「――じゃ、また明日。オレの大きな荷物は明日届くけど、追加でなんか必要なものとか、ある?」
 帰り際、靴四足分のスペースしかない怖ろしく狭苦しいドア前で振り返り、中にいる男に訊ねる。
「いえ、特には」
(またあっさり言ってくれるねぇ)
 今夜もまた、着のみ着のままこの部屋で一夜を過ごすというイルカに、流石に心配になって声を掛けていた。だが相変わらず「何の不自由もありません」といった様子で平然としている。不自由の感じ方も個人差はあるだろうが、果たしてここまで巾があるものだろうか。
 あの後、カップラーメンで昼食を済ませたオレ達は、徒歩15分のキャンパスに出向いて、科類や進学振り分けの話にひたすら耳を傾け、納得いくまで話し合った。
 以前ミナト先生は、「将来何がやりたいか、いま決まっていなくても、入学して二年したら専門性を高めるために学部を選ぶことになるから、それまでに決めればいいよ」と言っていた。
「今では制度も緩くなって、文系から理系に移ることだって出来るようになったから、未来は無限だよ」と。でも選択肢が無限なぶん、迷いもまた無限で。
 そのあとも第二外国語は何を選ぶかで悩んだり、「大学生活のしおり」を読んで、ああだこうだとまだ見ぬ未来のシミュレーションをしたり、教科書購入の長々としたオリエンテーションに参加したり、どっさりと渡された何枚もの書類に目を通しながら、学費の免除や奨学金受給の申請をしたりもしたが、正直最後のこれが一番きつかった。面倒なことこの上ない。
「――ふぅー…」
「あ〜〜なーんか、受験より疲れるー」
 眼鏡を外し、目と目の間をぎゅうっとつまむ。説明書やらサインやら多すぎだ。
「なんというか…、人間って、逐一自分を証明しながら生きてるんですね?」
「証明? あぁサインねー」
 もう住所記入もいい加減飽きていた。国を代表する最高学府なのに、こんなアナログで非効率なこと、いい加減やめたらいいのに。
 ちなみにそこで感じたのは、イルカは勉学にとても前向きで、思っていた以上に真面目で礼儀正しいということだった。加えてあのやたらと人懐こくて親しみやすい雰囲気だ。ペンキだらけの服装でオリエンテーションに参加してもドン引かれていたのは最初だけで、すぐに周囲の人達とどんどん顔見知りになっていく。むしろその姿のお陰で、皆の印象により強く残っただろう。
(変なヤツだと思ってたけど…)
 意外なほどまともな姿に、誰よりオレ自身、見直していた。
(ま、今のところ、だけどね)

「とにかく、無事教科書が買えて良かったです」
 イルカは安堵の表情で、何度もページをめくっては、中を興味深そうに眺めている。
 今日、教科書を買うためにまとまったお金がどうしても要りようだったイルカは、大家の所に行って「下宿の修理や掃除を向こう一週間、授業が始まるまで毎日手伝ったら幾らになるか?」と改めて掛け合ったのだそうだ。すると大家は、快く教科書代を前貸ししてくれたのだという。相変わらず凄いコミュ力と行動力だ。オレにはとても真似できない。
 ちなみにイルカは、オレが持参した何の変哲もないカップラーメンがいたくお気に召したらしい。
「うわぁ熱い熱い! けどすごく旨い!」とか、「思ってた通りだ。これ世界一ですね!」などと興奮気味に喋りながら、最後の一滴まで夢中で平らげていた。ちょっと、ホントに某国の王子様とかやめてよ〜?


