「――はあぁーーー…」

 長いことにらめっこしていた書類から目を離すと、勝手に腹の奥から長い溜息が出た。閉じた瞼の上から目玉をぐりぐりして、しょぼついた目でフロアの時計をチラと見やる。
(――ついてねーなぁーー…)
 途端、ずっと張っていた気持ちがぷつんと途切れた。椅子の背もたれに重い体を預けたまま、ぼんやりと天井を見つめる。既にフロアの照明は殆どが落ち、頭上しか灯っていない。そいつに向かってまた溜息。周囲にも人気は無し。構うものか。こうなったら溜息オンステージだ。
(あーあ、ホント、ついてねぇ!)
 いつの間にか時計の長い針と短い針が、12のところでぴったり重なろうとしている。本当なら、本当なら俺だって今頃あんな風に出会いをモノにして、ウキウキしながら家路についているはずだった。
 今日はひと月も前から同期の連中と楽しみにしていた合コンの日だったのだ。なのに上司の気紛れというのは、そういう時に限って発動するものらしい。
(明日の朝イチまでなんて、無茶言うぜ…)
 思えば数日前からついていなかった。朝皆と一緒に頼んだはずの弁当が、なぜか昼になっても自分の分だけ届かなかった。仕方がないから定食屋に行ったところ、目の前で白飯が無くなって、かやくご飯しか選べなくなっていた。昨日は昨日で、仕事帰りに駅前のお気に入りのラーメン屋に立ち寄ろうとしたら既に満席で、「また来ます」と踵を返した途端、店の前にズラリと並んでいた違法駐輪の自転車を膝蹴りしてしまい、30メートル向こうまで一台残らずきれいに将棋倒しにしてしまっていた。
「すいませんすいません、俺やりますんで!」と、膝の痛みを堪えながら、店を出入りしている客を横目に見ながら汗だくで起こしたお陰で、今日はあちこち筋肉痛だ。
 そうして今朝は、たまたま出掛けに目にしたTVの占いが最下位だった。しっ、信じてないけどなっ!(この期に及んでも)
「ぅあぁくそーー!! 絶対終電までに終わらせるぞーーっ!!」


   * * *


「――って、なぁーーにが終電までだよ、たぁく…」
 全ての作業を終えて、上司の机の上に資料を揃えて置いた時。見上げた時計の針はすっかり離れきって、俗にいう未明を示していた。いや、データなら終電前に出来上がっていた。なのに出力の段階になって、まさかのプリンタートラブルに見舞われ、今の今まで手こずってしまっていた。最早そうなると、入社三年目の平社員に、電車とバスで一時間半かかる家へ深夜料金のタクシーで帰るという選択肢はない。
(仕方ねぇ。どっか泊まるかぁ…)
 今しがた提出した資料は、明日の朝、課長と出向いた先で自らも使うものだ。まさか作るだけ作って一人遅刻するわけにもいかない。しょぼつく目を瞬かせながら、再びモニタに向かった。


   * * *


「あのーすみません、電話で予約した海野ですけどー?」
 半分ほど照明が落とされた薄暗いフロアを横切り、静まりかえったフロントの奥に向かって声を掛ける。と、すぐにベテランらしい雰囲気を纏ったフロントマンが出てきた。
「はい海野様、お待ちしておりました。ではこちらにお名前とご住所をお願い致します」

 結局、会社から徒歩圏内のビジネスホテルに泊まることにして、ネットで調べたよさげな所に連絡を入れ出向いていた。値段だけ見れば他にももっと安く、近い所もあったが、『近くの姉妹ホテルに24時間入れる無料の大浴場あり』という記述に、一も二もなくここに決めていた。今日一日、いやこの数日間、色々あった中で頑張ってきた俺にご褒美だ。浸かるぞ〜。風呂から上がっても、徒歩二分ですぐに寝てしまえるのだ。通勤電車に揺られなくて済む分、翌朝も頑張って起きて、朝風呂も入って…と夢は膨らむ。

