「…あのっ、昨日はすみませんでした!」
「あぁ?」
 昨日と同じ山道をオンボロ車がウンウンいいながら登り始めると、俺は黒さんとの沈黙に耐えきれずに思い切って切り出した。
「俺、金づちなんです。全然泳げないから、その…海に落ちるのが怖くて、どうしても手が放せなくて、それで…――すみません」
 最後はもごもごとして小声になる。
「別にいいんじゃん。とにかくこの島で怪我されんのだけは困るからああ言ったまでだ。診療所は週2日しかやってないのに、内地から来る客は天候や島人の言うことを無視してよく事故を起こしてるからな。テマ姉は『少しは痛い目見といた方がいい』とか言うけど、オレはそういうのは見るのも聞くのもゴメンじゃん」
 黒さんはうねうねと続く山道を見つめたまま言った。
「…そう、だったんですか」
 確かに言葉は少し厳しい…というか、ルールを守らない旅行者には耳が痛い。でも彼が思っていたよりずっとちゃんとした人なんだということも分かる。
「テマねぇって…テマリさんはお姉さん?」
「あぁ、まぁな。オレ達は姉弟でショップやってる。でもそんなもの別に珍しくもないじゃん」
 それがどうしたと言わんばかりの口ぶりにも、少しだけ目尻が下がる。
「羨ましいなと、思って」
「なんで?」
「や…この島に来てね、何が一番いいなぁって思ったかって言うと、このきれいな海や空の下で暮らせることもそりゃあもちろん羨ましいには違いないけど、それよりも友達同士とか家族同士とかの仲がすごくいいことだったんですよ。例え血が繋がってなくても、別の何かでしっかり繋がっているっていうか」
 まだはっきりとは分からないけど、でも多分そう。帰る頃にはもっとよく分かるんじゃないかって気がする。
「ふん、どうかな、何でも繋がってりゃいいってもんでもない。それがかえって面倒なこともあるんじゃん」
「そうですかね?」
「あんたちょっと変わってるな。普通ダイビングに来たヤツは、そんな所見ないもんじゃん」
 黒さんは初めてこっちを見た。さっきまで威圧感があって怖いと思っていた白い隈取りは、今では何だか愛嬌があるように見えなくもない。
(俺がまだ、誰とも繋がってないからかな…)
 だからよく目について、羨ましいのかも。


「あ、そういえば…?」
 ふと思い出したことを何気なく唇に乗せる。
「あ? 今度はなんだ」
「テマリさんが言ってた『ボートに乗ろうとして何度も股裂きになって海に落ちてる』カンクロウさんて人って…」
「なッ?!」
「弟さん、ですか?」
 一瞬の沈黙の後。
「――…テマ姉のヤツ、余計なことを…」
「エ?」
「カンクロウはオレじゃん」
「うそ」
 日焼け止めの隈取りを施した、したたかそうな横顔が、おかしな風に歪んでいる。何だかそれを見ているうちに、体の奥からじわじわとこみ上げてくるものを押さえきれなくなって、ついにブーッと吹きだした。
「くそっ、随分盛大に笑ってくれんじゃん」
「す、すみません!――…でも…でも股裂き……ぶッ……くくく…あぁどうしよう、すいませ…はははは、いえあのっ、…あははははは…!」

 車が坂を下り、真っ白な砂浜を前にして静かに止まった。昨日みたいに前のめりにいきなり止まらないことで初めて気付いたのだけれど、どうやらあのドッカン停車はテマリさん個人のポリシーだったらしい。
「泣くほど笑い疲れたところで悪いがよ、こっからは真面目にやってもらうじゃん」
 砂浜に2本のタンクを下ろしたカンクロウさんは、落ち着いた声で改めてこっちを見た。車の後ろの荷台には、まだ一度も触ったことのない色んなごつい重器材が大量に置かれている。
「はいっ!」
 慌てて目の端に溜まった涙をゴシゴシこすった。
(大丈夫だ、この人なら安心して任せられる)
 海は昨日見たままに青く輝き、空は限りなく澄んで遥かに高かった。



