イルカが少し離れた同僚夫婦宅の新年会に呼ばれて盛り上がり、かなり出来上がった状態で自宅の長屋門の通用口を潜ったのは、夜半前の事だった。
 年に一度の正月連休ということで、張り切って朝から和装で決め込み、すっかりいい気分になって、雪駄履きの心持ちふらつく足で玄関に歩み寄った、そのとき。
 いきなり上方から真っ黒な影が飛び降りてきて、すぐ眼前に立ちはだかった。
「っ?!」
 突然の事に声も出ず、ぎょっとして数歩後ずさる。
「あぁ良かった…! イルカ先生、探したんですよ。こんな時間まで何処に行ってたんですか?!」
 着地した男が早口でまくしたててくる。
「かっ…カカシ先生!? ぁあ〜〜びっくりしたーー」
 イルカは気持ち呂律の怪しい口調と、潤んだような目元ながら、今の不意打ちで一瞬酔いが醒めたらしく、カカシを見るやまずはと律儀に新年の挨拶をする。
 しかし、それでもまだどことなく落ち着かなそうな様子の上忍にもイルカは全く気づくことなく、「まぁどうぞどうぞ〜」と玄関を開けて中へ入るよう勧めた。


「――今日は夕方から初詣に出掛けてましてね」
 イルカが台所で茶の用意をしながら話している。
 カカシは掘り炬燵の火をおこすと、所在なげに天板に肘をついて男の話を半ばぼんやりと聞いていた。
 居間へと通されるなり「今日は酒ですよね、やっぱり?」と嬉しそうに聞かれたが、カカシはどうしてもそんな気にはなれず、「では茶を一杯下さい」と言った所だった。
「…でね、詣でた帰りに買い物をして帰ってきたら、門の前で同僚達が待っててくれてまして。買い物袋だけ門の内側に置いたら、そのまますぐ連れて行かれちゃいまして〜」
 その酒の席はとても楽しかったらしく、上機嫌で続きを話している。
「そうでしたか。居間の灯りが点けっぱなしなのに居ないから、どうしたのかと思いましたよ」
 やっと事情が呑み込めてきたカカシが、内心で小さく胸をなで下ろしながら言った。ようやく手袋と額当てを取り、口布を下ろす。
「あぁぁ! ホントだ? ははっ、ばっかだなぁー、俺、家を出る時に消し忘れてたんだ〜?!」
 指摘された男は今頃気付いて笑っている。
(んーーこれは案外、酔ってるかもね?)
 思いながら、カカシは形の良い眉をハの字に下げた。
 改めて見た着物姿のイルカは、なかなかに様になっていた。
 紺の長着に同系色の羽織と色足袋は、黒目黒髪の健康的で凛としたイルカの雰囲気によく合っている。神田結びにした銀鼠色の角帯は小粋で、長襦袢の襟の濃紺が、日頃陽に焼ける機会のない白い足首を引き立てていて、妙に眩しかった。
 元々姿勢が良く、立ち居振る舞いにもどこか品のある男だから、着物が映える要素をよく兼ね備えていると言えた。
「その着物、似合ってますよ。とっても」
 カカシが湯飲みを持ち上げたまま言うと、イルカは「いやぁ、正月しか着ませんからどうしても着慣れてなくてー」と、照れながらも嬉しそうに笑った。
 その後もとりとめもない話に終始したが、いよいよイルカが眠そうなのを見ると、カカシは「そろそろ帰りますね」と立ち上がった。
 とは言っても、心配事が完全に解消した訳ではない。帰ると言っても今夜はイルカの家の屋根裏に泊まるつもりなのだが。
「だいぶ酒が回っているようですから、早く寝た方がいいですよ?」
 やんわりと念を押して、カカシは一旦外に出た。
 つっかけた白木の桐下駄をカラコロ鳴らしながら、いつものように石畳の通路をイルカが後からついてくる。
「何だか正月早々ご心配をおかけしてしまったみたいで…済みませんでした」
 長屋門の前でイルカが頭を下げた。だいぶ体がふらつきだしているにも拘わらず、男の生来の生真面目さはそれを感じさせないほどに筋道の通った台詞を喋らせている。
「あいえ、何でもなかったんですからいいんですよ。オレが勝手にちょっと考えすぎてただけですし」
 口布の下で、カカシが参ったな…という感じで小さく苦笑する。すると、イルカがかなり眠そうな潤んだような表情ながら、何かを言いかけようとした様な素振りがあった。
「――?」
 気付いたカカシが、辛抱強くそれを待つ。
 が、結局イルカは何も言わぬまま、二人は「今年も宜しくお願いします」「はい、じゃあまた」などと、ごくありきたりの挨拶を交わしながら別れた。


