光の方へ
「――最近、左目が見えにくくなってきてましてね」
ずっと続いていた和やかな会話が途切れた後だった。
その余りに何気ない切り出しに、自分は一瞬、言葉の意味が呑み込めなかった。いや、呑み込めてはいたけれど、理解したくなかったのかもしれない。
「ぇ？」
思わず隣りに座っている男に聞き返した。
二人ともがあんな早い時間に手空きになるなんて珍しかった。だからたまにはゆっくり帰りませんかと、カカシが提案するがまま遠回りをしていた。
話の内容は、「今頃あの子達は、あの辺りでこうしてるんじゃないだろうか？」とか、「もう出世払いしてくれていい頃だから、今度メシでも奢って貰いましょうか」などという他愛もないものだった。
二人が見渡している世界は刻一刻と赤みを増してきていて、静かに一日の終わりを告げている。座っている土手の夏草からは、初夏の頃のような鮮烈な薫りは最早立ち上らなくなっているものの、川を吹き渡る風にその身を任せてゆったりとなびいている。
見下ろす形になっている河川敷では、数人の子供達が甲高い声を上げながら走り回っていて、その快活で無邪気な様子と今の上忍の言葉が、あまりにそぐわない気がした。
「んーいつだったかなぁー…確か話しましたよね。この目はオレのじゃなくて、昔一緒の班だったヤツのだって」
いつもと何ら変わらぬ、少しのんびりとした穏やかな声音は、彼の元に確実に忍び寄っているらしい厳しい現実を何一つ感じさせない。そしてそのことを俺は訳もなく怖いと感じる。
「――――…」
「あれ、イルカ先生？ もしかしてなんか深刻になっちゃってます？」
知らず体を固くしている自分に、上忍は覗き込むようにしてからかうように問いかけてくる。
「…だっ…、だって当たり前じゃないですか、そっ…そんな大事なことっ……とにかく、俺なんかと話してる暇があったら、今すぐ病院に行って下さい！」
思わず声を張り上げた。
「大丈夫ですってー。そんな大ごとじゃないんですから」
「またそうやって誤魔化す！ そんな訳ないでしょう？！ ちょっと見せて下さい！
じっとして！」
灰青色の目を丸くして体を引き気味にしている男の額当てに手をかけ、勢いよく取り去る。そこには情事の時くらいしか見たことのない赤い瞳が、一本の刀傷に貫かれるようにして瞬いていた。
夕陽を背に、土手下からその左目を見上げるようにしてじっと見つめると、カカシはふっと笑って手をぷらんと振る。
「いや、ホントですって。本当に大丈夫なんです。心配ないですから落ち着いて下さいよ。誤魔化すつもりなら、最初から話自体する訳ないでしょ？」
「…そっ、そうは…いっても…っ…」
イルカの不安定に揺らぐ瞳に、カカシはちょんと目尻を下げながら僅かに苦笑した。
外で会う彼はいつも、とても落ち着いていて理知的だ。その瞳は常に広い世界を見つめていると思う。彼の色違いの双眸はいつでも遙か先までくっきりと見通せていて、その見立てが間違っていたことなどただの一度たりともなかった。傍らにいる自分のことなど視界に入っていなくても、それで構わないと素直に思えた。
「こいつのお陰で随分と人の動きを学べました。頭じゃなく体で覚えましたから、もう無くたって大抵は読めるんです。コピーした術の印だって殆ど全て諳(そら)んじてます。これだけあればそうそう新たに取り込む必要もない。それよりも、これからはそれらをどう組み合わせて効果的に使っていくかでしょうね。はたけカカシ、ここにきてようやく素の自分の能力が試されてますよ」
少し垂れ気味だが、涼しげという表現がぴったりの目元がこちらを見ている。
（…カカシ、先生…）
見えなくなってきている、という男の瞳は一点の濁りもなく綺麗に澄み渡っていて、今も尚、遙か遠くまで見えているとしか思えなかった。
「――元々この目は親友のでしたから、本来はオレが使うべきものじゃなかった。だから合わなくなってきて当然なんです」
「だったら！ だったら何とかして一日でも長くっ…」
