大家曰く、「ここは、本当に困窮している者のために空けてあった部屋」ということで、全てはそこにいいタイミングでぴったりとハマッてくれたイルカのお陰なのだが、オレはというと、まだ何となくモヤモヤしている。
「俺のスペースは、押し入れの下の段だけでいいですから。カカシさんは畳の部分を自由に使って下さいね!」
「そうはいかないでしょうよーー」
 晴々とした表情のイルカがまた妙な提案をしてきて、(この男、今までどんな暮らしをしてきたんだ?)と思う。
「でもそうしないと、カカシさんの持ち物が入りませんよ」
「イルカの持ち物だって入んないよ」
「俺はいいんです。俺はゼロからの出発なんで」
(は? なにそれ)
 意味がわからないのに、妙に格好いい気もして悔しい。
(はーー…なんだかなぁ…)
 成り行きで、変なヤツと一緒に住むことになってしまった。しかも風呂無しトイレ共同の、いつ風が吹いて倒れてもおかしくないような、四畳半のおんぼろアパートだ。部屋の片隅に申し訳程度のキッチン…というか水場はあるものの、蛇口からは水しか出ない。コンロは真っ黒なのが一口。もちろんエアコンもなければ、ベランダもない。部屋は二階だが、窓は北と西に怖ろしく薄っぺらいのが入っていて、家賃三万に浮かれていられるのも時間の問題という気もする。
 なのに目の前の男ときたら、「カカシさん、俺もう今日からここに住みますね。いやぁーこの狭さがいやに落ち着くなぁ。ははっ、なんか懐かしいっていうか〜?」などと楽しそうにおどけて見せている。
(懐かしい?)
 カプセルホテルにでも泊まり慣れているのだろうか?
 布団もないのにどうするつもりなのかと聞いても、「雨風がしのげるだけで十分ありがたい」んだそうだ。
(T大の学生ってのは…)
 本当にこんな変わり者ばかりなのだろうか? オレもつい最近までは高校でそんな感じのことを囁かれていたようだが、彼と比べればいたって普通の人間だと思える。
(にしても、『いま信頼できる身内は彼だけ』って、なによ)
 イルカはどさくさに紛れていいこと言ったつもりかもしれないが、オレはちゃんと聞いていた。
(さっき会ったばかりのアンタが、いつオレの身内になったって?)
 それも効果的なアピールの一環だとしたら、大したプレゼン能力だ。そういう意味でなら、見習うべき部分もあるのかもしれない。
(まっ、でもしょーがないか…)
 手元にお金がないのは、曲げようのない事実だ。あれこれ下らない片意地を張ってみたところで、目の前の物件より良い所は見つからないだろう。キャンパスまで歩いて行けることから、交通費がかからないのもとても大きい。後期試験の合格者は、それだけでもう既に大幅に出遅れているのだ。ここは素直に認めよう。イルカのやったことは全て正しい。
(ひとまずここで、暮らしてみるか)
 将来資金に余裕が出てきたら、越せばいいのだ。
「そーね、もしこの先上手く稼げなくて、ここにどれだけ長く住んだとしても、たかだか四年間だしね。ま、より上の生活を目指すためにも、この部屋はいいスタート位置なんだと思うことにするよ」というと。
 なぜか一瞬返事に詰まったようにも見えた男は、「その意気です!」とひとつしっかりと頷いた。


     * * *


「え、なにっ? どしたの?」
 翌日の午後。
 両手と背中一杯に厳選した荷物を持って「木ノ葉荘」に辿り着くと、玄関付近で顔といい体といい、ところ構わず白いペンキまみれになっている男と出くわして、目をぱちくりさせる。
「ぁ、カカシさん! 見て下さい。あの部分、すごくきれいになったでしょう?」
 イルカがハケで指し示した方向…下宿の窓の外の手摺り…を見ると、昨日まではすっかり塗装が剥げ落ちて、下地が雨ざらしになって茶色く朽ちていた部分がライトグレーに塗りなおされ、どの窓辺も随分と明るい印象になっている。
「けさ大家さんの所に新聞を取りに行ったら朝飯をご馳走になったんで、お礼に修理をかって出たんです」
「はあ…そうなんだ…」
 高く括った髪も、裾を捲り上げた腕やスラックスの足下も、果ては何をどうやったらそこまでになるのか、背中にまでべたべたとペンキの洗礼を受けている派手な姿に目を奪われたまま、曖昧な返事を返す。
「ペンキ塗りって初めてだったんですけど、何とかなるもんですね! はははっ、体を動かすってことがこんなに気持ちのいい、わくわくすることだったなんてなぁ〜!」
 やっているうちにどんどん楽しくなってきて、脚立を借りながら全部屋の手摺りを塗ったところ、大家がとても喜んで、その分の日当までくれることになったという。
「やー助かりますよ。本当に有り難いです」
(へぇー、下宿で働くって、本気だったんだ?)
 しかも昨日会ったばかりの大家と、早くも随分と親しくなっているらしい。声を聞きつけて奥から出てきた大家と、まるで息子か孫のような自然さで話をしている。彼はもうその持ち前のコミュニケーション能力で、この場所に根を下ろし始めているのだろう。
(…ま、オレは…いいんだ、別に)
 そういうのは、性に合わないと自覚している。根を下ろすなんて、何だか面倒な感じもするし。自由な浮き草で済むなら、それに越したことはないのではないだろうか。
 但し二人で暮らすとなれば、甘えたことは出来ない。いやしたくない。
(早くバイト先、探さないとな)
 持参した荷物が加わった分、いよいよ盛大に鳴り響く階段をおっかなびっくり上りながら思った。