 イルカは、街灯の向こうの闇に紛れて消えていく上忍の後ろ姿を見送りながら、今、酔いに任せて思わず言いそうになってしまい、慌てて呑み込んだ言葉を心の中で反芻する。
(…私を、心配して下さった事……とても嬉しかったです…)



 外套を羽織った男の後ろ姿がすっかり消えると、イルカは無意識のうちに小さな溜息を一つつき、通用口の引き戸を閉めた。そのまま下駄を鳴らしながら玄関へと戻っていくが、今のイルカには心なしか下駄の音までが先程とは異なり、どこか寂しげに響く。
 ふらつきながら、俯き加減で玄関の戸を引いた。
「<」
 心臓がドクンッと大きく跳ね上がり、同時にひっと息を呑む。
 息がかかりそうな程すぐ目と鼻の先に、一人の男が立ちはだかっていた。そしてイルカの大きく見開かれた真っ黒な瞳を、両の冷眼で見据えている。
 イルカは一瞬で全身が総毛立ったが、その眼光に射すくめられた体は、もう一歩たりとも動けなかった。
 直後、目の前が真っ暗になった。





 カカシは、見送るイルカの視線を背後に感じながら、それが届かなくなるところまで歩いて行き、すっかり視線を感じなくなった所で、すぐさまイルカの家へと取って返した。
 その間、時間にすれば僅か一分足らずだったはずだ。なのにイルカの姿は忽然と消え失せていた。
 玄関は開け放たれたまま、灯りも煌々と点きっぱなしなのに不気味なほどしんとした室内を見て、即座に上忍の中に警戒警報が鳴り響く。
 カカシは自身の血が一気に逆流するような感覚を覚えつつ、屋根から玄関へと猛然と飛び降りた。
 そして玄関の千本格子に挟まれた一枚の紙切れに記された文字を読むや、それを一気に握り潰す。
(やってくれるぜ…)
 思わず隠れている側の顔が歪んだが、同時にまだ最悪の事態ではなかったことに少しだけ安堵する。
 玄関にあった紙切れには『第十三演習場』とだけ墨書きされてあった。暗部はこんなふざけた事はしない。連中なら一切の痕跡を残さず、イルカと共にただ消えるだけだ。
 カカシは、暗部以外でこのような一瞬の芸当が出来、尚かつこんな事をやる可能性のある数人の忍に思いを巡らした。
 そしてある者の顔が思い浮かぶと、即座に対応策を立て、実行に移すべく行動を開始した。





 一刻余り後、カカシは全く人気のない、鬱蒼とした演習場の入り口に一人立っていた。
 夏場なら方角すらわからなくなるような深い密林が、今はすっかり雪に覆われて月明かりに青白く発光しながら、奥へ奥へと続いている。
 カカシは小さな忍犬を一匹呼び出すと、その犬の後を追って走り始めた。
 次に忍犬が立ち止まり、カカシが解印を唱えてその相棒を消すと、闇の向こうに一人の男が立っているのが微かに見て取れた。カカシはもう既にすっかり戦闘態勢が整っているらしく、微動だにしない。
 後は、必要ならば斜めに付けた額当てを上げるだけだ。


 闇の向こうに佇んでいる朧な人影に向かって、カカシは苦渋の滲むトーンで声を掛けた。
「アスマ、悪ふざけが過ぎるぞ。イルカ先生どこだ」
「あ? 悪ふざけ? …確かこれにゃ、そんな決めごとなんて無かったんじゃねぇのか?」
 問われた男は、懐からわざとらしくゆっくりと取り出した煙草を銜え、マッチで火を付けている。
 オレンジ色の灯りが男の顔を照らし、不敵に笑う髭面を浮かび上がらせた。
「はっ、アンコに掘られたのがそんなに病みつきになってたとはね。どうあってもヤられたいんだ」
「るせぇ。あれのお陰でオレがどんだけえれぇ目に遭ったと思ってやがる」
 髭面が僅かに歪んだのが、小さな煙草の火灯りで見えた。
(知るか。逆恨みも大概にしろ。前回自分から持ちかけた賭けに勝つためにゲームに参戦して、勝手に伏兵に裏切られて、勝手にアンコに後ろ獲られたくせに)
 カカシは心の内で思いきり突っ込みを入れたが、いつまでも子供の喧嘩みたいなやりとりなどやっていられない。とにかくイルカ先生が最優先だ。
「…わかった。お前の望み通り後ろは獲ってやるから、負けたら必ずイルカ先生の居場所教えろ」
 言うと、アスマの唇から煙と息が盛大に吐き出されて、月夜に白くたなびいた。
「おーおーカカシおめぇ、本当にあいつにハマッちまってんだ? それよー、後ろ獲りにいく相手、間違ってるぜ?」
 カカシの挑発には乗らず、落ち着き払ってニヤついている。
「ったくかわいくないねぇ。後ろ獲られたいなら素直にそう言えば!」
 言い終わる前に印を切り始めたカカシの姿は、見る間に周囲を埋め尽くさんばかりに分身し始めた。その光景は、かなりの威圧感を放っていたが、男は顔色一つ変えずに俯いてニヤついている。
 アスマは昨日の将棋の席の事を思い出していた。


