よし、浮いてるぞ! ウェットスーツ着てないから昨日よりはだいぶ沈んでるけど、でも何とか息が出来るくらいは浮いてる! いけるぞ、俺!)
 自分自身に、心の中で大声で声援を送る。
 とは言うものの、TVで見ている限りはとても簡単なように思えていたクロールは、実際にやってみようとすると思っていたようになどまるで動かなかったし、一向に前にも進まなかった。見るとやるとではこうも違うものだろうか? これが自分の体だなんて思いたくないけれど、だからこそ自分の体なのだと認めざるを得ない。それに今は、その余りのギャップに悠長に驚いたり凹んだりしている暇はない。
(な、なんだこの服…っ!)
 一杯に水を孕んでふわふわと揺れ動く衣服がひっきりなしに体にまとわりついてきて、ただでさえむちゃくちゃな、泳ぎと言うには語弊がありすぎる“暴れ”を激しく妨げだしていた。一旦水の中に入ると、衣服がこんなにも体に絡みついてくるなんて、思いもよらなかった。
 脱ぎたい、今すぐ全部脱いでしまいたくて仕方ない。けれど立ち泳ぎなんてものは出来ないから脱げない。それでも何とかして脱ごうと少しでも体を折り曲げようとすると、途端に波が鼻を超えて頭にまで被さってこようとする。
(ダメだ、そんな危ないことしてまで脱げない。大体時間の無駄だ!)
 逆にちょっとゆるかった靴だけは、最初に足をバタつかせた瞬間に両足とも脱げて無くなっていた。もちろんどこに流れていったかなんて分かる訳ない。足ひれを付けていない素足はどんなに蹴っても手応えならぬ足応えがなく、スカスカしていて恐ろしく心許ない。
 いや、今はそんなことよりも。
「カカシさん! 俺です、海野です! カカシさん!」
 夜明け直前の光が、10mほど向こうに時折垣間見える彼の髪をより輝かせている。けれどその銀色の面積は、ほんの少し前よりもまた幾分少なくなってきてもいる。そしてその髪の持ち主が、こちらを気に掛けるような様子は相変わらず微塵もない。
(いや、あれじゃそもそも聞こえてるかどうかも…)
 耳がすっかり水中に隠れてしまっていた。不安が焦りを呼び、その焦りが一層の不安を掻き立てる。
(もっと、もっと近寄らなくては!)
 時間がない、一秒が惜しい。鬱陶しい服に邪魔されながらも、絶対に目を離さないで居る彼に向かって、片時も休まず力一杯掻き続ける。もう自分の手足がどんな風に動いているのかさえよく分からなくなっているけれど、今動かすのを止めるわけにはいかない。
「理由ならっ、俺が後で聞きますからっ! 幾らでも聞いて、あげ、ますからっ、はやく、岸に帰りましょうよっ! うわっ…ぷ! みんな…みんな宿で待ってますよ…っ!」
 なのに二人の距離は、さっきからまるで変わっていないように見える。どんなに水を掻いても、蹴っても、払っても、波という巨大な力でもってその場に留め置かれているような気がしてならない。
 歩けばほんの数秒の距離なのに。声を掛ければ必ず聞こえる距離なのに、そのほんの僅かな空間を、大量の水が長大な壁となって邪魔をしている。
「カカシさん、何やってんですか! もっと上がって! 浮いて! 早く息して下さいよッ! カカシさん!!」
 忌々しくて、歯痒くて、恐ろしくて。
 でもその反面、そう感じるのは、全て自分が水に慣れていないせいだということもよく分かっていた。
(今ここで、あそこにいるカカシさんを助けることが、出来たら…)
 彼と一緒にもう一度陸を踏み締めることが出来たら、その時にはまた少し、自分を重くしているものは自分から遠ざかっているはずだ。
 今よりもっと軽くなりたい。軽くなって、自由になって、自分を取り巻くこの大きな世界と仲良くなりたい。
(いや、なれるはず!)
 両親はそう願って、この名前を付けてくれたのだろうから。



