「うわーー、きっもちいい〜!」
 ざぶざぶと水の中に入っていって、ウエットスーツのファスナーを下ろして中に一杯水を入れると、限界まで火照っていた体が何とも言えずいい感じに冷えていく。
「はあぁー、サイコ〜気持ちいい!」
「そんなにかい」
「えぇそりゃあもう!」
 夢中になって何度も胸元から水をかき入れると、体から熱を奪った海水が、足首からするりするりと抜けていく。温かい風呂は昔から好きだったけれど、海の水がこんなに気持ちいいと思ったことはない。
(あぁそうだ、ブーツのファスナー、まだ上げてなかったな)
 火照りが消えて落ち着いてくると、ようやく「そのままじゃ足の裏を火傷するよ」と渡された靴のことを思い出した。スーツのせいでちょっと動きにくいけれど、我慢してよっこらと水中で体を折り曲げる。
「わ?! うわわッ!?」
 と、後ろから弱い波に押されてバランスを崩した足が、うっかり海底を離れてしまった。
「わあっ! ちょ…、まっ…うわああッ!」
 慌てて体勢を立て直そうと、両手足を無茶苦茶にばたつかせるが、足は何もない海中をただスカスカと無意味に蹴っている。
(ま、まずい、このままじゃ…)
 水深は胸くらいまでしかないはずだけど、それでも足が着かなかったら俺は…海野イルカは…!
(しっ…沈む…ッ!)
 突然恐怖が喉元までせりあがってきた。自分で盛大に上げてしまっている水飛沫が顔にどんどんかかりだし、飛沫は大きく開けた口の中にまで飛び込んできてゲホガホとむせる。波立った水が鼻からもズゴッと入ってきて、鼻の奥が無茶苦茶に痛くなってくると、ますます訳が分からなくなる。
(て、テマリさん…!)
 助けを求めて何とかそちらに首を捻る。が、彼女はちょっと離れた浅いところで腰に両手をやったまま、ただ黙ってこっちを見ている。
「…は…うわっぷ、……テま…り…」
「あぁ? なんだい?」
 いやに落ち着き払った返事が返ってくる。
(なっ……他人事だと思って…!)
 溺れながらもほんの一瞬腹を立てた。けどそんなことしてる場合じゃない。今は水面から顔が出なくて、次の息が出来るかどうかの瀬戸際なのだ。
「やっ、ぱ……しず……ム…!」
「浮いてるよ」
(え?)
 自分が立てる大きな水音でよく聞こえなかったけど、今なんと?
「浮いてるって。よく見てみな。底に足を付けようにも付かないくらい、手も足も胴体もプッカプカ浮いてるじゃないか」
「…エ…ッ? えぇ…? ぶはっ… エッ?!」
「んなに暴れなくたって大丈夫だって。いいから少しじっとして、自分がどうなってるか落ち着いて見てみな。十分息が出来るだけ浮いてるから」
「…へ…っ? …は…っ? ぶホ…っ?」
 テマリさんの言ってる意味が分からなかった。だって今この瞬間だって思いっ切り掻いてなければ、もし少しでも手足を止めたら、その瞬間から俺の体はそのままブクブクと沈んでいってしまうというのに。
「あたしの言うことを信じな。あんたは今、何もしないでも水に浮いてる。藻掻く必要なんてどこにもない。藻掻くとますます焦って沈んでいく気がするだけだよ」
「…そん、…な…」
 馬鹿なと言おうとしたとき、ふと目の端に空が見えた。
 雲一つ無く一面に真っ青で、目の奥に染み入りそうなくらい鮮やかな、どこまでも澄み渡った高い高い青。

(…ぁ…)
 
