「――えっと…そういえば、あの『一人暮らし向け情報サイト』って、もう読んだ?」
 遠目にもそうとはっきりわかるほどまで蕾が膨らみ始めている大きな桜の木の下を歩きながら、隣を歩く男にやや遠慮がちに訊ねる。
(だって、いまそこで会ったばかりだし)
 まだ高三のはずなのに、やたらと真面目そうな、かっちりした事務員みたいな服装してるし。
 それに、T大は変な人が多いって聞くし?
 ついさっき合格した勢いで「一緒にルームシェアしない?」と誘っといてなんだけど、やっぱまだ、何となく。
「あぁ、全入学者を対象にした、入学準備説明会の案内とかが載っていた?」
「そう。あれに参加すると、教科書の購入とか、T大での過ごしかたとか、今後の生活に一体幾らかかるのかとか…」
 実は自分は読書にかまけていて、つい先日ようやくそのサイトに大まかに目を通したばかりだから、まだ殆ど読み込めてない。全ては受かってからの話だと思っていたし。
(けど、アンタはもうしっかり読んできてるんでしょ?)
「そうか、不動産会社を通さない格安物件もあるって、書いてありましたね?!」
 しかしこの海野という男、今さっき初めて会ったばかりだというのに、ぜんぜん、全く、オレとの距離をはかっている様子がない。物理的な距離がいやに近く、しかも初対面とは思えない真っ直ぐな視線でこちらを見てきて、お陰でこっちのほうが何だか引き気味になっている。
「…その…さ、ついでだから、行ってみない?」
「はい!」



   
glasses 〜after that〜



「――はぁー…、大学生活って、思ってた以上にお金がかかるんですね…」
「んーー、だーーねぇ〜」
 今しがた、構内の大食堂で、現役T大生の司会進行による『入学準備説明会』なるものが終わったところだが、二人して椅子に腰掛けたまま、少々ぐったりしている。
 お金が、ない。
 例え奨学金を貰い、入学金や授業料を猶予か免除して貰ったとしても、全く足りない。とにかくなにをするにも先立つものがないために出来ないという現実を否応なく突き付けられて、途方に暮れる…というよりは、むしろ唖然としていた。
 クラス編成が決まった後で行われる、新入生の殆どが参加するという一泊ないしは二泊の親睦会(という名のコンパ)などは不参加にするとしても、それでも授業が始まるまでに一通りの体裁が整えられるか、甚だ心許無い。
 二人でどこかに住まうにしろ、一銭の入金もないまま受け入れてくれる所などないことくらいは知っている。またT大生は、キャンパスライフに必要なものの大半は、大学が運営している生協で安く購入できるという有難い仕組みがあるらしいのだが、利用するためには予め出資金が必要で、それなくしては教科書や教材すら買えない。そしてレポートを書くための、大学推奨のアプリが入ったノートパソコン。自分はPC自体は持っているからインストールだけで済むが、イルカはこれも厳しいと嘆いている。
 現在住まわせて貰っている伯母さん夫婦も、ここまで初期投資が必要とは思ってないだろう。失礼ながら、出せる額でもない気がする。いや今日まで十分すぎるほど世話になったのだ。最初から払って貰おうなどとは思ってないが。
(入学しさえすれば、どこの店にも置いてない希少な本が、いつでもタダで浴びるほど読める、なんて思ってたけど…)
 甘いにもほどがあった。読書以前に、果たして一日一食食べられるだろうか。
(ま、やるしかないけど)
 このイルカという男は、ついてこれるだろうか。
「うーん、まずはどこから解決していくべきか…」
 さっき説明役をしていた現役の上級生が、シメの言葉として話していた台詞がまだ耳の奥に残っている。ずっと口の端に楊枝をくわえながら喋っていて、(絵に描いたような胡散臭い上級生だな)と思っていたけれど、どうやら見た目と中身は違うらしい。
「いいか、我々が生きていくということは、ひたすら問題を解決していくということと同義だ。よって君達新入生の長かった試験期間は終わったように見えて、実はまだまだ全く終わっちゃいない。T大生ならば、いち早く身の回りにある問題点を見つけだし、それを解決していく力を磨け。――健闘を祈る」
(問題点か…)
 余りにも沢山ありすぎて、一体どれから手を付ければいいのやらだ。
 オレの人生という名の問題集は、広辞苑何冊分くらいなんだろう。

