イルカの目がいよいよきつく閉じられ、その時を訴えてきたのが合図だった。こちらも心底ホッとして、ギリギリまで堪えていたものを解く。良かった、間に合った。
「「――…ッ!!」」
 イルカの腹の上に二人分のものが交互に注がれる光景は、白く飛びかかっていてどこか現実味がなかったが、直後にむしゃぶりつくように交わしたキスは最高だった。早くもイッた直後には、(次はいつ…?)などと考えてしまう有様だ。
 もちろん次のセックスがいつになるかなんてわからない。けどその日のために、出来るだけイルカの負担を減らすようなもの…潤滑剤なりを用意し、オレももっと体を作って体力を付けていかなくては、イルカに置いてきぼりを食いかねない。検査数値の悪化から来る体調不良なんて、なっている暇ない。
(となると…)
 やっぱりあの大量の食事も、当分は食べ続けることになるのだろう。何かと不本意だったが、本意に変更せざるを得なくなったようだ。
(あとは…防音か)
 イルカとの声を誰かに聞かれたらマズイのに、イルカの声を出すようなことばかりしたくなってしまうのには参った。しかも彼の声は、ことのほかよく通る。
(こりゃ早いところ稼いで、もっと防音のいい所に越さないとだな)
 イルカはきっと、「卒業まではここを離れたくない」と言うだろうから、卒業したらすぐにでも。この際、動機の純・不純などどうでもいい。誰かに採点して貰って決めることでなし。
「イルカ、背中拭くから髪上げて」
「ぁはい」
 互いの体を拭きあいながら、行為の余韻を冷ます。一時間後にはひな壇に座っていなければならない。
 部屋の蛇口からは冷たい水しか出ない。火照る肌に押し付けられるタオルの冷たさに跳び上がりながら、一人つらつらと甘ったるい時間に浸った。


     * * *


「もうちょっと、ですからね」
「ん、ありがと」
 イルカが今日もせっせと朝飯を作っている。またどっさり作るのだろうが、今朝は一頻り運動をしたから何とか食べられるだろう。
「ぁ、携帯鳴ってますよ」
「ん、出る」
 呼び出し音に、昨日図書室から借りてきて目を通していた本を閉じ、鞄を探る。と、そこに表示されていた発信者名に、一瞬手が止まった。
(学生課…)
 もう既に一度、電話の着信を無視してしまっている。これ以上の引き延ばしは無理だろう。あまり心象を悪くしてしまうのもよくない。意を決して電話に出る。
「――はい、畑です。…はい、おはようございます」
 恐らくこの電話では、また個人情報制度のお陰で詳しい話にはならないだろう。
(頼む、そうであってくれ)
 いや違った。オレがそうなるように、全力で持っていくのだ。相手の意向をそのまま汲んでどうする。浮き足立ちかけていた気持ちを、ぐっと引き締める。
「先日は、お電話頂いたのにすみませんでした。…はい…ええ…」
 イルカが料理を作り終え、盛りつけをはじめようとしている。北西向きの窓辺でも、自分の目にその光景は光り輝いて見える。
 だが電話の向こうには、目の前のそれとは全く違う空気が漂っている。内容は予想していた通り「こないだの続きを…」というものだったが、先日よりも明らかに不信感が滲んでいるのがわかる。
(ん?)
 こちらの電話がいつ終わるか、気になったのだろう。イルカがチラとこちらの様子を伺った時、目が合った。
(大丈夫、もうすぐ終わるよ。心配しないで)
 携帯を耳に当てたまま、少し大袈裟なくらいににっこりと笑ってみせると、イルカも安心したのか満面の笑みを返してきて、いそいそと盛りつけを再開しだした。その後ろ姿を、目の奥に焼き付けるようにじっと見つめる。
「…はい、時間は…そうですね、…ええ、ずっと入って。ただ今日はアルバイトがないので…はい、では五限が終わったら、すぐ伺います。わざわざ申し訳ありませんでした」
 電話を切って、「こないだレクチャールームに忘れ物しちゃってさ、取りに来いって」と、適当な理由をつけると、イルカは「珍しいこともあるもんですね。カカシさんもやっぱり人間だったか〜」と笑った。
 
 その日の朝食は少し慌ただしかったが、それを抜きにしても、オレにはいつもと違う特別な時間に感じられた。
 目の前で、イルカが今日の目玉焼きの出来を採点しながら、とても旨そうに食べている。その様子を見つめながら、(オレはこれから、この人を守りながら生きていくんだな)とふと思う。
 何があっても離れない。そのためなら、オレはどんなことでもする覚悟がある。
「あの、カカシさん」
「? なに?」
 今の今まで機嫌良く朝食を食べていたはずのイルカが、急にもじもじしながら何やら言いにくそうにしていて、一体なんだろうと訝る。もしかして、さっきの電話についてだろうか? イルカは摩訶不思議な発言も多い半面、時折、ドキリとするほどこちらとシンクロしている時がある。
「その…っ、眼鏡…汚れてます…」
「は? そう?」
(なんだ、眼鏡か…)
 内心でホッとしながら、顔から外してピントの合うすぐ目の前までよくよく近づけて見る。と、確かに白いものがあちこちにこびり付いている。どうやら今朝の名残らしい。
「あの…やっぱりその眼鏡、一つしか無いわけだし…、これからもラーメン食べたり、スポーツしたりする機会も出てくるだろうから…、その…時と場合によってはコンタクトも使うようにする、とか…?」
 どうやらイルカは、オレがこの眼鏡に頼りすぎることでいつか壊してしまい、本当に必要なときに使えなくなることを心配してくれているらしい。
(そういえば、今朝抱き合っている時もそんなことを言ってたっけ…)
 口の中に入っていた目玉焼きを、味噌汁で流し込む。すでに二ヶ月前のオレには考えられない量を食べているが、まだもう少しはいけそうだ。
「ま、そういうことなら大丈夫でしょ」
「ぇ?」
「ラーメンで曇ったところで、オレの目はイルカといる限り曇んないし、スポーツなら夜誰かさんとここでするんだからね?」
 するとイルカは真っ赤になって俯きながら、黙々と残りの料理を平らげはじめた。そうそう、今日は時間が押してるから早く食べなくちゃね。
 