 と、すっかり動転して上か下かも分からなくなっていたものが、ほんの僅かだけれど静まったような気がした。
(――そうだ、落ち着け―――まずは落ち着くんだ、俺…)
 足がおっかなびっくりながらバタつくのを止め、犬よりも下手だった両手が怖々掻くのを止めだす。と、ウエットスーツに包まれた己の体が、いつの間にか見渡す限りの大きな青空に向かって真っ直ぐに向き合っていることに気付く。
「――ほっ…ホントだ?! 浮いてる! 何もしてないのに! すごい!!」
 とにかく心底ビックリして、でも嬉しくて。たったそれだけのことが堪らなく愉快で楽しくて気分爽快で、自然と頬が弛んでしまう。
「違う、逆だ。何もしないから浮くのさ。大体ウエットってのは気泡の固まりだから、その格好で沈めるヤツなんていやしないよ。――じゃあこれ、履いてみな」
 水色の大きな板のようなものが目の前に二つ落ちてきてそれを掴むと、いつの間にか体は自然と直立の姿勢を取っている。何だか魔法にかかったみたいだ。
「足ひれ、…じゃなくてフィン!?」
「どっちでもいいさ。履いたら必ず踵のバンドを適当に締めて……そう、で次はこれ」
「マスクと…シュノーケル?」
「ああ、人の目は魚と違って、水中じゃあ殆ど何も見えないし、息も出来ないからな。――さぁ、これで魚と殆ど同じ装備になったんだ。水の中、覗いてみ?」
「あ、はい」
 頷いて恐る恐る水面に顔を浸ける。
「――…?!」
 その時の気持ちを、一体何と表現すればいいだろう。
 感動なんて、そんな二文字ばかりの簡単なものじゃなかったのは確かだ。
 足元から沖へと広がっている白い砂の上に、水の流れが作りだしたらしい美しい砂紋が目の届く限り延々と続いている。更にその上には水面の波が作り出す水紋が影となって静かに重なり、不思議な青い揺らぎの世界が広がっていた。
 気持ち斜めに射し込んでいる強い太陽光線が、幾本もの美しい白い光のカーテンを作り出していて、その中を白黒の縞模様の小魚達が気持ちよさそうに泳ぎ回っている。耳元には遥か遠くを走っているらしいボートのエンジン音に混じって、小石同士がぶつかり合うようなパチパチという音が聞こえる。
(水族館じゃない、本物の広い海の音…!)
 俺はシュノーケルをくわえているのに、すっかり息をするのを忘れてその景色に見入った。そして余りの息苦しさにざばあっと水面に顔を上げてから、シュノーケルを外してハアアッと大きく息をする。
「なんか意味ないことやってるねぇ」
 テマリさんの呆れた声が聞こえて、俺は慌ててもう一度シュノーケルをくわえなおした。確かに今のはちょっと恥ずかしい。これじゃあまるで小学生だ。
「きれいだったかい?」
 口が塞がっていて喋れないから、何度も大きく頷く。
「じゃあこのグローブをつけたら、その辺ぐるっと泳いで見てきな。後で何が見えたか聞くよ」
 テマリさんがニッと笑うと、わざと大きく投げたらしいレモンイエローの手袋が、青い空に弧を描いて自分の頭の上を通り過ぎていく。
「うわ、わわ…!」
 でも俺は体を捻ると、まるでボールを投げて貰った子犬みたいにはしゃぎながら、勢いよくザンブと水面に体を預けた。


       *  *  *


 数時間後、海から上がって濡れたままテマリさんの隣りに乗って車が山道を登りだしても、俺はついさっきまで覗いていた海の中がああだったこうだった「あの魚は何という名前?!」「 何であんな形や色をしてるんだろう?」「 面白い、不思議だなぁ〜」などと、すっかり興奮しきって矢継ぎ早に話しまくった。
 ウエットスーツを着ている限り絶対に沈まないんだという安心感に加え、思わず笑ってしまう足ひれの面白いほどの推進力、そして息継ぎの不安で焦る必要のないシュノーケルのお陰で、俺はかつてないほど有頂天になってあちこち泳ぎまくり、夢中になって色んなものを見て回った。もちろん水中の光景ならTVや雑誌でよく目にしていたけれど、それと自分が脚を動かすことでどんどん目の前に広がっていく世界とはまた全く別物という気がした。
 海中は静かなようでいて、案外色んな音が良く聞こえる。フィンを履いた脚が動くと、どぷん、どぷんという音もはっきり響いてくる。自分の興奮気味の呼吸音も、シュノーケルを通すとすぐ耳元で聞こえてくる。
(これは夢なんかじゃない、TVでも、雑誌で見た一場面でもない。俺は確かに自分自身の力で海の中を泳いでるんだ!)
 そうはっきり実感しだすと、もう何を見ても……例え目の前に魚一匹いなくても、泳ぐということに飽きることがなかった。
 
