(あれ…出ないな…)
 部屋に入るやベッドに座り、携帯でメモった番号に早速発信をしていた。
 が、先方がなかなか出ない。留守電にも切り替わらない。最初のうちこそ呼んでいるコール音がいつもかけているのと微妙に違って遠い感じで、離島独特の電話交換システムのせいかな?などと、何となく夢の世界に電話をかけているようで心躍らせていた。
 なのに肝心の相手が電話に出てくれない。もう今日は店じまいして、店舗には誰もいなかったりするのだろうか?
(確かに8時ならそれもあり得る時間か? あ、それとももしかしたら、もう店が潰れちゃってるとか?)
 失礼な不安が胸を過ぎる。
 だが電話を切ったらその瞬間、この浮き浮きとした楽しい思いつきの全てが勢いをなくして見る間に萎んでいってしまうような気がして、なかなか切れない。
 けれどもそうは言っても、相手が電話に出ないのではどうしようもない。
(やっぱ海に潜るなんて突拍子もなさすぎたかな…)と思い始め、いよいよ切ろうとした瞬間だった。
「――…はい」
 携帯から、恐ろしくぶっきらぼうな「今寝てたんだぞこの野郎」と言わんばかりの、不機嫌さ丸出しの小さな声が響いて、毎日50件以上の不特定多数の電話を取っているはずの百戦錬磨の心臓が、ドクンと飛び上がった。何気なく遊び電話をかけたつもりが、うっかり仕事電話に繋がってしまったような気がしたのかも知れないが、とにかく繋がってしまったからには今更切るわけにもいかない。
「あのっ、サバク…ソウソウさんですか? ダイビング、やってる」
 早鐘を打ち出した心臓が、耳元でうるさく鳴っている。
「――――…ぁぁ」
「やっ…夜分にすみません! その…ダイビングの講習を受けようかと、思っている者なんですがっ、いやでもあの、まだ受けるとか決めたわけでは全然ないのですが!」
「…………」
(うわッ、すっごいヤな沈黙!)
「あの、どうするか決める前に一つだけお聞きしたいことがあるのですがっ、その、全くの金づちでも、ホントに大丈夫かなーと、思いまして…」
「…………」
(うあぁ〜〜ダメだなこりゃ、完全に無理っぽい。真剣に呆れられてるよー)
 こんなことならもっと早くに電話を切っておけばよかった。延々コールしておいてこの結末はちょっと痛い。
 そもそも金づちがイルカと一緒に泳ぐなんて、どだい無理な話だったんだ。
(仕方ない、潔く諦めよう)
 そう思った時だった。電話の向こうで小さく女の人の声がしたような気がして思わず耳をそばだてた。続いて誰かが向こうで受話器を受け取った気配がして、やれやれ助かったと胸をなで下ろす。今しがた電話に出たのはスタッフじゃなくて、たまたま店に遊びに来てたお客か誰かだろうし、同じ切るにしてもこの状況では余りにも切りにくくてかなわないから、別のちゃんとした店の人に事情を話してから切ろう。うん、そうしよう。

「――あぁ、悪い悪い。なにぃ?」
 しかしそれまでの電話とは打って変わった、恐ろしくフランクな口調の女の子の声が響いてきた途端、これはこれで不意を衝かれてウッと返答に詰まってしまった。
「ええと…そのっ、ダイビングの講習を考えてる者な…」
「おっけぇーいいよー、じゃあいつにする? ウチは来月だと後半の方が空いてるから有り難いけど。あ、島までの足はそっちで確保ね。こっちじゃやんないから。宿はこっちで押さえとく。で、いつから何泊?」
「いえあのっ、ちょとまだ、そこまでは考えてなくてですね…」
「ハァ?」
「やっ、実はその…お恥ずかしながら、自分全くの…あの…金づち、でして…」
「だから?」
 このお姉ちゃん、恐ろしくせっかちらしい。ちゃきっとしてるのはいいんだけど、返答を返すスピードがまるで弾丸状態だ。対する自分はそれにモロに撃たれてしまって、ますますしどろもどろになっていく。
「で、ですからホラ、ダイビングの免許なんて、そもそも何日かけたって取れないんじゃないかなーなんて、ハハ…ハ…」
「なぁんだ、あんたそんなこと気にしてんの? アッハハ! おっかしー! だぁいじょぶだって! 沈んだらアタシ達が引き上げたげるからさー! 安心してな! で、いつにする?」
(だからまだしないって!)
 これには流石の俺も脳内で弾丸返答だ。
(おいおいちょと待てよー。南の島の人達ってもっとこう、のんびりしてて穏やかなんじゃないの? この電話って、ホントに南の島の楽園に繋がってるんだよなぁ? まさか東京のウチの顧客とかじゃないよね?!)
 電話応対が仕事なのに、すっかり平静を失ってあらぬことまで考え出す。
「――フフフ…あのね、あんたがどこでここの電話番号調べてきたか知らないけど、ウチらをナメて貰っちゃ困るよ」
(え…?)
 急にちゃきちゃき姉ちゃんの声が凄みをおびた気がして、ハッと息を呑む。
「この店をその辺の金儲けしか知らない無責任ショップと一緒にしないで欲しいね。あんたがカナヅチだろうがノコギリだろうが、一旦ウチらに命預けるって決めてくれたお客には、何が何でもとことん楽しんで帰ってもらうってのがウチらの流儀なんだ。あんたがやるやらないは別にしても、それだけは覚えといて貰うよ」
「…ぁ………は…ぃ」
「泳げないなら泳げるようにしてやる。沈むなら浮くまでとことん付き合ってやる。だぁから大丈夫だって〜!今まで沈んだまま上がってこなかったヤツはいないからさぁー!」
「―――――…」


