(――んーー、この調子だといつ気付くかなぁ〜)
近くの樹上に陣取った銀髪男が、一人で猛烈な連続技の数々を延々と繰り広げているガイの姿を、のんびりと見下ろしながら胸の中で呟く。
確かに一度目の回し蹴りの際は、危ないと知りつつも敢えて自分自身で受けた。
しかし、二ヶ月前に比べてまた一段と速くなったガイの体術を肌身で体感して、とてもじゃないがこれはまともになど受けていられないと判断。
ならばとガイをわざと挑発して、『狐狸心中の術』と『奈落見の術』を二重にかけてやった。
ガイは奈烙見の幻影から、いつまでも倒せないカカシをますますムキになって追い続け、更に狐狸心中の術でこの広場をぐるりと取り囲んだ木立の中を、延々とただ回され続けるのだ。
(アイツのことだから、暫くは休んでいられるな)
カカシは一際大きな樹上に陣取ると、相変わらず気合いの入った声を上げながらたった一人で広場をぐるぐる回っているガイを尻目に、ゆっくりと腰を下ろした。
「――くっ…そォ…しぶとい…ヤツ…め!」
一時間後。
ぜいぜいと荒い息をつきながら、ガイがようやく立ち止まった。
(しぶといのは、お前だって…)
カカシが樹上で呆れる。
あんなとてつもない連続技を小一時間も繰り出し続けていても、まだあの程度のへばり様とは。改めてそら恐ろしい男だと思う。普通の忍なら、ものの十分かそこらでまず立ち上がれなくなるところだ。
そして、こんなに延々と技が避けられ続けても、いまだに自分が何かの術にかかっているのではないかという事に思い至ってないというのも、ある意味恐ろしい男だと思った。まぁ至極アイツらしいと言えば、アイツらしいのだが…。
カカシが樹上から見下ろしたガイは、相変わらず何もない空間を睨み据えて、荒い息をついている。
今、彼の目には、どんな技もことごとくかい潜る、見切りの神のようなカカシが映っているのだ。
月明かりに照らされた男の白い息が、樹間を流れていく。
(…さてと、んじゃあそろそろ種明かしといきますかー)
カカシが腰掛けていた横枝からゆっくりと体を前に倒すと、銀色の髪が弧を描きながら静かに下方へと落ちていった。
「ウォーミングアップは済んだかな?」というカカシのひと声で、ガイは周囲の様子が急に変わったことに気付いた。
景色は殆ど変わっていないが、今まで正対していたカカシが突如消え失せて、自分を取り巻いていた密度の濃い熱い大気が、一気に雲散霧消している。
やがて、急速に冷えていった空気が、自身の火照った頬を冷やしはじめた。まるで「目を醒ませ」と言わんばかりに。
「――んんんっ?! ……ぁぁあ?! …ぬぉぉっ! くっそォォ、カカシィ〜ッ!
お前のやり方は相変わらず汚いぞ! 正々堂々とやらんかぁーっ!!」
ポケットに両手を突っ込んだ格好で、のんびりと木にもたれている男を指さし、ようやく事の次第に気付いたガイが真っ赤になって怒る。
「だーかーら、やってるってー。お前オレが忍だって事、ホントーにわかってる?