     * * * 




「――じゃあ午後は一時半スタートで」
 宿の前に静かに止まった車から、カンクロウさんが声を掛ける。
「はい、どうもありがとうございましたっ!」
 俺は興奮の余りどうやっても上ずってしまう声を抑えながら、頭を下げた。
「イルカ、どうだった? 今日が最初の潜水講習だったのだろう? 上手くいったか? カンドーしたか? コーフンしたかぁ?」
 車が走り去ると、一足先に戻ってきていたガイさんが真っ先に訊ねてくる。カカシさんの姿だけが見えないけれど、彼のスカイブルーと白のウェットスーツがシャワー室に掛かっている所を見ると、中にいるのだろう。他のみんなもまったりとお茶を飲んだり煙草を吸ったりしていて、午前中のダイビングを堪能してきたらしい。
「ちょっとぉ、そんなに急かしちゃ言いたくても言えないじゃんよー」
 テーブルの上に積まれてある丸いお菓子…これが昨日アスマさんが言ってた、チヨバア特製の揚げたホットケーキというやつなんだろう…を頬張りながら、アンコさんが答える。でもこれから昼のお弁当だと思うんだけど、そんな凄い勢いで食べていて大丈夫なんだろうか。
「あの、それが…」
 興奮ながら言いだしかけたものの、思わず俯いてもじもじしてしまう。
「「「「うん?」」」
「そのっ…潜ったらあんまりにもきれいで、びっくりしちゃって」
「「「「うんうん!」」」
「愉快で楽しくて気分爽快で、今までにないくらい心の底からドキドキワクワクしちゃって」
「「「「うんうん!!」」」
「俺、おしっこ漏らしちゃうかと思いました」
 身を乗り出すようにしてこちらを向いていた一同が、その場にだあぁと倒れていく。
「そしたらしてもいいんですってね? その、水中で泳いでいても。俺必死で我慢してて損しちゃいましたよ、あはは」
「ぉ…おめぇな…」
 アスマさんが首に掛けていたタオルで額の汗を拭っている。
「はい?」
「…いや、…いい…」
 大きな体をプラスチックの椅子にそろそろと戻している。
「おぉそうかぁ! 漏らすほど感激したか! いやぁ分かるっ、分かるぞォー! 心と体が震えるともよおすのは自然なのだ、大自然の営みなのだぁっ! 遠慮せずにこれからもどんどん感動するといいぞ! そして限界ギリギリまで我慢してから水中で放出するとな、なんというかだなぁ〜「あぁ生きてるうぅ〜」という感じがしてサイコーなのだこれが!」
「げえぇ〜〜、じゃあガイの後ろはもう絶対泳がないようにしよーっと。カメラが壊れるわー」
「ふふふ、イルカって面白いわね。帰るまでに一度一緒に潜れるといいんだけど」
「いや、まだそこまではとてもとても…」
 俺は紅さんの言葉に顔の前でぶんぶんと手を振る。
 事実、午前中のタンクを背負っての初の海洋実習は散々な出来だった。水面にプカーと水風船みたいに浮いたっきり、なかなか水中に沈んでいけなかったり、何とか沈みはじめても耳抜きが上手く出来なくて焦ったり、水面に上がる際には今度は浮上速度が速すぎると水中で怒られたりして、その度にカンクロウさんの手を煩わせてしまっていた。こんな状態でベテランのみんなと一緒に潜ったら、とんでもなく迷惑をかけてしまうに違いない。そりゃあみんなと一緒に潜れたらメチャクチャに楽しいだろうけど、それにはまず試験に受かって資格を取らなくては話にならない。
 ウェットスーツを脱いで洗い場で洗って干すと、シャワーを浴びる。もうウェットの着脱はだいぶ慣れてきていて、踏ん張りすぎて血管が切れそうになることもない。
 タオルで髪を拭きながら出てくると、「麦茶、いれますね?」と断ってコップを用意し、冷蔵庫のサーバーから六人分のお茶をいれた。
「おう、すまねぇな」
 言ったアスマさんが、いつまでもこちらを見ている。
「? なんか、付いてます?」
 頬を触る。
「いや…なんつーか、おめぇさんも随分と島に馴染むのがはえぇなと思ってよ」
「え? そうですか?」
「昨日までのノンダイバー独特の雰囲気が消えてるぜ」
「あ〜、それなんか嬉しいなぁ〜」
 自然と口元がほころぶ。きっと彼本人は何気なく発したのだろうけど、その言葉は今の自分には最高の労いのように思えた。