「カカ……うわぁっぷ…! ――ぶほッ…」
 とにかく彼の姿だけは絶対に見失わないようにしなくてはと、必死でそちらの方を見ながら再び呼び掛けようとした時だった。
 今までにない大きな波があっという間もなく頭から被さってきて、思わず息を止めてやり過ごす。
「…ぷっ………はあぁーーっ!」
 頭や顔に降りかかってきた水を払い、大慌てで胸一杯に息を吸いこむ。大丈夫だ、まだいける。こんな大きな波でもやり過ごせたなんて凄いじゃないか俺、と内心で褒めながら、慌てて今見ていた辺りに目線を戻す。

「――…カカシさん!?」

 瞬間、心臓が跳ねた。つい今し方まで波間にチラチラと垣間見えていたはずのあの銀髪が、ほんの一呼吸の間にどこにも見あたらなくなっていた。
「どこっ! どこですかッ! カカシさん!」
 まるで今し方の大波など無かったかのように、静かに揺れているだけの平らな海原を前にして、一気に血の気が引いていく。
(どうしよう、も、もしかして…)
 ――見うし…なった…?――
 ぞくりっと背筋を何かが走り抜けていく。
 その時になって、やはりシュノーケリングのセットだけでも持ってくるべきだったのだとのたうち回りたくなるが、全ては後の祭りだ。
「カカシさん! 聞こえるでしょ、カカシさん!?」
 水面を両手でもって激しく叩く。昨日の記憶では、水中では人の声は聞こえないけれど、こういう音はとてもよく通っていた。
 それこそ文字通りの“自由形”状態で、どぽん、がぽん、ざぷんと盛大に水をはね上げながら、尚も声を限りに叫ぶ。いや、叫んでいないと今にも何かに心臓を鷲掴みにされそうな気がして、無理矢理にでも声を張り上げ続ける。声はつるりとした水面を滑って跳ねてしながら、ついに明けだした薄紫色の空へと次々に吸われて消えていく。

(…そんな…、ウソだろ…)
 暴れることに疲れきって呆然となった時、更に追い打ちをかけるような恐ろしいことに気付いてしまった。
 岸の方を振り返ってみると、引き潮にでも乗ったのか、いつの間にか信じられないほど沖に出てきてしまっていた。
(ぇ……)
 ――戻れ、ない…?!――
 突然胸を圧するような恐怖が全身を包んだ。何ら大袈裟でなく、心臓がぎゅうっと縮んだのが分かる。
(バカ! 固くなるな、体まで重くなるぞ!)
 慌てて心の中で自分に向かって叱咤する。けれどその心の声は激しく震えていて、もはや何の叱責にも励ましにもなっていない。
(やめろ、考えるな! 今こうして浮いているんだし、ちゃんと息もしてるじゃないか。浮いていれば何とかなるんだ、必ず岸に帰れるんだ。落ち着け俺!)
 それでもガタガタと歯の根が合わなくなってきているのは、不安や動揺のせいだけではない。
 昨日浸かっていたときはすごく気持ち良くて、丁度いいと感じていたはずの水温が、今では冷たいとしか感じなくなってきていた。
(…さっ、…さむい…)
 ついさっきまで日焼けと寝室の暑さに火照っていたはずの体はとっくの昔に熱を奪われていて、芯から冷えはじめている。
(いやだ…、ちょっと待てよ…こんなの…ウソだよ、な…?)
 とてつもない大海原に、何の為す術もなくただゴミのようにぽつんと浮かんでいる自分のイメージが、ふと頭を過ぎる。
 自分というちっぽけな生き物が、どれほどこの海という世界に適してないか、そしてこちらがどんなに前向きに歩み寄ろうとしても、所詮は住む世界が違うよそ者なんだということを、身をもって改めて海に思い知らされているような気がした。
(俺は、浮けるんだ、軽いんだ……チクショウっ!)
 結局何も出来ないで水面に漂っているだけの自分に苛立ちが募る。寒いわ腹が立つわでぶるぶると胴震いがする。
「くっそおぉ〜、カカシのバカ! 大馬鹿野郎! みんなあんたのせいだぞ! あんたが水になんか入らなきゃ、こんなことにはならなかったんだ! さっさと上がってきて責任とれ、このバカカシ!」
(あぁちがう…、違うんだ…ホントは…)
 本当は己の判断ミスなのだと、ここにきてようやく分かりだしていた。自分が後々後悔したくなかったからって、そんな個人的な気持ちを最優先してしまい、まだ浮くことを覚えただけのような人間が一人で助けに入ってはいけなかったのだ。
 例え夜明け前だったとしても、真っ先に大声を出して他の誰かを呼ぶべきだった。そうすればこの島はダイビング天国なのだから、タンクや器材はすぐにでも調達出来たのだ。熟練したダイバー達が一斉に探せば、例え溺れていたにせよすぐに救命作業に入れる。少なくとも今より遥かに状況は良かったはずだ。
 そして、俺までが一緒に溺れることもなかったのに。
(――今頃……気付くなんて…)
 大馬鹿野郎は自分だった。
 
