港に車が入っていき、ずらりと並んだボートの一隻に近付いていくと、それまであーだこーだと初ボートダイビングに怯えている俺のことを話の肴にしていた人達が、一斉に片足を上げて前のシートを蹴るような格好をした。
「? なんですか?」
 言った途端、急ブレーキと共にドゴッともの凄い衝撃が来て、吹っ飛ばされた俺は助手席のシートに嫌と言うほど顔面をぶつけて跳ね返る。
「――…いっ…た…」
 両手で顔を押さえてうずくまったが、ちょっと待て、毎回毎回彼女だけドッカンって、一体何の意味があるんだこれ?! なんかわざとやってる臭いんだけど、ふざけるにも限度ってものがあるぞ、危ないじゃないか!
「へへへ〜撮ったよー」
「まだまだ修行が足りんぞ! 精進することだな!」
「大丈夫、鼻血は出てないわ」
「だってよ」
 しかし完璧な防御のうえ、何ごとも無かったかのようにけろっとして車を降りていくみんなのリアクションに言葉を無くす。ぼんやりと窓の外を見ていたはずのあのクールなカカシさんでさえ「その瞬間」は足でもって事前制動をかけていたなんて。
(――もう…なんて…へんな、ひとたち)
 顔が痛くてぼろぼろ涙が出てるのに、変な風に口元が歪んで困った。


「わ、これがお店の船なんですか?!」
 岸壁に着いている一艘の和船にカンクロウさんが乗っていて、俺は歓声を上げた。
「あぁ、正確にはオレの船。カラス丸だ」
 言ったカンクロウさんの横顔が、心なしか誇らしげに見える。その船はどこもピカピカで錆び一つなく、とても大事にしているらしいことが一目で分かった。
 その横では人数分のタンクと器材を運び込む作業が始まっている。初日に食器を片づけるみんなの手際の良さに驚いたのだけれど、それはダイビングを通してごく自然に身に付いた、彼らにとってはごく当たり前のことだったのだと分かった。一本15キロ近くもあるスチールタンクや、メッシュバックに入った重器材を、目の醒めるような鮮やかな連係プレーでもって次々と船に運び込んでいく姿に、俺は手伝うのも忘れて思わず見入ってしまう。
 特にアスマさんの「タンク4本一気運び」には呆気にとられてしまった。まるでペットボトルの水でも持っているかの如く軽々なんて信じられない。タンクを一本背負っただけでよろけている俺とはえらい違いで、同性として正直ちょっと恥ずかしくなる。
 船尾で待ち構えているガイさんがそれらを一本ずつ受け取り、更にアンコさんがそのタンクを横に倒して三角に積み上げていく。
 船首の方ではカカシさんがメッシュバックを一つずつ紅さんに手渡していて、彼女が各々の場所に配置をしている。俺のレンタル機材は、紅さんとアスマさんの間に置かれた。それらの準備が整うまでの間は僅か数分だったと思うけれど、阿吽の呼吸という言葉がぴったりの胸の空くような光景に、いつまでも眺めていたいような気分だった。

「なんていうか…カッコイイ、ですね」
 結局自分はどこに入って何をしたらいいのかが分からなくて、岸壁に突っ立ったまま隣に来たテマリさんに呟く。
「だろ? 別にあたしらがこうしろって言った訳じゃないんだけどね。最近じゃ他の客も真似しだしてくれてて、忙しい盛りなんて大助かりだよ。ウチの自慢の客さ」
 両手を腰に当てて船を見下ろしている彼女の横顔も、とても誇らしげだ。
(よし! 明日からは俺も何か一つ役割を見つけるぞ!)
 股裂きにならないよう気を付けながら、俺はとても晴れやかな気持ちで船に乗り込んだ。



 操舵室にカンクロウさんが立つと、テマリさんが岸壁に括り付けていたロープを外す。岸壁に船が直接ぶつからないように保護の役目を果たしていた丸いゴム製のクッションを、カカシさんとガイさんがそれぞれ船の内側に取り込むと、船はコンクリート製の岸壁を離れてコバルトブルーの沖へと船首を向けた。

