宿の勝手口の方に回って台所で忙しそうにしていたチヨバアに不燃ゴミの捨て場所を聞き、砂まみれの割れたバケツを差し出すと「浜辺で拾ってきたのかい? 今時感心な子だねぇ」と言われた。
「え? えぇ、まぁ…」
 でも素直にその褒め言葉を受け取れない。
(だって、最初に見つけたのは…)
 そしてもし俺一人だったら、汚れたバケツまで全て掘り出しただろうか?とぼんやりと考える。
「ほらほら、イルカさんや、もうとっくに晩ご飯出来てるよ。みんな待ってるから、早く手を洗って席つきなさい」
「ええっ?! あ、はい! すみませんっ!」
 
 大慌てで畳敷きの食堂…というよりは8畳ほどの座敷に行くと、皆の視線が一斉にこちらに集まる。二つ繋げたテーブルには所狭しと大量の家庭料理が並べられているが、まだ誰も手を付けている様子はない。
「すみません! ごめんなさい、お待たせしてしまって!」
 だが慌てて下げた頭を上げた瞬間、思わずあっと声を上げた。
 テーブルの一番向こう端に、あの無愛想な銀髪男が俯き加減で座っていた。さっきは顔こそ見ていなかったけれど、あの服装と特徴的な銀髪が彼本人であることを明白に物語っている。
 まさか同じ宿のお客だったとは。道理で色が白いはずだ。
「えー…っと、その…、そちらの方は…?」
「ああそうか、イルカ、紹介するゾ! コイツはカカシ。畑カカシだ! オレの初めて出会った海の友であり、唯一のライヴァルでもある! それよりイルカ、お前顔が砂だらけだぞ? 浜でなにしてきたんだ? トレーニングか?」
「え?!」
 言われるままに頬を触る。と、確かにさっき頭からシャワーを浴びたはずなのに、いつの間にか顔全体がざらざらだ。隣の紅さんがタイミング良く差し出してくれたおしぼりを受け取り、丹念に拭く。
「…いえ、あの、浜でバケツに落ちたヤドカリを助けてたんです。そこの…カカシさんと」
「――――」
 カカシさんは相変わらず黙ったまま、テーブルの一角を静かに見下ろしていた。男の俺でさえ一目で男前だなと思う、すっきりと整った横顔をしている。
 それより、気のせいだろうか? その時周囲にいた彼らのリアクションが、どことなくぎこちないような気がしたのだけれど? 俺の何の気ない言葉に、ほんの一瞬だけれど、どう言えばいいのか戸惑ったというか、何というか…? とにかくその時一同の間に漂った微妙な空気を、俺は表現出来そうにない。いや、何もなかったと言われれば、そうなのかもしれないし…?
「――そう、良かった」
 紅さんがぽつりと一言だけ答える。
「あぁーもう、はやくはやくぅー、お腹ペッコペコだよーー!」
 アンコさんが箸とコップを持って騒ぎ始める。
「オイオイ、ウソだろ〜。お前あそこに何十個と山積みしてあったアンダギーさっき一人で完食したくせに、もう腹減ったってか?」
 続いてアスマさんが呆れた声を上げる。
「そうだよ、悪いぃ? アタシは写真撮る以外はね、チヨバァの作ったアンダギー食べに来てるんだからいいのっ!」
「あんな甘ったるいもんをか? 要するに丸いホットケーキだろ? しかも揚げてあんだぞ。よくあんなに食えるよなー…」
 アスマさんは思い出しただけで胸やけがしているような顔をする。
「あら、あたしもチヨバアのサーターアンダギー大好きよ。色んなとこの食べたけど、やっぱりチヨバアのが一番美味しいわ」
 そして紅さんは俺の方に振り向く。
「ここの『知与』っていう宿を一人で切り盛りしてるチヨバアはね、とにかく料理が上手なの。何でも手作りよ。お醤油は流石に買ってるみたいだけど、ソースは裏の畑で穫れた野菜から出来てるの」
「へえ〜?」
 俺は料理のことはよく分からないけど、野菜をここまでにするには途方もない時間と手間が必要なんじゃないだろうか? 市販のものと変わらない、深い飴色をしたソースの容器をしげしげと眺める。そして勧められるままお誕生席に腰を下ろし「何を飲む?」と紅さんに聞かれて「じゃあ麦茶を」と答えた。
「ストォォップ! 何を言っとるかイルカよ! 少しは呑めるのだろう? 遠慮するなぁ! 最初の一本はオレの奢りだ! グッといっとけ、グッとォ!!」
 ガイさんが目の前にグイッと500cc缶を突き出してくる。太い指が今にも握り潰しそうな勢いだ。
「この宿は、お酒は各自で自由購入制なの。明日からは晩ご飯までに自分の飲みたいものを買って、外の冷蔵庫に入れておくといいわ。島に一軒だけ雑貨屋さんがあるから、必要なものは何でもそこで買うことになるわね」
「はい、分かりました」
 良かったー、色々教えてくれる世話好きの人が居てくれて。ホッと胸をなで下ろす。