「――あのー、ひとつ聞いていいですか?」
 住所と名前を書いて支払いを済ませ、鍵を受け取った所で、フロントに来た時から何となく気になっていたことを口にする。
「はい、なんでしょう?」
「いやその…、これって、何かな…と?」
 そう、先ほどからカウンタの上に、黄色い塩ビ製のアヒルの玩具の写真がこれ見よがしに掲げられていて、一体何の意味があるのかと不思議に思っていた。普通そこは、『御用の方は押して下さい』とかいう札が、呼び鈴と共に置かれているスペースだ。しかもその写真の下には、ご丁寧にも『一匹50円』とある。
(アヒル…買うのか?)
 この、ビジネスマンしか泊まらないような場所で? 誰が?? 何のために〜??
「いえ、特に意味はございません。洒落でございます」
「しゃれ……はあ、そうなんですか〜」
 フロントマンのひどく真面目くさった返答と、キッチュなおもちゃのアヒルとの対比が、勝手に顔を半笑いの状態にさせている。
「買う人って、居るんですか?」
「ええ、月に幾つかは」
「へぇーそうなんですか〜。――えと……じゃあ、ひとつ」
 ゃだってほら、そこまで聞いたのに買わないってのも変だろ〜? それに深夜二時なんていうとんでもない時間のチェックインに、何となく申し訳ないような気もしていて、気付いたら言ってしまっていた。昔からスーパーの試食販売は、買わずして立ち去れないたちだ。

「はい、お待ち下さい」と言って踵を返したフロントマンの横顔が、一瞬小さく笑って見えたのは気のせいだ。そうに違いない。


   * * *


「おぉ〜〜!」
 浴室のガラス戸を開けて中を覗いた途端、思わず感嘆の声を上げていた。姉妹館の大浴場というのがどんなものか、確認しないまま選んでいたが、これはアタリだ。間違いない。
(うへへへ〜、やった〜〜)
 脱衣室でいそいそと服を脱ぎながらも、湧き上がってくる笑みを押さえきれない。広くて清潔な浴室に人影はなく、広々とした大きなタイル張りの湯船には、たっぷりと湯が満ちている。一帯はビル街だから眺めのいい窓はないけれど、こんな空間を独り占め出来るなんてついている。残業よくやったオレ。今ではトラブったプリンタにすら感謝したいくらいだ。
(よーし! ならお前も行くか?!)
 フロントで受け取り、そのまま脱衣室まで連れてきてしまっていた小さなアヒルの腹をつまみあげると、「ぴゅう!」と一声、可愛らしく鳴いた。


