悪戯したくて



 アカデミー、二時限目の授業中。
 ナルトがキバに小さく目でサインを送ったのを、キバの頭上に乗った赤丸が素早く見つけた。子犬はふんふんと小さく鼻を鳴らし、すぐにそれを相方に伝える。
「…ん? なんだ?」
 教科書の隅に犬が走るパラパラ漫画を一心に落書きしていた少年が、相棒の合図にそちらを見やる。と、席3つ分向こうの金髪の少年が、机の下で教室後方の出入り口をこっそり指差しているのが目に入った。
(おっし!)
 その意味を素早く解したキバは小さく頷き、教科書をそっと閉じると、千載一遇のチャンスが訪れるのを辛抱強く待つ事にした。

 まだ授業は二限目が始まったばかりだ。
(『忍五大国の地理と気候』だぁ? んなものかったるくて聞いてられっかよ。なぁ、赤丸?)
「クンクン〜」
(これから始まる「教室だっそうゲーム」の方がよっぽどおもしれーってばよッ!)
 オレ達の『敵』は教科書を手に、良く通る声で話しながら、こちらに背を向けた格好で黒板にどんどん文字を書き連ねている。
 しかし、これはまだチャンスではない。今までこの一見無防備そうな後ろ姿に騙されて何度も脱走を試みたものの、その度に凄い勢いでチョークを目の前の扉にカッと当てられて、ごまかし笑いをしながらあえなくギブアップしているのだ。『背中に目が付いている』というのは、まさにあのイルカ先生の事を言うのだろう。
 でも、すばしっこさではクラスでも一、二を争うと自負しているナルトとキバだ。ダメだと言われれば、なおさら猛然とチャレンジ精神が頭をもたげてくるというものである。
 今のところ戸を開けて廊下に出られたのは三割程度。その後外まで出られたのは一割程度だが、最近僅かずつではあるが成功率が上がってきている。
(オレ達の学習のうりょくを甘くみるなってばよっ!)
(ヘッ、今日は絶対に外まで行ってやるゼ!)
 二人と一匹の集中力は、授業とは全く関係ないところで最高潮に高まりつつあった。
 と、いきなり黒板に向かっていたイルカがバッと振り返るや、凄い形相で生徒達の座る席へと歩み寄っていく。
((げ?!))
 ナルトとキバは己の心の内を見透かされた気がして、ぎくりと体を強張らせる。周囲の生徒の視線が、一斉にそちらに注がれた。

「――チョウジッ! お前もう弁当食ってるのか?! まぁ確かに先生も腹は減ってきてるがな、幾ら何でも早すぎるぞ! これは昼まで先生が預かっとく!」
 イルカがチョウジの弁当を勢い良く取り上げる。
(よーしっ! チャンス到来っ!)
 ナルトとキバは絶好の機会が訪れたと確信し、ほぼ同時にスッと机の陰に身を沈めた。
「えぇ〜! そんなぁー! まだ半分しか食べてないのにぃ〜」
 チョウジの不満そうな声が背後に聞こえ、更にその上からイルカの諭す声が被さっていく。
「チョウジ、こんな時間から腹が減って我慢できないんならな、もっと早起きして沢山食ってこい! いつもギリギリまで寝てるお前がいけないんだぞ! 大体だなぁー……」

 ナルトが音を立てないよう、そっと引き戸を開けた。もう何十回となくやっているため、静かに開けるコツも掴んでいて、すっかり手慣れたものである。細い隙間からするりと金髪の少年が出、続いてキバが続く。あとは音を立てずに廊下を突っ走り、距離を稼いだら気配を断つだけだ。
 だが、一歩踏み出した所で、背後から猛然とイルカの声が飛んできた。
「こらぁーッ! ナルト、キバ! 授業中だぞっ!!」
(へっへーん、ここまで来たらもうこっちのもんだってばよッ!)
 梢から離れた小さな木の葉達が、気ままな風に乗って舞い上がりだす。
 二人と一匹はイルカの声に背中を押されるようにして、加速しながら陽光眩しい屋外へと飛び出した。そのまま全速力で校舎の裏手へと突っ走る。
 ナルトは時折後ろを振り返っては、追っ手の不在を確認している。一方のキバと赤丸は一度も振り返る事なく、籠から飛び立った小鳥のように自由を満喫し、全身で開放感を味わいながら風のように一直線に駆けていく。
 片時もじっとなんてしてられやしない。駆けることで起こる風が、二人の頬や首筋を勢いよく撫でながら通り抜け、金と茶の髪を軽やかに揺らす。
 胸一杯に新鮮な空気が満ちていくと、体の奥から不思議な高揚感がふつふつと沸き上がってくる。
 教室にじっと座っているだけじゃ、絶対に得られない感覚。
 そう、この感じ。
 言葉になんて出来ないけれど。
 なんてイイ気分!!