 目の前のコップに、本島の名物だというビールがなみなみと注がれると、待ってましたとばかりにガイさんが立ち上がった。
「では海の友との再会と、透明度抜群で大物がガンガン見られることと、イルカの講習合格を祈って!」
「あと珍しいナマコとウミウシが見られますように〜」
 紅さんが続く。でも今、ナマコ言わなかった…? ナマコ…見たい…のか?
「フォトコンで1位が取れるような、ベストショットがバシバシ撮れますよーに!」
 アンコさんが掲げているのはビールではない。背後には島焼酎らしい一升瓶が二本置いてある。この人、どっちも恐ろしくイケる口らしい。俺はビール以外はかなり弱い方だから、夕食時は余り近くに寄らないようにした方がいいかもしれない。
「じゃあついでに台風が発生しないことも祈っとけ」
 アスマさんがヤケクソみたいにビールグラス…じゃなくて大ジョッキを持ち上げる。この人どんだけ呑む気で居るんだろう? もしかしてあのジョッキはアスマさん専用の“置きジョッキ”だったりして。
「あ、台風はかなり大事ですよね?」
 でもかく言う俺も何だかワクワクと楽しくなってきて、早速会話に加わる。
「ハッハァー! 来るものか! 見てろォ〜! オレが連日のドピーカンを保証してやる!」
 ガイさんがタンクトップ…というか、あの形はどう見ても2枚980円の下着だと思うんだけど…に覆われた分厚い胸をグンと張る。
「えーホントですか?」
「まぁ確かにガイの晴れ男っぷりはいいセンいってるかもね。集合日がずれてて彼が島に来てない時って、あたし達100%の確率で台風に直撃されちゃうんだけど、ガイが島にいる時は不思議とずっと晴れてるのよ。そして帰った直後にはまたすぐ台風が発生するのよね」
「へええ〜?! すごい!」
「だからもう暑苦しくってしょうがないんだけどさぁー、仕方なく一緒に居るってワケ〜」
 アンコさんが溜息混じりにガクンと肩を落とす。
「フッフッフッ…どうだ、恐れ入ったかァ! 諸君はせいぜい有り難く思うことだな! そして台風にブチ当たった時に限ってカカシィ! お前が必ず居るではないか! どう考えてもお前が嵐を呼んどるぞ! もっとテンションを上げんかァ!」
 ガイさんがビールが注がれたグラスを持ったまま、俯いているカカシさんに向かってビシィと指をさす。
「――…乾杯、すれば?」
 するとぼそりと、本当に誰に言うでもなくカカシさんからぼつりと声がして、盛り上がりかけていた場の空気がぴいんと張り詰めた、ような気がする。
「…お、おう、そうだな! お前に言われるまでもなく今乾杯するところだったのだ! 今年もこのナイスな海にエントリー出来たことに乾杯ッ!」
「乾杯ーー!」