「ぁほらカカシさん、物件紹介やってますよ!」
「ぁ、うん…」
 イルカが真っ黒な瞳をキラキラさせながら、「住まい探し相談所」というのぼりが掲げられたスペースに引き寄せられていく。イルカも貯金は全く無いと言っていたけれど、とてもそんな風には見えないはしゃぎっぷりだ。受かったことが相当嬉しいのだろう。けれどそろそろ目を覚まして貰いたいところだ。
 こっちは既に、首までどっぷりと現実に浸ってしまっているが、先立つものが全くないまま相談に行ったところで、出せる予算の最低ラインの目処すらたってないのだ。話は進められないだろう。
(そうだな…まとまった額が集まるまでは、最初は交通費がかかるけど、お互い自宅から通うようにして、バイト代がある程度貯まったら下宿を探すって方向で…)
「あのー、この大学の近くで、歩いて通える物件を二人で探しているんですが、今まとまった額のお金が全くなくて、暫くは家賃が払えない者でも借りられる下宿って、ないですか?」
(ゃ、ちょっと?!)
 ブースに置かれてあったパイプ椅子に座るや、いきなりむちゃくちゃな条件提示をしている男に、内心で呆れる。両隣の家族連れが呆気にとられた表情でイルカのことを見ているが、彼が気にしている様子はまるでない。
「もちろんいずれは必ず、全額お支払いします。でも今はまだバイトも見つかってないし、二人とも貯金がないんです。なんならその下宿で、今日から働いてもいいんですが」
「ゃっ、えっ?!」
 今度こそ思わず声が出た。学生が下宿先で働くなんて話、聞いたことない。
「お願いします。二人ともさっきの説明会の話を聞いて、すごく困ってるんです。もしちょっとでも心当たりの物件がありましたら、紹介して頂けませんか? どんなに古くても、狭くてもいいので」
「ちょ、イルカっ」
 慌てて後ろから小声で小突くが、男は岩にでもなったみたいに振り向きもしない。
「いいから、ここは任せて下さい!」
(しかも、声大きいっ)
 イルカの声は、とても聞き取りやすいぶんよく通る。ほら、三つ向こうに座ってる人達までこっち見てるでしょ、やめて!
「――っ…と、わかり、ました。では…可能性は高くはないですが、一軒だけ心当たりがありますので、少々お待ち下さい」
 イルカの勢いに押され気味になっていた担当者があたふたとファイルをめくり、中に保存されていた紙切れを一枚取り出す。
「仲介業者が間に入らないので、ここに自分で連絡して、直接交渉してみて下さい。その後結果がどうだったかを、必ず知らせて下さい」
 その担当者の話では、「家賃が安いから毎年連絡する人も多いが、空いていても断られる人が殆ど」だという。
(ええーーなにそれ)
 それでもイルカは、「ありがとうございました! 今から早速連絡してみます!」と、高く括った黒髪を、ぶんと勢いよく下げた。

「ってなに、オレが電話すんの?!」
「はい」
 なんでもイルカは、携帯を持ってないのだという。最初何の冗談かと思ったが、本当らしい。
「今どきPCも携帯もなしって、凄くない?」
「そうですか?」
 イルカは特に疑問にも感じてない様子で、けろっとしてオレに電話を促している。どうやら彼は、本当にお金がないらしい。生活費すらままならない状況というなら、余りゆっくりと構えていられないというのもわかる気がする。
(じゃ、一応役割分担てことで)
「はいはい、ならかけるとしますか〜」


     * * *


「ほうほう、よく来たの。まぁ上がっていきなさい」
 開口一番、「こんにちは」「お忙しいところ急にすみません」と挨拶すると、60もだいぶ過ぎたと思しき大家が出てきて頭を下げる。
(ぅ…想像以上に、古…)
 スマホの小さな画面に導かれるままやってきたものの、その年数を経た木造の建物が放つ一種独特の佇まいに、思わず呼び鈴を押すのを躊躇していた。間取りと家賃の安さから、ある程度は覚悟していたものの、ここまで古い建物で暮らしたことはもちろん、立ち入ったことさえない。
(ちょっとーー、ここ大丈夫なのホントに?!)
 だが隣のイルカが戸惑っている様子は欠片もない。むしろ嬉しそうな様子で、「はい、お邪魔します!」とどんどん上がっていく後ろ姿に、信じられない気持ちで不承不承続く。
(ゃだってここ、オレ達が越してきたら微妙なバランスが崩れて倒れたりしない?)
 増えていく本の置き場所を常に考えてないと床が落ちるとか、勘弁してよね?!


     * * *


「――って、ほんとーに…決まっちゃったよ…」
 大家が部屋から出て行き、ミシミシと激しく鳴る階段を降りきって、すっかり建物から出て行ったのを確認するや、ずっと溜めていた溜息を吐く。
 下宿先が決まった。今日からこの四畳半ひと間のセピア色に染まった空間が、180近い男二人の新たな出発地点となる。
「ええ、本当に良かったですね!」
 終始熱心な交渉をしていたイルカは、心から安堵した様子で満足そうに頷いているが、オレはまだ納得できていない。
「ゃでも階段、凄い音してたよー?」
「ははっ、ウグイス張りみたいでカッコイイですよね。防犯にもよさそうだし」
「ウグイスて……でも風呂ないし。やっぱ夏場は不便になってくるんじゃ…」
「大家さんの話だと、構内の身体運動実習室に行けば、いつでも無料でシャワーが使えるらしいですから」
「そうだけどさーー」
 終始前のめり気味に交渉していたイルカの熱心さは、蒜山(ヒルゼン)と名乗った大家の心をあっという間に掴んでしまっていた。内心二つ部屋がある物件が希望だったため、余り乗り気でなかったオレの目の前で、あれよあれよという間に話が進んでいく。そして最後に畳み掛けるように言った、『蒜山さん、俺達には家族がいません。俺がいま信頼できる身内は、彼だけなんです。お願いします!』という言葉でもって、当初からイルカが希望していた全ての要望が通っていた。
 敷金・礼金・管理費・共益費なし。
 保証人不要。
 家賃1ヶ月分免除、2ヶ月間の支払い猶予あり。
 洗濯機・冷蔵庫は共有のものを無料で利用可。(冷蔵庫は自分の物に名前を書くルール有り)
 水道・新聞代込み。(但し、新聞は大家が読んだあとのもの)
(それで、月3万か…)
 折半すれば、一人当たり1.5万。どれだけ古いといっても都心の物件なのだ。結果としては上出来なのだろう。すっかり出遅れていただけに、まさかここまで好条件が引き出せるとは思っていなかった。





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