「うわぁ、気持ちいいーっ!」
 船が港を出てスピードを上げ始めると、慌てて後ろをきつく締め直したキャップが座っていても飛ばされそうなほどの風が、真正面から勢いよく吹きつけだした。一度括っていた髪をほどき、風上に向いたままもう一度高く括り直すと、気分はより高まりながら引き締まっていく。
 船底が弾いて巻き上げる真っ白な水飛沫が大きな羽のように左右に広がり、まるで海の上を飛んでいるみたいだ。飛沫は無数にきらめきながら風に乗り、時折火照った体にもざあっと振りかかってきて、それが何とも言えず気持ちがいい。
「虹が! ほら虹が出来てる!」
 斜め前にいるガイさんの後ろを指さす。高く上がる真っ白な飛沫と共に、さっと生まれたり消えたりしている鮮やかな七色を振り返って見たガイさんは、俺に向かって右手を突き出すと、ニッと笑ってぐいっと親指をおっ立てた。
 その横ではアンコさんのカメラがこちらを向いている。俺はガイさんのポーズを真似て撮って貰う。カカシさんは船の縁に肘を乗せて、じっと沖の方を見ている。うっかり草履なんかで叩いてしまったことを改めて申し訳なく思うほど、潮風になびく銀色の髪と横顔がきれいだ。左隣りの紅さんは、日焼け止めの塗り直しに余念がない。右隣のアスマさんはと見ると、自分のメッシュバックの外ポケットを探って防水ケースを取り出し、中から煙草とライターを出している。

 めいめいの夏があって、それぞれのダイビングがスタートしている。自分はその隅っこに偶然にも居合わせてしまっているらしいのだけれど、これが本当に現実なのかどうか、実際こうして船に揺られながらも、何だかまだ信じられないような気持ちだった。



「よし、じゃあ用意して!」
 暫くのち。
 ボートのエンジン音が少し静かになり、海の真ん中にぽつんと浮かぶオレンジ色のブイにゆっくりと近付いていくと、テマリさんが張りのある声を上げた。と、それを合図に皆一斉に立ち上がってタンクのバケツリレーを始める。俺も慌てて仲間に加わるが、船が止まっても波で微妙に揺れ動く甲板で重いものを持ちながらバランスを取るというのは、思っていたより難しくて戸惑う。

「ポイント名、魚時雨! 最大水深27m、潜水時間40分、アンカーダイビング。エントリー後ブイ下集合。見られる魚はツバメウオ、アカククリ、ヨスジフエダイ、タテジマキンチャクダイ他数十種。運が良ければカマスとロウニンアジ、以上!」
 カンクロウさんが急にぴりっとした声を張り上げた。どうやらこの足の下一帯の説明をしたらしいのだけど、周囲ではみんなが一斉に器材をタンクに装着し始めていて、それを見て既にテンパッてきている俺には、一番最初の『うおしぐれ』しか聞こえてない。
「ええっと…あの、俺も…?」
 恐る恐るテマリさんの顔を見る。
「そう、あんたもだよ、さぁ一人でセッティングしてみな。やれるだろう?」
 それだけ言うと、テマリさんはフィンとマスクだけを付けて鋼鉄製の大きなイカリを掴むや、まるで器械体操のフィニッシュみたく船縁を蹴ってザンと海に飛び込んだ。
「えっ?!」
 慌てて船縁から乗り出すようにして水面を見下ろすと、大きなイカリに引っ張られながら、もの凄いスピードで真っ青な海の底へと一直線に消えていく薄紫色のウェットスーツが微かに見え、すぐにブルーの中に掻き消えた。
「テマリさん!」
 まさか船のイカリを持ったまま、人間が素潜りで海底に引っ掛けに行くなんて。タンクも背負わず、シュノーケルも付けずに、あんな猛スピードで沈んでいって耳とか息とか大丈夫なんだろうかとハラハラしながら覗き込んでいると、やがて無数のクラゲみたいな泡の下からゆっくりと浮上してくる黄色い髪が見えてきて、全身からくたーっと力が抜ける。
(す、すごい…)
 なんかもう、この人達となら例え水中でどんなことが起こったとしても大丈夫だって気がした。
「こらそこ! 感心してる暇があったら機材セッティング!」
「あ、はい!」
 水面に浮上したテマリさんに真っ先に指さされた俺は、大慌てでメッシュバックのファスナーを開いた。