 重い器材を付けてよろけながらも思い切って海に潜ってみて初めて、俺は海に対して大きな誤解をしていたのだと気付いた。
 自分は確かに陸から来た「人間という名のよそ者」なのかもしれないけれど、決して海に拒絶されていた訳でも試されている訳でもなかったのだ。
 そこは行きたければいつ行ってもいい所であり、誰にも、何にも…そう、重力にさえも束縛されない、30キロもの重器材や自分の体の重さからも完全に解き放たれる、信じられないほど自由で広大な空間だった。
 カンクロウさん曰く、「ビーチからのエントリーだから魚が少なくて悪いな」ってことだったけれど、俺はそんなこと全然気にならなかった。それよりもっと根本的なこと、もっと大事なことを肌身で学んだような気がした。きっとそれは、海に潜らなかったら一生かかっても気付かなかったことだろう。
 カンクロウさん本人から学んだことも大きかった。テマリさんとはまた違って、彼は意外と細かい職人気質な一面があり、水中で俺のことをとてもよく見ていて逐一チェックをしてくれた。
 水中という所は、どんなに意志を伝えたくても一切の言葉が通じない場所だ。例え空気を吸っているレギュレーターを口から外して泡と共に大声で叫んだとしても、何を言っているかは全く判別出来ない。
 そんな時彼らガイドダイバーは、子供の遊び道具として売られている磁石を使ったお絵かきボード“せんせい”に文字を書いて意思疎通を図るのだが、彼はそれを駆使して水中でまだ上手くバランスが取れないでいる俺に、色んな指示を出してくれた。
 お陰で講習が終わる頃には何とかダイバーらしき形を保つことが出来るようになったのだけれど、一旦そうなると今度は水面に上がるのが残念で惜しくてたまらなかった。
 言葉を介さないで、無言のまま意思疎通を図るということが、こんなにも心躍るものだとは思わなかった。
 仕事中、相手が電話口でまごついていて声が聞こえなかったりすると、いけないと知りつつもついついマイナスの感情が先に立ったりするというのに、水中では一切の会話が通じないことがもどかしくもくすぐったく、そしてひどく楽しい。
 声を伝達しない水に隔てられている、という縛りのせいで、目の前にいる相手が一体何を言いたいのか、今何を考えているのかを少しでも多く感じ取ろうと、常に目が相手の仕草や視線の先を追いかけている。
 また相手に用があって気付いて欲しい時でも、腕に触れたり肩をちょんとつついたりしてすぐに呼べない距離の時は、アイコンタクトが重要になってくる。相手の目をじっと見ていてそれに気が付いて貰うことで、初めて「何?」となる訳だ。
 今まで25年もの間何不自由なく陸上で暮らしてきた訳だけれど、こんなにも他人に対して注意を払ったり意識したことなど一度もなかった気がする。恥ずかしながら、仕事上の記憶を辿ってもだ。
 相手と同じ思いを共有したくて、何とかして意思の疎通をしたいがために、そっと体に触れたり、じっと目を見たり、分かったという意思表示のため大きくうんうんと頷いたり…。
 水の中で色んなものを見ながら、そんな子供みたいな拙い仕草を繰り返しているうちに、不思議と間にあった溝や垣根は消え去っていく。
 今朝、海は俺とカカシさんを意地悪く隔てたように思ったけれど、あのカカシさんを含む5人のグループを目に見えない糸でしっかりと繋げているのは他でもない海なのだと、今ではとてもよく分かる。
 紅さんにはまだとても無理だと言ったけれど、俺も内心では一度でいいからみんなと一緒に潜ってみたくてたまらなくなっていた。
(もっとずっと、上手く潜れるようになりたいな…)
 午後からは、カンクロウさんからもっと積極的に学ばないといけない。