 向かうは、校庭をぐるりと取り囲んだ塀の外。そこまで到達すれば、もう敵も追って来れないはずだ。
 ナルトは加速してキバに追い付くと、塀に沿って植えられた大きな木に一足飛びによじ登った。
(こんなカベ、オレ達にはなーんのイミもないってばよ!)
 塀を越えて大きく張り出した木の横枝から、アカデミーの外の世界に向かって二人同時にジャンプする。
 鳥のように高く広い視点、一瞬止まったように感じる独特の浮遊感。
 まるで背中に羽が生えたみたい。
 直後、ドキドキするような急降下が始まる。
「イェ――ィ!!」
「ヒャホ――!!」
 胸のすくような爽快感が小さな胸を支配する。
(着地もきまったゼ!!)
 砂埃が舞い上がるのと同時に茶と金の頭がパッと上がり、外の世界での一歩目を踏み出そうとした、その時。
 一体いつ現れたというのだろう。鼻がぶつかりそうな程すぐ目の前に、背高い男が仁王の如く立ちはだかっていた。驚いた赤丸が「キャン!」と一声鳴いたが、キバとナルトは一言も発する事が出来ず、ひっと息を呑んで固まる。
 男の鼻梁に跨る一直線の傷が、片側だけ大きく歪めた表情に引かれて曲がっている。眉はキリリと吊り上がり、眉間には深い縦皺が何本も刻まれていて、こめかみに浮き上がった青筋は今にもブチ切れそうだ。
「おーまーえーらァ――ッ!!」
 耳がキーンとなる程の強烈な叱責に、二人は思わず首をすくめる。
 小さな脱走犯達は束の間の開放感を味わうと、呆気なく首根っこを押さえられ、あえなく強制送還となった。





 五時限目。

(『木ノ葉の国の成り立ちと歴史』ィ? んな昔のこと今更蒸し返すなっつーの。あぁめんどくせー…)
 シカマルが今日何度目かのまどろみタイムを速攻決め込んで、立てた教科書の陰にかくりと突っ伏した。
(……あ〜〜極楽極楽〜。授業中に寝るのって、何でこんな気持ち…いんだろ…な……)
 条件反射の如く、すぐにとろとろと意識が落ち込んでいく。もうこうなったら最後、『敵』の声ですら子守歌にしか聞こえない。
 目ざとくその様子に気付いたナルトも、午前中はしゃぎ回った疲れや昼食後の満腹感がかける術にかかり、誘われるようにしてゆっくりと瞼を閉じる。
(…ん……ちょっとだけ…ほんの、ちょっとだけ…な…、イルカ…せん…せ…)
 うららかな午後の陽射しが、伏した二人の背中を優しく包んで温めていく。
 何て甘くてイイ気持ち。このまま机に溶けてしまいそう。
(もう…サイコー…)
 まるで真っ白な羽を敷き詰めた世界にゆっくりと落ちていって、途中でふわふわと宙を漂っているような…。

「――っ?! ――いででで〜ッ!!」
 シカマルとナルトはいきなり片耳を勢い良く捻り上げられ、強制的に頭を持ち上げられた。その激痛から少しでも逃れようと、思わず中腰になって椅子から半立ち状態になる。あまりに情けない格好に、周囲からはどっと笑い声が上がる。
「どうだ、二人とも少しは目が覚めたか? 何ならほっぺたも一緒につねってやってもいいんだぞ!」
 二人のイルカが各々の席の脇に立ち、見下ろしながら同時に喋る。彼が笑っているのは唇の左半分だけで、吊り上がった眉は、青筋と一緒にヒクヒクと痙攣状態だ。
 顔の真ん中に付いた一文字の傷は、こういう時この中忍教師にかなりの迫力を与えている。それを更に下から見上げているのだから、子らにとっては相当に恐ろしく感じられるはずなのだが。
 いかんせん、悪ガキどもはその表情を日々見すぎていた。
 イルカが二人から手を離すと、シカマルは耳を押さえながらも口をへの字に曲げ、潤む目尻をこすりつつ、しまいには大あくびしている。
 ナルトはナルトで一応目は覚めたようだが、「てへへ…」とイルカを見上げて人なつっこい笑顔を向けるばかりで、反省の色はあまり見られない。
 中忍教師は眉をハの字に下げ、苦笑しながら「やれやれ…」と小さく溜息をついた。



