変化を解いてバリケードの一部を外して室内に入ると、イルカはナルトのベッドに着の身着のままの格好で倒れ伏して眠っていた。覗き込むと、眉間に深い縦皺が寄っている。
「イルカ先生、大丈夫ですか? イルカ先生…?」
 軽く肩を揺すると、ううという呻き声と共にぎゅっと閉じていた瞼がゆっくりと上がっていく。
「…あ…? あぁ…カカシ、先生…?」
 けれど焦点の定まらないような目で室内の掛け時計を見た途端ギョッとし、もう一度懐の懐中時計を見た瞬間、弾かれたように起き上がってそのまま戸口に駆け寄ろうとしている。
「待って、イルカ先生!」
「ちょと、離して下さいッ! 俺、とんでもないことを…!」
 カカシに掴まれた手を振り解こうと、躍起になっている。
「落ち着きなさいって! もうあなたの任務時間はとっくに終わってるじゃないですか。みんなあなたが酷く疲れてたってことは、ちゃんと分かってて手分けしてましたから、今日一晩休んで明日普通に出れば大丈夫ですって!」
 すると、ようやくイルカの中でわたわたと空回っていたものが少しずつ静まりだし、やがてどさり、とベッドに腰を落とした。
「どうしちゃったんですか? 急に休んでいなくなるから心配しましたよ」
「…あぁ――いや、その……たるんでるだけ、ですから…」
 イルカは上忍と目を合わさないようにして、俯いたまま膝の上で両の拳を握りしめた。どうやらあまり今日一日のことにあれこれ触れられたくないらしい様子に、カカシはどうしたものかと途方に暮れる。昨夜思い余って一歩踏み込んでしまったことが、彼に何らかの悪影響を及ぼしている気がするのだが、違うのだろうか。

「イルカ先生はよォ、あれもこれも、何もかも全部頑張りすぎるんだってば!」
 その声に二人が振り返ると、尻を押さえたしかめ面の少年が、三人の「同志」と共に立っていた。
「ナルト…」
「先生がなーんも言わずに全部やっちまうからよ、里のみんながチョーシにのってんだ!」
「そ、そうだコレ! ちょっとはイルカ先生がいないタイヘンさをおもい知ればいいんだコレ!」
「イルカ先生がやってることには面と向かって反対しねぇくせによ、裏でコソコソ文句言ったりしてるヤツとか見っと、すっげぇムカつくんだってばよっ! だから…だからイルカ先生には悪ィとは思ったけどよ、朝薬買いに来てた先生呼んで、そのままオレんちで寝ててもらったんだってば」
(はーーそういうこと〜?)
 どうやら中忍以上が対象だとばかり思っていた、今回の「綱紀粛正に端を発した騒動」は、下忍やアカデミー生の間にまで広く飛び火して、思わぬ波紋を広げていたらしい。

「ん、そうだな、ナルト。お前の言う通りだ」
 あなたも、そう思いません? と、ベッドに腰掛けていたイルカの方を振り向くと、自分の置かれていた立場や周囲の反応には以前から十分気付いていたであろう中忍は、目の下に隈をつくりながらも、静かで柔らかな困り笑いをした。


 結局昨夜のイルカは、カカシと別れてから暫くすると、どういうわけか急に酷く悪酔いしたような感じになって殆ど眠れず、朝にはたった三杯の酒から重い二日酔いになっていて、仕方なく午前中だけ休むつもりで伝鳥を飛ばしたのだという。
「でもうっかり二日酔いの薬を切らしてたんで、死んだ気になって買いに行ったんですが…」
 もう大丈夫ですから帰りますね、といって立ち上がったイルカが、至極きまり悪そうに経緯を話し始めている。
「店から出てきたイルカ先生が、マジでぐあい悪そうな顔してたからよ、すぐ近くのオレんちにきてもらったってわけよ!」
「でもまさかこんなに深く寝入ってしまうとは思いませんで…。お恥ずかしいです」
(なるほど、それでまんまと中忍拉致が成立したって訳ね)
 あれこれ必要以上に勘ぐって神経をすり減らしていたのは一体何だったのかとも思うが、イルカさえ無事ならそんなことは最早どうでもいいことだ。
 ナルトの家のドアや壁が落書きやバリケードで大変なことになっているのを見て、最初は「早く元に戻すんだ!」ときつく叱っていたものの、最後には「色々ありがとうな」と四人の頭を優しく撫でている中忍をひとしきり黙って見守る。
「さてと、じゃあ帰りましょうか。んーと、イルカ先生には、念のためにこいつらを付けておきますね」
 ボン、と煙が上がると、そこには大小様々な毛並みの犬がずらりと座ってじっとカカシを見上げていた。元々動物好きなイルカは、早くも沈んでいた表情を和らげている。
「でも…」
「まっ、遠慮しないで。オレはちょっと用事が出来たんで出掛けてきますけど、たまにはそいつらの散歩の相手でもしてやって下さい。家まででいいですから」
「は…あ?」
 カカシは病み上がりの中忍にまんまと屈強の番犬達を押し付けると、「じゃ、後で回収に伺いますね」とだけ言い残してその場を後にした。
 正直なところ、何となく今のイルカとは面と向かって話しにくくて思わず逃げてしまったのだけれど、彼はそのことに気付いただろうか、などと思いながら。




