「――あっ、あなた、誰ですかっ!」
 イルカは未だ少しおぼつかない足取りで立ち上がると、後ろにダッと数歩下がった。足下の古い床板が、ギシギシと嫌な音を立てている。
 しかし、問われた男は顔色一つ変える様子もなく、イルカが混乱して動揺する様をじっと見つめていたかと思うと、やがて屈めていた体を真っ直ぐに伸ばした。
 本堂の崩れかけた格子からさし込む月明かりに、その男の姿がはっきりと浮かび上がり、イルカはまじまじとその異形の立ち姿を見る。
 かなり大柄な男だ。年の頃は五十前後といったところか。長く豊かな白髪を後ろで一つに束ね、背には大型の巻物を一巻、背負っている。大胆な模様の入った派手な色の裃を着込み、足には赤い漆塗りの下駄。
 顔には特徴的な黒い隈取り模様があり、目と頬を縁取っている。更に「油」と彫られた変わった形の額当てと、とどめに鼻ピアス。
(なっ、何だこの人…?!)
 自分の背後に気殺していた様子からして忍のようだが、こんな目立つ格好をした忍も初めて見る。イルカはその男の正体を外見からは到底推察出来ず、ますます混乱の度合いを深めた。
「お前、名前は何というのかのォ?」
 白髪男はイルカに穴の開くほど見つめられようとも、別段何かを仕掛ける風でも睨み返すでもなく、距離を取ったままのんびりとした口調で問いかけてくる。
(それを聞きたいのはこっちだ)と、全く警戒を解いていないイルカが、心の中で呟いた途端。
「ワシは、自来也っつうもんだがの?」と、まるで返事のように答えが返ってきた。
「…じッ…自来也?! 自来也って…あの伝説の三忍の?!」
 イルカの声が、一瞬ひっくり返る。
 言われてみれば、かなり以前、たまたま古い番号の登録者カードを見ていた時、確かあんな隈取りを見たような気がする。自来也自身がもっとずっと若い頃の四十年近くも前の写真だったために、全く両者が繋がらなかった。噂では常に諸国を放浪しているとかで、もう十年以上も里には帰ってないのではなかったか?
 それでも忍の世界にその名前だけは鳴り響いている。勿論イルカも様々な武勇伝を伝え聞いてはいたが、実際に本人を見たのはこれが初めてだった。
 是非一度、会ってみたいと思ってはいたものの、まさかこんな所で、こんな格好で、こんな形で出会うことになろうとは。
 正直なところ、酔いではない別の目眩がした。

「しッ…失礼しましたっ、私はアカデミー所属の海野イルカと申します」
 慌てて頭を下げると、紺地の着物が砂埃で真っ白に汚れているのが否応なく目に入り、「すみません、見苦しくて」と慌ててバサバサと両手で払い落とす。
「ほォ。イルカとな。で、あんたは上忍かの?」
「いっ、いえ。とんでもない、中忍です」
「それにしては、カカシと随分仲がいいみたいだが?」
(なっ、何でそんな事まで知ってるんだ…?!)
 イルカは再び心臓の鼓動が大きくなっていくのを感じて焦る。
「かっ…カカシ先生とは…ナルトを…あ、生徒を通じて知り合いまして、いつも大変良くして頂いています」
「ほぉぉ〜。生徒を通じてか。なるほどのォ」
 言いながら、男は懐から筆と帳面を取り出すと、何やらサラサラと書き付けている。
「――あっ、あのっ、何を…?」
「あいや、ワシはちょっとした物書き業をやっておってな。そのネタを旅の間中探し回っておるわけなんだが、ちょいとお前達の関係にも興味があってのォ。次回の物語の参考にさせてもらおうと思うてな」
「は? 物語? …参考って、いやあのっ! 自来也様っ?!」
「ああいや大丈夫だ、二人の名前なんぞは出やせんよ。それよりイルカ、お前達は『尻獲りゲーム』なんぞという面白いもんを大真面目にやっとるらしいが、是非これを取材したくてのォ。ちと協力してくれんかの?」
「は? 尻とり、ゲーム…? …何でしょうか?」
「ん、知らんのか? あの伝説の奥義『千年殺し』を」
「センネンゴロシ、ですか? …いいえ、そのような術名は、私は聞いたことがありませんが…。申し訳ありません、勉強不足でお役に立てなくて」
 しきりに済まなそうに謝るイルカを、自来也は「ホホォ?」と何か思い当たる節でもあるかのような笑みで見つめた。
(さてはカカシめ、初心なこやつに一方的に惚れ込んどるな?)