(ぃ…いやだ! だからって諦められるわけないだろ!)
 思うように体に力が入らなくなってきたのが分かると、怯えた心がそれに必死で抵抗をはじめる。
(こんな結末絶対嫌だ! カカシさん上がってきて! お願いだ、誰か、誰か沖を見て気付いて! 宿のみんな! 俺とカカシさんはここに…!)
「――ぱ……パックン!」
 でも実際に声になったのは、なぜか小さな犬の名前だった。あの犬なら、沖に出てしまった自分の声でも聞こえるかもしれないと思ったのは確かだけれど、どうして水難救助犬でもないあのコロッとした短足の、しかも他人の飼い犬の名前が最初に口をついて出たのかは、自分でもイマイチよく分からない。
 強いて言うなら、屋根の上で雨の日も晴れの日もずっと青い海を見つめ続け、そこに住む人達を災厄から守るといわれているあの獅子に似た頑固そうな犬の横顔に、最後の最後で縋りたくなったのかもしれない。
「パックンおいで! パックンこっちだ! パックン!!」
 うねる波が邪魔をして、島は見えていても浜は見えなくなってしまっている。疲れ切り、冷え切った体はまともに動かなくなってきていて、手も足もゆるゆるに弛んだ衣服に絡まれつつある。
「パックン! カカシさんは、こっちだよ! バックン! ぱッ…――」
 大きく口を開けて叫んだときだった。寄せてきた波を避けきれずに、嫌と言うほど喉一杯に水を飲む。すぐには次の呼吸が出来ないほどの大量の潮水が鼻と口を同時に塞いで、同時にびくんと強張って動きを止めた体がすっと沈み始めた。思わず固く目を閉じる。もう自分が上を向いているのか下を向いているのかさえ分からない。余りの苦しさに大きく咳き込むと、大量の泡と入れ替わるように海水が鼻と口からどっと押し寄せてきて、完全に息が詰まった。
(耳、が…)
 耳の奥が酷く痛む。耳抜きをしないまま、体が沈んでいっている証拠だ。
(――…パックン――カカシさん――……ごめん……)
 そしてついに、その怒濤の如く押し寄せる苦痛さえ何も感じなくなった。