「…えーと、あの、これで…良かった…かな?」
 もうあとはマスクを下ろして海に入るだけ、という完全装着状態の7人に周囲からじーっと見つめられて、俺はすっかり浮き足だったワタワタ状態で機材の装着をしていた。とにかく他のみんなは信じられないくらい手早くて、しかも抜群のバランスと力でもって機材をいとも簡単に背負う。
 逆に俺はというと、タンクのセットを何回もやり直した上でようやくOKを出して貰い、更にそれを背負う段階になって「たっ…立て、ない…ッ!?」と、散々大騒ぎした挙げ句、ようやくみんなと同じように船縁に腰掛けることが出来ていた。
「すっ…すみません、お待たせしましたっ!」
 もう海に入る前からみんなの足を引っ張ってしまうなんてと、恐縮ですっかり体は縮こまっている。
「じゃあいよいよ海に入るよ! ちなみに海から上がるのをエキジットと言うが、入るのは?」
「えッ?! …ント、リー…?」
 テマリさんに急に訊ねられて、どぎまぎしながら答える。
「そう。ここではまず色んなボートエントリーを見てもらう。そのために今回は皆にエントリーを待って貰ったからな、よく見ておきな。じゃあまずガイさん!」
「よーしッ! イルカッ、オレの華麗なるダイナミックエントリーをしっかとその目に焼き付けておくのだぞ! では友よ、海底でまた会おうッ!!」
 真っ白い歯をキランと陽光に輝かせ、ガッと立ち上がるや船べりにフィンを履いた足をかける。次の瞬間「トオーー!」と威勢良く叫んで船縁を蹴り上げると、ガイさんは往年の変身ヒーローがやってたフライングキック状態のまま、大量の水飛沫と共に盛大に着水した。
「見たか、あれが最悪のエントリー例だ」
「え゙?!」
「おー、今回はフィンとマスクが飛んだか〜」
 アンコさんがグローブをはめた手を額の前にかざすようにわざとらしく持ってきて、遠くを眺めるような仕草をしている。
「ええっ?!」
「まぁタンクが脱落しなかっただけマシだがな」
「えええ?!」
「ガイもほんっと物好きよねぇ〜。何でもああやって普段から無茶やってると、万が一本当に何か突発的なトラブルが起こったとしても慌てなくて済むからって、毎回何かしらやってるのよ。これも修行のうちなんですって」
「…はぁ……そうですか…」
 自分ではとても恐ろしくて真似出来そうにないが、参考にはなった。(のか?)
「じゃあ次、アスマさん!」
 ガイさんが水面に散乱した器材の再装着をして海底に消えると、テマリさんが振り返った。
「おうよ」
 全身真っ黒なウェットスーツに包まれた大きな体躯が、腰に8キロもの鉛をはめたウエイトベルトを付けていながら軽々と立ち上がった。フィンもブーツも真っ黒で、その姿は堂々としていて威圧感さえある。呼吸をするためのレギュレーターを銜えると独特の呼吸音がして、脳裏をダースベーダーが横切っていく。その彼の両足が器用に船縁に立つと、見る間に海に向かって大きく一歩を踏み出し、大きく足を開いた格好のまま海へと落ちていった。同時に上がる大きな水飛沫。
「――よし、今のがジャイアントストライドエントリーだ。手でマスクを押さえるのを忘れないこと。水に入った瞬間に足を一度大きく掻くといい」
「はい!」
「但し、このエントリー方法は場所を選んで行うこと。この程度の低い所からなら問題ないが、大きな船や高い桟橋からエントリーする時は、男はかなりキツイみたいだから気を付けな」
「……はぁ?」
「かなり痛いらしいよー、息子さんが」
 アンコさんがケラケラっと笑う。
「マジですか」
 既にこんなに緊張してるっていうのに、息まで出来なくなったらそれこそパニックだ。このエントリー方法はパスした方がいいかもしれない。
「じゃあ次は」
「はぁい、アタシ行くねー」
 アンコさんが手を上げると、紅さんが近寄っていって大きなストロボの付いたタカアシガニみたいなカメラを受け取った。いつもそうしているらしく、紅さんも慣れたものだ。
 手ぶらになったアンコさんはボートの縁に腰掛けたまま、レギュレーターを銜えてマスクを押さえている。直後チラリと背後の水面を見やったな?と思った瞬間。
「あ!?」
 オフホワイトと黒の水着に包まれた彼女の体は、そのまま後ろ向きで水面へと落ちていった。
「あれがバックロールエントリーだ。必ず後ろに誰もいないことを確認して、マスクを押さえてから入ること」
「ぇ…あ、はい…」
(うわー後ろ向きで落ちるのかぁ…)
 思わず心の中で尻込みをする。幾ら後ろが海でも、いや海だからこそ後ろ向きに頭から落ちていくなんて怖い、怖すぎる。ボートから階段を伝って足からゆっくり水中に降りていく方法とかないんだろうか? 少なくともこのエントリー方法はパスしたいな、などと思っている間に、アンコさんが水面に顔を出して紅さんからカメラを受け取り、またとぷんと水中へ消えていった。どうやらカメラは壊れやすい精密機械だから、一緒には落ちないらしい。
「主なボートエントリーの方法はこの二つだ。この船ではバックロールの方が向いてるからそっちをやって貰うよ」
「ええー?!」
「怖いってんだろ? 分かってるよ。でもアンタはまだ船の縁に両足で立つなんて無理だからな。座ったまま後ろにひっくり返る方がまだ安全なんだ」
 そして最後に「あんた自身にとっても、周りの人にとってもね」と付け加えられると、俺はもうそれに従うほかなかった。

