火影の執務室を出て、急ぎ足でイルカの家へと向かう道すがら。
 隣の暗がりに、黒外套の大男が音もなく付き従ってくる気配に気付いたカカシは、前を向いたままその傍らの気配に話しかける。
「イビキ、お楽しみだったところ悪いんだけどさ、色々思うところあって、イルカ先生の力の件以外は、いま全部バラしてきたとこ」
「そうか。まぁでもその様子じゃそこそこ上手くいったんだな」
「あぁ、多分ね。明日中には正式な撤回のお達しが出ると思う。でさ…」
「もしそれでもまだ睨み合っている連中が居た場合は、当分余計な考えを起こす気なんてものが起きないよう、たっぷりと骨身に擦り込んどけって、言うんだろ?」
「悪いね、いつも後始末させちゃって」
「お前もだろうが。オレは趣味だからいいがな」
 男は暗がりで、傷だらけの白い顔を楽しそうに綻ばせた。



「ご苦労さん。寒いとこありがとね」
 イルカの家のまわりに散開して、しっかりと役目を果たしていた頼もしい口寄せ動物達に労いの声をかけてから解印を切ったカカシは、迷いながらも玄関の引き戸に手を掛けた。
「――イルカ先生? 具合どうですか?」
 ガラガラと横に引くと、すぐに水屋の方から足音が聞こえてくる。先程より随分と明るい表情の男が玄関に現れると、上忍は内心でホッとする。
「あぁカカシ先生…! 色々すみませんでした。もうすっかり良くなりましたんで」
 良かったらお茶でもと言われ、誘われるままに居心地のいい居間へと上がり込む。

「酒でこんなことになるなんて、去年の秋以来なんですが…もうトシ、なんですかね?」
 イルカは茶を淹れながらタハハと苦笑いしているが、傍目にもどこか吹っ切れてすっきりした様子に、無意識のうちに構えてしまっていたカカシの心もふっと軽くなっていく。
(あぁそうか、ひょっとして…?)
 今のイルカの言葉が、突然ある事柄に光を当てていた。ずっと彼の大技の発動条件というものがよく分からなかったのだが、ひょっとしたら酔っている時に近くで強力なチャクラを練られると、それに影響されて酷く悪酔いするたちなんじゃないだろうか? もちろんわざわざ試してみる気は更々無いが、タイミング的にはそれが一番合っている気がする。
(そこでうっかり怒らせてしまうと、いよいよ導火線に火が付く…?)
 だとしたら、もし力のことを上層部に嗅ぎつけられたとしても、まず滅多なことでは術が発動しないだろうから、暗部に召し上げられることもないだろう。
(良かった…。イルカ先生だって、言ってたものな)
 その人に適した居場所が、きっとあるって。