「――でよ、お前ならこんな時、どうするよ」
 アスマ宅。
 将棋盤を挟んで、アスマとシカマルは元旦から打ち初めに興じていた。
 負けた方が夕飯を奢るという約束だったが、一度もシカマルに将棋で勝てたことのないアスマは、最初から別の目的があってこの利発な下忍を呼んでいた。今し方『対カカシ・背後奪取作戦』の戦略を訊ねたところだ。
「んなメンドくせぇ事、オレなら始めっからやらねぇ」
 だが将棋盤を見つめたまま、シカマルはにべもなく言い放つ。
「んだつれねぇな。お前も一緒にやると仮定しての方策を聞いてんだ。ちったぁ真面目にやれ」
「はァ? マジかよ?! あのカカシ相手に?」
 少年の黒髪がぱっと上がる。
「ああ」
 だが穴の空くほどまじまじと見つめた上司は煙草を燻らせながら、ただぼんやりと盤上を見ている。
 それを見たシカマルは、ふんと鼻を鳴らして再び盤上へと視線を戻した。
「やめといた方がいいって。相手をよく見ろ。それにアスマお前、こないだ妙な歩き方してたの、あれカカシにやられたんじゃねぇのか? ったく懲りねぇやつだな」
 言いながら、シカマルは細い指先で角行と書かれた駒を器用に挟み、斜め後ろに二つ下げている。
「ゥっ、うるせぇぞ。……カカシじゃねぇ」
「やられたのがカカシじゃないなら、もっと情けなくないか、それ?」
「っ、お前なぁっ…!」
「ハイハイ図星でしたか。そりゃ悪うございました。せいぜい名誉回復のために頑張ってくるんだな。オレは関係ねーからよ」
「…っ…ッ…」
 やせっぽちで、いかにもやる気の無さそうな面持ちの、しかしまだどこか幼さの残る少年の口から出たとはとても思えないような言葉が次々と飛び出してきて、向かう大人の二の句をあっさりとなぎ払っていく。
「ゲームって言ったってよ、やられりゃ痛ぇじゃん。将棋とは訳が違うんだぜ? そもそもあのカカシじゃ、絶対ゲームに乗って来ねぇって。まぁ人質とかの弱点でもあれば別だけどよ」
「ん…? ……ああ、あるぜぇ、人質と弱点」
 アスマの大きくてごつい手が、小さな駒をつまんで動かしている。パチリ、と小気味よい音が響いた。
「何?」
 少年の瞳が、初めて盤上の上空でアスマのそれとかち合う。少しはやる気になってきたか。
「イルカとナルト」
「はァ? イルカ先生? また何で? …まっ、いっか何でも。で、ホントに来んのかよ、二人とも」
「イルカは…まぁオレが連れてくりゃあいい。ナルトは…そうだな、上手くすればカカシに呼ばれて来るかもな。ガイの時には一緒だったらしいから」
「何だよ、あのナルトが来るんなら、いくらでも穴なんて出来んだろ? わざわざオレに聞くなよな、メンドくせぇ」
「まぁそう言うなってー」
 アスマが苦笑する。
「ったく上司の尻拭いもラクじゃねぇよな。――はいよ、王手。成桂ね」
「あァっ?! ちょ、ちょい待った! 今のナシ!」
 盤上に乗り出すようにして片手を上げると、腕にはめられたリングがフラフラと頼りなげに揺れる。
「は、またかよ。まぁもしこれがナシでも、次もまたすぐ香車と銀の詰めで王手だけど? で、それがナシでも、すぐ龍王取りで王手なんだけど?」
「――う…」
 上司は色々な立場をことごとく無くし、がっくりとうなだれた。












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