矜 持



(――あ、まただ…)
 イルカは周囲に気付かれないよう、最大限の注意を払いながら、意識だけをそちらに向けた。
 意識の先には、十日ほどの任務から帰ってきたばかりの銀髪の上忍がいる。自分の所ではない、隣の書類提出の列に並んでいるが、腰や背中にはまだ幾つもの武具が下がったホルダーが付いたままで、支給服は少し埃っぽい。
(でも、大きな怪我はしてないみたいだな)
 動きには特に支障がないことを確認して、まずはホッと胸をなで下ろした。
(じゃあ…じゃあなんで俺の所に持って来てくれないんですか?)
 ひとまず安心すると、今度はそちらの方が気に掛かりだした。

 最近、ごくたまにだが、カカシが自分の所に報告書を持って来ないことがあるのだ。
 それまでは、彼が他の者の列に並んだことなんて一度もなかった。つきあい始めた頃など、「周囲の噂になってますから、俺の所に持ってくるのは少し控えて下さい!」と何度言ったところで「いいでしょ、見せ付けてやれば〜」と聞く耳持たなかったほどの男だというのに。
 そんな彼が、――あぁいや、これは単なる思い過ごしかもしれないけれど…もうとっくに里に帰ってきているのになかなか書類を出しに来なかったり、来たと思ったら自分がほんの少し離席している時を狙い澄まして出したかのような印象を受ける時もあったりと、何となくではあるものの、様子が変な時があるような気がするのだ。
 もちろん他の者の所へ持って行ったって、提出は提出だ。何ら構わないに決まっている。幾ら付き合っている事が半ば公認となってしまった感のある彼でも、そんなことまで束縛するつもりなんて毛頭ないし、自分だって当時あれだけ「控えてくれ」と言っていたのだから、今更どうこう言う気もない。
 ただ彼はかなり前から…それこそ今のように親しく付き合いだす遥か以前から、自分が受付にいる限りは、迷うことなくずっと自分の所に報告書を持ってきてくれていた。だから、急に余所に持っていくようになったのは何か理由でもあるのかなと、何となく気になってるだけだ。
(そうだ、ただ…それだけだ…)
 目の前に差し出された同胞の報告書を受け取り、一通り内容をチェックし終わると、笑顔で「お疲れ様でした」と言って次の書類を受け取る。
 仲間に対するものと全く同じ挨拶ではあるけれども、あなたが久しぶりに無事に帰ってきてくれたなら、出来れば俺にもその言葉を早く言わせて欲しい。すぐそこまで来ているのなら尚のことだ。
(そんな風に思うのは、俺の我が儘なんだろうか)
 だが彼は、自分にはまるで気付いてないような様子で、すぐ後ろに並んだ同僚と何やら話をし始めている。
「避けられている」という言葉がふと脳裏を掠めたが、すぐに(あの人に限ってそんなことあるわけがない。嫌な考え方するな、見苦しいぞ)と打ち消した。
 視界の端で彼が隣りの者に報告書を提出している時も、あえて意識の外に押し出してやり過ごす。
(いつまでも何をそんな小さなことにこだわってるんだ。いい加減女々しいぞ。そこまで気になるんなら今晩だって顔を合わせるだろうから、直接本人に聞いてみればいいじゃないか。そうだ、やっぱりそうしよう。どうせ俺の思い過ごしで笑って終わりなんだから)
 ようやくそう結論づけると、随分とすっきりしてくる。
 とはいえ、夕方遅くに任務が終わるまでのその一日は、カカシの帰還を今日か明日かと待ちわびる一日よりもまだ遙かに長いような気がした。

「なに、どうかしたの?」
 とても勘の良い上忍のことだ。こんな微妙な空気の夕食なら、いつも真っ先にそう聞いてくるはずだった。だからこちらはそれを切っ掛けにして昼間のことを切り出そうと、今か今かと待っているのに、どういう訳か今夜に限って彼はなかなかそう訊ねてくれない。
 二人の間にある料理だけがどんどん減っていく。
 そのうちあまりに長い沈黙が続くようになってくると、イルカにはやはり上忍が意識的に聞かないでいるとしか思えなくなってきた。
(あの報告書のこと…やっぱり聞かれたくないからなんだろうか…?)
 隅に押しやっていたはずの小さな不安が、またぞろ大きくなってくる。
(今食べてしまいたいけど、やっぱりカカシ先生が帰ってきた時に一緒に食べよう)と思ってずっと我慢していた丼が、あまり美味しく感じられない。ぼんやりしていて味付けを間違えたのか、考え事をしていて味覚でもおかしいのか、それとも両方だろうか。
 でも向かいの男は「ご馳走様でした」ときちんと手を合わせて「美味かったです。今の時期ならではの味ですよね」などとにこやかに言っている。俺は慌てて話を合わせる。

『イルカ先生はいつも考えすぎですよ。心配してくれることには感謝してますけど』
 彼によく言われるそんな台詞が、さっきから耳元で何度も往復している。でもそう言った時の彼は最後には必ず「でもオレはすぐに図に乗るだけですからね。心配するだけ損ですよ。無駄無駄〜」と笑いながら締めくくるのが常だ。
(無駄になるなら、それでいいけど…)
 上忍に食後のお茶を淹れてやりながら、つらつらと考える。
(無駄じゃなかったら…?)
 そう思った時には、もう口が勝手に切り出してしまっていた。