ったく毎回毎回、よくもまぁコロッと気持ち良く騙されてくれるよねぇ」
「シャ〜〜ラ――ップ!!」
水を打ったように静かな夜の公園に、ガイのよく通る大声がこだまする。
「あぁわかった、わかった。わかったからそんな大声出すなって。…じゃあガイ、お前がようやくいい感じにへばってきたから、お望み通りオレも体術で勝負してやる。――こい!」
「おっ…おおう! よしっ!」
カカシから突然立ち上り始めた鋭い殺気と、その隙のない構えにただならぬものを感じたガイは、再び全身の感覚を研ぎ澄ませながら身構える。
ドスッ、という鈍い音がガイのすぐ背後で響いたのは、その時だった。
「ッ?!」
みるみるうちに男の小さな目が一杯に見開かれ、真っ白な歯が力一杯噛み締められて、激眉がピクピクと痙攣しだす。こめかみに、青筋と脂汗が一気に浮かび上がっていく。
「…な…っ…、ぬ…ぅ…ッ…?!」
その構えをとった格好のままで呆然と立ちつくす男の背後から、小さな影がぱっと飛び出した。
「ぃやったぁぁ〜! いっちょー上がりだってばよッ!」
そしてカカシのすぐ脇に、寅の印を結んだままの金髪の少年がぴょんと降り立つ。
「よぉ〜し。よくやったナルト! さすがオレ直伝だけの事はあるぞ。しかしまた綺麗にキメてくれた〜ね」
「へへーん! 何たってこのゲームの開発者だからよッ! でも待ってる間、すっげぇ寒かったってばよ〜」
ナルトはカカシに金髪をくしゃくしゃと掻き回され、得意気になって鼻の下をこすった。
「悪い悪い。オレもまさかここまで時間がかかるとは思ってなかったんでな」
「約束のラーメンおごりは、おかわり決定だってば!」
ここぞとばかり、悪戯小僧の青い瞳がにんまりと細められる。
「あぁわかった。よし、じゃあ今から早速行くか、オレもすっかり体が冷えちまったからな」
「よっしゃぁ〜トンコツ味噌チャーシュー!! じゃ早く、早く行こうぜ〜、もうオレ腹ペコだってばよぉ〜!」
カカシは少年の小さな手にぐいぐいと引っ張られながら「じゃ、そういうことで」と一度だけ背後のガイに手を上げると、公園の出口へと消えていった。
「――じゃっ…て…」
あまりと言えばあまりな展開に、何がどうなってこうなったのかを、固まったままぐるぐると反芻することしか、もはや残された男に出来ることはなかった。(いずれにせよ、尻の痛みで暫くはまともに動けそうにもなかったが)
残されたガイの周囲を北風が吹き抜け、長いマフラーを揺らした。
翌夕。
はたけカカシが弟子のナルトと組んで、あのガイを撃破したという噂は、瞬く間に「参加者」の間に広まっていた。
そしてそのガイが、上忍待機室に酷くぎくしゃくとした不自然な歩き方で登場した事で、その事実は確固たるものとして受け取られ、事態は早晩収束に向かうと予想された。
「ったく…個人的な対決に部下を使うとは、一体どういう根性しとるんだっ」
未だに納得いかないガイは、待機室でカカシと二人きりになるやブツブツとこぼす。
「まっ、このゲームにはルールらしいルールなんて無かったでしょ。大体オレが一人でやるなんて、勝手に思い込んでいたお前が甘いって。それにちゃんと仲間とやってるって意味で『ゲンマの仇』ってヒントまで与えてやったのに」
向かいのソファにだらしなく寝転がった男が、涼しい顔をして言う。
「わかるか、んなものッ! そもそもな…ぁッ…!」
微妙に横座りしていたソファから抗議のために起き上がろうとするも、鋭い局部の痛みにぴくっと体を強ばらせて動きが止まる。
「…む…ぅう…」
次の言葉が出てこず、ぐっと歯を食いしばると、その格好のままそろりそろりとソファに沈んだ。
「あ〜らま、天罰覿面だねぇ。人の家なんか夜中に覗いたりするからー」
「…ぅ…何だ、覗くって…。誰が…何を?」
「だーからお前が、イルカ先生ん家を」
「いつ」
「年末。三十日の夜」
「わけのわからん事を言うな。オレがイルカの家に行ったのは、いつぞやの暴発騒ぎの時が最後だぞ」
途端、長々とだらしなくソファに横になっていたカカシの頭から足先に向かって、何かの衝撃がピシッと走り抜けたのが、向かいにいたガイにもありありと分かった。
「! それ…本当か?」
「ああ。三十日の夜は馴染みのカレー屋で忘年会だったからな。熱く弾けてそのまま帰って寝たぞ。嘘だと思うなら、店のマスターに聞いてみろ」
「――――」
直後、カカシは無言のままガバッと勢いよく跳ね起きると、外套を掴むやそのままドアに向かった。
「ぬおっ、どうしたカカシィ?! オイ、ちょっと待て! ちゃんと説明していケ……ッ!」
盛大な音を響かせてドアが閉まるのと、ガイが後ろを押さえながらソファにへたり込んだのはほぼ同時だった。
(くそっ、てっきりあの痕跡はガイだと…、じゃあ一体あれは誰だったんだ…)
待機室を出たカカシは、すっかり暗くなった道をイルカの家に向かって急いだ。
一度は解決したと思い、脳裏からきれいに払拭されていたものが、前よりも遥かに酷い焦燥感を伴って再びカカシの胸に重苦しくのし掛かってきていた。
(他にも上忍の「参加者」がまだ居るのか、それとも…もしや…?)