*  *  *


「うっはぁ…もうダメ〜、く…苦しい〜」
 ずっしりと重い腹を抱えてヨロヨロと男部屋に行き、部屋の隅に畳まれていた布団をごくいい加減に伸ばして寝床を作ると、そこにバッタリと倒れ込む。
 あの乾杯の後は、それこそ呑めや食えやで大賑わいだった。
 チヨバアの手作り料理は初めて食べるものばかりで、紅さんに料理名や食材の名前を聞きながら一つずつ箸を付けていく。名前は初耳のものばかりでとても覚えきれないけど、どれも一杯に大陽を浴びてキリリと新鮮で、びっくりするくらい美味しかった。そして何より、東京でいつも口にしている外食メニューにはない、豊かで優しい味がした。俺は朝から興奮しきっててろくなものを食べていなかったから、それこそ幾らでも入る気がして、夢中で食べまくった。
 勢いに乗って呑んだアンコさんお勧めの島焼酎や、紅さんがお酌をしてくれるというのでついつい頂いてしまった泡盛も、思っていた以上に美味しかった。ただ、そのせいで速攻足にきてしまい、食後に夜の海を見に行こうと思っていたのが無理そうなのが唯一の心残りだったりするけれど…。
 話もすごく楽しかった。
「鼻に付いているその傷、どうしたの?」と紅さんに聞かれ、子供の頃生まれて初めてビニールプールに入れて貰った時、水の中で目を開けられなくて閉じたまま顔を着けていたら、水中で飛ばしていたオモチャの飛行機の羽で切ってしまったと話したら、みんなに大笑いされてしまった。
 でも俺が未だに泳げないでいることをバカにする人は一人も居なかった。みんなダイビング本数は数百本とかなりの数らしいけど、聞けば大した距離は泳げないのだという。
 そんな中、今日初めて見た南の海がどんなにきれいだったかを一生懸命話したら、みんなあーだこーだと好き勝手に茶々を入れつつも、最後まで笑って聞いてくれた。
 皆いい人ばかりで、本当に良かったと思う。まだダイビングのダの字も知らない、しかも初対面の俺と、あんなに気さくに話してくれるなんて思いもよらなかったから、とても嬉しい。

 しかも彼らはああ見えて(失礼!)、俺なんかより遥かに行儀が良かった。
 きっかり夜8時になると、紅さんの「じゃ、片づける?」という言葉を合図に、みんな一斉に空いた食器を重ねて片づけ始めたのだ。誰もそれに対して不満や意見を言う者はいない。それどころかびっくりするような連携プレーで、どんどん台所に食器を運んでは洗っていく。何種類もの食器の置き場所さえ全て熟知していて、最後に奥の部屋にいるらしいチヨバアに「ご馳走様でした〜!」と声を掛けるまで、ものの10分くらいしかかかっていなかった。
 俺も慌ててみんなに倣い、テーブルや食器を拭いたりしたけど、後でこっそり紅さんに聞いたら「島の夜は本島に比べて早いのよ。それにああ見えてもオバァも年だし、お孫さんも寝ないといけない時間だからね」という、至極もっともな返事が返ってきた。
(そっか…そうだよなぁー)
 いつの間にかホテルに泊まっているような気分になっていて、何でもアリな感覚でいた自分が恥ずかしくなる。
「でもこの後呑みたければ、庭で呑んでもいいのよ? 大声で騒いだりしなければ、自分の好きに過ごしていいんだから」
 確かに庭では、早くもアスマさんがビールジョッキを片手にくつろいでいた。また旨そうに煙草を吸っている。ガイさんは縁側の板張りで柔軟やら腕立て伏せをしているし、アンコさんはまたカメラを持ち出してきて、庭テーブルの上で店を広げだしている。
 いつもなら俺はまだ会社にいて、駆け込みの苛立った電話に四苦八苦している時間だ。それがどうだろう、今夜は腹一杯呑んで食べて、心地いい波の音をすぐ間近で聞きながら、海から流れてくる夜風に吹かれているなんて。
 庭でアスマさんが付けたらしい蚊取り線香の匂いが、何だかひどく懐かしい気分にさせる。
(なんか…夢みてるみたいだなー)
 枕をぎゅっと抱き寄せる。
 もう彼らとも、何年も前から知り合いだったような気分だった。まだ会ってから数時間しか経っていないなんて、とても思えない。
(…ただ一人、カカシさんを除いて……か)
 布団に転がったまま、酔った頭でつらつらと記憶を辿る。
 さっきはそれこそ何年ぶりかっていうくらい夢中になって、思い切り呑み食いしてた訳だけど、時折一番向こうに座っている彼のことが気にかかって、こっそりチラ見てもいた。
 本当にあの人…カカシさんは、自分からは何も喋らなかった。時折ガイさんに話を振られても、「あぁ」とか「うん」とかのごく短い返事しかしない。それ以外はおばぁの作った料理をぽつぽつと食べては、酒も断って俯いていた。たまにふと顔を上げても、網戸の向こうの真っ暗な空をじっと見つめているだけで、決して会話に加わろうとしない。そうこうするうち縁側に出て、側に来た犬に餌をあげたり、ノートPCを携帯に繋いで仕事らしきことを始めると、他のみんなは何をするのもそれは彼の自由だと言わんばかりに、彼に背を向けたままめいめいの話に没頭していった。