(伯母さんの所に、いらないのあるかな)
 布団がもう一組必要そうだ。ないなら毛布だけでも。例えバスタオル一枚でも、ないよりはマシだろう。あとオレの着なくなった服。とりあえず、あのペンキ服は替えたほうがいい。イルカが気にならなくても、オレが気になる。
(…はぁーー、なんだかなぁ〜)
 いつの間にかそんなことを巡らしている自分に気付いて、自嘲気味に溜息を吐く。
 オレって、いつからこんな世話焼きになったんだっけ?
 そういうお節介っていうの? 昔っからこれっぽっちも興味なかったはずなのに。
(――あとは…あぁそうだ、カップラーメン。それと砂糖とミルクと、厚手のマグカップも追加か…)
 北西の二階の部屋にぽつりと一つ点いている小さな明かりを振り返りながら、駅に急いだ。


     * * *


「あれ。カカシさん、随分荷物少なくないですか?」
「? そう? なんで?」
 翌日。
 宅配便で届いたばかりの荷物を解いていると、薄っぺらいドアを開けて入ってきたイルカが開口一番、思わぬ事を言ってきた。彼は今日一日、敷地内の下草の掃除なんだそうだが、時折大家と交わす楽しげな会話が風に乗って聞こえてきていて、ふと(オレとの話なんて、イルカには面白くもなんともないんだろうな…)などと、ダンボールを開けながらどうでもいいことを考えたりしていた。
 部屋に入ってきたイルカは、ペンキ服の上に枯れ葉や小枝をあちこち貼り付かせていて、いよいよ目立つ姿になってきているが、気付いている様子はない。
 荷物は、ご指摘の通り厳選してきていた。父が亡くなって引っ越しすることになったため、その際一緒にだいぶ整理したが、それでも残った全てをここに持ってくることは出来ない。机や椅子はもちろんのこと、十年近く体を横たえていたベッドも処分することにして、布団だけを持ってきていた。
(それが、何か?)
「ゃっ、なんでってそりゃあ………なんでかなぁ〜〜…アハハ〜?」
(?)
 なんだろう。いま、確信を持って何か言いかけていた、ような。
(けど何かに気付いて慌てて喉の奥に呑み込んだ、ような?)
 なんだろね?
「もっと色々持ってきてもいいってことが言いたいのかもしれないけど、それ全部持ってきたら、ここですれ違うことも出来なくなるでしょ」
「すみません、不自由させちゃって」
「は? 今頃なにいってんの。ここはアンタが必死にアピールしてもぎ取った部屋なんじゃない。もっと堂々としてればいいでしょ」
 この男、謙虚なのか出過ぎなのか、いまだによくわからない。
「考えてみたら、たかだか四年間のために新しいものを買うってのもどうかと思うしね。ここを出るとき邪魔になったり、処分に困るようなものは極力買わないで、どうにか工夫したほうがいいんじゃないか、とね」
 イルカという男の、少々極端すぎる柔軟性や我慢強さに感化されたわけでもないのだろうが、自分も『そっちがそのつもりなら、こっちもやってやろうじゃないの』という気になっていた。
「手始めは本棚ね」
 荷物を送るのに使っていたダンボール箱を手に取り、フタを切り取って壁沿いに積み上げる。中に大きさ別に分けた本を立てて入れ、余ったスペースにも切り取ったフタの切れ端を置いて簡易の仕切り棚にすれば、そこにも書類などが置けるようになる。
「なるほど! ダンボール箱も片付いて、部屋もスッキリ!」
「ま、ね」

 結局その勢いで、勉強机兼ダイニングテーブルまで作ることになっていた。スペースの都合上、両方はとても置けない。ならば二つを兼ねたものにしようと、ダンボール箱をああだこうだと言いながらいじくり回しはじめる。途中、幾つかの案が出ては消え、折りたためるようにしてはという話も出たが、それを可能にするとどうしても作りが弱くなる。食事中に突然卓袱台返しなんて、悪夢以外のなにものでもないだろう。ならば無理に畳まずに、倒して脇によけるだけにしよう、ということになっていた。