「――で、どうだった、沈まなかった感想は?」
 俺がようやっと一息ついて黙ると、テマリさんはハンドルを握って前を見たまま言った。俺は首にタオルを掛け、まだびっしょり濡れている頭をポリポリと掻く。
「アハハ…、えっと、その…。何だか、気分が軽くなったっていうか?」
「だろ、前よりゼンゼンいい気分だろ」
 彼女の陽に焼けた頬が、気のせいでなくふわりと上がっている。
「ええ、はい!海に入る直前まであんなに心配してたのが嘘みたいです」
「そう、嘘だったのさ。あんたは“水になんて絶対浮けるはずがない”って思い込んで、自分に暗示をかけてただけなんだから」
(ぁ…)
 俺はトンと胸の奥を衝かれた気がして、相変わらず前だけを見ているテマリさんの横顔をまじまじと見た。言われてみればその通りだった。この世には「水に浮ける人とそうでない人が居る」と、誰に言われるでもなく長いこと思っていたから。
「その思い込みが強すぎて、心も体も鉛みたく重く固くしてたってわけ」
「あぁ、はい!」
「だからその重石さえ無くなれば、人は誰でも水に浮けるんだ。浮くように出来てるのさ。生まれたときからね」

 鮮やかな青と白と緑だけで彩られていたと思っていた世界には、いつの間にか朱色が混ざり始めていて、オンボロ車やテマリさんの潮焼けした金色の髪や、その意志の強そうな横顔を、薄茜色に染めだしている。
 一杯に開けた窓や、足元の大穴から吹き込んでくる風は相変わらず熱風といっていいものだったけれど、長いこと海に浸っていた体には意外なほど優しく感じた。

「泳ぐってのはさー、仕事やらなんやらでいつの間にか重たくなっちまってた自分が、本当は軽いんだってことを確認するためにあるのかもよ」
「ああ、なるほど…」
「あんたはまだそうでもないけど、都会から来た人達を見てるとよくそう思うんだ」
「んー…そうかぁー。ダイビングを教えるっていうのも、大変な仕事ですね」
「は? …アッハハハ! 何を言うのかと思ったら。いや、ぜんぜんだね。あたし達は好きなことをただ好きなようにやってるだけだから」
 テマリさんはこっちを見てニカッと笑った。
 最初はてっきり怖い人なのかと思っていたけれど、その第一印象は今ではだいぶ変わってきている。明日からの重器材を付けた本格的な講習も、これなら何とかなりそうな気がした。

(――あ、そういや…?)
 さっき彼女は「海の中で何が見えたか聞く」と言っていたけれど、俺が喋りまくっていたせいでまだ何も聞かれていない。
 もしもこれが資格テストの一環だったりしたらちょっと怖いなと思いつつも、俺は宿の前に前のめりでガッツンと止まった車を降りる際、おそるおそる尋ねてみた。
「あぁ? そんなこといつ言ったっけ?」
「なっ…?!」
 あっけらかんとした返事が返ってきて、また足元の穴に落ちそうになる。
「あ? あーあー、あれか。いやいい。必要ない。あれはな、もしもあんたが海の中を見ても何も感じないようだったら、質問攻めにでもしてやろうと思って言っただけだから」
「は…ァ?」
 ――何にも感じない、ようだったら…?
「あんたがこれからダイビングが上達していくかどうかってのはさ、泳ぎが上手いとか年が若いだとか、そういうのは実はあまり関係ないんだ。全ては生きてる海を見てどれだけ感動出来るかにかかってるのさ」
「あ、はい!」
 俺はそれ以上は何も言わなかった。
 まだ海の端っこにほんの少しだけ浸かっただけの今の自分には、他に上手い返事が出来そうになかったと言うべきか。でもアスマさんが「アタリだ」と言ったあの言葉は、しっかりと脳裏を横切っていく。


