白そうな尻獲りゲームをやっとるという噂を小耳に挟んだもんでの、ちょっとワシも参加してみたくなったと、まぁそういうことだ」
 一刻も早くこの場を立ち去りたい気分なのに、更に男がとんでもないことを言い出して、カカシは思わず目を剥いた。
「なっ?! 尻と……断る! もうそいつは終わったんだ。これ以上馬鹿な事で騒ぎ立てたくない」
 年中放浪の旅を続けているようなこの風来坊の耳にまで、あのゲームの事が知れ渡っているという事に言葉に出来ない不安を感じながら、カカシは容赦なくきっぱりと言い放つ。
「まぁまぁそう言わんとォ〜。こういうもんは実際に体験してみんと、話にリアリティを持たせられんからのォ」
「ちょっ…、本当にそんな下らない理由で舞い戻ってきたんじゃないでしょうね?」
「くだらんとは何だくだらんとはー。当代随一の売れっ子作家のネタ探しは神聖かつ立派な職務だぞ〜。用が済めばまた出ていくわぃ」
 大の男が少しムスッとしている。
「神聖…ねぇ。じゃどうあってもオレとやりあおうってわけですか」
 物書きのくせに、神聖という言葉の意味が本当に分かっているのかと内心大いに疑いつつ、短い溜息を吐く。
「おぉ、ようやっとその気になってきたか。まぁ減るもんじゃなし、ケチケチせんでもええではないか。ワシもお前が十年でどれだけ成長したかも見てみたいしのォ〜」
「――嫌だと、言ったら?」
「ん? この男と一緒には家に帰れんだけだが?」
 しゃあしゃあと言っている。
『ただ一緒に帰れないだけで済むのか、このエロジジイ!』と即座に突っ込みを入れたかったが、そこはぐっと抑え。
「人質の横取りとは、伝説の三忍も堕ちたもんだな」と、とにかくイルカを盾に取られるのだけは避けたい一心で、まずは精一杯の牽制をする。
 だがすぐに「『人質を横取りしたらいかんというルールは無い』という取材結果が出とるが?」という、やる気満々の返事が返ってきただけだった。
「…ったくどいつもこいつも……物好きが…」
 カカシが左手でこめかみを押さえながら呟くと。
「うほほっ、そうこなくっちゃな!」
 自来也は子供のようにはしゃいで、腰掛けていた木箱からトン、と降り立った。
「言っときますけど、力の差が大きい相手には手加減しないんで。油断してて怪我しても知りませんから」
 言った男の姿が本堂からふっと消える。そして直後には青白い月明かりの降り注ぐ、外の開けた場所にすっと現れた。
「当然だのォ」
 白髪の男はのんびりとした返事を返しながら、脇で眠る中忍の方を見やった。その体には、つい今し方までカカシが羽織っていたはずの黒い外套が、いつの間にか掛けられている。
「―――…」
 男は口端を小さく上げると、朽ちて傾いた本堂の扉から仄白く光る境内へと大股で出ていった。




 カカシにとって今までの「ゲーム」とは、どれも互角かそれ以下の戦いだった。自分は一切の大技や危険な術を封じてひたすら「挑まれる側」に回り、一種の『仲間内での技術の研鑽』に付き合っていた格好だった。それ故、たかがゲーム如きで怪我をさせないようにと細心の注意を払い、挑戦を受け続けていた。ある意味、それはかなり不自由で難しい戦いでもあったが、今回ばかりは全く訳が違う。例え全力で臨んだとしても、勝てる可能性は極めて低い。
 けれど『だからやりたくないんだ』といつまでも言い張り続けるのも、ゲームという前提なだけに余りいい気分ではない。
 忍として二十年以上研鑽を積んできた己の力が、あの男にどこまで通じるようになったのかも、知りたい気がしていた。
(負けて元々。なら好きなようにやってみればいい)
 そう思うと、今までの対戦と違ってだいぶ心が軽くなった。

 孫弟子に対戦をふっかけた形の自来也だったが、実のところ、もう彼との目通りにはほぼ満足していた。
 何も大技など見なくても、成長の証などというものは行動のちょっとした端々に如実に現れてくるものだ。
 カカシが今し方まで見せていた「背後に忍んでくる気殺の完璧さ」「桁違いの殺気の鋭さ」「瞬身や先読みの早さと的確さ」そして「四代目が死んで寡黙になっていたあの頃より、格段に大人になったものの考え方と、いつの間にか備わっていた他人への思いやり」…そのどれもが充分満足のいくものだった。
 久しぶりに会って照れているのか、カカシは多少反抗するような様子を見せてはいるものの、勝負しようと持ちかけた時に一瞬隠そうとしていた気配は、言葉とは裏腹に満更でもなさそうだった。
 時にはこうして里の忍達の成長ぶりを取材して回るのも、なかなかに楽しく良いものだなと思う。
 自来也は頼もしく成長した孫弟子の相手をしたのち、また次の町へと出掛ける腹積もりで、本堂の傾いた階段を降りた。