 続いて紅さんが見せてくれたバックロールエントリーは、まるで人魚のそれみたいだった。後ろ向きに落ちて体を捻る際、真っ赤なウェットスーツに包まれた足がシンクロ選手みたいにすっと水面に出たかと思うと、白い足ひれが両足ともきちんと揃えられたまま、ちゃぷんと音を立てて波間に消えていく。
「――…はあぁ〜…」
 思わず感嘆の溜息が漏れるが、あんな優雅なことが俺に出来るわけがない。自分は本当にここに来て良かったんだろうか? 何だかすごく場違いな気がしてるんですけど?
「最後、カカシさんね」
 テマリさんが言い終わるや否や、もうカカシさんの体は後ろに倒れだしていた。青いフィンが一瞬翻るのが見えたなと思った直後には嘘みたいに小さな着水音と、僅かばかりの水飛沫が上がる。余りの行動の早さに、間違って後ろに落ちてしまったのかと思ったくらいだったけれど、幾ら水面を見つめていても細かな泡が見えているだけで彼の姿はチラとも見えてこないところを見ると、もう真っ直ぐに水底に向かってしまっているらしい。まるで高飛び込みの選手が、殆ど何の気配もさせずにぽちゃんと入水した感じとでもいおうか。でも正直なところ余りに呆気ないというか、気配の希薄すぎるエントリーに、内心派手でカッコイイ優雅なお手本を期待していた俺は拍子抜けだったのだけれど…。
「――へっ、流石じゃん」
 水面を覗いていたカンクロウさんがふんと鼻を鳴らした時、カカシさんがエントリーしたことで場が水を打ったように静まりかえっていたことに初めて気付いた。
「…あぁ、あの潜行の鮮やかさだけは未だにアタシ達でも真似出来ないからね。要するにあれは天才ってやつだけが持ってるセンスなんだろうさ。単に子供の頃から優秀な競泳選手だったってだけじゃ、ああはいかないよ」
「え?! カカシさんて、水泳の選手だったんですか?!」
 何だか今とても大事なことを聞いた気がして、思わず聞き返す。
「ああ、物心ついた時にはもうプールに浮いてたらしいよ。その後も混合メドレーの世界じゃ長いこと国内無敵だったらしいし、大学時代はアルバイトでライフセイバーもやってたっていうから? まぁレジャーダイバーの中じゃ、それこそ文句の付けようのない輝かしい経歴ってやつ、なんだろうな」
(――…ライフ、セイバー…?)
 俺はその言葉とぴったり符合する出来事を思い出して、急に胸の鼓動が高まるのを感じた。やっぱり俺を助けたのは満ち潮なんかじゃなく、カカシさんだったのだ。本人は知らないなんてしらを切っていたけれど、彼が溺れた俺を砂浜まで運んでくれたのだ。
(でも…そんなすごい技術と志しを持った人が、あんな風に海に入っていくだろうか? 泳ぐ気配なんて欠片もなくて、何もかも投げ出してるみたいに見えたのだけれど、気のせいだろうか? それとも泳ぎに絶対の自信がある人なら、あんなことも可能なのか? 俺の気配を背後に感じただろうに、無視し続けたのはなぜ?)

