一、 初見



「――どうぞ」

 海野イルカは座ったままゆっくりと振り返り、ドアの方に向かって静かに声を掛けた。
 ノック音がした訳でも、誰かの声が聞こえた訳でもない。けれど扉の向こうに佇む僅かな気配を少し前から感じていて、穏やかに促した。イルカにはその気配が『この部屋に入りたい』という、切実な意思表示と受け取れていた。
 時計を見やると、そろそろどの教室も授業が終わる頃だ。帰宅途中だろうか、窓からは子供達のはしゃぐ明るい声が、風に乗って聞こえてきている。
「――――」
 しかし、扉のすぐ向こうにある気配は、幾ら待っても動く様子を見せない。それどころか返事の一つさえも返らず、ひたすら沈黙している。
(…………)
 イルカはほんの僅か、顔を曇らせた。
 今の声なら、間違いなくドアの向こうまで届いているはずだ。アカデミーの外れにある、こんな古びた建物には人影も無く、窓の外で広葉樹の緑が時折ざわざわと音を立てるくらいのもので、辺りはいつ来ても静まりかえっている。そもそも忍を生業としている者に、今の声が聞こえないはずなどない。

「開いていますよ」
 暫くして、扉の向こうの微かな気配にもう一度声を掛けてみる。可能な限り穏やかに。
 だがその者は、依然として扉を開けようとしない。
(でもまだ居る。立ち去らずに……扉の前に立っている)
 イルカはそう感じた。恐らく気のせいなどではない。
 古びた木製の椅子を軽く軋ませ、立ち上がった。そして気配は敢えて消さないままに、さして広くもない四角い部屋をゆっくりと横切っていく。

 間違いない。木の扉一枚隔てただけの、すぐ向こうに居る者は、自分と同じ忍だ。
 そして心を病んでいる。



「――こんにちは。どうぞ、良かったら入って下さい」
 扉を引くと、思った通りそこに俯いて立っていた青年に、イルカは優しく声を掛けた。
「…………」
 しかし男が入室する様子はない。その素振りの欠片さえ見えない。まるでイルカの声が聞こえず、姿さえも見えていないかのようだ。イルカの声掛けにも目を合わせないまま、ひたすら俯いて押し黙っている。
 その二人の間を、ただ時間だけが静かに通り過ぎてゆく。

 ひんやりとした廊下の空気が、温められていた室内のそれと全て入れ替わっても、イルカは青年と向かい合ったまま、敢えて何も喋らなかった。
 待つしかない、そう思っていた。今あれこれ話しかけても、全ては逆効果なのだと。
 イルカはこの一番最初の入室に関しては、数あるアプローチの中でも特に気を遣わねばならない、重要な事項であると捉えていた。もしも今、彼の手を取ったり背中を押したり、あれこれ問い質したりして半ばこちら主導で室内に引き入れたとしても、後の結果は十中八九芳しくない事になるだろう。この任務において、自分はまだ駆け出しと言って差し支えないレベルだが、その点は重々分かっているつもりだ。
 最初の入室だけは彼の意志で決めて、彼の足で入って来て欲しかった。今どうしても自分の意思で入れそうにないのなら、無理に入らなくてもいい。気持ちが落ち着くまで待って、また後日改めて来て貰ってもいいのだ。
 精神治療は初回に持たれる印象如何で、その先の進み具合が大きく左右され、それによって結果も異なってきてしまう。そのため、イルカは最初の入室には殊の外気を遣っていた。

 そのドアが開かれてから十五分後。彼がドアの前に立ってからなら二十分ののち。
 結局青年は、イルカが一歩引いて自身の通る道を開けてくれた事に促されるようにして、目の前に開かれた空間をのろのろと歩いて室内へと入った。
 だがその足取りは、まるで両足に鎖でも付いているかのように重かった。