(…いいのかな、あれで…?)
 もちろんカカシさんと他のみんながそれでいいと思っているなら、あれが今まで続けてきたごく普通の自然な関係なら、別に構わないんだろう。
(多分そうなんだろう、な…?)
 陸では素っ気なくても、海に潜る時は一緒に楽しむのだろうし、もう子供じゃないんだし、大体俺がとやかく言うことでもないし。
 皆いい人達ばかりだから、彼だけ仲間はずれになっているとは考えにくい。傍目にはちょっと不自然に見えても、あれが彼らのいつもの姿なんだろう。
(――考えすぎだぞ、…俺……)



(――…ぅん…?)
 次に気が付いた時には、周囲は殆ど真っ暗だった。うっかり旅行に来ていることを忘れていて、一瞬自分が何処にいるかが分からなくて焦った程だ。
 小さな豆球の灯りを頼りに辺りを見回すと、すぐ隣りで何も掛けないまま、Tシャツとパンツ一丁の大の字で寝ているアスマさんとガイさんの姿がぼんやりと見えて、少々げんなりする。
 いつの間にか雨戸がぐるり全部閉められており、扇風機が静かに首を振っていた。てっきり寝るときくらいはエアコンをつけるのかと思っていたが、コイン式で1時間100円のエアコンが動いている気配はない。従って室内はかなり蒸し暑いけれど、二人とも疲れているのかそれとも暑さには慣れているのか、とてもよく眠っている。
(あれ? カカシさんは…?)
 反対側を見て一度目を擦った。カカシさんがいない。布団はきちんと作られていて、横になった形跡もあるのだけれど、部屋のどこにも彼の姿がない。トイレにでも行っているのだろうか?
(…ま、いいか…?)
 一度は起こした半身を、再び布団に戻す。
 目を凝らしながら何とか腕時計を透かし見ると、4時を回っていた。東京ならまだPCに向かって起きていたりする時刻だけれど、TVがあっても誰も見ようとしないこちらでは、明日に備えて眠る時間だ。
 でも目を閉じても一向に眠くならなかった。そりゃあそうか、夜の8時過ぎに寝れば、幾ら昼間のシュノーケリングで疲れているとはいえ、4時に目が覚めるのも普通だろう。久し振りの運動らしい運動で少し体が痛いけれど、もう一度眠れる気は全くしない。
 何より体がやたらと火照っていて眠れなかった。
(う…こりゃ昼間の日焼けだな…)
 昨日は朝からすっかり興奮していて、日焼け止めを塗るのが遅くなってしまった。しかもこちらの紫外線は半端じゃないのだ。一度塗っても汗や海水ですぐに取れてしまうらしく、絶対に塗ったはずの腕や顔も熱を持ってピリピリしている。しかも耳の後ろは完全に塗り忘れていたらしく、めちゃくちゃヒリついて痛いったらない。
(眠れるわけないって)
 何度も寝返りを打った挙げ句、むっくりと起き上がった。
 隣の布団は相変わらず空っぽのままだ。
(カカシさん、何してるんだろう?)
 まさかこんな時間までトイレな訳ないし…。
(ちょっと出てみるか)
 外は少なくともここよりは涼しいだろう。
 俺はそーっと起き上がると、廊下の襖を開けた。