 そしてまた、帳面に何かを書き付けるのだった。


「まぁイルカよ、そんな所に突っ立っとらんと、一杯やりながら話そうではないか」
 イルカが寒そうにふるっと体を震わせるのを見て、男はずっしりとした作りの大きな賽銭箱をいとも簡単にひっくり返すと、気持ち埃の少ないその面に無造作に腰掛けた。
 そして腰に下げていた大ぶりの瓢箪徳利を外すと、その上にどんと置く。
「いや、あのっ、私はもう充分…、それにここは…」
「何処かと聞きたいのだな? あぁ心配するな、そのうちお前の知った仲間が迎えに来るはずだからの。それまでは呑んで少しでも温まっていたほうがいいぞ」
「知った、仲間って…?」
「さぁてな、ワシも実のところははっきりと断言できんのだが、まぁ恐らくはイルカ、お前が一番来て欲しい奴が来るんじゃないかの」
「来て、欲しい?」
「ふむ…まぁよい。それは来てからのお楽しみじゃのぅ。それまでの間はこの幻酒を楽しむがいい。ほら、遠慮するな」
 自来也は使い込まれて飴色に輝く徳利の栓を抜くと、まずそれを自分で一度豪快にあおり、ずい、とイルカに向けて差し出した。
「幻酒、ですか」
 そういえば、年末にその呼び名に相応しい酒を呑んだな、と思い出す。
「『愛で惑ひ』という酒を、知っとるかの?」
 無造作にぐいっと手の甲で唇を拭いながら、自来也が訊ねる。
「えぇっ?! 本当ですか? いや、奇遇です、私も生まれて初めて年末に呑んだのですよ。そう、カカシさんが持ってきて下さって。あれは実に素晴らしい酒ですよね。何というか、すごく感動しました」
「おお、そうか。イルカも若い割になかなか目が高いのォ。これは本当にいい酒だ。ま、それなら話は早い。そら、ぐっといけ、ぐっとォ」
「は…、はぁ…でも…」
 そこまで勧められても、イルカは言い淀んだきり手が出せなかった。
 確かにもう一度呑んでみたい気持ちはある。そしてまたあの得も言われぬ幸福感を感じたい。でも、こんないい酒を、こんな何処とも知れぬ廃屋のような場所で、一品の肴すら無く、しかも事もあろうに伝説の三忍の徳利から直接あおるというのはどうか…と、さすがに自制心が働いた。
 が。
「なーにを遠慮しとる。ワシは今年の新酒も手に入れられるが、お主は次はいつ呑めるかわからんのではないのか?」
 という言葉に、いきなりぐらっときた。
 そして半ば強引に手渡された、徳利のずっしりとした重みと甘美な芳香を感じると、(そうだな、もうだいぶさっきの酔いも醒めてきたし、一口だけなら…)と、ついつい徳利を持った右手が傾いてしまう。
「――っ…ふぅ。…ん〜っ、やっぱり何処で何度呑もうとも、旨いものはやはり旨いですねぇ」
 イルカは手の甲で唇を拭うと、感嘆の溜息を漏らした。
「そうじゃろう、そうじゃろう〜。まぁ、座れ座れぃ」
 自来也は隈取りに縁取られた目元をほころばせて、ひっくり返した賽銭箱に座るよう再び勧める。男は長着の裾が開きすぎないよう、少し気を使いながら腰を乗せた。
「いや、この酒を造っておる杜氏はワシの古い親友でな」
 話しながらも、自来也があおった徳利が、再びイルカの前に差し出されてくる。
「なんと、そうでしたか」
「あいつは昔から女扱いが抜群に上手い奴でのォ。親爺の後を継いで杜氏になったらさぞかし凄かろうと思うておったが、やっぱりワシの予想通りだったわい」
「っ…女扱い、ですか」
 思わず口に含んだ酒をこぼしそうになり、慌てて呑み下す。
「そうよ。扱いが上手いというても、プレイボーイなんぞという次元の低い話ではないぞ? 酒と女というのはな、育て方、つきあい方、あしらい方、溺れていく過程でさえも実によく似ておるでのォ」