 伝説の三忍と対峙したカカシは、小手調べなど時間とチャクラの無駄だとばかりに、いきなり大技発動のための長い印を切り始めた。
 以前、死闘を繰り広げた霧隠れの男からコピーした後、自分なりのちょっとした改変を加えたその技を、一度実戦で発動してみたいと思っていた。
(…ん? あの印は、水遁か…いや、土遁…?)
 自来也が思った直後、境内を真っ白く覆っていた大量の雪がドォッと一斉に持ち上がり、トンネル状になって渦を巻き始めた。その形状や動きは、あたかも「大瀑布の術」の初動そっくりだ。
 カカシは液体ではない雪を上手く操るために、土遁術を同時に併用していた。あまり雪の降らない木ノ葉では殆ど発達していない、雪を利用した大技だ。
(なるほどのォ、そこまでやるようなったか…)
 自来也は自身の周りに瞬時に強力な結界を張ると、水での発動より格段に破壊力の増したその力を肌身で感じて、口元をニヤつかせた。
 実は(カカシの出してくる術次第では、片手一本で封じ込めながら、目の前で悠々と酒でもかっくらってやるか)などという悪戯心を起こして腰に徳利をぶら下げて来ていたのだが、そんな事をやっている余裕は一瞬たりともなかった。もしも意地になってほんの僅かでも試みようものなら、たちまちのうちに雪崩に押し潰されてあの世に行きかねない際どい状況だ。
 男は一呼吸置くと、結界の中でおもむろに火遁の印を切った。刹那、結界の周囲にゴウッという燃焼音を上げながら、凄まじい熱波を伴った巨大な業火壁が四枚、ぐるりと立ち上がる。
 それは凍てついた白銀の月にまで届かんばかりの勢いで高く燃え上がり、周囲を明々と照らしだした。そのあまりの熱さに、術を発動していたカカシは耐えきれずにじりじりと後ずさる。
 灼熱の炎の中に不敵な笑いを浮かべながら佇む白髪の隈取り男は、あたかも地獄の業火の中に棲む閻魔のようだ。
 純白の雪の瀑布は紅蓮の炎の壁に真正面からぶち当たると、凄まじい蒸発音と真っ白な水蒸気を上げながら、接触した部分からどんどん消えてゆく。
 境内を取り巻いた大きな御神木に降り積もった雪が熱で一斉に解け始め、地面に土砂降りのように降り注きだす。
 広い境内は沸き上がる濃い水蒸気と豪雨に覆われ、中心には巨大な火柱が四本立ち上がって、この世のものとは思えぬ異様な光景が広がっていた。



(――くそっ…やはりまるで歯が立たないか…)
 自来也を取り巻く業火壁は、カカシが今まで見てきたどんな火遁のそれより大規模で、今や伝説となった男との格の違いをまざまざと見せつけられた格好だった。
 両者はほぼ同時に術を収めると、嘘のようにしんと静まり返った境内で暫し睨み合う。
 だが次の手を出しあぐねてカカシがぎり、と奥歯を噛み締めた時。
(…?)
 ふと背後の暗がり深くに何者かの気配を感じて、一切の動きが止まった。
 自来也もそれに気付いていたらしく『ちょっと待て』という意味のカカシの僅かな手の動きに、瞬きで頷く。
 そして次の瞬間には、もうカカシはその立ち木の影に潜んだ忍の目の前に、クナイを翳しながら立ちはだかっていた。
「ひぁッ?!」
 精一杯気殺して潜んでいたらしい忍は、不意をつかれて小さな悲鳴を上げ、咄嗟に腕で顔を庇いながら尻餅をつく。
 特徴のあるオレンジの服。弱い月明かりにもキラキラと光るその豊かな金髪。おずおずと両腕の間から覗く、怯えた様子で見上げる真っ青な瞳。
(なッ…ナルト?! お前っ…!)
 長身の上忍にクナイ付きで突然見下ろされた下忍は、いつまで経っても怒られない事から、ようやく少し安心したらしく、てへへと頭を掻きながら「だってイルカ先生に会いたかったんだってばよ〜」と小声で言った。
(…ったく…人騒がせな奴だな…)
 思わず溜息が出る。しかし、ふとある事を思いついたカカシはすぐにクナイを仕舞うと、ナルトと同じ目線に屈み込んで小さな声で囁いた。
「ナルト、今からオレと組んで、もう一度イルカ先生の奪回作戦だ。やれるな?」
 それを聞いた少年の瞳は、たちまち美しい宝石のようにきらきらと輝き出した。
「あのヘンテコなオッサンを、やっつけんだな?」
 うんうんっ、と何度も何度も頷く下忍に、早速カカシが手短に耳打ちを始めた。
 話しながら遠くの境内をチラリと見やると、自来也が余裕綽々といった調子で徳利を傾けている。
(見てろ、オレ一人の力じゃ太刀打ち出来なかったとしても、チームワークでなら…)
 カカシは、作戦内容を聞くやニヤ〜ッと悪戯っぽく笑う下忍の頬を、たしなめるようにちょっとつねると、「よし、じゃあ行くぞ」という意味の、互いの拳同士をこつんとぶつける挨拶を、小さくそっと交わした。













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