「――あぁ、みんな揃ってるね!」
 テマリさんは、濡れた水着の上に男物のTシャツを着ただけの姿でさっさと車を降りるや、宿の庭にいた人達に向かって軽く手を上げている。縁側やテーブルにたむろしていた人達が、口々に軽い感じの挨拶を口にしているその様子から、全員と顔見知りのようだ。
 午後のダイビングに行っていた人が戻ってきたり、本島から船が着いたりして、今日泊まる予定の人達が全員宿に集まったのだろう。さっきはいなかった新しいお客が3人増えている。
「あーそうだ、紹介しとくよ。彼は今日からCカードの講習を始めた海野イルカさん」
「よろしくお願いします!」
 急にテマリさんに紹介されて慌てて頭を下げると、ごく気さくな感じで「へー、イルカなんていい名前じゃん」とか「ヨロシクね」という返事が口々に返ってくる。
「アスマさんはもう知ってるからいいとして、そっちのテーブルでカメラいじってんのがアンコさんね」
「ハァイ、ヨロシクね〜!」
 テマリさんに紹介されると、大きなカニのようにも見える機械を無心にいじくっていた女の人が、手と顔を同時にぴょこんと上げた。カメラと言っていたけど、とてもそうは思えない奇妙な形をしている。テーブルの周囲にはレンズやら電池やらチャージャやら、他にも見たこともない色んな器材がごっちゃりと散らばっていて、何やらそこだけ独特の異様な雰囲気だ。
「よ、宜しく、お願いします」
 改めて軽く頭を下げる。
「その隣の髪の長いのが紅」
「よろしくね。イルカって名前、とっても合ってるわよ」
 言われた直後、椅子に足を組んで座っている女の人と正面から目が合った。ラフな格好をしているにもかかわらず、その容姿からは濃厚なゴージャス感が漂っている。
「…どっ、どうも…」
 彼女がナルトの言っていたボン・(以下略)の人だというのはすぐに分かった。あの子の表現は別段大袈裟でもなんでもなかったのだ。赤いタンクトップの胸元や、ショートパンツから伸びた白くて長い脚がやけに眩しい。
「で、上半身ハダカなのがガイ」
「カーーッ! 講習かぁ〜、いやぁー懐かしいっ! 思い出すなぁ〜、生まれて初めてに海に潜ったあの夏の日のことを! セイシュンというのは青い春と書くだろう? でもオレの青春は青い夏なのだッ! イルカ、分からないことがあったら何でも聞いてくれ! いつでも力になるぞォ〜!」
「――…はァ…」
 俺はすっかり呆気にとられたまま、その大きな身振り手振り付きの熱い裸ステージ(?)を見守り、最後に気の抜けたような返事を一つ漏らした。
「おいガイ。いいから服着ろ。暑苦しくてかなわん」
 アスマさんが大きな腕をぶんと一つ振る。
「いーではないか、我が海の友よ! この日々エアロで鍛え抜いた肉体美のどこが不満なのだ!?」
「「全部だ、全部!」」
 アスマさんとアンコさんの声が揃う。
 俺はぷっと吹き出しながら、もう一度みんなに向かって「宜しくお願いします」と言った。




 テマリさんが帰り、宿に一つだけの屋外シャワーで水を浴びたら、汗と海水がきれいに流れて一気にすっきりする。新しいTシャツと綿のパンツを付け、真水の溜められた器材専用の洗い場でざっと洗ったウエットスーツを物干し棹に干すと、俺は「ちょっと浜辺に散歩に行ってきますね」と言って、ものの10秒ほど歩いた所にある向かいの浜辺に降りた。

 ザン…ザン…と繰り返し寄せては返す波の音が、耳に心地いい。履き古したデッキシューズを脱ぐと、昼間あんなにも熱かった砂が、足の裏や指をサラサラと優しくくすぐる。声を張り上げないと通じないほどやかましかった蝉の声も、気が付けばいつの間にかまばらになりつつある。
 一日がこんなにも穏やかに終わっていく所がこの国にもまだあるんだなと、今まで一日の終わりさえロクに意識したことのなかった頭でしみじみと思う。