手にした額当てを握り締める。
怖かった。今すぐどうこうだなんて一言も言ってないのに、例えようもなく不安になる。
（もしや…もしやこのこと、まだ他の誰にも話してないんじゃ…？）
その疑念が胸の中を過ぎると、直後にはすぐ（多分、そうなんだろうな）と思った。確かめるまでもない。彼が病院ではなく、こんな時間にこんな所にいるのが何よりの証拠だ。
でも、こうして打ち明けられたからには、どうあっても病院に行って貰わなくてはならない。なのに気ばかりが急いて、何をどう話したらいいのか、上手く考えがまとまらない。
目の前の男は、色を無くして必死で言葉を探している自分を宥めるように、微笑みながらただうんうんと頷いているだけだ。
その柔和な笑みに気勢を削がれて黙り込むと、再びカカシが河面を見つめながら口を開いた。
「この目をくれたヤツがね、『もうオレの役目は済んだから、後はお前だけでやっていけ』って言ってる気がするんですよ」
「そんな…っ、まだ諦めるには早すぎます！ お願いです、病院に行って下さいっ！」
いつしかカカシに向かって身を乗り出していた。上忍の静かな物言いは、落ち着くどころかかえって自分の心を波立たせる。彼の意志が予想外に固そうなのが気掛かりでならない。
大体そんな感傷じみた思い込みみたいなものだけで、あの大事な力を手放してしまっていい訳がない。病院に行き、皆で知恵を出し合えば、何か思わぬ良い解決策が見つかるかもしれないではないか。
だが当の本人は、まるで他人のことを話しているかのように、淡々としている。
「ずっと自分の一部だったから、誰よりもよく分かるんです。そろそろコイツも休ませてやる時に来てるんでしょうね」
指差した先――左目の目尻が、柔らかな曲線を描いている。
淡い色の睫毛の一本一本が、朱に染まっていた。
「それに、オレにはまだちゃんと右目が残ってるわけですから。いつまでも左にばかり頼ってるのもどうかと思いますしね……って、あ、これはちょっと負け惜しみ入ってますかね〜」
男は頭を掻きながらハハハと笑う。だが、どんなに吹っ切れた笑顔であっても、一緒になど笑えるはずがない。何とかして彼の心を動かす言葉が無いかと、俺は懸命にで考えを巡らせる。
「オレには、過ぎた力だったのかもしれません」
その思考を断つような言葉に、思わず声を張り上げた。
「違う！ 違います！」
「いや、これだけはね、どこの世でも同じなんですよ。例外はありません。過ぎた力は遅かれ早かれバランスを失って消えていくものなんです。全ては摂理なんです」
男の口調は客観的かつ簡潔で、自分が異論を差し挟む隙など微塵もなかった。この難局を自力で乗り越えていくためには、そう考えざるを得なかったのかもしれない。
（でも、でも、カカシ先生…っ）
動揺して、何一つ理論立てて反論の出来ない自分が酷く恨めしかった。これでは彼の考えを肯定してしまう事になる。焦るな、落ち着いて話すんだと思うのに、それすら自分を混乱させてしまっている。
「諦めないで下さい、お願いします！ まだ出来ることがあるはずです。どうか、お願いします…！」
夏草に手と膝を突いたまま、頭を下げた。
「顔を上げて」という声に、のろのろと頭を上げると、カカシの白に近い銀髪が、土手を滑る横風になびいて目の前で赤々と輝いていた。それを思いの外眩しく感じて、思わず目を細める。
上忍と知り合って間もない頃。ふと気が付くと彼の方を向いていることがよくあった。
（あの人はどこにいてもよく目立つからな、きっと自然と目が行くんだろう）
そんな風に思っていた。
でも考えてみれば、他にも目立つ者など幾らでもいる。
『自分は、意識してあの人を目で追っていたのだ』
ある日はっきりとそう思った。そうか、そうだったのか、と。
まぁそう自覚しただけで、他には何一つ変わったことなどなかったのだけれど。
あの頃、自分は遠くから黙ってその輝きを見ているだけで良かった。多くは望まない。望むべくもないとよく分かっていた。