(――…もう、何するんだ、――止めてくれよ)
 頬を何度もぴしゃぴしゃ叩かれるのが嫌で、胸も頭も二日酔いみたいにすごく気持ちが悪いけど、とにかく今すぐにそれを止めて欲しくて顔を振った。でも止めてとはっきり言ったはずの声は、なぜか「ぅうぅ…」というおかしな呻き声になる。
 次に唇と言わず頬と言わず、ところ構わず生温かいものが這いずり回るおかしな感触。
「も…、ゃ……やめ…」
 そこまで言ったところで、突然体の奥から一気にこみ上げてくるものがあり、げぼっと盛大に水を吐いた。いや、自分的イメージとしてはクジラみたいに吹き上げたくらいの勢いだ。間髪入れず、息も継げないほどの激しい咳き込みが後から後から続く。苦しさの余り、涙が止まらない。
(な、なんだこれ…!? 俺って一体どうなっちまってるんだ?!)
 訳が分からずパニックに陥っているのに、動かそうとした手足にまるで力が入らずに余計にパニックになる。
(なんだ俺っ?! 死んでるのか? それとも生きてるのか?!)
 朦朧とした頭でもって必死で考える。
「……ぁ…!?」
(思い出した! 思い出したぞ!)
 涙で水没している目をかっと見開いた。同時に飛び込んでくる光が眩しすぎて目に痛い。ものすごい蝉の声が、耳のスイッチでも入ったかのように突然わぁんと聞こえ出す。
「なに、ようやく思い出したんだ」
 目を開けると、すぐ真正面に見覚えのある男が居た。自分の頭の両側に手を付いた格好で、真っ直ぐにこちらを見下ろしている。
 顔のすぐ真横には頑固な顔付きの小さな犬が座り込んでいて、同じようにこちらをじっと見ている。男の銀色の髪の先からぽたぽたと冷たい水が垂れて顔に落ちかかると、それを彼が片っ端から舐めてくれるお陰で、一気に目が醒めていく。
「ぁ…あぁカカシ、さ…、――生きてた…、よ…、よかっ……」
 ホッとしてかぁっと胸が熱くなって、また目が水没していく。すぐ側で寄せては返しているざん、ざんという波の音は、前からこんなに優しい音だったろうか?
「ぜんぜん良くないね。ったく余計なことをしてくれるよ」
「…ぇ…?」
 その返事に一瞬耳を疑った。しかも声には冗談とはとても思えないだけの不快さがありありと滲んでいる。
(今、なんと…?)
 真正面にいる男をもう一度見つめる。改めて間近で見ると、男の左目には瞼を跨ぎながら一直線に傷があった。古い傷のようだけれど、人に対して殆ど顔を向けない人だったから、今まで気付かなかった。自分以外にもこんなに目立つ顔傷を持った人が居ることがちょっと意外で、ついまじまじと見つめてしまう。
「早く起きてよね。人が来ちゃうでしょ」
 カカシさんは整った顔をあからさまに迷惑そうに歪めたかと思うと、さっと俺から離れた。その彼も俺と同じように上から下まで余すところなくびっしょりと濡れている。そうだ、これだけは聞いておかなくては。
「カカシさん、あなた、なんで…」
「ねぇアンタさ、幾ら金づちだからって、一人で泳ぐ練習なんてどうかしてるよ。頭おかしいんじゃない?」
「…なっ?!」
「そういうの、迷惑だって言ってんの」

 それがカカシさんの“見解”の全てだった。そして同時にここで起こった出来事に対する“意識統一”をしようとしているのではとふと気付いたのは、彼がパックンと共にハイビスカスの垣根の向こうに消えて暫くしてからのことだった。





 何とか起き上がって宿に戻り、砂だらけの体を外のシャワーでこっそりと流す。昨日洗って干してあった服を付けると、俺は勝手口から台所で朝食の用意を始めていたチヨバアの所へ行って、「おはようございます…」とドアを開けた。
「あれ、早いねぇ。どうしたか? 燃えないゴミなら外の袋にいつでも捨てていいんだよー」
 老婆は大きな鍋を掻き回しながら、独特のイントネーションでもって明るく答える。
「いえ、あの…すみません。もし靴が…いえ、靴じゃなくても、下駄でも、サンダルでも、何でもいいんですけど、その…暫く履き物を…貸して頂けませんか?」
「はァ? 履き物? そんなものその辺にあるのどれでも好きなの履いてりゃいいさぁ」
「すみません、じゃあお借りします」
 俺は何で靴をなくしたのか聞かれる前に、そそくさとドアを閉めた。


 部屋に戻ると、アスマさんが畳んで部屋の隅にしまってあったテーブルを作り、女性陣が箸や取り皿を並べだしていた。そこへ「いやぁー、この雨戸をスパァッと開けた瞬間の清々しさは、何回やってもタマランものがあるなぁーっ!」と、凄い勢いで全ての板戸を戸袋にしまい終わったガイさんが戻ってくる。大陽は今日も絶好調で輝きだしていて、早くも庭の白砂の上に濃い影を作り始めている。ハイビスカス越しにチラチラと垣間見える海は、俺が溺れかけたなんていうことは忘れてしまったみたいに、青く輝きだしている。
「もおっ、別に板戸なんてわざわざ閉めなくたって、この島に限ってはドロボーなんて居やしないんだし、開け放しとけばいーじゃないのさ〜。毎回あんたの変な趣味で叩き起こされるこっちの身にもなってよ!」
「ん〜でも開けておくと朝早くから蝉がうるさくってねぇ。エアコン弱く付けておけるんだし、閉まってる間は静かで眩しくないし、そっちの方が快適かもしれないわよ? アンコ」
「うーー…それはそうなんだけどさぁ、でもなんかムカつくんだよ、朝っぱらからあのハイテンションで叩き起こされると〜」
「あぁもう、よく眠れてるんならんなことどうだっていいじゃねぇか、ったくよー」
 みんなの様子からして、どうやら今朝の一件はこの板戸に遮られていたこともあって誰も気付いていないらしい。
(良かった…。――のかな…)
 何だか複雑な気持ちでぼんやりと立ち尽くしてしまう。でもだからといって、みんなに今朝見たことを洗いざらい話してしまう気には、なぜかなれないでいる。
(カカシさんは…?)と見ると、部屋の隅で何ごともなかったようにノートPCを開いて携帯を繋いでいた。俯いた顔は口元しか見えないけれど、薄くて形のいい唇は、相変わらず静かに結ばれたままだ。普段はどこでどんな仕事をしているのか知らないけれど、俺なんかには想像がつかないほど無茶苦茶に忙しい人なのかもしれない。忙しすぎて、ほら、よく言うじゃない? 「忙しいという字は心を亡くすと書く」とかって。あれになっちゃって、それで海を見ていたらついフラフラと…とか?