「ほら、今度はアンタだよ。イルカさん!」
「――えっ? あ、はい!?」
 いきなり声を掛けられてハッと我に返った。そうだ、バックロールエントリーをしなくちゃいけないんだった。みんなを海底で待たせてしまっているのだから、早くしなくては。
「…えと…ええっと…、じゃあこれで、いいの、かな??」
 船縁に座ってマスクを押さえ、BCといわれるジャケットに空気を少し入れて、真向かいに立っているテマリさんとカンクロウさんの顔を交互に見上げる。
「自分で考えな。今まで見てきた通りにやればいいのさ」
 何か言いたそうなカンクロウさんの隣で、テマリさんが腰に手を当てた格好で見下ろしてくる。
「ええ、はい……でも…」
 背後をチラと見やると、信じられないくらい透き通った一面のコバルトブルーが静かに揺れている。
「大丈夫だ。例えどんなベテランでも初心者でも、海は決して差別しないし裏切らない。必ずアンタをしっかりと受け止めてくれるよ」
「……ぁ…はい…!」
 その言葉に訳も分からぬまま何やらホッとして、不思議と勇気づけられたような気になる。
(うん、俺は浮けるんだ。絶対大丈夫!!)
 意を決して一つ大きく息を吸い、後ろに体重をかけた。と、すぐに重いタンクに体が引っ張られ始め、頭から真っ逆さまに水面に向かって落ちていくのが分かる。
(う、うわぁっ…!!)
 その着水の瞬間は目を固く閉じてしまっていた。自分の体重に30キロ近い重器材を装着した勢いはかなりのものらしく、かなり深くまで落ち込んた気がする。ゴボゴボという泡の音ばかりがすごくて、上も下も何が何だか分からない。でもとにかくまずは息が苦しくなってきたから息を吸おう――と思ったら!?
(息がっ、出来ないっ?!)
 それもそのはずだった。俺は緊張の余りレギュレーターを銜えるのを忘れたままエントリーしてしまっていた。カンクロウさんが何か言いたげだったのはこのことだったかと思うが、後の祭りだ。テマリさんだって気付いていただろうに、わざと言わなかった節がある。
(そ、それよりも、レギュレーターどこ…ッ?!)
 初めて固くつむっていた目を開けた。

「―― !!? ――」

 その瞬間は息をすることさえも忘れて、目の前の光景を食い入るように見入ってしまっていた。白い光のカーテンが眩しく燦めきながら射し込んでいく世界に、見たこともない景色が広がっていた。
 白い砂浜に幾つものテトラポットが積み重ねられて小山になった魚礁があり、その周辺を何百、何千という色も形も大きさも違う魚が気持ち良さげに泳ぎまわっている。まるで色紙を紙吹雪にして、命を吹き込む魔法でもかけながら一帯に撒き散らしたみたいだった。だってこんなに沢山のきれいな生き物が群れている世界がまだこの世にあるなんて、にわかには信じられない。ここが天国じゃないのなら、あとはもう竜宮城と呼ぶしか。
 そしてその魚達の向こうには、じっとこちらを見上げている5人の姿も見える。皆の口元からは時折ぷくぷくと泡が生まれていて、白い光のカーテンを突き抜け眩しく光り輝きながら、次々自分の回りへとさらさら浮いてきている。何だか彼らにおいでおいでをされているような、そんな気がした。