 で結局その後、俺はその電話でもって講習の申し込みと4泊5日の宿の予約をしてしまった。生まれてから25年間というもの、街頭とか電話でのキャッチセールスなんて一度もハマッたことなかったのに、今回は完敗だった。もう彼女の放つ強力なマシンガンにダダダダーッと一気に打ち抜かれてしまい、逃げる間もなかったというか…なんというか。
 そして最後の最後。電話を切る間際になって、長年の習慣から最後の力を振り絞るようにして「あのっ、お名前を伺っておいても…」と聞いても聞かなくてもどっちでもいいようなことを恐る恐る切り出すと。
「あぁ? テマリだよ」と返ってきた。
「テマリさん、ですね」と復唱すると、すぐに「テマリでいいよー」とあっけらかんと即答してくる。
 しかし彼女のことを「テマリ!」なんて呼び捨てに出来るお客が果たしているのだろうか?
(現地に行ったら確かめないと、だな)
 俺は混乱の余りおかしな所に赤線チェックを入れつつ、今日二度目の『ぐったり電話』を切った。


 * * *


 翌日。
 俺は早速夏期休暇の交渉をしに、昼休みを早めに切り上げるとツナデ部長の所へと向かった。
 俺達のやっている電話でのサポート業務には、夏期休業期間というものがない。だから常に交替でやりくりする必要があるために、予め「休暇届申請書」というのを出すのが通常のやり方だ。けれど俺は今までそんな長い休みを一度も取ったことが無かったから、いきなりはまずいかと考えて直接出向くことにしたのだった。
 彼女はここのフロア全体を束ねる責任者で、担当会社別に幾つもの島に別れて業務を行っている総勢二百余人のスタッフの指揮総括を一手に担っている。彼女の指揮ぶりと呑みっぷりは他の部署にも広く知れ渡っていて、このフロアに独特の睨みと守りをきかせながら日々舵取りをしている。

 俺がデスクに赴いて「5日ほど続けて休みを取りたいのですが」と切り出すと、机に突っ伏していて付いたと思しき指輪の後がくっきりと付いた寝ぼけ顔ながら「んぁ、珍しいねぇ。どこかに出掛けんのかい?」と訊いてきた。
「はい、突然なんですが昨夜色々ありまして…。実は南の方海に行こうと思ってまして」
「はぁ? 海ィ? あんたドン臭いとこあるからてっきり泳げないもんとばっかり思ってだけど、泳げんのかい?」
(うはぁー)
 早速鋭いジャブが入ってきた。でもこれをかわしていかない限り、イルカとは一生一緒に泳げないのだ。かといって『上司がそこまで部下の休日申請理由の詮索をしなくても…』などともっともそうなことを言い返したとしても何ら通じないことは、ここのフロアの誰もが承知していた。(噂では、あの薬師君ですら玉砕したらしい)
 かくなる上は(この会話を楽しむしかないだろ!)と腹を括る。
「アハ、あはは〜…いえ、仰るとおり全然泳げないんで何とかこの夏の間に泳げるようになりたくて。実はそのー、南の島でダイビングの免許を取ろうと思い立ちまして」
「あァ? ダイビングー? ダイビングって、あのでかいタンク背負って潜るアレかい? 全然、全く泳げない金づちなのに? そりゃまた随分と大きく出たねぇ〜」
「ま、まぁ確かにそうですね…ははは…」
 でも俺はこの先制パンチにはさほどメゲなかった。何でかっていうと、さっき社食でランチを食べている時、仲のいいイズモやコテツやライドウに打ち明けた途端、全く同じ事を口々に言われて、既にある程度メゲ慣れていたからだ。
 でも「現地のダイビングショップのお姉さんが“沈んだまま浮き上がって来なかったヤツはいない”と言ったから大丈夫」とはとても言えなかったのだけれど。