「あぁそうじゃ。みなさんや、イルカさんの履き物知らんかね?」
(イ?!)
 突然のオバァの言葉にびくっとして、でもつとめて平静を装ってカカシさんの方を見…たりするのは不自然だから、慌ててチヨバアの方を見る。みんなが一斉にこちらを見て「そうなか?」「昨日はちゃんと履いてたわよね?」と聞いてくるが、何と答えたらいいか分からない。
(な、なんかヤバイかも〜)
「い、いえ、別にそんな、全然大したことじゃありませんから! きっとヤドカリ…じゃなくてパックンがどっかに、そう、どっかに持っていって隠しちゃってるんじゃないですかね? ハハハ…」
(パックン、ごめん! 今だけ許して!)
 庭の木陰で寝ていた犬がむくりと頭を持ち上げてこちらを見ているのを見て、心の中で謝る。小さいくせにいかつい犬の顔が、いつも以上にムッとしていたように見えたのは気のせいだろうか?
 でもさっきほんの一瞬だけチラ見たカカシさんの方は、それこそ動揺の欠片すらなく、まるでチヨバアの声なんて聞こえてないかのようにじっとPCの液晶モニタを見下ろしていた。

 結局、朝ご飯はどうしても胸の辺りが気持ち悪くて入りそうになくて、「朝は食べる習慣がないからダメなんですよー」などと誤魔化しながら、ガイさんとアスマさんに殆どを食べて貰った。その分後片づけは頑張ったつもりだけど、溺れた後の気持ち悪さがすっかり消え去ってもなお、胸の奥は今一つすっきりしなかった。


 朝食後。
 他の皆はめいめいに、あのカカシさんさえも何ごともなかったように支度をして、時間通りに迎えに来たテマリさんの穴あきワゴン車に乗り込むと、午前のダイビングを楽しむために港へと出払ってしまっていた。
「後で迎えに来るから。ウェット着て待っててよ!」
 講習二日目の俺はそう言われて慌てて支度をしたものの、まだ約束までは時間がある。
(あぢぃ〜、でも海の中に入れるかなぁ…。なんかちょっと怖いっていうか…もし水の中に入れたとしても落ち着いていられるか、不安…)
 テマリさんには本当に申し訳ないけれど、正直なところ出来るものなら海には行きたくないような気分だった。でもだからといって「急になぜ?」と理由を聞かれても何と答えたらいいのか分からない。何となくではあるけれど、今朝のことを喋ってはいけないような気もするから、それならば何ごともなかったように振る舞うしかない。
(う〜ん、できるかなぁ…ちょっと…いやかなり厳しい気もするんだけど…)
 庭のプラスチックの椅子に座って、もう一度自分自身に“大丈夫、浮けるんだ”と言い聞かせようとした時だった。

