「――それでね、ようやく出力まで漕ぎ着けたってのに、今度はお約束のインク切れと、原因不明の紙詰まりですよ〜」

 湯船から上がって浴槽から一番近いカランの前に座り、まずは体から洗い始めている。いつもは頭から洗うのが習慣だけど、話がしづらいから今夜は特別シフトだ。さっきまでの俺の気恥ずかしさは、シェイクした直後の炭酸水みたく頭の栓を突き破って夜空高く抜けていったから、もう何を話そうが大丈夫だ。
 ただ彼からしてみれば、なんの縛りもなくなった俺の勝手気ままなお喋りに、無理やり付き合わされてる気分かもしれないが。
 ちなみに俺の「お連れさん」は、目の前の鏡のところに置いた。こうして改めて見てみると、長い睫毛(2本)のつぶらな瞳といい、赤くぽってりとしたくちばしといい、二頭身の丸い体といい、意外と可愛い。なんだ、普通に和むじゃないか。

 激務だった一日の終わり。くたくたになってようやく何とか辿り着いたビジネスホテルのフロントで、こいつと目が合ってつい買っちまうヤツの気持ち、あながちわからなくもないなと思う。
「で結局終電逃したし、まぁ明日も早いんで泊まることにしたんですけど、結構いいですよねここ。部屋も風呂も広いし」
「まっ、そーね。変なオモチャも売ってるし。妙な客も来るし〜?」
 瞬間、目の前に置いてあったその黄色いオモチャをひっ掴んで思い切り投げつけてやりたい衝動に駆られたが、風呂で掴み合いの騒ぎを起こした野郎どもの喧嘩の原因が、黄色いアヒルの玩具だったってのも泣ける。ここはひとまず穏便に、泡と一緒に流すことにして洗い始める。
「っ、ここには、よく来られるんですかぁっ?」
 諸般の事情から、ちょっと営業スマイルが引きつっているかもしれないけど、気にしないで欲しい。
「ま、そーね。オモチャ持ってきた客は初めて見たけどね」
(はあっ?!)
 大事な所を洗っていた手が止まった。
「そういうあなただって、持ってきてるじゃないですか!」
 意識せず返事に批判的な色が混じる。何だろうこの男の物言い。どうも上手く聞き流せない。同じことを新人部下のナルトが言ったならきっと笑って聞き流せただろうに、彼の言葉には何となく挑発めいたものを感じてならない。なんだかわざと人の気に障るように言ってるような。
「なに、悪い〜?」
「えっ、ゃっ?! ま…そりゃあー…わるかぁ……ないですけど〜」
 改めてそう訊かれてみれば、確かに「悪」ってほどでもない。けど。
(ったく…。へんな、人――)
 ――は、ひょっとして、俺……だったりする、のか…?
(ううむ、わからん)
 勢いよくシャワーを浴びると、今日一日の汗と「よくわからんこと」が混ざりあい、泡と一緒に排水溝へと流されていく。そうしてさっぱりした体でもう一度考えてみれば、こんなオモチャ一つで気まずい空気になっているのもやっぱり変で。

「あのー、お仕事は、何を?」
 思った時にはまた聞いてしまっていた。この男、俺を突き放しにかかっているとしか思えないのに、なんでか放っておけない。俺ってよっぽど疲れているんだろうか? 実はもう赤ん坊並に眠い? それとも単に、バカなだけなのか? だろうな?
 頭の上でわしわしシャンプーを泡立てながら、湯船の方をチラと見る。と、湯船の縁の大理石にべったりと白い上半身を凭れさせた男が、頭の上に黄色いアヒルをちょこんと乗せていて、瞬間吹いていた。
(っくくく、なんだよそれぇ〜!)
 指さして笑いそうになるのを必死の思いで堪えながら、慌ててシャワーで頭を流す。わざわざそんな姿を俺に見せて、一体どうしたいんだか…ってえぇ?! もしや今のは、笑って突っ込んで欲しかった…のか?! この男の考えてることは、本当にわからない。
 しかしいい年をした、しかもそこそこ鍛えてるらしいガタイのいい成人男性で、こんなにもキッチュな鳥の巣が馴染む奴もそうはいないだろう。イケメン恐るべしだ。
「っ、モデルさんか、何かですか?」
 それとも芸能人だったりするんだろうか。おう、あり得るな。
「ん〜そう」
「はぁー、そうなんですか〜」
(やっぱそうかぁ)
 とはいえ、仕事関係以外の全くの異業種相手では、何から聞けばいいのやらだ。あぁそろそろ会話も終了かと思った時だった。
「こいつ、似てるね」
 男が頭の上に乗せていたアヒルを指先でつまんで、しげしげと眺めている。
「なにが、ですか?」
「なにって、そりゃアンタに。決まってるでしょ。目ぇまん丸くするところとか、ホラ、そうやってすぐに唇とんがらすとことか」
「ハイハイ、ピーピーうるさく鳴くところとかっ」
「あー。それもそうね? 確かに〜」
 言って丸っこい胴体をきゅっと押さえると、隊長が驚いたように「ぴぃーーっ!」と鳴く。
(いやだから、そうじゃないだろ?)
 その返事はフツー、風呂でたまたま出くわしただけの初対面同士なんだから、『いやいや、そうは言ってないでしょ〜』だろ?
(たぁく、アンタの口癖まで覚えちまっただろうが〜)
 思うのにぜんぜん突っ込めない。ちょっぴり顰め面のまま、ただヘラヘラと笑う。だって、なぜだかとてもリラックスしてて、そう…不思議と、楽しい。