「はぁぁ、そういう…ものですか?」
「お前もいずれはわかる時が来る! …かのォ?」
 自来也は一度は断言しておきながら、ちょっと考えて語尾を上げ、ニッコリと笑った。その摩訶不思議な笑顔の魅力につられ、イルカも微笑む。
 だんだん目が慣れてきたせいか、最初は恐ろしげに見えていた隈取りの走る顔も、笑うとどこか茶目っ気があって愛嬌があるな、などと思う。
 その後イルカは自来也に徳利を勧められるほどに段々と調子が出て来はじめ、様々な話をしだした。
 ここが廃寺だと知ると『昔、この国の酒造りは寺で大きく発展を遂げ、絶品の僧坊酒が数多く生まれたお陰で今の醸造行程の原型が完成した』とか、『寒仕込みという手法は、雑菌の繁殖を抑える以外にも、米が酒造りに流れて食糧不足になるのを防ぐために、国が禁令を敷いた所から定着したそうです』などというお得意の酒にまつわる話が次々と飛びだしてきて、好奇心旺盛な自来也を大いに楽しませた。
 普通なら、この手の話の披露はともすると酒の場を借りた嫌みな知識のひけらかしに聞こえる事も多いのだが、この男からは不思議とそういったものが一切伝わってこなかった。
 基本的に、話し上手である以前に、聞き上手、問いかけ上手な男なのだろう。アカデミー所属と言っていたから、教師か何かか。子供達に人気のある、優秀な教師であろう事は自来也にも容易に察しが付いた。
 そしてイルカの一連の様子を見守っていた自来也は、この男に妙な色気のようなものを嗅ぎ取っていた。
 カカシ程に頭抜けた美男子でも、非の打ち所のない美しい肢体を有している訳でもない。記憶力や知的好奇心は教師らしく流石なものだが、特別何らかの感覚が突出して鋭い、という事もないようだ。
 しかし、下卑たところの一切感じられないちょっとした仕草や表情、そして純朴な性格から滲む言葉の端々などが絶妙に相まって、何故かしら強く人を惹き付け、離さないでいる。
 よく呑み、よく笑い、そしてよく話す、今時天然記念物にも指定出来そうな、珍しく素直な忍。そしてそこから意識せず発散されている、不思議な色香。
 あのカカシが夢中になるのもむべなるかな、という気がしてくる。
 取材しがいのある、なかなか面白い男だと思った。



「…いや、新しい発見、ですよ…例えこんな場所で……呑んだとしても、一緒に呑む人と気が合えば酒は旨いもの…な…ですね…」
 暫くすると、イルカの意識が急に揺らぎだした。
 無理もない。つい先程までかなり出来上がっていた状態にも拘わらず、僅か半刻程の休憩を経て再び「愛で惑ひ」を徳利からいっているのだ。いくら伝説の三忍の前であろうと、そういつまでも正気を保っていられる訳がなかった。
 言っている事は至極まともだが、酷く眠そうだ。目元が潤んで、頬にふうわりと赤みがさしている。
 木箱に横座りしている上半身が、時折くらり、と揺れる。
「――あ…すみません…また私…ちょっと、調子に乗りすぎて…」
 イルカは額に手を当て、当惑気味に言った。
「いや、構わん構わん。あいつらが来るのが遅いのがいかんのだ。まぁここに横になって暫く寝ていろ。仲間が来たら起こしてやるからのォ」
 イルカの倍は呑んでいるはずの自来也は、多少の酩酊感を楽しんでいるらしいものの、まだまだ序の口といった感じで瓢箪に口を付けている。
 その豪快な呑みっぷりを視界の端にぼんやりと認めながらも、イルカは体の力が急速に抜けて傾いていくのを、もうどうにも止めようがなかった。
(…仲間…が来るって……だれだ…ろ…)












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