「ふぁー、気持ちいい〜」
 デッキシューズをつっかけ、外に出て潮風に当たると、自然と声が出た。うーんと大きく背伸びをする。やはり出てきて良かった。部屋より外の方が格段に涼しい。(多分視覚的にも)
 港の方角が白みだしている。そのせいで、街灯のないこの島の外れでも、建物や木々の輪郭が朧に分かるようになってきていた。見上げると、星はもうはや一等星しか見えなくなってきている。
(あれ?)
 庭の真ん中に小さな黒い固まりがあって、じっと目を凝らした。近くに寄っていって初めてカカシさんの犬だと分かる。夕べエサをやる時、確か彼は「パックン」と呼んでいた。俺が近付いても大人しくちんと座っているので、よしよしと頭を撫でてやる。
「おいで、一緒に浜辺に行こ?」
 声を掛け、手を差し出しながら、2、3歩先を歩く。賢い犬みたいだから、きっとこの仕草だけで理解出来るだろう。
 でもパックンはその場から一歩も動かなかった。まるで屋根の上の守り神みたいに地面に座ったまま、尻尾も振らずにじいっと海の方を見ている。
「どうした。海好きだろ? それとも一晩中遊んで、もう遊び疲れちゃったのか?」
 ゴシゴシと背中を撫でてやるが、昨日のような気持ちよさそうな仕草は見せない。ピンと耳を立て、まん丸い目でただひたすら海の方をじいっと見つめている。その横顔は頑固で、どことなくきかん坊みたいだ。
 あ、もしかして…?
(…カカシさん、あっちにいるのか?)
 ふとそんな気がして頭を上げた。けれどハイビスカスの生け垣越しでは、まだ暗い海の方向に誰かがいたとしても見えるはずがない。犬の様子が昨日と少し違うのも、何となく気にかかる。
「ちょっと待ってろ、今探してきてやるから」
 梃子でも動きそうにない小さな犬を置いたまま立ち上がった。浜に歩き出しても尚、パックンはお座りしたままでついてくる様子はない。昨日は何も言わなくても寄ってきていたし、当たり前のように主人の側に付き従っていたのに、今日はどうしてしまったのだろう?

 でも浜に出た途端、波打ち際にぼんやりとだけれど白っぽい髪の背高い人影が佇んでいるのが見えて、小さな犬の耳と鼻の良さに改めて感心した。間違いない、あの髪はカカシさんだ。あんな特徴的な髪色の人、そうそういるもんじゃない。
(カカシさんも部屋が暑くて眠れなかったのかもな)
 余程暑かったのだろう。波打ち際に立ったまま、足首が波に洗われるのも構わずに、じっと水平線の方を見つめている。
(今夜からは少しエアコンを入れるようにして貰えないか、あの二人に相談してみなくちゃな)
 料金はオレが払うことになったって、あと3泊くらいならそんなに大きな出費でもない。あの人無口だから、思ってても言いだせないのかもしれないしな。
 そんなことを考えながら、カカシさんの方に向かって砂浜に踏み出した時だった。
(…あ…れ…?)
 歩きだしたばかりの足がゆっくりと止まっていく。人とは妙なものを見て頭の中が急に混乱してしまうと、神経が自然とそちらの解決のために全て回ってしまい、結果足の方は止まらざるを得ない不器用な生き物らしい。

 波打ち際に立っていたカカシさんが、海に向かって歩き出していた。
 服は上下とも着たままだ。まるで彼の目には海なんて映ってないみたいに、ごくゆっくりとした足取りで静かに海に入っていく。今が満ち潮らしい海は、すぐにカカシさんのズボンの膝を濡らし始めた。
(…えっと…部屋がむちゃくちゃ暑かったから、海で全身を冷やそうとしてる、とか?)
 ――服を、着たままか?――
 すると胸の奥に、何やら嫌な想像が頭をもたげてくる。
 その間にもカカシさんは、ただ真っ直ぐ水平線の方を向いて、ひたすら沖へと進んでいく。
 まるで「今までは陸に遊びに来ていただけだから。今から海に帰る所」とでも言い出しそうなくらい、その歩みには何のためらいも感じられなかった。
(少し変わった人みたいだから、急に服を着たまま泳ぎたくなった…とか?)
 ――愛犬に、わざわざ宿で『待て』をさせたままか?――