「――やった、出来たぁーー!!」
「ちょっ、声が大きいよ。んー…まっ、そこそこ使えるんじゃないの〜?」
 大きめのダンボール箱を五つ贅沢に使った、一畳ほどもあるしっかりとしたテーブルの前で、イルカが興奮気味にはしゃいでいる。食事などで汚れてきたら、一番上の面だけ簡単に取り替えられる機能付きだ。
「ははっいい! いい! すごいですよこれ! まさかあのカカシさんに、こんなアイデアが眠っていたとは!」
「はぁー? どういう意味よそれ〜」
 大喜びで天板を撫でているイルカに、何となく引っかかるものを感じながらもつられて笑う。
(「あのカカシ」ってね…。オレのことなんて、まだ全然、なんにも知らないくせに)
 でも気のせいだろうか、こちらもなんとなくイルカのことを知ってるように感じることがあるのは、彼の人懐っこさの成せるワザなんだろうと結論づけて、引っ越しの後片付けを終了した。


「――ぷっはー、いいお湯でしたぁ〜。はぁーーめっちゃめちゃ気持ち良かったぁ〜」
「あそ…って、でもまたその服なわけね?」
 イルカが下宿の修理バイトをやっている間は、大家の家での入浴特典があるということで、オレが貸した風呂セットを持って喜び勇んで入りにいっていたのだが、帰って来るなり指摘の虫が疼いていた。
「はは…、まぁ、ハイ…」
 顔は上気して、如何にも風呂上がりといった様子だが、出て行った時と全く同じペンキ服を着ている。
「やっぱ、オレの服着た方がよくない? 流石にその服のまま入学式に出るわけにも、いかないでしょうよ」
「いや、そこまでカカシさんに世話になるわけにもいきませんから」
「だーから、もう着ない服だって、言ってるでしょ。その格好が気になるから言ってんのー」
「だめですよ、どの服もまだまだカカシさんが着れるものばかりじゃないですか。俺知ってますよ、どれもご両親に買って貰って、大事に着てたやつですよね?」
「なっ…、はぁ?! そんな知ったような言い草で、誤魔化さないで貰いたいね」
 オレの下宿生活初日の夜。もう何時間も前から、「着ろ」「着ない」で押しあいをしている。イルカは、「もう少しお金が貯まったら」なとどと悠長なことをいっていて、一向に身なりを気にする様子はない。大家に前借りしたバイト代の大半は教科書代に消えてしまったというのに、「もう少しお金が貯まったら」って、それ一体いつの話よ?
 しかもお金がないならないで気をつけてなきゃいけないのに、イルカは案外ぼんやりしてるところもあって、「あれ? カカシさんに借りてるボールペンが、ない?」とか、「おかしいな、髪を縛るゴムが??」などと、しょっちゅうきょろきょろ探していたりする。オレはそういうことはまずないのだが、この洗ったような四畳半で彼だけモノが見つからなくなるというのが不思議で仕方ない。この分だと、着ている服をなくすのも時間の問題かもしれない。
「あぁもうしょうがないなぁ〜、じゃ明日洋服見に行くから、ちゃんと選んでよー」
「いや、だから俺がカカシさんの負担になるわけにはいきませんから」
「なに。オレが払うなんて、一言も言ってないけど?」
「え? はぁ…? じゃあ…誰が…?」
「そりゃあイルカが」
「いやあのでも俺っ、いま殆ど…」
「ハイハイそれはわかってるって。それでもやり方次第で手に入る方法があるから。明日はせいぜい頑張ってよー」
(――ハアァ〜〜…)
 もうこの押し問答疲れた。寝る。
 この世の中には、まだ十分使えるモノが捨てなきゃならないほど溢れかえっているというのに、こんな些末なことで言い合っている自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
 T大という場所は、世界中から様々な知識や考え方を持った学生や教授達が大勢集まってきている価値の坩堝だ。そんな価値基準が違う者との交流は、間違いなく自分のプラスになると思っていたが、必ずしもそうとは限らないのかもしれない。
(特にこのレベルの話では、ね)




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