後者の予想は、是が非でも外れて欲しかった。
もしもあの人が暗部になぞ登用されたら、時に酷く理不尽で過酷な任務の数々に、いつまで堪えられるか。
以前、彼に『もしも強大な技を得られたとしたらどう使いたいか?』という問いを投げかけた事を思い出す。男はその返答にとても困っていた。
そして考えに考えた末、『そんな力の使い方など解らないから、もしあっても多分使えない』と言っていた。とても彼らしい返答だと思う。
有している大技は木ノ葉一だったとしても、心根は純粋で、真面目で、謙虚で、確かにちょっとおっちょこちょいでお人好し過ぎる所もあるけれど、子供と風呂と酒が大好きな、ラーメンに目のないごく普通の男なのだ。
それが些細なきっかけから、好きだった教師の仕事は取り上げられ、自分の知らない強大な能力を勝手に引き出され、使いたくもないそれを敵に向けて使えと命じられるとしたら。
恐らくそれだけでも、あの人にとっては重圧以外の何ものでもないだろう。
一旦決まってしまった上層部の決定を、部下でしかないオレやあの人が覆す事など出来はしない。だからそうなる前に、何としても知られないようにする必要がある。
絶対に、あの人の秘密を上に気取られてはならない。
絶対に。
カカシは、『里の人々に配慮して、緊急時以外はやらないように』と普段から事ある毎に言われている『人家の屋根渡り』を何度も繰り返しながら、すっかり日の暮れた静かな正月の町をイルカの家へと急いだ。
何やらざわざわと胸騒ぎがした。
(考えすぎか?)
何事も起こっていないならそれでいい。あの人が今まで通り平穏に、安らかに暮らせているならそれでいい。もうそれ以上は何も望むまいとさえ思う。
ほどなくして観音開き門の前に着いた。向かいの家の屋根から様子を伺う。
居間の雨戸の隙間から、細く灯りが漏れている。良かった、どうやら家主は在宅しているらしい。
相変わらず通りには人影は殆どなく、街灯は遠くの角にぽつんと一つあるだけの酷く寂しい場所だ。
門の回りや石畳の上は、イルカらしくちゃんと雪が掻いてあった。門柱には、こういう里の行事や慣習ごとはきっちりとやる彼らしく、青々とした門松が配されている。
それだけ確認すると、カカシは一気に道路と門扉を飛び越え、音もなく石畳の上へと降り立った。
中庭は先日雪見酒をした時と変わらぬ、美しい風景を呈している。
そのまま忍び込み慣れた屋根裏に行こうと思ったが、どうしても一言だけでいいから何か直接言葉を交わしたくて、美しい千本格子の入った玄関の引き戸に手をかけた。が、扉はぴくりともしない。
この時間からもう鍵をかけているのかと思いながらも、とりあえず呼び鈴を押してみる。けれどいつまで待っても返事が無い。灯りの点いている屋内にも、まるで人の気配が感じられない。
まさかもう寝ているのか、と屋根裏に回ったが、居間には灯りがついているものの、イルカは屋内の何処にも居なかった。ひょっとして裏の畑かと見に行くが、そこは一面に雪をかぶって暗くしんと静まり返っている。
何やら腑に落ちないまま再び玄関へと戻ってきて、見るともなく月明かりに浮かび上がった美しい中庭を眺めた。
とその時、ふと目の端に何かが映ったような気がして、カカシは長屋門の内側にある物に顔を向けた。
(!)
閉められた通用口の脇に、食材を入れた紙袋が一つ、置かれたままになっていた。いつからここにあったのだろうと、その袋を拾い上げる。
どうも中身の食材の様子からして、今日、しかもこの数時間以内に置かれたものらしいが、これを置いたはずの当の本人は一体何の理由で袋を置き去りにし、何処に行ったのだろう?
急に心臓の鼓動が速くなりはじめた。灯りが点いたまま鍵のかかった室内。放置された買い物袋。何となく不自然な気がする。
これは考え過ぎか、気のせいか。イルカは単なる外出なのか。確かにこの三が日はイルカに任務は無いのだし、外出も充分にあり得る。それならそれでいい。だが、今のカカシには、ただの外出だと考えて踵を返すほどの心のゆとりも根拠も持ち合わせてはいなかった。
少しでも安心したい一心で、何か男につながる手かがりはないかと、北風の強くなりはじめた近隣を探し始めた。
TOP 書庫 << >>