「ちょっ…待て…っ!」
 寝起きでまだどことなく力の入っていなかった体に、突然凄い電流が流れたようになって、転がるようにして砂浜を駆け出す。
 カカシさんの後ろ姿は、もう腰から上しか見えていない。けれど両手を動かして泳ぎ出すような仕草は依然としてない。
 静かに、でも刻一刻と夜は明け始めていて、最初はぼんやりと薄灰色にしか見えていなかった彼の銀髪が、海原と共に少しずつキラキラと輝きだしている。
 足がもつれそうになりながら、砂を蹴立てて波打ち際まで走って来て止まった。と、彼の青いゴム草履が、水際の少し手前にきちんと並べて置いてあるのが目に入る。
「…なっ…」
 何だか急に恐ろしくなってきた。この人は、一体何をしようとしているのだろう。今すぐにも知りたいような、一生知りたくないような。
「…かっ…カカシ、さん?!」
 上ずり、裏返る声で男の名前を呼ぶ。まだ蝉も鳴き始めていないんだから、声は絶対に届いているはずだ。けれど、幾らその背中を凝視しようとも、カカシさんは返事をするどころか振り返ろうともしない。彼の背中は既に半分ほどまで水に浸かり、そのまま幾らもしないうちにとぷんと髪の先まで消えていってしまいそうな気がした。
(うっ…浮くんだよな? 人は誰でも浮くように、でで出来てるから大丈夫なんだよな? そうなんだろ?!)
 何度もそう考えてみるものの、一向に落ち着けなかった。
 昨日テマリさんが言っていた『思い込みが強すぎると、心も体も鉛みたいに重く固くなる』という言葉が、何度も頭の中をぐるぐると駆け回る。
「カカシさん! 何してるんですか!? 聞こえてるんなら返事して下さいよ! カカシさんッ!!」
 波打ち際でウロウロと行ったり来たりしながら、何度も呼び掛ける。
(――どうしよう、行くべきだろうか? 止めるべきだろうか? 止めるならどうすればいいんだ? みんなに助けを求めるか? でもまだぐっすり寝てるぞ? 間に合うのかよ? 大体何もかもが俺の早とちりで違ってたらどうするんだ? それこそ騒ぎが大きくなって、カカシさんやみんなに迷惑がかかるかもしれないぞ?)
(もっ…もし、もし今、俺が助けに行くなら…、いっ、行くと仮定したなら、ウェットスーツ着てないんだから、早く用意しないと間に合わなくなるぞ?! いやだめだ、ウェットを着ている暇なんて全然ないない、とてもじゃないけどそんなの間に合うわけない!)
 ぶるぶると頭を振る。
(じゃあじゃあ、フィンと、マスクと、あとそうだシュノーケルだけでも、今すぐ宿から取ってこようか?!)
 確か器材洗い置き場の近くの塀の上に干してあるはずだ。
(でもその間に彼の姿を見失ってしまったら? この分じゃそれも十分あり得るぞ?!)
 今一度どんどん遠くなっていく彼の後ろ姿を見る。もう波は彼の肩を洗っている。何も出来ないまま、ぼんやりと突っ立っているだけの自分がもどかしくてならない。こんな事になるんなら、会社の近くのスイミングスクールに多少無理してでも通っておくんだった。
(もし…もしここであの人を見失なったりしたら……そしたら俺が、彼を見殺しにしたことになるんじゃ…)
 一瞬、恐ろしい考えが脳裏を過ぎる。
 でもウェットも無ければ、フィンもシュノーケルも無い状態で、金づちからまだほんの半歩程度脱却出来ただけの俺がよしんば彼の所まで何とか行けたとしても、その後連れて戻れるだろうか? 自信なんてまるでない。
(でも行くしかないだろう?!)
 激しい葛藤が胸の中を駆けめぐる。
(誰かが近付いて声を掛けることで急に目が醒めるとか、俺の水音にハッとして自力で戻ってくれたりとか、するかもしれないだろっ?!)
 彼はとても優しい人だ。人の…いや自分以外の小さな生き物の痛みだって分かる人なのだ。他の誰が気付いて無かったとしても、俺は、俺だけは知ってる!
(このままじゃ嫌だっ! 海野イルカ! お前このままじゃ後で絶対に後悔するぞ! このまま何もしないでいられる訳なんてないだろ?!)

「――く……くっそおおぉーー!!」
 勢いよく寄せてくる波に向かって、真っ直ぐ突っ込んでいく。
 波を蹴散らすようにして突き進むと盛大に飛沫が上がり、靴を、綿のロングパンツを、そしてTシャツを濡らしていく。
(構うもんか、後で乾かせばいいんだろ!)
 それより今は、あのキラキラしている髪に向かってひたすら泳ぐのだ。
 絶対あの髪を見失わないように、1秒でも、1cmでも早く追いつくのだ!
(俺は軽い! すっごく軽いぞ! 沈むもんか! 絶対に沈まないんだから安心して泳げ!! 海のイルカ!!)

 海水が胸まで来て両足が自然と海底を離れると、俺はついに波間に微かに見え隠れしているだけになったほんの僅かなキラキラに向かって、TVでしか見たことのない水泳選手の格好を真似た。








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