「――ぶはぁっ!」
「レギなら右手を大きく回してかき寄せな!」
 余りの息苦しさに大慌てで顔を上げると、すぐに船から声が飛んできた。ははは、やっぱりレギュレーターを忘れたのはバレバレだったか。
「はい!」
 黒いホースに繋がっている金属製の装置を口に銜えると、もう一度水に顔を着けた。いるいる、みんな海底で待っててくれている。魚達と一緒に、俺が行くのを静かに待っててくれている。
(ようし、行かなくちゃ! 早く行かなくちゃ!)
 よっと体を折るようにしてお尻を持ち上げ、頭を海底に向ける。確かこれで足を上げれば、器材と体の重みで紅さんみたくすいっと潜っていけるはずだ。
(みんなもう少しだけ待ってて下さい!)
 俺頑張りますから!
(――あれ? ……あれれ?)
 でもどうしたことだろう。どんなにお尻を持ち上げて海女さんみたく急降下しようとしても、すぐにプカプカ浮いてしまって一向に水面から下に行けない。自分は生まれてこのかた筋金入りのヘビー級金づちのはずだったのに、なぜかボートダイバーを目指した途端、フライ級のビーチボールにでもなってしまった気分だった。
(…よっ…、とっ…、あれ、潜れ…、ないっ…?!)
 長年体が水に沈んでしまうのが怖くてあれほど悩んでいたというのに、今度は沈めずに困る日がくるなんて思いもしなかった。それでも何とかせねばと水面でジタバタ暴れていると、海底でみんなが手を動かして何やら盛んにジェスチャーをしているのが見えた。きっとああしろこうしろと指示を出してくれているのだろうけど、悲しいかな彼らが何を言わんとしているのかが全く分からない。
(どどどうしよう、なんで沈めないんだ? 俺ってそんなにも軽かったのか?! 何を、どうしたらいいんだっけ…!?)
 とその時、水底からこちらを見上げていたカカシさんと、水中マスク越しにぱちりと目が合った。別に合わせようなんていう気は無かったと思うのだけれど、水中でも目立って艶のある髪色に引き寄せられるうち、ついつい目元を見てしまっていた。
(――え?)
 その遠くに見えていたはずの彼の姿が次第に大きくなっているような気がして、その素人目にも一切の無駄のないきれいな浮上の様子を凝視する。彼が吐いた泡が先に湧き上がってきて、次々と顔や首元をくすぐっては消えていく。理由なんて分からないけれど、彼が手を伸ばせば触れられるすぐ目の前に浮上してきても、視線がもつれでもしているかのように目が離せなかった。どういう訳か、今になって最高潮に心臓が高鳴っているのが分かる。ゆらゆらと水に揺らめく銀髪の向こう、マスクの奥にある彼の瞳は、一目で落ち着いていると分かる静かな色をしていて、そのままずっと見ていたいような気にさせられた。
 カカシさんは俺から片時も視線を外さずに、ゆっくりとした動作で自分の着ているジャケットに付いたホースを上に持ち上げる格好をした。彼の仕草はどれも常にゆったりとしていてきれいで無駄な動きがまるで無い。
(あ…、あぁそうか!)
 BCジャケットに空気が入っていたから沈めなかったんだと、その瞬間ようやく分かった。言われた通りジャケットから余分な空気を抜くと、体は嘘のようにスッと沈み始める。
(…うっ……耳が…)
 でも今度は幾らもしないうちに水圧で耳が痛くなってきて、慌てて足をばたつかせた。カカシさんに耳が辛そうな気配は全くないが、自分はここで一度耳抜きをしないとこれ以上は痛くて潜れない。
(いたた、待って!)
 カカシさんの目を見る。と、すぐに沈むのを止めて同じ目の高さまですいと上がってきてくれた。俺の左手を取ってこれ以上沈まないように支えてくれながら、右手で鼻をつまむ仕草をして「耳抜きをしろ」とジェスチャーで示してくれる。その間も些かも目線を外すことはない。
(陸ではなかなか目を合わせてくれないのに、ここではずっと見ていてくれるんだな…)
 彼の目を見ていると、怖いとか急がなくてはとかいったことに囚われずに不思議なほど落ち着いていられ、午前中の講習の時よりも遥かに耳抜きがスムーズに進んでいく。
 ふと気付いて周りを見回した時には、みんなのいるテトラポットの山の頂に、まるで月面着陸するみたいにふわりと軟着陸していた。
(やった! 出来たぞ! ボートからエントリーして、みんなの所まで潜って来れた!!)
 嬉しくて楽しくて、興奮の余りボコボコと盛大に泡を吐きながらみんなを一人ずつ見ていく。紅さんはぱちぱちと手を叩いている。ガイさんはこちらに向けて親指を突き出している。アスマさんは目が合った瞬間、うんと一つ小さく頷き、アンコさんはちょっと離れた所まで泳いでいくと、構えた水中用カメラのレンズの部分を、「ここ、ここ」と指さした。
(撮ってくれるんだ!?)
 すぐに分かった。すごい、すごいぞ! 水中でみんなと一緒に集合写真が撮れるなんて嘘みたいだ。いつの間にかテマリさんとカンクロウさんも集まってきていて、オレの周りにみんながぎゅっと寄ってくる。カンクロウさんの持っている磁石式のボードには、今日の日付と「ようこそ海へ」の文字、そして大口を開けて笑っているイルカの絵が上手に描いてあって、最初可笑しくて吹きだしたものの、何だかとても感激してしまった。
(ん?)
 それでもアンコさんがしつこく「もっと寄れ」のゼスチャーをしているなと思ったら、カカシさんが少し離れたところでぽつんと浮いているのが見えた。
(カカシさんも、一緒に撮りましょう?)
 思わずじっと目を見る。大袈裟な手招きをするより、とにかく彼の目が見たかったからそうしたのだけれど、俺と目が合うとカカシさんはふっと一度だけ足ひれを動かして、集合写真の輪にゆっくりと入ってきてくれた。
(良かった…)
 こうして無事みんなと海に潜れたことはもちろんとても嬉しいけれど、さっきまで陸で気まずい雰囲気だった彼と海の中でアイコンタクトが取れるようになったことも負けず劣らずすごく嬉しい。
(それとも、これって単なる自惚れ…か?)
 確かに自分だけが勝手に仲良くなれたと思っている可能性は高い。海の中では喋れないんだから、身振りか文字か、或いはアイコンタクトを取るくらいしか意思疎通の方法はないのだから。
(ともかく海から上がったら、草履のお礼言わなくちゃな)
 写真を撮り終わって皆が思い思いの場所に散っていったあと、一人で静かに太陽と魚の群れをじっと見上げている、きれいな後ろ姿を見つめた。