 俺はその後も絶好調で話した。もう異業種とかイケメンとか関係なかった。こちらが話を振ると、彼は「さあー」とか「まっそーね」という曖昧返しを基本としながらも、時折隊長とグルになって俺を「ピィーー!」と茶化した。そうなるとこっちも茶化されっぱなしじゃあとムキになるから、洗いながら浸かりながらまた話を続ける。
「うーんそうかぁ〜一口にモデルって言っても、それこそ色々なんだなぁ……ってあれ?」
 今の今まで湯船の縁に凭れていたはずの男の姿が忽然と消えていて、きょろきょろと辺りを見回す…がいない。何となく気になって、脱衣室の方まで覗いてみる、と。
「…えっ? ゃあの、大丈夫ですか?!」
 脱衣室の籐の長椅子に、素っ裸のままぐったりと伏してしまっている男に、驚いて声を掛けた。目のやり場に困るほど白かったはずの全身が、隅々まで熟れた桃みたいに染まっている。
 慌てて「救急車呼びますか?!」と聞いたが、小さく頭を振ってそこまでは必要ないという。どうやら長湯しすぎたらしい。
「…うう…アンタ話長すぎ…、…あぁもぅ……あつぃ……しぬ…」
「なっ、それ俺のせいですか?!」
「そーでしょ〜…」
(うわぁー肯定したよ)
 なのにまだ何となく口元が笑いの形になってしまいそうになるのは、このとぼけた男のせいなのか、それともアヒル連れのなせる業か。
「あなたの限界なんて俺がわかるわけないじゃないですか。子供じゃないんですから」
 一応通り一遍のことを言ってはみたが、このまま放っておくのも気の毒だ。来客用の湯上がりタオルを持ってきて、大事な所に掛けてやる。と、男は「水が欲しい」と言い出した。すぐにコップに水を汲んで顔の側に置く。すると、冷たいタオルを複数枚所望。これも絞った冷たいやつを額と首に置く。更に「あれ、つけて」と言われるまま扇風機を回し、「枕代わりのもの頂戴」という要求に、考え考えしながら丸めたバスタオルを頭の下に敷いた。
「でっ、次は。まだ、なにか?」
「――よく冷えたビールと……枝豆…、あと茄子の煮浸し…」
 知るか。バカ。
 即座に背を向けるや、浴室に起きっぱなしだったタオルと隊長を回収し、男に背を向けたまま体を拭いて着替え始めた。
(たぁく…)
 どうやら熟れた桃になってもまだ、右手に黄色いアヒルを握り続けていた男に、うっかりおかしな仏心を出してしまっていたらしい。こんなでかい桃男を担いだまま、果たして姉妹ホテルまで歩いて戻れるだろうかなどと、一度でもシミュレーションした俺がバカだった。
「――じゃ、お先に」
 男の気配をよそにさっさと着替え終わると、頭も乾かさずに大浴場を後にした。
 その際、彼から何かしらの返事があったかはわからない。


   * * *


(はあーー食ったら寝よ寝よっ)
 すっかり人気の無くなった深夜のビル街を、コンビニで買ったおにぎりと缶ビールと替えの下着をぶら下げて歩く。店内では不覚にもさっきの言葉が耳元に蘇ってきて、うっかり枝豆や茄子を探してしまったが、置いてなかった。その際、(もしやあの発言て、これから呑もうとかいう彼なりの遠回しな誘いだった…?)などという考えが唐突に脳裏を過ぎったが、まさかなと即座に打ち消した。こっちは明日も早いのだ。とても付き合ってなどいられない。まともな晩飯はすっかり食べ損ねてしまったが、風呂には入れたのだ。今夜はこれを食べて寝る。明日の成功のため、今夜はとっとと寝るに限る!



   * * * 



「失礼しますっ!」
 待合室から出て、課長の後ろに続く格好で社長室へと通されるや、しゃっきりと一礼した。今までいた待合室には、一般的には社長室に置かれるような高価そうな鉢花があちこちに飾られていて、まるでリゾートにでも来たような気分だったが、なかなか粋なことをする会社だ。商談が上手くいって、今後もいい関係が築いていければいいのだが。
 今回の営業先は、最近になって急速に頭角を現してきたベンチャーだが、勿論ここに来るまでに、プレゼンに関しては入念に打ち合わせた。終電逃してまで資料作りしたのだから完璧だ。任せて下さい課長、俺今度こそ上手くやりますから。そうして「お荷物部署」の汚名を今度こそ晴らしましょう!

(うわ、すっげぇ…)
 頭を上げたところで、社長室のモダンで高級感のある洒落たインテリアに、一層気持ちが引き締まる。案内の女性に勧められて腰を下ろしたが、飛ぶ鳥を落とす勢いの企業は、ソファの座り心地からして違うんだな…などと、おかしなところに感心していた時だった。
 社長室に通じる別のドアが開き、人が入ってくる気配に、課長と同時に起ち上がった。瞬間。
「――ぴィっ?!」
 喉の奥から、かつて自分でも聞いたことのないおかしな声が飛び出した。怪訝そうにこちらを見た課長が、しきりに「おい、しっかりしろ」と合図を送っているのがわかる。それでも、目の前の男から目線を逸らすことが出来ない。
(やっ?! だっ?! ああああんたーーッ?!)

 夕べすました顔をして、「職業はモデルだ」って言ったクセに!
 俺一人をネタにして、「アヒルの玩具なんて興味ない」みたいなこと言いながら、人のこと散々笑った挙げ句に思いきり湯あたりしてたクセに〜〜っ!!!

「どーも、初めまして。――代表取締役社長の畑です」
 目映いほどの銀髪男は、にこやかに、そして憎たらしいほど爽やかにそう挨拶すると。
 白い指先で社長机の端にずらりと並んだ黄色いアヒルの玩具を一つつまみ上げ、顔の横で「ぴゅうぅ!!」と高らかに鳴らした。




                   「アヒル隊長っ!」 おわり


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