 昼到着のフェリーが本島から運んできた朝注文の弁当を食べ終わると、俺は空いている容器を片づけて立ち上がった。
「お出かけ?」
 午後のダイビングに備えて、縁側で髪を編み込んでいた紅さんが声を掛けてくる。アスマさんとガイさんは奥の畳の上に大の字に寝転がっていて、物好きなアンコさんはそのあられもない寝姿をカメラに収めようと、ニヤつきながらファインダーを覗いている。
「ええ…ちょっとその辺を。1時までには戻りますね」

 浜に降りると、早速波打ち際を遠くまでくまなく見渡した。
 そう、今朝無くしたデッキシューズが浜に打ち上げられてないかと、散歩を装って探しにきていた。シューズは踵の部分に空気の入っているエアソール仕様だったから、間違いなく水に浮くはずだ。そのうち浜のどこかに打ち上げられるに違いない。
(――はずなんだけどなぁー…)
 潮の加減か何かだろうか? どんなに目を凝らしてみても、象牙色の浜辺にそれらしきものは見あたらなかった。
(仕方ない、また夕方にでも来てみよう。ナルトやサスケなら目が良さそうだから、目ざとく見つけてくれるかもしれないし)
 きょろきょろしながら歩いていた波打ち際を離れ、砂浜に面した道路へと上がる。太陽は真上からガンガンと容赦なく照りつけてきていて、もたもたしているとアスファルトの上で干物になってしまいそうだ。
(ふう、すごいなー)
 キャップは被ってきたものの、そんなもので凌ぎきれるものではない。早く宿に戻らなくては、また今夜も日焼けで寝苦しむことになる。島の外れに向けて早々に踵を返そうとした時だった。
(…あれ? もしかして…?)
 最初それは、熱波でどろどろと空気が溶けているような陽炎が見せている幻かと思った程の、朧な白い影だった。それが暫くの間じっと目を凝らしているうち、強光線をものともせずにすたすたとこちらに歩いてくる背高い人影なのだと分かる。
(カカシさん、だ…)
 豊かな銀髪が、照りつける太陽を端から強く跳ね返していた。白い腕と白いTシャツが目の奥に痛い。
(お昼は食べ終わったと同時に居なくなってしまったけど、どこに行ってたんだろう?)
(午前中のダイビングでは、ガイさんが海ガメを見たって言ってましたけど、カカシさんは何か面白いものが見られましたか?)
(カカシさんていつもとっても涼しそうな顔してますけど、暑くないんですか?)
(俺、何となくカカシさんがいつも独りぼっちなのが気になるんですけど、これって考えすぎですよね? ホントはとっても仲がいいんでしょう?)
 にわかに色んな問いが頭の中を駆けめぐりだした。生乾きの下ろし髪が覆っていない首筋を太陽がじりじりと焼いていて痛いのに、どうしてもその場から動けない。
(いいかイルカ。 「カカシさん、ちょっといいですか?」だぞ!)
 いまだにこちらを見る様子もなく、減速する気配も見られない男を、かなりの決意でもって呼び止めるために気合いを入れる。

「これ」

 だから突然カカシさんから何かを差し出された時は、全くもって何が起こっているのか状況が呑み込めなかった。
「ぇ…」
「早く」
 見下ろすと、腹の前にスーパーの白い袋が突き付けられている。が、そんなものに見覚えはない。
(な、なんだっけ、これ?)
 急にどぎまぎしてきて、極端に回りの悪くなっている頭の中で必死に考える。
「これ、な…」
「何でもいいでしょ」
 ぐいと右手を取られて、手の平に乱暴に袋を押し付けられた。けれど中に何か入っているらしいその袋が手に乗ったか乗らないかのうちに、もうはやカカシさんは背中を向けて歩き出している。
(なにそれっ?! なにコレ?!)
 訳が分からない。
 でも手にした袋の中をガサガサと覗いてみて、はっと息を呑んだ。