「じゃあそれはいいとして、この時期台風は大丈夫なのかい?」
 ツナデ部長の声のトーンが少し変わった。心持ち真剣さを帯びているような気がする。
「あぁいや、流石にそればっかりは…」
 確かに俺もそのことは頭の隅に引っかかっていた。でも今から幾らその心配をしてみても、その時になってみないとそれだけは何とも言えない。ひょっとしたら一ヶ月半後に、ニュース映像の中だけでは何度も目にしたことのある『空港のカウンターで大行列』とか『空港のロビーで一夜を明かす』なんていう恐ろしく有り難くない体験をするのかもしれないけれど、今現在は分からないとしか言いようがない。
「まぁ今から分かるんなら、気象庁はいらんわな」
 要するにツナデ部長は、俺が台風で島に閉じこめられて、イレギュラーでいきなり仕事に穴を開けられてしまうことを危惧しているらしい。
「じゃあ余分に有給を二日付けて、丸々一週間の休みにしていいですか? 幾ら台風でもそれまでには帰ってると思いますので」
 有給なら売るほど持っているから、ダメ元承知で思い切って切り出してみる。大体今からあのショップに講習キャンセルの電話をする勇気なんてないし。
「オイオイ、ちょと待て! そいつぁ幾らなんだって少し調子が良すぎやしないかい? ったく勘弁しておくれよ〜」
 すぐに部長は、白くてふっくらとした手を顰めた顔の前で勢いよくぶんぶんと振りたくった。
(ああ、やっぱ無理だったか。そうだよなー)
 実は今、この業界はどこも深刻な人材不足で、日々とても困っているのだ。
 最近は好景気で元々人手不足の上、この業務自体がある程度以上のソフトに対する専門知識を持った者でないと務まらないときている。加えて昨日のような「厄介な客」がここ近年急増していることから、精神的に疲弊してしまって辞める者が後を絶たないのが現状だ。スタッフの定着率は年々悪化していて、人手不足は慢性化しつつある。最近は休日出勤を打診されることも多い。
 そんな状況で、俺を丸々一週間も休ませるはずがなかった。

「…ったく、珍しく浮いた顔して何を話に来たのかと思えば……あ〜もう〜、まぁしょうがないかー。たまには仕事を忘れて頭カラッポにしてこい!それもお前の仕事のうちだ。追加の二日は休日出勤の要請を沢山受けた褒美だと思って取っときな!」
「ぁ…ありがとうございますっ! 絶対、必ず泳げるようになって免許取ってきますので!」
「帰ってきたらそれこそ大車輪で働いて貰うよッ!」と釘を刺されながらも、俺は凄い勢いで何度も頭を下げた。一旦は萎みかけていた胸の中が、ドキドキとワクワクで一気にぱんぱんに膨らんでくるのが分かる。
 そうだよ、きっかけはどうあれ一度やるって決めたんだ。頑張ろう、ホントに誰のためでもなく自分のために頑張ろう! 今日は嫌な客の電話を取っても我慢するぞ。いや今日だけじゃなく、暫くは全然苦にもならないんじゃなかろうかという気がする。

「――あぁそうだ。あともう一つ条件がある」
「はい?」
「休暇明けの月末にある勉強会に顔を出しな。その後の呑み会で、お前がどれだけ潜りの腕前が上達したか話を聞いてやる」
「ぁ…ハイ!」
「土産はいらないから、旅行の話だけ聞かせとくれ。どうもここんところの陽気のせいか、気分まで湿気ちまってる奴が多くてかなわんからな。ひとつ連中の酒の肴になるような面白いヤツを頼むよ!」
「はいっ!」

「あぁ〜、海野は返事だけはいつ聞いても気持ちいいねぇー」
 失礼しますと頭を下げ、気持ち広く仕切られたパーテーションから出ようとすると、ツナデ部長のあっけらかんとした声が追いかけてくる。
「えぇ〜〜、返事だけって、そんなぁ」
「ははは、まぁそう真面目に腐るな。返事が気持ちいいってこたぁ、頭ん中で考えてることも同じように気持ちいいって事さね。返事だけ年中気持ち良くする事なんざ、お釈迦様でも出来やしないよ」と言われ。
「お釈迦様は気持ちの悪い事は考えないんじゃ…」なんていう下らないツッコミを止めた俺は、もう一度「はいっ!」と元気よく答えた。








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