「――…って感じでしてね。もう本当にあいつらには…特にナルトには随分と手を焼きましたよ」

 夜半前、イルカ宅。
 居間の掘り炬燵で、向かいの上忍に酒を注ぎながら、イルカが苦笑いをする。その話を、向かう銀髪男はさっきから面白そうに聞いている。
 いつものように中忍宅に酒を呑みに来ていたが、いつしか話題が巡り巡って、子供達の悪戯話になっていた。
「他には、どんな悪戯があったんですか?」
 イルカに盃を満たしてもらいながら、カカシが訊ねる。
「あぁもう、そんなの挙げてたらキリがないですよ。あいつらの代はとにかくケタ違いに悪戯が多くてですね、元を辿ると大抵ナルトが絡んでたりするんですけど…」
「例えば?」
「そうですね、授業が始まって教卓に両手をついたら、いきなりそれが消えて大の字にコケた事とかありますよ。そんなですから、座っていた椅子が突然消えるなんていうのはもう日常茶飯事ですし、皆の前でナルトに変化のテストなんかやらせようもんなら、勝手に裸の女性になったりするんですよ? で「先生鼻血出てる〜!」とか皆で騒ぐから慌てて鼻の下こすったら「引っかかった〜!」ですよ! いつだったかは、教室に入って行ったら、生徒の大半が火影様に変化してた事もありましたね。あの時は俺もムキになって、そのまま最後まで授業を続けてやりましたけど、流石にあれはやりにくかったなぁ〜」
 イルカが思い出しながらふと向かいを見ると、上忍の肩がぷるぷると震えている。
「…あ…イヤ、すみません。…日々、活気のある授業だったん、ですね…」
 手で顔を覆いながら何とか笑いを止め、咳払いをしながら一旦はしゃんとした顔つきに戻るものの、その時の状況を想像してしまうのか、すぐにまた口元が緩んでしまう。
「あの、カカシ先生? 先生に対しては、あいつは…ナルトは悪戯しないんですか?」
 イルカは至極真面目な顔付きで、上忍に訊ねる。
「…くくくっ……え? あぁナルトですか? んーーそうですねぇ、引き合わせのあった初対面の時に、黒板消し落としの洗礼を受けたくらいですかね。その後は一度もないですよ。サスケと張り合うのに忙しいのかな」
「こっ…黒板消し落とし、ですか?! 初対面の上忍の先生に何て事を…あいつ…!」
 とっくの昔に過ぎ去った事にもかかわらず、イルカは真剣に怒っている。
「あぁ、いいんですよ。オレ、知っててかかりましたから」
「え?」
「イルカ先生と同じですよ。その場を盛り上げたり、自分により注意を向けさせるためにね。先生も今の話の感じだと、悪戯と知った上で三回に一回くらいはわざと掛かってやってますよね?」
「――えっ? …えぇ…まぁ、それは……はぃ…」
 小さな声でごにょごにょ言いながら、俯き加減で鼻梁の古傷を掻いている。
「ナルト達の脱走も、何回かに一回くらいはわざと見逃して外まで行かせてるし、居眠りだって気付いててもすぐには注意しないで、少し寝かせてやったりしてるんでしょ? わざと時々隙を見せて、あいつらに悪戯しやすい環境を作ってやってるんじゃないですか? コミュニケーションの一環として」
 途端、イルカがうっと返答に詰まり、やがて照れたような顔付きへと変わっていく。
「え、えぇまぁ…時々ですけど、ね。ああ見えてあの脱走ゲームも、忍を目指す以上はあいつらのいい勉強になってる部分もありますし…。それに俺も経験あるからよく分かるんですけど、遊びながら自主的に学んだことって、案外忘れないし上達も早いんですよ。何しろ集中力がまるで違いますからね。それに、何て言うのかな…、あいつらが悪戯してる時の表情がね、何とも言えず生き生きとしてて、すごくいいんですよ。居眠りしてる時なんてやたらと幸せそうでね、壊すのが気が咎めるくらいたまらなく可愛くて。甘やかしちゃいけないって、頭では解ってはいるつもりなんですけどね…。――あぁーでもやっぱり俺、あいつらに舐められてるのかなー。子供でもちゃんと人を見てますからね。タハハッ…お恥ずかしい話ですが」