(この人のあの大技の元となった強大なチャクラは、彼が忙しさの余り自身の修行がままならない苛立ちや焦りが、無意識下で日々積もり積もって膨れ上がったものだったりして…?)などと、時に思わぬ所で驚かされる男の横顔を見るともなく見ながら、上忍はぼんやりと巡らす。
「そういやナルトに聞きましたよ。カカシ先生、カンチョー得意なんですって?」
 直後、グホッという音と共に、上忍の周囲に派手に茶が飛び散った。
「カカシ先生?!」
 体を折ってむせ込んでいた男は、暫くすると「――失礼…」と平静を取り戻したかに見えたものの、まだ苦しいのか顔が赤い。
 大丈夫ですかと茶を拭き、殆ど無くなってしまったそれを入れなおして、カカシがようやく二杯目を啜りだすと、イルカは「でも何で『千年殺し』なんですか?」と笑いながら訊ねた。
「ぃっ…いやまぁホラ…、何というか〜、「カンチョー」じゃあ上忍の発動する術としてあんまりにも格好がつかないというか…。イルカ先生は、その…やったことないですか?」
 言いながら、上忍にあるまじきかなりアホな回答をしているなぁと自覚しつつも、カカシは湯飲みで顔を隠すようにしながら、出来るだけ何気なく訊ね返す。
「カンチョーですか? ハハハ、それなら俺、毎日のようにやられてますよ〜」
「ぅエッ?!」
「いやもう入れ替わり立ち替わり、それこそ毎日のように子供達が隙を狙って忍んでくるんで、流石に叱りきれなくなってまして。でもまぁこれも訓練かなって大目に見てやってます。俺も子供の頃、友達とやりあいましたからねぇ」
(――びっ、びっくりしたぁ…なんだ、子供か…)
 内心で胸をなで下ろす。だが上忍の自分ですら獲れないイルカの後ろを、アカデミー生如きに毎日獲られているのかと思うと、例え大人げないと言われようともそれはそれで面白くない。
「でも、幾らそのっ、子供の…アレでも、そうしょっちゅうじゃ痛くないですか?」
 いきなり自分に向かって乗り出し気味に訊ねてきた上忍に、思わずイルカが仰け反る。
「…やっ、そりゃまぁ、まともに入っちゃったら結構痛いですよ? でもそういう時はちゃんと「今のは痛かったから加減しろ!」って叱ってます。それに外れた場合は指の方が断然痛いですから、いい薬ですしね。まぁ気付いてて避けない俺も、褒められたもんじゃないですけど〜」
 イルカは明るくあはっと笑った。
(――そうか…子供の指でも結構痛いのか…、そうだよな…)
 カカシはまだ遥か彼方に有るか無きかの的外れな懸案を前にして、一人で勝手にしゅんとしたものの。
(ま、千里の道も一歩からだし? さしずめ今は三歩行った所で二歩引き返した辺りなんだろうけど、それでも一歩は前に進んでるからね?)などと思い直す。
 しかしそちらにばかり気を取られていたせいで、突然イルカに「夕べ仰ってた、カカシ先生との距離のことですけど…」と切り出されると、出所不明の不安から、本当に何かの術にでも囚われたかのように体が動かなくなった。続く言葉を、何かの審判でも下されるような気持ちでひたすら待つ。
「…俺、あの場はなんというか…思わず逃げ出しちゃったんですけど、何で逃げたのか考えてみたら…あのっ、やっぱりカカシ先生のことを、階級とか…そのっ、男…とかいう立場とかもすっかり忘れるくらいすごく身近に感じてた自分に、急に気が付いたからなんだなって…」
「――え…」
「――あッ?! 俺いま何て…?! す、すみません、『男の立場』は撤回します! ごめんなさい!」
「えええ?! 待って、落ち着いて!」
 そう言っている自分の方が遥かに浮き足立ってきているのだが、もしかしたら全く気付かないうちに千里まであと一歩の所まで来ているのかも知れない期待に、今にも胸が張り裂けそうなほど高鳴る。
 もう何度頭の中で思い描いてきたか分からない妄想シーンを目指し、何かに突き動かされるようにしていざり寄ると、イルカを背後の箪笥との間に挟み打ちにして、真っ黒な瞳を息がかかる近さでじっと見つめる。
「ゃ、その…俺いまっ…」
「風紀委員だって、上忍だって、生きてりゃそのうち誰かを、好きになるでしょ?」
 驚いて見開かれた男の瞼が、睫毛で音がしそうなくらいはっきりと上下に動いて答える。
「そうしたら、理屈じゃなく、こういうことだって…したいと思うでしょ?」
 イルカの唇に、自分のそれをそっと触れさせるだけ…のつもりが、どうしても歯止めが効かずに右へ左へと首を傾けながら、しばらくその柔らかい唇と温かい口内を夢中で味わう。
「…それってさ…他人が、注意できるようなこと?」
 キスの途中で何度も目眩がして、最後の言葉など正直もうどうでもよくなっていたが、一応イルカの立場も考えて言っておく。
 だが肝心のイルカは唇を離してもぎゅっと目を閉じたまま、酒を呑んだときよりまだ赤い顔をして忙しなく胸を上下させるだけで、とても質問になど答えられそうにない。ただひたすらカカシの片手を握り締め続けるばかりだ。
 それが何かの切っ掛けでいきなり腹が据わる、この男の決心の現れであることをカカシは切に願う。
 がちがちなのにしっとりと熱い首筋に丹念に唇を押し付けて回り、再び唇に舞い戻ると、鼻から抜ける思い人のくぐもった声にぞくりと身震いがして、もう無我夢中で開いた方の手をアンダーシャツの裾から中に入れようとした、まさにその時。
「ッ?!」
 イルカの朱に染まった耳越しの――庭に面した縁側の窓のすぐ向こうで、目にも痛い緑色の全身タイツ男が大袈裟に両手を振り回しているのが目に入って、カカシは別の意味でぐらりと目眩がする。
(シッ!! シッ!! あっちいけ! 今取り込み中ーーッ!!)
 開いている方の手でもって、必死で追い払うゼスチャーをして見せるものの、肩から『ヤングにモテモテ! チャーミングタイツ愛好族』などと書かれた派手なタスキを肩から下げたおかっぱ男は、おもてに出てこいという意味の「カモ〜ン!」のポーズをしきりに繰り返している。
(知るかッ! 今日という今日は、絶対に対決なんてしないからなッ!)
 取り込み中であることが一応分かっているらしい同胞など、頭から無視すればいいと岩よりも固く決意して、目の前にあるもうだいぶとろけてきたイルカの項に顔を埋める。
 だが窓の外では長身の緑タイツ男が一層珍妙かつ激しいボディランゲージを行いだしていて、とにかく目の端に映るそれが鬱陶しくてならない。
(…くっ…くっそ…! どうせそのタスキの頭文字を取った『YMCT』とかいうポーズでオレを挑発しようとしてるんだろうがな…!)と、こんな大事なコトの最中にもかかわらず、タイツ男の考えが丸分かってしまった自分が何より腹立たしくて仕方ない。
 もう腹わたが煮えくり返っているのか、はたまた腹の中で強大なチャクラでも練られているのか、自分でもよく分からなくなってブルブルしていると、流石のイルカもカカシの異変に気付いたらしく、固く閉じていた目をうっすらと開いて「あの…?」と呟く。
「ごめんね、外にしまい忘れた犬が居るみたいだから」
 すぐ戻るから、そのまま待ってて、と言い残して窓から飛び出すと、まずは電光石火の早業で、庭に面した雨戸をぴしゃんと閉めきる。
「帰れっ! いいから今すぐか・え・れッ!」
 そして男に向かって小声で叫びながら、両手でもって「あっちにいけ!」の手振りをする。しかし今回の騒動を絶好の「対決の機会」と捉えている熱い男は、ようやくライバルが土俵に上がってきてくれたと、白い歯をきらめかせながら臨戦態勢に入って低く構えている。
(…くっ…そォ…、そうまでしてオレの邪魔をするならな…)
 馬に蹴られるどころじゃ済まないから覚悟しろ。
 さっきから腹の中で轟々と音を立てんばかりに渦巻いていたものは、やはり煮えた腹わたなどではなかった。その証拠に、ずっと閉じていた左目を開くと、なぜか面白いように強大な力が集約していくのが分かる。
 己の内側でもう一人の自分が『いける! 発動しろ』と囁いている。でもここまで瞳に集まった力など、どこにどうやって発動しろというのか? 勢いでやってはみたものの、その先が分からない。
(あぁぁもう…! 邪魔者は今すぐ消えろ! 失せろ、どっか行けーッ!!)
 苛々して今にも声に出して叫びたいのを、死に物狂いで我慢して念じる。
 と突然、ガイの周辺の大気が、まるで陽炎のように不規則にぐにゃりと歪みだした。
「…むぅ? なんだ…?」
 だが『写輪眼が出たからには足元を見て気配を察知するに限るな!』と、カカシの目からわざと視線を反らして構えていた男が、自身の居る空間そのものが渦を巻きながら黒い一点に向かって吸い込まれていくような異様な気配に気付いた時は、既に遅かった。
「…なッ…なぬうぅ…?! ――おっ…おい、カカ…?!」