 そこから浮上するまでの30分間は、本当に夢の中にいるみたいで、瞬く間としか感じられなかった。俺はすっかり時間を忘れて、カンクロウさんに水中でのバランスの取り方を教わったり、片っ端から不思議な色や形をした生き物を指さしては名前を書いて貰ったりした。途中アンコさんが沢山写真を撮ってくれたのだけれど、ふざけたみんなが「これがもし陸上だったら重みでぺしゃんこになるだろうな」というくらい大勢で俺の上に乗っかってきても何の重さも感じずに色んなポーズが取れるものだから、サイコーに愉快で楽しかった。そんなの皆それぞれが水中にぷかりと浮いているから当たり前と言えば当たり前のことなんだけど、それでもまだ水の中にいることが何だか信じられなくて、でも腹の底からウキウキワクワクとして、俺はエアの減り具合をチェックすることも忘れて、レギュレータを銜えたまま何度もお腹の底から大笑いした。

 結局、カンクロウさんがこっちを見て指さし、続いてエアの残量を示すゲージを目の前に掲げて指で指し示したことで、俺は初めて自分の残りの空気が当初の十分の一にまで減ってしまっていることに気付いて、それこそ心臓が止まりそうなくらい仰天した。
 あんまりびっくりしたから目を剥きながら「に、20!! 残り20ッ!」と手でやったら、カンクロウさんはゆっくりと頷いて全員を見渡し、親指を上に向けて「浮上」の合図を出した。


「――はっ…はあぁっ…び、びくりしたーっ、深いところに行くと、空気ってあんなにも早く無くなるもんなんですね?!」
 浮上した途端、突然ずっしりと体にのしかかってきた器材の重みに耐えながら、何とかかんとか船に這い上がると、俺は器材を背負ったまま四つん這いでぜいぜいしながら切れ切れに声を上げた。ゲージを見ると、最初200を指していた針が、今では5を切ってゼロ寸前まで近付いている。
「へへー、なに、漏らすかと思ったぁ?」
 アンコさんが悪戯っぽい目を向けたかと思うと、またパシャリと写真を撮っている。でも俺はがっくりと項垂れたままで、もはやポーズを付ける気力もない。
「そりゃあ水深5mよりは20mの方が早くなくなるけど、イルカは男だからあたしよりは肺活量があるし、焦ったり無駄な動きが多かったりすると、それだけ多く消費しちゃうから今は仕方ないわよね。落ち着いてくれば自然とエア切れは無くなるわ」
「え、じゃあ紅さんは今の潜水でエアどのくらい残ってるんですか?」
「んー100くらいね」
「ひゃ、ひゃくぅ…?!」
 余りの残量の多さに声が裏返る。
「アスマが――75かぁ。ねぇアンコは?」
 隣にいたアスマさんのゲージを手にとった紅さんが、声を掛ける。
「90〜、ガイ、あんたは水中でもバカなことばっかやってるから今ので60くらい?」
「ぬぁ? あぁ。まぁ大体それくらいだが幾つでも良いではないか! 青春というのはだな、常に胸一杯の空気を必要とするもんなのだ!」
「じゃあ…カカシさんは?」
 器材を下ろして早くも片づけを始めている横顔に、思わず声を掛けていた。正直一番聞いてみたい気もするし。
「――どうだって、いいでしょ」
 けれど彼は小さな声でそれだけ答えると、こちらを一度も見ることなくさっさとタンクからゲージ類を取り外してしまった。まるで残量なんて見てくれるなと言わんばかりだ。
(…カカシさん…)
 そしてその素っ気ない答えよりも、陸に上がった彼がまた誰のことも見なくなってしまったらしいことが残念で悲しかった。今まさに言いだしかけていた草履のお礼を、喉の奥に呑み込む。
 喋るのが苦手な人なんだろうか? 水中でマスク越しに見た彼の目は口ほどに…いや言葉なんかより遥かに色んな事を俺に語りかけてきている気がしたのだけれど、あれは単なる思い過ごしだったんだろうか。
 どうして潜れないでいる俺を急にフォローしてくれる気になったんだろう?
(やっぱりみんなの『迷惑になる』から…?)