   * * *


「ふああぁ〜〜〜」
 誰も居ない浴室に、魂まで抜け出そうな自分の溜息が響き渡る。あぁ満足。一人で浸かっているのが申し訳ないくらいだ。
(どうだー、お前も気持ちいいだろ〜?)
 さっきから水流に乗って、広い湯船をすいすいと泳ぎ回っている黄色い相方を見る。ふと、(そういや自分の古いアルバムに、こういう玩具を沢山湯船に浮かべて遊んでる写真があったな)と思いだしていた。そこにはカラフルなバケツやスコップの他に、イルカの口に付いた紐を引っ張るとカタカタと泳きだす青いオモチャや、この黄色いアヒルも浮かんでいた。思えばあの頃から全くデザインが変わっていない。
 とその時、バタンとガラス戸の閉まる音がして、ハッとしてそちらを見た。まさかこんな遅い時間に入浴客が来るなんて思ってもみなかったが、その辺はビジネス街といったところか。タオルで腰まわりを隠した背高い男が一人、慣れた様子で手早くシャワーを浴びている。
(ふうん?)
 ただその容姿が、全くらしくない。湯気のせいでなく、明らかに色白で滑らかな整ったルックス。ぎゅっと締まってすらりとした伸びやかな体。まだ頭を洗い始めたわけでもないのに、銀色に艶めく髪。てっきりこの辺はバリバリのビジネス街だとばかり思っていたが、モデル事務所なんてのもあったんだろうか。お、こっち来た。
(って、うはぁっ!)
 しまった、男に気を取られすぎて、すっかり黄色い相方の存在を忘れていた。「頭の毛が地毛かどうかは、下を見ればわかるな」などと余計なことを考えてる暇があったら、さっさと水中に沈めておけば股の間にでも隠しておけたのに。今やったらバレバレだ。
(うああー! 違うんですっ! 違うんです〜〜っ!!)
 湯船の縁に立った男が、水面をすいすいしている「先客」をじっと見つめている気配がするのを、ひたすら顔を洗うふりをしながらやり過ごす。元々熱めだった湯が、更に温度が何度か上がったように感じる。出たい。今すぐ湯船から跳び出して、頭から思いっきり冷水を浴びたい!
(あうぅ…こうなったら、ここの風呂に最初からあった備品のアヒルってことにして、上がり際にさり気なく置いていくとか?)
 そうだ、そうするしかない。許せ隊長、今暫くの辛抱だ。必ずや朝風呂で回収するからな。ここで待っててくれよ?
「こっ…こんばんわ」
 そうと決まれば、いつまでもそわそわしていては、余計に怪しまれる。湯船に入ろうとしているらしい男が腰のタオルを外した気配に、先手必勝とばかりに声を掛けた。社内で「オバサンと紙一重」などとも揶揄される俺のこの辺の人見知りをしない気安さは、営業職のなせる業か、はたまた持って生まれた性格か。
 だが無言のままの男が、返事のかわりに手に持っていたものをこちらに向かってポンと無造作に投げて寄越した瞬間、温まってすっかりほぐれていたはずの体がビシリと固まっていた。
(――え…ッ?!)
 湯けむりの中、うっかり二度見してしまったが間違いない。そいつはさっき、自分がフロントで50円玉と引き替えに手にしたのと全く同じものだ。
「ッ?! …お好きっ、なんですか、ソレ…?」
「んーー? 別に。アンタ好きなんだ〜?」
(なっ?! なんだとォーー?!)
 軽く軽蔑混じりのニヤけた目元と口元に、彼と入れ替わることでさり気なさを装いながら上がろうと立ち上がった体が止まる。
(こっ…、こいつ…!)
 突き放しやがった! ちょっとイケメンで、下の毛も銀髪だと思って突き放しやがった! いい年をした野郎同士、お互いのやり場のない気恥ずかしさを何とかしてオブラートに包むべく、勇気を振り絞って「ご同輩」ってことにしようとしたのに、あっさり、容赦の欠片もなく突き放しやがった!
(じゃなんであんたは持ってきてるんだよッ!)
 そもそも隊長を売っているのは、このホテルじゃない。ここから徒歩2分の別館のフロントだ。もし彼がアヒルの玩具に何の興味もないのなら、例え天文学的な数字の偶然が重なったとしても、好き以外の理由でここに浮いているわけがないだろう。
 そう、思うのに。
「やっ……、べつっ…、そんっ…」
 なぜか突然、己のでかいばかりの体が恥ずかしくなってくる。その膝裏に、すいすいと泳いできた黄色いアヒルがコツンと当たった。まるで「おい待てよ、おれを忘れてるぞ」と言わんばかりに。
「ねぇ、それお連れさんでしょ」
 そこに男の声が、憎たらしいほどのタイミングで被さってきた。ええぃやかましいわッ!!
(しかもなんだよ、「お連れさん」て)
 あろうことかその声に導かれるようにして、二匹目のアヒルまでがぷかぷかと足下に泳ぎ寄ってきた。
(ふっ、そうか)
 カルガモの親って、こんな気分だったんだな?
「……ぷッ、あはははははっ!!」
 あぁダメだ、とてもじゃないけど黙ってなんていられやしない。
(ぶはははっ、あんたっ、この状況でっ、よくそんなすっとぼけたボンヤリ顔してられるなぁ〜?!)
 言わないけど尊敬するよ。やるなぁ、あんた。
「えぇはい、そうですよっ、いいトシして、風呂にまで連れてきちゃいましたっ!」
 俺なんて、照れ臭さと出所不明の可笑しさで、すっかり茹で上がってるってのに。




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