 ぷつり、と男の声と気配が途切れると、一拍後にはぴんと張り詰めた静かな冬の夜空が戻ってくる。


(――ホントに…消えた…のか?)
 カカシはぜいぜと肩で息をしながら、半ば呆然としつつもその一帯の気配を身長に探った。しかし、あの男の姿も声も、そして匂いさえもが、まるで切り取ったようにきれいさっぱりと消えて無くなっていて、本当にあの男が今し方までここに居たのかどうかさえ、今となってはあやしく思える。
(…まっ…いないなら……いい、でしょ…)
 カカシはライバルの存在を、記憶ごと切り取ってどこかの暗がりに放り出すと、ふらつく体に鞭を打って、愛しい者の待つ家の方へと向けた。




「こんな時に…ごめんね…」
 カカシは居間に戻ってくると、どこかまだぼんやりとして箪笥に凭れていたイルカの前に、どさりと腰を下ろした。
「いっ、いえ…別に…、あはっ…」
 先程のキスの甘い余韻はイルカの体の奥にしっかりと残っているものの、いや残っているからこそ、時間を置いてしまうとどうしても照れが出る。
(幾ら何でも、今からもう一度ってのはちょっと…)と、イルカが立ち上がろうとすると、慌てた様子の上忍が、正面から倒れ込むようにして抱きついてきた。
「うわっ?! …えとっ…カカシ、先生っ?」
 抱きとめると、その体の異常な重さに驚く。さっきまでは意志のある羽みたいだったのに、これじゃあまるっきり手足のある鉛だ。呼吸も随分と荒くなっているし、顔色も良くない。明らかに様子のおかしい上忍に、イルカが訝しむが。
「…ね…続き、しよ?」
 真冬だというのに、額一杯に脂汗を浮かべながら誘ってくる。
「いやあのっ、カカシ先生っ?! どうしたんですか? 具合でも悪いんじゃ…」
「だいじょーぶ、…大丈夫だから。ね、…早く…はやく…」
 直後、出し抜けに銀色の頭ががくんと懐に落ちかかってきた時は、一体上忍の身に何が起こったのかとパニックを起こしかけていたものの。
(……あ…れ…?)
 暫くすると規則正しい寝息が聞こえてきて、魂が口から抜けるかと思うほど一気に脱力する。

「…まったくもー、なんなんだよ。しょうがない人だなぁー」
 一人で照れて焦りまくった分、ぶつくさとひとしきり文句を言ってみるものの、あれほど熱心に迫ってきていたはずの男はイルカの懐ですっかり無防備な寝顔をさらしていて、この分では空が割れて頭の上に落ちてきたって目覚めそうにない。
「…そんな顔していつまでも寝てたらねー、後ろ、獲っちゃいますよ?」
 きゅ、と軽く鼻をつまんでみるが、何やら酷く疲れているらしい男は、身じろぎする気配さえない。

(――もう…あなたって、人は…)

「…起きたら…、起きたら一生かけて、責任取ってもらいますからね」
 呟いたイルカは、男の左瞼に走る刀傷に、そっと唇を落とした。











             「千年愛して 散 −粛清編−」 おわり



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