(…ん?)
 ふと、目の端で何かが動いたような気がして足元を見る。と、白い砂の上をノコノコと丸い貝殻が動いているのが目に入った。思わず屈んで拾い上げ、夕陽にかざしながらじっと見つめる。
(あぁ、ヤドカリ!?)
 ピンポン球ほどの丸い貝殻は地味な灰色だけれど、穴から出ている体は鮮やかな青色をしていて、何だかヤドカリらしくない。まるで精巧なおもちゃみたいだ。
(おまえも、染まったんだな?)
 そっと砂浜に降ろしてやると、すぐに貝殻から出てきておぼつかない足取りでノコノコと歩き出した。木の切れ端や石ころの上も、大きな貝殻の家を背負ったまま、果敢によじ登って乗り越えている。
(ふふ、かわいいなぁ)
 その様子を座り込んでじっと見つめている時だった。すぐ背後でただならぬ獣の息づかいがして、ギョッとして振り返る。
「――なッ……なんだ、犬か……び、びくりしたぁ…」
 がふがふとものすごい鼻息だったから、そんなもの居るわけ無いと思いつつも、一瞬家々の門柱に陣取っている獅子の焼き物みたいなゴツイ顔の巨大な猛獣を想像したのだけれど、実際には小さなパグ犬がきょとんとしてこちらを見上げていただけだった。
(ん? でも顔はちょっと…似てる、かな?)
 よしよしと頭を撫でながら内心で小さく笑う。どこの家の犬か知らないけれど、やたらと人懐っこい。座り込んだ自分の匂いを嗅ぎ回っては「あごを撫でてくれー」「背中を掻いてくれー」「お次は腹だー」としきりにねだっている。この小ささでは、きっと昼間は暑くて家の軒下かどこかでへばっているのだろうけど、夕方には元気一杯で浜辺を走り回るのが日課なのだろう。ここなら「飼い犬は常に紐で繋いでおけ」などと口うるさく言う人もいないに違いない。
(幸せな暮らしをしてるなぁ、お前。羨ましいよー)
 犬を撫でながら、ゆるいカーブを描きながら港まで続く、オレンジ色に染まった浜辺を見渡す。磯臭さの殆どない浜風が、洗ったままの下ろし髪を少しずつ乾かしてくれている。
(…あ? あれ飼い主さんかな?)
 浜辺を見渡していると、緑の茂みの向こうに偶然人が居るのが見えて、何と言うこともなくそちらに歩き出した。腹を見せて寝転がっていた犬も、むっくりと起き上がってついてくる。
 これが東京ならさして興味も沸かなかったのだろう。けど、不思議と見ず知らずの人と話をするのが楽しくなりはじめている自分に気付く。島の人達はみな気さくで、前向きで明るくて優しい人達ばかりだから、滞在中に色んな人と色んな話が出来ればいいなと思う。こんなこと、東京で仕事をしていた時には思いもしなかったことだ。