* * *


「やー終わった終わったー」
「ってどうすんの、そのペンキ」
 一通り作業が終わったらしいイルカが部屋に入ってきたものの、余りの姿に思わず指摘する。さっきよりも更に白い部分が増えている。
「洗っても、ダメですかね」
「無理だね。落ちないよ」
「たっはーそうか失敗したなぁ〜。洋服全部裏返しに着てからやればよかった」
「ええ〜、そのアイデアもどうなの」
 イルカはあっけらかんと、「この服しか着るものがない」という。そりゃあそうだろう。昨日ここに泊まったというのなら、何も持ってなくて当然だ。にしても、如何にも実直真面目といった雰囲気の黒いジャケットと革靴姿で、よくペンキ塗りなど思いついたなと、不思議不可解を通り越して感心してしまう。
「イルカは一旦家に、帰んないの?」
「っと、……ええ、…はい…」
(?)
 なんだろう。帰らない、というその選択より、その際に垣間見せた微妙なリアクションのほうが気になっていた。今の微妙な間はなんだったのか。昨日淀みのないプレゼンを展開したイルカにしては、随分と歯切れが悪いような…?
(なにか事情が、あるのか?)
 身寄りがないということは、どこかの施設に身を寄せていたということだろうか。昨日ふと何となく思い浮かんだカプセルホテル暮らし説も、あながち遠くなかった?
(だったら、余り詮索するのも…か)
 自分自身も、聞かれたくないことや、喋りたくないことは少なからずある。
 この件には今後触れないことにして、「コーヒーでも飲む? インスタントだけど」と話題を変えた。


「づッ?!」
 今のは、イルカから発せられた音だ。持ってきた紙コップにインスタントコーヒーを入れ、ヤカンで湧かした湯を注いだだけのものだが、「頂きます」といやに嬉しそうにコップを持とうとした瞬間、まるで電流でも走ったみたいに慌てて手を引っ込めていた。
「えぇーーそんな熱いー?」
「アハハ…、いえ、その、ちょっと…びっくりしただけです」
 だが、横目でコップを上から下までチラチラ眺めながら、明らかに熱くない部分を探している。その分かりやすすぎる視線は、むしろこっちが恥ずかしい。
「持てないんじゃ、飲めないじゃない。貸して」
 言って、問答無用で蛇口から少し水を足した。少し濃かったかも…と思っていたから、このくらいで丁度よくなったはずだ。
「ヴっ…」
 だが瞳を輝かせながら口にしたのも束の間、またおかしな声を出している。
「今度は、なに」
 湯気で半分曇った眼鏡越しにイルカを見ると、唇をへの字に曲げ、ぐっと眉根を寄せて、何とも言えない難しい顔をしている。
(そんなマズイー?)
 確かめるつもりでもう一度口にしてみるが、特に何ということもない、ごく普通のホットコーヒーだ。本格的なものに比べたら多少味は単調だろうが、そこまで大袈裟に顔を歪めるほどのことはない。
「砂糖はないよ。ミルクもね」
 使わない主義。これからの生活を考えれば、安上がりでいいでしょ。
「ううん、そうか…、これが……そうなんだ…」
 そして恐る恐るといった様子で一口啜ると、また眉間に深い皺を寄せ、しばしばさせている目の奥で何やらじっと考え込むような表情をしている。
「そんなにヤなら、飲まなきゃいいでしょ」
 その行為を三回ループでやったところで、流石にイラッとしていた。
(コーヒー如きでそんな大騒ぎするなんて。子供じゃあるまいし)
 だが男は急に背筋を伸ばしたかと思うと、「いえっ、勿体ないから全部飲みますっ!」といって固く目を瞑るや、一気に飲み下した。
「コーヒーが嫌いなら嫌いって、最初に言えばいいじゃない」
 そうしたら水道水で、下宿初日の乾杯をしただけのことだ。
「やっ、そういうわけじゃ、ないんです」
「じゃ、どういうわけ?」
「えっ? えっと…なんというか、その…思ってたのと、ちょっと違ってたっていうか…。初めての味、だったから…」
(はァ? 初めての味〜?)
 インスタントコーヒーが初めてって、どんなお子様よ。
(そういえば合格発表の時、ラーメンも初めてとか言ってたっけ?)
 ひょっとしてあれは初対面の挨拶を兼ねたT大生流のジョークなどではなく、大マジ?
(やっぱ、なんかちょっと変なヤツ、だよな…)
 ある日突然、『実は俺、○○国の王子なんです』とかワケわかんないこと言い出さないでよ〜〜?





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