「なあなあ〜、イルカ兄ちゃーん、今日こそぜってぇ島の中オレが案内してやるからよ、一緒に遊びにいこうぜ〜」
 縁側からあの金髪の少年…ナルトが声を掛けてきた。
「おう、そうだったな、昨日は約束してたのに行けなくてごめんな。夕方海から帰ってきたら行こう、俺も丁度買いたいものがあるんだ。後で声掛けるから、雑貨屋さんにも案内してくれないか?」
「うっひゃ、やったあぁ! おっけーだってばよ! 絶対だぜぇ!」
 ヒマワリがぱあっと一気に咲いたような表情をして、握り拳まで作って全身でもって喜んでいる。
(かわいいなぁ〜、それになんて人懐っこいんだろう)
 昨日初めて会ったばかりの大人に対して、ここまで人なつっこくていいもんだろうか? このまま都会に行ったら危ない目に遭うんじゃないだろうかなどと、余りのなつっこさに心配になる。

「フン、そいつの狙いは島の道案内なんかじゃないぜ?」
 と、急に廊下の奥から声がして、昨日見た黒髪色白の少年が歩いてきた。
「げ! さっ、サスケェ! お前はカンケーねぇんだからついてこなくていいってばよ! 大体お前暑いのキライなんだろ。家で大人しく留守番してろってば!」
「ん? 道案内じゃないって、どういう意味だい?」
「そいつはな、何も知らないお客に道案内をすると見せかけて、結局は雑貨屋で菓子を買って貰うのが目的なのさ」
「そうなのか? ナルト」
「だあぁ、んなこと〜…んなこと〜…ぜってえ、ねぇってば…ょ〜…」
 照りつける大陽に向かって、今し方一気に咲いたと思っていたヒマワリが、見る間にしおしおと萎れていく。
「んー…じゃあこうしようか? ナルトには今日、いつもお客さんにやっているように島の道案内をしてもらおう」
「エ?!」
「そしてサスケにはそれがちゃんと出来ているかどうか、一緒に付いてきてしっかり見て貰うってのは?」
「なっ…」
「嫌かい? ナルトはそれできちんと道案内さえ出来ていれば、二人がこの話で喧嘩しなくても良くなると思うんだけどな?」
「…え? …うん、まぁ…」
「サスケだって疑わしいといつまでも思い続けるよりは、この際本当はどうなのかすっきりさせた方がいいんじゃないのか?」
「――――…」
「じゃあ二人とも約束だ。午後の講習が終わって帰ってきたら声掛けるから。チヨ婆ちゃんに三人で出掛けるって言っとくんだぞ?」
 俺はそれだけ言って手を上げると、宿のお客さんが忘れていったらしいボロボロのビニールサンダルをつっかけて歩き出した。蝉の大合唱の中、港の方から車のエンジン音が聞こえてきていた。あの唸り具合はショップの車の音に間違いない。
(よし、今朝のことはひとまず忘れよう。色々あったけどここまで来たんじゃないか、やれるだけのことはやって帰らなくちゃな。頑張るぞ!)
 歩きながら、両手でもって、ぱんっ、と一つ頬を叩く。
 ショップの白いワゴン車が、次々と開きだしているハイビスカスの生け垣の向こうに止まった。
「おはようございます、今日も宜しくお願いします!」
 ドアが開く音と共に、腹に力を入れて挨拶をする。
「あ…!?」
 だが頭を上げてみて初めて、その運転手の顔に見覚えのないことに気付いて息を呑んだ。いや違う、見覚えならある。でもそれは覚えてない方がいいくらいの、かなり気まずい記憶で。
 目の前に、昨日港で俺を無理矢理船に引っ張り上げた上に叱り飛ばした、あの全身黒ずくめのお兄さんが立っていた。今日もこの暑さの中、上から下まできっちりと黒ずくめだ。その上顔の高い部分にやたらとがっちり塗ってある日焼け止めが、歌舞伎役者の隈取りみたいになってて余計に怖い。
「――なるほど、講習生ってのはアンタだったかい。こりゃしごき甲斐があるってもんじゃん。せいぜい覚悟しといて貰おうか」
(…うっ…うそだろ…!? テマリさんじゃないのか?!)
 何かの間違いじゃないかと思いたくなるが、よく考えるまでもなく、ダイビングショップを彼女一人で運営出来るわけがない。複数人数のスタッフが手分けしてやっていて当然なのだ。

 俺は促されるままにふらふらとワゴン車に乗り込むと、がっくりと俯いたまま、(この穴ぼこからイリュージョンみたく脱出出来たりしないものだろうか?)などと、半ば真剣に考えた。








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