 針路を島にとり、港を目指して走り始めたボートの上で皆にならって器材を片づけ、ウエットの上半身とブーツを脱ぐ。さっきまで暑くて仕方の無かった体が海水に半時以上も浸っていたことで、吹き付ける真夏の風さえひんやりと肌寒く感じるまでになっている。
(カカシさん、俺がこれ履いてるって気付いてくれてるかな…)
 両の膝を抱えて青い鼻緒を見つめた。



「――どうだった、初めてのボート実習は?」
 港に着いてワゴン車に乗り込むと、早速カンクロウさんがバックミラー越しに後ろを見てくる。
「あ、はい。…ええっとその、なんだろう…上手く言えないんですけど、浦島太郎が何十年も時間を忘れて家に帰ってこなかったって気持ちが、何となく分かった気がしたっていうか…。俺ももっとエアさえもったら、その分海の中に居たいんですけど、まだまだですよね、あはは…」
「なるほど、浦島太郎か。ふっ、こりゃあ傑作じゃん」
 カンクロウさんがニヤリと笑い、同時に車の中がにわかに湧きはじめる。
「あの、そう言えばなんか赤黒くて細長いので、メドゥーサみたいな触手がぞわぞわーっと一杯伸びてるやつが砂地にいましたよね? あれなんて言うんですか?」
 俺も楽しくなってきて、隣で相変わらず窓の外をじっと見ているだけのカカシさんを気にしながらも、会話に加わる。
「あらぁー! イルカあれに気が付いてくれたのね? 嬉しいわぁ、そう、あれはね“クレナイオオイカリナマコ”っていうの。あの妖しげな感じが何とも言えずいいでしょう? 大きいものでは4mにもなるんですって、あぁ〜そんな凄いの、一度でいいから見てみたいわぁー」
「――っ、…はぁ…」
 紅さんに見たのを説明する際に「あのグロテスクで何とも言えず気持ちの悪い」っていう言葉を入れなくて本当に良かったと、内側でこっそり胸をなで下ろす。
「あぁそういやさー、いつだったか頭の上を八畳くらいあるでっかいマンタが通り過ぎてんのに、下向いたまま『見たこともない可愛いウミウシがいるーっ!』って大騒ぎしてて、最後まで上の存在に気付かなかったこと、あったよねぇ?」
「ウガーッ!! あれは如何にも勿体なかったぞ紅! あんなイカした大物、国内じゃまず見れんのだぞ、分かっとるのか?」
「いやだー、マンタなんてどこにでもいるただのバカでっかいエイなんだからどうだっていいのよー。それよりあの時のあの子! 何とも言えず可愛かったわねぇ〜、まるで生きている宝石みたいだった…。アンコに撮って貰った写真、今でも大事にしてるわよ。でもあれから色々調べたけど結局名前が分からないのよねぇ。あぁーあの可愛いウミウシちゃん…また会いたいわ〜」
「――ううーむ…女の好みというのは…分からんものだな」
「ったくだぜ」
 アスマさんとガイさんの溜息に、こみ上げてくる笑いをこっそり噛み殺す。

 忙しい中でも毎年必ず予定を繰り合わせてこの島に集って来ているらしい皆の理由が、滞在二日目にして少しずつ分かってきたような気がしていた。
 皆めいめいに思いを寄せるものがあり、それぞれが心の底から愛してやまないものがきっとこの島のどこかにあるんだろう。

「うひゃあ、お帰りだってばイルカ兄ちゃん! なあなあ、早く着替えて遊びに行こうぜぇ! オバァにはよ、兄ちゃんと一緒に行くって言っておいたから! オレちゃんと島ん中案内すっからよ、だからなっ、早く行こうぜ!」
 黄金色の髪の少年が、ドタドタと転がるようにして奥の部屋から走ってくる。その後ろでは、黒髪の少年がちょっと俯き加減で襖にもたれていて、こちらを上目遣いで見ている。

(――なら、俺が思いを寄せるものって…?)
 さっきまで潜っていた海と寸分違わない、真っ青な色の瞳を見つめながら柔らかな黄金色の髪をそっと撫でた。
 まだ暫く…あと三日ある。
(もう少しだけ、時間をかけて探してみてもいいだろうか?)
 みんなに「じゃあ先に入りなよ」と譲って貰ったシャワーを浴びながら、俺は高く括ったままだった髪を解いた。






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