「――あのっ、ぜんぜん、笑っちゃうようなことなんですけどっ…」
「うん?」
 応えた目元は穏和で、いつもと何ら変わらないように見える。瞬間、切り出したのは間違いだったかと焦るが、もうとても後に引けない感じだ。他の話題でも誤魔化しきれそうにもなくて、ままよと続ける。
「…いやあの、もう思いっきり右から左に流して下さっていいんですよ? いつもの俺のお得意の、心配性の、老婆心の、考えすぎですからね?」
「ええ?」
 カカシは楽な姿勢で椅子に凭れたまま、テーブルの向こうから穏やかにこちらを見ている。
「きょっ、今日なんですけど…」
「――――」
「ぁの…っ」
「――――」
「…その……」
「どうぞ、続けて」
「――はぁ…、じゃあ…。いやあの、今日の報告書のことなんですけど」
「持っていきませんでしたね。あなたのところに」
「あ、それです、それ! カカシ先生って最近どうかすると他の所に提出してますけど、何か自分がその…例えば見落としが多いとか、俺だと不都合があったりするんでしょうか? …ってことが、なんとなく気になっただけなんです。あはは」
「どうして?」
「どっ、どうしてと…いわれても……ぃゃ、別に…」
「んーどうしてかなぁー、オレにも分かんない」
「ハ?」
「なんででしょ」
「…………」
「――なーんていう答えじゃ、許して貰えるわけないか」
 上忍はヘラっと笑った。
 どこか観念したような笑いだった。


「最近ね、オレ任務が完遂できない事があるんですよ」
「え?」
 切り出された思わぬ言葉に、イルカの中で一瞬(もしかして余計なことを聞いてしまったのでは)という後悔が過ぎった。でもにわかには信じられない話だ。この人に限ってそんなことってあるのだろうか。
 だがその「まさか」がついうっかり顔に出てしまった俺を見るや、カカシはふいと顔を逸らした。
「任務中、ギリギリの時に限ってね、ふと命が惜しくなるんです。ギリギリになればなるほどね。一緒に行ってる奴等もきっと同じ思いだろうなぁとか、…まっ色々とね」
「…………」
「だから任務が完遂出来ないまま、のこのこ帰ってくるとね、これで良かったんだとは思ってても、まぁ正直なところ、すこーしだけあなたと顔が合わせづらいってわけです」
「…………」
 イルカは俯いたまま唇を噛んだ。胸の奥が痛い。きつく噛みしめている唇などよりもまだ。
「上には何言われたって仕方ないって思えるんですけどね。恋人くらいにはほら、やっぱ少しは格好いいとこ見せてたいじゃないですか。上手く行ってない報告書だって、出来ればあなたには見られたくないし」
 普段からだらしなくしてると、こういう時自分の首締めちゃうんだよねぇと、男は自嘲気味に笑う。
「…そっ…そんな……」
 自分は何と言って声を掛けたらいいのだろう。思いは山のように募っているはずなのに、すぐに言葉にならない。
「で、そうやって後ろめたい思いをする度に反省してね、その雑念を一時的にでも断ち切れないかと、オレなりに頑張ってはみるんですよ。前は出来てたわけだから。けど土壇場になると、結局同じ事繰り返しちゃってるんですよね。何としても里に帰りたいだなんて……以前は、思わなかったんですけどね」
 情けないでしょ、と男は明後日の方向を向いたまま話す。
「…………」
 まだ言葉が紡げない俺は、ひたすら首を横に振り続ける。
「知ってます? 白い牙っていう男のこと」
 急に出されたその通り名に、一瞬どきりとする。
「ぇ、……はい」
 少し暗い気持ちになって俯く。
 任務完遂よりも仲間の生命を優先することは、今では当然のモラルとして周知徹底されている。
 少なくとも…表向きは。
 当時その行為を周囲から非難されたことで心身を病んで自害したという彼の父親は、不幸な時代に生きた忍の典型といえた。

「血は争えないっていうけど、やっぱオレもあの親父の子だったんだな、なんてね。もう仕方ないよね」
 ふっと眉尻を下げる男に、思わず椅子から立ち上がり、銀色の頭に向かって両腕を回した。カカシが座ったまま、そろそろと腰に両腕を回してくる。腕に力を入れると、甘えるようにして男が胸に顔をすり寄せてきた。

「これからも…ずっとそのままでいて下さいね」
「――情けないまま?」
「ええ」
「カッコ悪いまま?」
「はい」
「図々しくても?」
「そのままで」
「どんどん臆病で弱くなっても?」
「いいえ、逆です。強くなりました」
 イルカは抱えている灰色の髪の中にそっとキスをした。
「いつだって、もっと堂々と里に帰ってきていいんですよ」
「分かってる。だから…考えちゃう」
 もう一度、あやすように髪の中に口づける。
「俺、元気で帰ってきたカカシ先生に、お疲れ様でしたって挨拶したいんです。ただそれだけが望みなんです」
「…ん、分かった。もう考えない」
「そうして下さい」

「あなたが言うと、黒も灰色も慌てて白になってくね」
 上忍は、腕の中で小さく笑った。







                        「矜持」  終




         TOP    文書庫    <<   >>