 その人は、体はこちらを向いてはいるものの、片膝を立てた格好で砂浜に座っていて、砂を見下ろすようにして深く俯いていた。
(何してるんだろう?)
 表情は落ちた前髪で何も見えない。でも片手が動いているところをみると、寝ている訳でもない。どうやら彼の眼下に何かいるらしかった。途端好奇心がむくむくと頭をもたげてきて、それが一体何なのか近寄って確かめてみたくなる。
(あれ、あの人…?)
 近付くにつれ、何となく彼に引き寄せられたもう一つの理由が分かったような気がする。
(髪の毛が…)
 それは見事な銀髪だった。刻一刻と鮮やかさを増しているオレンジ色の夕焼けが、薄い色の豊かな頭髪にそのまま映り込んでいる。
(ほんの束の間でも、毎日あんなきれいな髪色に染まれるなんて…ちょっといいよな?)
 自分の髪や瞳では、何色にも染まりようがないから。
 近付くにつれ、そのグレーのTシャツに生成のコットンパンツを履いた人は男で、割と自分に近い背格好なのだと分かる。立てた片膝の上に左手と頭を乗せ、空いた右手で眼下の何かをいじっている。
(あ、ヤドカリ?)
 彼が砂の上に乗せたことで初めて分かったそれは、自分がさっきまでいじっていたものと同じ、青色の宝石みたいにきれいなヤツだ。彼はどこかぼんやりとしたような格好で、砂浜に小さな貝を一つずつゆっくりと置いていく。どうやら彼の眼下には、ヤドカリが幾つもいるらしかった。砂に降ろして貰ったヤドカリはやれやれといった感じで、みな思い思いの方向へヨタヨタと歩いていく。
「こんにちは」
 少し離れたところで声を掛けた。多分その前から砂を踏む足音で気付いていたとは思うのだけれど、どういう訳か彼は顔を上げる様子が全くない。ただ手にしたヤドカリをゆっくりと砂の上に置いている。まるでこちらの姿が見えてもいなければ、声も聞こえてないみたいだ。
「何を、してるんですか?」
「――――」 
 依然として返事はない。でも好奇心から更に数歩近寄ったところ、何が起こっているかはすぐに分かった。
「あぁ、バケツに落っこちちゃってたんだ。――かわいそうに」
 どこからか流れついてきて埋まったのだろう。砂に埋もれた水色のプラスチックバケツの底に、何匹ものヤドカリががさごそと動き回っている。彼はそれを一匹ずつ救出していたらしい。
「昼間は暑かったでしょうね?」
 屈んで一緒に覗き込むが、どうやら死んでるやつはいないみたいだ。良かったと小さくホッとする。
「――――」
 それでも男は俯いたまま、一言も喋らなかった。喋ろうとする気配すら感じられない。島の人にしてはやけに白い右手だけが、ただゆっくりと動いている。
(恥ずかしがりの人…?)
 自分から話しかけてみたものの、この空気は流石にちょっと気まずい気がする。思わず穴の縁でちょこんと座ってヤドカリを見下ろしている犬の頭を、無意味に撫でくり回す。
「あのっ、このヤドカリって、なんて言う名前なんですか?」
「――――」
 彼も知らないのか、知っていても答えたくないのか。男は相変わらずむっつりと口を噤んだままだ。
(…ええっと…その……困ったな…)
 そうこうしているうちに、男はヤドカリを全て救出し終わり、今度は無言のまま素手でバケツの縁を掘り始めた。
(取り出して、捨てるんだな?)
 これにはすぐに合点がいった。見れば側にいた犬までもが、すでにフガフガと鼻を鳴らしながら小さな前足で懸命に砂を掻いている。
(よおぉーし!!)
 急に気合いが入ってきた。俺も負けてられるかとばかりに、早速砂の上に跪くや、前屈みになって両手で砂を掻きはじめる。彼はそんな俺を見ても、相変わらず銀色の頭を上げようとはしない。でももうその頃には、そんなことは気にならなくなっていた。
(この人は無口だけど…、でも悪い人じゃない)
 とにかくシャワーを浴びたばかりなのも忘れて、両手で掻いて掻いて掻きまくる。埋まっていたバケツはもろくなっていて、取り出すときに幾つかに割れてしまったものの、大の男二人+一匹がかりとあって、じきに全て掘り上げられた。

「――あはっ、やったー! これで完璧だ!」
 開いた大穴を一気に埋め戻すと、なぜだか自然と笑みがこぼれた。これでもうヤドカリ達が困ることもない。
(へへへ。ちょっといい気分)
 鼻の下を擦りながら、男の方を見る。と、もう彼はとっくの昔に立ち上がっていて、こちらに背を向けて歩き出していた。そのすぐ脇には、当然のようにパグ犬が寄り添っている。
(エ? あれ、ちょっと…?)
 余りにも素っ気ない彼の態度に、砂の上に膝をついたまま目をパチクリさせる。あの犬が彼のペットだったのは、まぁ予想通りだったからそれでいいのだけれど。
でも彼の余りと言えばあんなりなリアクションには、(まさかヤドカリ救出で俺が余計な手出しをしたから、内心怒って帰ってしまった、とか…?)などということまで考えてしまう。

(――あり得ない、よなぁ…?)

 背高い男の姿が道路沿いに作られたハイビスカスの生け垣の向こうに消えると、俺は手元に残され割れたバケツを今一度見下ろした。








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