「ぁ? なんだ、お前か。何の用だ? 次の任務に就きたいんならたんまりとあるが?」
 書類の山に埋もれた相変わらずの里長の前に立つと、カカシは「その、任務のことなんですがね」と早速用件を切り出した。
 まずは、今回の風紀委員による指導がどれほど同志達の反発を呼び、綱紀粛正が逆効果になって水面下で厄介なことになっているかを説明する。もちろんイルカの力のことには一切触れなかったが、以前自分が何の気なしに弟子に仕掛けた千年殺しなるもので皆が決着を着けるべく睨み合い、終いにはナルトやアカデミー生にまでその余波が及んでいると聞くと、あの金髪少年にひとかたならぬ思いを抱いているらしいくノ一は、「そうか…アイツがイルカをねぇ」と声のトーンを落とした。
「――資金不足で復旧作業の人手が足りないということでしたら、現役を退いた者達をもう一度募る、という方法もあります。今この瞬間も、同胞達は任務だけは何があってもきっちりこなすという暗黙のルールを頑なに守り続けてはいますが、ここはひとまず里長自らに事態を収拾して頂いて、平時に戻しておく必要があるのではないでしょうか」
 しかしカカシが全てを話し終わると、それまで黙って一部始終を聞いていたくノ一が一呼吸置いたと思った瞬間、凄まじい勢いで雷が落ちてきた。
「…こんの……大馬鹿者どもがァーーッ!!!」
 そのド迫力の剣幕は、今にも重厚な机を真っ二つに叩き割らんばかりで、予め予測していたこととはいえ、思わず口布と額当ての下でうっと顔を顰める。
「貴様らそんなに忙しいのなら、バカな事にうつつを抜かしてないで大人しく任務だけやってりゃいいだろうが! 任務「だけは」だとォ?! なに寝ぼけたこと言ってんだ、こなして当たり前だろうが! 偉そうなこと言ってんじゃないよ! この尻の青いガキ共がァーー!!」
 この状態で「今回のことは、長が必要以上に外見にこだわった反動です」などと言おうものなら何が起こるか分からないなと、カカシは早々に逃げを決め込んで黙って雷を受け続けていたのだが。
「…フン、どうせ無能な大名ほどそういう下らないところに目が行くんだろうがな。こっちの知ったこっちゃないね!」という言葉が聞こえて、ようやくそろりと目線を上げた。
「ろくな舵取りも出来ないような平和ボケした為政者どもが、その代償を払うのは当然さ。悔しかったら忍の必要ない世界を作ってみろってんだ。もし視察に来て余計なことを言いだしやがったら、二度と行こうとなんざ思わないように、里の復興費を根こそぎふんだくってやる!」
 きりりと吊り上がった大きな瞳と目が合うと、小さな赤い唇が片側だけきゅっと持ち上がった。



(――ま、わざわざ避雷針になりに行っただけのことはあったか…)
 だがカカシが一礼して踵を返そうとすると、背後から捕まえるようにして、気持ち穏やかな声が掛かった。
「カカシ。お前ともあろうもんが、そんな千年殺しとかいうバカな遊びを、一体どこで覚えたんだい?」
「…はぁ? 中忍時代、写輪眼は使えなかったのに、そういうのだけは得意なヤツが班にいまして。よく先生も加わってやってましたし」
「――はー、ったく…男のガキってのは、どうしてそんなしょーもない遊びが好きなんだろうねぇ?」
 呆れてものが言えないという様子で、里長はマニキュアが塗られた赤い指先を、顔の前でぷらぷらと振っている。
「多分――大人の女には、分かりませんよ」
「あ? 何か言ったか?」
「いいえ。…ではこれで」




「あはっ…な、なんというか…」
 イルカが夜の街を歩きながら、思わず声を上げた。周囲を行き交う人々はみな、イルカの方を物珍しそうにちらちらと見ながら通り過ぎていく。
「犬との散歩は嫌いかの?」
 自身は歩いておらず、ちゃっかりとイルカの懐に抱かれている小さな犬が見上げる。
「いえ。とっても楽しいです」
 周囲を大小七匹もの犬がぞろぞろと付いて歩く様子を、歩きながら何度も何度も見回している。その表情は、先程の沈んだ様子からは幾分浮上してきているように見えなくもない。
「のう若造。同じ寒い夜道でも、一人で歩くのと二人で歩くのではまるで違って感じられるのは、何故なんじゃろうな」
「え?」
 しかし見下ろした懐の犬は、周囲の犬達と同様、風の匂いを嗅ぎながら油断無く周囲の気配を伺って明後日の方を見ている。
「そういえばカカシはさっき、随分と一生懸命お主を探しておったようだぞ。余りに必死な顔をしとるから、最初てっきりSランクの任務かと思うたわい」
「ぇ…カカシ先生が…?」
「私的なことで拙者を呼ぶなとあれほど言うておるに。いつまで経っても半人前じゃわい」
「…………」
 そのまま何も喋らなくなってしまった男の顔を、垂れ目の犬がちらりと見上げると、それまでこちらを見下ろすことの多かった男の顎が、ぐいと上がっている。

(例えどんな若輩者であっても、未来を見ている見目形とはそれなりにいいもんじゃな)
 外套のすぐ向こうにある男の心の臓が急に早くなって高鳴りだすのを間近に聞きながら、小さな忠犬は目を閉じた。












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