「カカシさん! ちょっと、カカシさんっ!」
 なかなか立ち止まろうとしないから、思わず腕を掴んで呼び止めたのだけれど、色の薄い瞳でじろりと睨まれると、瞼を跨ぐ傷の効果も相まって僅かにうっとのけ反る。今朝波打ち際で向かい合った時は、もう少し何というか…当たりが柔らかく感じたはずが、今のそれは太陽光を丸ごとギラリと跳ね返す銀髪並に鋭い気がする。それを言葉に言い換えれるとするならば、多分『うるさいぞ、俺に構うな』だ。
「いっ、いやその…カカシさんが、助けてくれたんですよ、ね…?」
「なんのこと」
「なんのって…そりゃ今朝のことですよ。俺が水飲んで沈んだ後って、カカシさんが浜まで引き上げて下さったんですよね?」
 どう考えてもあんな短時間に潮が運んで浜まで打ち上げたとは思えない。それじゃあとっくの昔に溺れてるはずだ。
「知らない」
 瞬間「嘘だ」と直感的に思った。でもそれをそのまま口にしたら、もっと険悪な雰囲気になりそうな気がしたから、ぎりぎりのところでぐっと呑み込む。
「あの、本当にどうもありがとうございました。自分の力量も無視して浅はかなことしちゃって…すごく反省してます」
 潔く頭を下げる。とにかくまずはこれが言いたかった。朝から頭の隅でずっと思い続けていたことだ。これを言わない事には何も始まらないと思うから。
「はぁ? しつこいよ。知らないって、言ってるでしょ」
 直後。
 袋から取り出した青い鼻緒のゴム草履を握り締めた俺は、銀色の頭目がけて思いっきりそいつを叩きつけていた。そのクリーンヒットの瞬間は、正直頭が空っぽでよく覚えていないのだけれど、島全体を包み込む蝉の大合唱をも押しのけるほどの見事なスリッパ音が一帯に響き渡ったような気がする。
「ふ…ふざけんな! わざわざこんなものまで押し付けておいて、何が知らないだ! 人をバカにすんのもいい加減にしろッ!」
 草履を握り締めたまま、誰もいない通りのど真ん中で叫んだ。
「―――っ……」
 けれど、俯いたカカシさんの白い片手がぎゅうっと頭を押さえているのを見た途端、急激に冷める…というより凍るものがあって、慌ててもう一度頭を下げた。
「……やっ、あの、す、すみません! ごめんなさい!」
 幾ら何でもやりすぎだ。昨日会ったばかりの、しかも命の恩人である人に対して、まだ一度も履いてないとはいえ草履でもって力一杯頭を張り倒すなんてどうかしている。そしてもちろん、カカシさんだって同じように思ったに違いない。
「――――」
 でもカカシさんは俺の詫びの言葉など耳にも入ってない様子で、一言も発しないまま背を向けると、すたすたと歩き出した。
 その心持ち猫背の背中は、『もう何かを言うのさえバカらしくなった』と言っているように思えた。


 宿に戻ると、案の定彼との間に目に見えない“気まずいバリア”を感じてしまい、俺は恐ろしく居心地が悪いまま午後の講習の用意を始めることになった。でもカカシさんの方は以前と何も変わらず、「誰も視界に入れない路線」を貫き続けている。
(なんであんなことやっちゃったんだろ、俺)
 やっといて言うのもなんだけど、心の底からあんなことがしたかった訳じゃない。
(ぜんぜん説得力無いかもだけどな…)
 第三者の目には、二人の様子は今までと何ら変わらないように見えてるのかもしれないけれど、仲直りというものが出来るのならしたい、させて欲しい。だってあと数日もしたら、俺もカカシさんも島を出て各々の日常に戻ってしまい、もう二度と会えないだろうから。ただ、その方法が分からない。ますます分からなくしてしまった、というか。
(そいや貰っちゃっていいのかな、これ…)
 みんなの真似をして腰までウエットを着て、上半身にTシャツを付け終わると、カカシさんが押し付けてきた青い鼻緒の白いゴム草履をぺたりと地面に置いた。風化してボロボロの上、サイズが合わずに足がはみ出ていた健康サンダルを脱ぎ、そっと真新しい鼻緒に足を通す。
(…へえー?)
 それは、思っていたよりずっと履きやすかった。ビニールで出来た鼻緒は如何にも質素で何の飾り気もないけれど、その分余計なこともしないから、履いていて楽で、何よりとても気持ちいい。
(あれ? そう言えば…)
 見れば他のみんなも同じタイプの草履を履いていた。ただサイズと鼻緒の色が違っているだけだ。アスマさんと紅さんがピンクでガイさんとアンコさんが黄色だけど、その組み合わせならば色と大きさから自分の履き物がちゃんと特定出来るという訳だ。
 じゃあカカシさんのは? とこっそり見やると。
(――うっ…青……。同じか…)
 何となく彼らの世界に邪魔に入ってしまったような気がしたのは、考えすぎだろうか。
(そうそう、考えすぎ、考えすぎっと!)
 とりあえず草履はくれるって言うんだから(いやはっきり口に出して言ってた訳じゃないけど)この際有り難く貰っておくことにして、カカシさんに心の中で小さく礼を言う。ただ間違って履いてしまわないようにしなくてはいけない。
 軽く涼しくなった足元にすっかり満足しつつ、俺はおばぁに借りていたサンダルを元の玄関に戻した。