なのにこの取り残されるような不安感や焦燥は、一体どこから、いつの間に来るようになったのだろう。
やがて指無しの革手袋をはめた右手が、目の前にゆっくりと差し出された。そのよく目に馴染んだ白くて細長い指は、幼い頃から里のためにクナイを握り続け、夜には自分を愛してくれる、とてもきれいな手指だ。
「……………」
それでもイルカは押し黙ったまま、暫しの間男の額当てを握り締め続けた。俯いて額当てを強く胸に押しつけたその格好は、あたかも誰にも取られまいとしているかのようだった。
暫くそうしていたものの。
イルカは拳が白くなるほど強く握り締めていた手の中のものを、酷く緩慢な動作でのろのろと差し出す。
「ありがとね」
カカシはイルカの手を包むようにしながら、両手でそれを受け取った。
「――まだ、気にしてます？」
「……ぇ？」
「河原で話したこと」
「そりゃ……ぃぇ」
俺は暗がりで天井を見上げたまま、言葉を濁した。
部屋にはいつものように、情事の後の気怠く甘い空気が漂っている……はずだ。
だが今の自分には、どこか違ったもののように感じられてならない。カカシに求められるまま応じたけれど、なかなか行為に没頭しきれなかった。
「実を言うとね、あの話したら、イルカ先生はオレにもっともっと優しくしてくれるかなと思って」
「えっ…？」
ニッコリと軽い口調で吐かれた言葉に、俺は上忍の顔を凝視したまま固まった。だが、睨まれた男は心なしか楽しそうですらある。
「最初はね、黙ってようと思ったの。思ってたけど、やっぱり我慢できなくて。アハハ〜、いい年して欲深くてすみませんねぇ」
「―――…」
一瞬、彼が「河原で言ったことは全部ウソですよ」と言ってくれるんじゃないかと期待した。だがそれは、あまりにも儚いものに終わっていた。
「でもあんまり効果無かったかな。今日はなかなかいけなかったみたいだし？」
「…っ」
悪戯っぽく笑っている顔が、青白い月明かりに微かに浮かんで見える。
（卑怯者〜！ どーせ俺は今まで優しくなかったですよっ！）
一言ビシッと言ってやればいいのだ。茶化しでも冗談交じりでも、おどけてでも心底本気で怒ってでも。そうすれば不安も焦燥も、一縷の望みも何もかもが散り散りに四散して、一時ではあるけれど、少しは心が軽くなる。
恐らく、お互いに。
なのに、なぜか一言も言葉にならなかった。がばっと寝返りを打つや上忍に背を向ける。すぐに後ろから長い腕が巻き付いてきた。項辺りに鼻をこすりつけ、盛んに唇を押しつけている。
（も…もう…っ）
そんなものに流されないぞと、俺は固く目を閉じた。
「イルカ先生」
「？」
背後から名を呼ばれて、ふと目を開ける。
「オレの左目が見えにくくなってるって、本当は気付いてたんでしょ？」
「？！」
「気付いてたけど……言い出せなかった？」
「――っ……ぃや…そんな、こと…」
「ん、やっぱそうなんだ。いつ頃からかなぁ、あなたオレの左側に立たなくなったもんね」
「っ……それは…その…」
「もっと早く言えば良かったね。――ごめんね」
「…………」
「イルカ先生は、そういう事だけは気付くの早いからなぁ」などと更に余計なことを言っている男の額目がけ、俺は振り向きざまに何の手加減もなく思い切り自分の額をぶつけた。
ゴッ、という鈍い音がするや、自分に回されていた腕が引っ込んで、上忍は額を抑える。
「……ッてえぇ〜。…もぅ……相変わらず手厳しいんだからー」
「当たり前です！」
泣くな俺。
自分が落ち込んでいたりしたら、もっと辛い人が弱音を吐けなくなる。
「頭突きはね、やった方だって痛いんですよ！」
急いで全部、一気に掻き消せ。
目の熱さも、鼻の痛みも、胸苦しさも。
目の前で痛みに歪められていたカカシの口元が、ふ、と緩んでいく。
「ありがとね」
赤い額の上忍は、俺のおでこにそっと唇を押し当てた。
「光の方へ」 終
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