 子供達の溌剌とした姿でも思い出しているのだろうか。イルカは眩しいほどの笑顔になったり、かと思えば額に手を当てて、ちょっと落ち込んだような様子を見せたりしながら、尚もぽつぽつと話し続ける。
「カカシ先生、俺ね、子供の頃、脱走とかしてる奴等が内心羨ましかったですよ。表向きは大して興味のないフリをしてましたけど、本当は俺もやりたいって、ずっと思ってました」
 男の黒々とした瞳が、かかる睫毛の下でどこか寂しげに細められる。
「へぇ、イルカ先生でも?」
「ええ。でも、結局一度も出来ませんでした。俺ってほら、急に親が居なくなったじゃないですか? だから褒めてくれる人が誰も居なくなったせいなんですかね。当時一番身近な大人だった先生にだけは絶対叱られたくない、褒められたい、優しくして欲しいって、子供心に思ったみたいで」
「…………」
「それにナルト達のキラキラした表情を見ててもね、悪戯もそんなに悪い事じゃないように思えてきて、俺も一度くらいは勇気を出して脱走してみても良かったんじゃないかなぁって、今更ながら思うんですよ。だから何にでも興味を持っている今のうちだけはね、それが悪戯であれ、時々ならやらせてやりたいとも思うんですよね。駄目ならすぐに怒られる訳だし、そこから学ぶことも案外多いんじゃないか、なんてね」
『悪戯なんて、いつの間にか自然とやらなくなってしまうものだし』と言って、小さく笑いながら遥か昔に記憶を飛ばしている風のイルカを、上忍は温かな目元で見つめた。
 実のところ、カカシも子供の頃に悪戯をしたという記憶は殆どない。元々落ち着きのある、子供らしくない子供だったし、早くから中忍へと進んたことで、大勢の子らや教師と共に教室で過ごした時間が極端に少なかったせいもある。
 カカシはそんな中忍の話を黙って聞いていただけだったが、内心ではちゃんと返事を返す。
(イルカ先生、あいつらはあなたの事を舐めてなんかいませんよ。子供達は皆、あなたに振り向いて欲しくて、かまって欲しくて、甘えたくて自然と悪戯を続けるんですよ。親のいないナルトは特にね。でなけりゃ、後で散々に怒られることがわかってるのに、いちいち全ての悪戯に参加する訳がないでしょ? あなたも知ってか知らずか、ちゃんと隙を作ってそれに応えてやってる。今、ナルトがオレに悪戯を仕掛けてこない本当の理由はね、オレ自身が悪戯慣れしてなくて、隙を見せるのが下手だからですよ…)

「オレも悪戯小僧じゃなかったですけど、ナルトの悪戯したくなる気持ち、今ならよーっく分かりますよ」
 カカシが盃を唇に付ける寸前で止めると、かわりに微妙なことを口にする。
「え? …そう、ですか?」
「えぇ、そりゃぁもう〜」
 上忍は薄い唇を透明な液体で濡らすと、ちょっとイルカを翻弄するような、飄々とした表情で答えた。
(オレも悪戯であなたの気が引けるんなら、どんなにラクかと思いますよ? イルカ先生…)
 しかし、それ以上の悪戯の仕方を知らない上忍は、黙ったままイルカの空いた盃に酒を注ぐと、そのまま男を煙に巻くしかなく。

 向かうイルカは、満たされていく盃を見ながらぼんやりと思った。
(カカシ先生…。俺、二人っきりのこんな時間に淡い昔話なんかしたりして、カカシ先生にいっぱい隙を見せているつもりなんですけど……やっぱりそんなので気付いて貰えるわけ、ないですよね…)

 悪戯も知らぬまま大人になった二人は、酒なら幾らでも酌み交わせるようになったものの、相手の意図まではなかなか酌みきれぬまま。
 そんな不器用な大人達は、心おきなく人の気を引ける悪ガキ達を「しょうがない奴等ですねぇ」などと言いつつも。

 心密かに羨むのだった。








                    「悪戯したくて」  終




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