(あ、そうだ、日焼け止め…)
 ふと思い出して、耳の後ろやら草履履きの足の甲に塗り始めた時だった。遠くからもうすっかり耳に馴染んできたショップのワゴン車の音が響いてきて、ハイビスカスの生け垣の向こうにガッツンと止まる。
「おいでなすったぜぇ〜」
「待ちかねたぞテマリ!」
「午後はどこかなー」
「どこかしらね?」
 腰まで自前のウェットスーツを着てTシャツを羽織ったみんなが、一斉に腰を上げて動き出した。その姿にはベテランダイバーの余裕みたいなものが感じられて、昨日会ったばかりの時より遥かに格好良く見える。カカシさんもボクサーみたいに頭からタオルを掛けて、俯き加減に車に乗り込んでいく。

「行ってらっしゃい! 楽しんできて下さいね〜!」
 こちらに背を向けて歩き出すみんなに、縁側に座ったまま手を振った。自分だけおいてけぼりみたいなのがちょっぴり寂しいけど、まだ講習中なんだから仕方ない。
「ちょっと、なに呑気なこと言ってんだい。イルカさんもみんなと一緒に潜るんだよ! カンクロウも1時半て言ったろ?」
「え゙えーーッ?!」
 縁側から転がり落ちそうなくらい驚いて立ち上がった。
 嘘だろ、聞いてないぞそんなこと! ああいや時間は確かにその通りだけど、でもまだこっちゃタンク一本分しか潜ってないバリバリの、筋金入りの講習生なのに、いきなり一緒に行ってどうしろと?!
「あらあ、早速一緒に潜れるなんて、言ってみるもんねぇ〜」
「いやちょと! それはまだいっくら何でも早すぎるんじゃないかとっ…」
「なんと初ボートダイビングか! オーイエス! 大丈夫だ! オレ達がついているぞォ、イルクァァー!」
「ぃやったー!面白そうな被写体みーっけ! ばっちし決定的写真撮ったげんねぇ〜ウシシシシ〜〜」
「や、だからそれじゃ、かえって迷惑をっ…」
「ほーら、もういーからごちゃごちゃ言ってないで早く乗った乗ったぁ!」
 
 かくして最後に車に乗り込んだ俺は、隣に座っていたアンコさんに早速シャッターを切られて「あーあー、もう早速チビッてるような顔してるよー」などと冷やかされたけれど、今は反論する気力も余裕もない。
「フッ…ウチはとにかく“井の中の蛙にはさっさと大海に出て貰って、荒波に揉んで貰う”っていうのが方針だからね!」
 テマリさんは車を走らせながら、何気に怖いことを格言のオブラートに包んでしれっと言ってくれちゃってるけど、俺まだまともに潜れないんだからすっごい手間かかるんですよ? ぜんぜん責任持てませんよ?! どうなっても知らないですからね?!

『――そういうの、迷惑だって言ってんの。――』
 今朝方カカシさんが言っていた言葉が、突然ぐるぐると頭の中を回り出す。
(どっ…どうしよう…、マジでおしっこ行きたくなってきた…)
 黒いアスファルトが足の真下をびゅんびゅん通りすぎていくあり得ない風景を、俺は意味もなくひたすら見つめた。









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