 朝食の片付けを二人で済ませ、出掛ける用意を始める。その間も、頭の中で想定した何十パターンという問答のシミュレーションを、幾度となく繰り返す。まだ夕方までは時間がある。念には念を入れ、他の部署の者が出てきて別の質問をされた時のための回答も複数用意しておくつもりだ。
 シミュレーションをはじめる際に、「万一イルカに戸籍がなかった場合」という項目を入れるかはかなり迷った。だがそこまで考えて深く押さえていくことで、より自分の理解が深まっていくのだ。外すわけにはいかないだろう。受験で培った苦しい経験がいまだに自分の中で息づき、意外なところで己を支えてくれている。
 以前イルカは、「人は自らを証明しながら生きている」と言った。なるほど、その通りだろう。実際イルカは、日々を精一杯生きながら、自らの存在を証明し続けている。
 だがその一方で、「周囲の者達がその人を証明することで、当人の存在が証明される」ということもあるはずだ。
 クラスメイトや教授、助教。塾の生徒や、彼に信頼を寄せるスタッフ、大家の蒜山さん。
(そしてオレ)
 最後の最後で生きてくるものが、紙切れに印刷されたものなんかであってたまるか。
(海野イルカは、オレが証明してみせる!)


「ねぇ、イルカ」
「はい?」
 気持ち急ぎ足でキャンパスに向かって歩きだしながら、ふと言っておきたくなったことを口にしてみる。
「前にイルカに、『将来何になりたいか』って聞かれたとき、オレ答えられなかったこと、あったよね」
「ぇ? …あぁ、はい?」
「いや、今でもまだはっきりとこれってものが決まったわけじゃないよ。でも…法律ってさ、結構探求しがいがありそうだな、とかね」
「ぁ〜、それでこないだからずっと法律書読んでるんですか。ゼミの最中まで〜」
「バレてた」
「当たり前です。俺、目だけはいいんですよ」

 例えばの話。
 自分の愛する人がどこで生まれ、どのような選択をし、この先どんな人生を辿っていったとしても、常に陰に日向に、しっかりと守ってあげられるような立場でいられたら。
 そんなことを考えているうち、目の前に無限に広がっていた道は自然と収れんしながら、一つの方向へと向かいはじめている。
「それって、具体的には弁護士かなにか?」と聞かれて、「ん〜」と、曖昧な返事を返す。正直、そこまで具体的なものはまだ描けていない。二年後には後期の授業が始まり、専門性の高い学部と授業を選ぶことになっているが、その時には経済か法律の、いずれかを選択することになりそうな気がしはじめている、というだけだ。
「カカシさんなら、政治家でも官僚でも裁判官でも、何にだってなれますよ」
「そうかな」
 いや、そうかもしれない。他でもない彼が望むなら、オレはどんなことでも出来るし、何にだってなれるはずだから。
 イルカに「将来、官僚か更にその上に立って政(まつりごと)を行う『先生』になれば、自身の身も完璧に守れるよ」と言ってみたところで無理だろう。彼は笑って、「普通の先生でいいです」と言うに違いない。
(なら、オレがやるしかないでしょ)
 
 入学前の説明会で上級生も言っていたが、本当に問題は日々あとからあとから次々と提出されている。オレ達は途切れることなく目の前に出されるそれが、どんなに容易くても難問でも、ただひたすら夢中で解き続ける毎日だ。
 死ぬまで終わらないその繰り返しを、人は人生と呼ぶのだろう。

「カカシさん?」
「ん?」
 隣を歩いている男が、何やら照れ臭そうな様子で鼻の傷を掻きながら声を掛けてくる。
「さっきは、あんなこと言っちゃいましたけど…あぁ、あんなことっていうのは、『コンタクトも選択肢に…』って話ですけど」
「うん?」
 またイルカが何か言い出そうとしている。オレはその一言一句を聞き逃すまいと、若葉から深緑へと彩りを深めはじめた街路樹の下でじっと耳を傾ける。
「さっきから見てて思ったんですけど、やっぱりその眼鏡、すごく似合ってると思うんです。カカシさんのデキる男っぷりを、めちゃくちゃ上げてますよ」

(フッ…)
 なに、やっぱ気付いちゃったそこ?

 イルカはオレをのせるのが本当に上手い。かつてない緊張で、いつの間にか入ってしまっていた肩の力がすっと抜けていくのがわかる。彼がかける魔法の威力は絶大だ。

 ちょっと大袈裟に髪を掻き上げ、ぴかぴかに磨いた黒縁眼鏡を掛け直す仕草をしてみせながら、オレは図々しくもにこやかに微笑んだ。

「まっ、そうでしょ!」




            「glasses 〜after that〜」 fin


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