「――どうぞ掛けて。楽にして下さい」
 気持ち多めに距離を取った二つの椅子のうち、クッションのいいゆったりした椅子の方を手で示して青年に勧める。自分が使うのは、机の側にある丈夫さが取り柄なだけの使い込まれた木製の椅子で、肘掛けや背もたれの類は無い。
 同じように使い込まれた風合いをみせる机の上は、清々しいほどすっきりと片づいていた。書類等は一切置かれていない。あるのはペン立てと小さな観葉植物の鉢だけだ。
 今日、この時間に訪れる予定の者の名前や所属、戦歴や身体的特徴などは、予め回ってきている資料で全て把握していた。今は必要無い。
 何より、対話の途中で書類に何度も目をやったり、自分の言動を書き留めたりする行為に、ここに来る人達はことさら敏感に反応する。そして場合によっては、折角出かかっていた殻の中へと再び閉じこもってしまうのだ。
 よって彼等を少しでも不安定にさせるものは、この部屋には極力置かないことにしていた。


 部屋の中へと進んだ男は、自分のために空けられている椅子と、その脇に座るイルカを見るや、また何らかの葛藤を始めたようだった。椅子もイルカも見ないで俯いたまま、部屋の隅に置かれた大きな観葉植物の前に立ち尽くしている。
(――座るか、座るまいか…。もしもこのまま座ってしまったら……でも座らなかったら…?)
 イルカには男の葛藤が何となく分かるような気がした。
 それでもイルカは、決して男を急かしたりしない。
 精神検査官と対面して、椅子に座らねばならないという思いは、実際に精神的に追い詰められている者にとっては尋問によって身ぐるみを引き剥がされ、全てを白日の下に暴かれる恐怖や屈辱と受け取られる事が多い。無理強いは禁物だった。
(…座りたくないなら、それもいい)
 イルカは無用な圧迫感を与える正面からではなく、敢えて斜め方向から男にゆっくりと近付き、彼が本能的に逃げ出したいと感じる数歩手前で本棚に凭れかかると、楽な姿勢をとったままそっと男を見やった。

 初めて見る顔だ。国境付近で頻発する紛争地帯を点々としている忍は、こんな事でもないと里には戻れないのだと、上官であるイビキが言っていたのを思い出す。
 浅く陽に焼けた肌に、最近まで赴いていた戦場で負ったと思しき擦過傷が幾つも付いている。几帳面らしく茶色い短髪はきれいに刈り込まれているのに、額当てはどこにも付けてない。資料によるとまだ二十一のはずで、自分より一つ年下のはずだったが、目の下や頬に浮き出来た濃い翳りが彼の実年齢を掻き消し、分からなくさせていた。
 回ってきている書類によると、彼の名はシモト。階級は下忍。最初に様子の不自然さを確認したのは、三月ほど前とある。
 だがその後、彼は自身の内面が不安定になっていることをひた隠しにしたために、悪化の一途を辿ったようだ。戦場で度々幻覚によるミスを起こすようになり、最後には上官や同胞らの命まで危険に晒した事で、ついに班から外れることを余儀なくされていた。


「上着、脱いでいいですよ。部屋は暑くないですか? 窓、もう少し開けた方がいいかな?」
「――――」
 返事はなかったが、何とかしてこの沈鬱な場の空気を少しでも和らげてやりたかった。ゆっくりと窓際に向かって歩いていき、彼の心を悪戯に刺激しないよう、少しだけ窓を開ける。
(君との間も、早く風通しが良くなるといいんだけどな…)
 すぐに緑の匂いを含んだ風が入り込んでくる。が、果たして部屋の奥で五分以上も立ち止まったままでいる男に、この風は届くのだろうか。
 この任に就いてまだ半年ほどのイルカには、何とも言えなかった。

「もしかしたら、この組織のことをあまり快く思ってらっしゃらないかもしれませんね。でもそれは無理もない事だと、私も思っています。検査なんて誰でも…勿論私だって何を探られるのかと、きっと身構えてしまうと思いますから。でもこれだけは知っておいて下さい。この一時間はあなたの時間なんです。だからあなたの自由に使っていいんですよ? 何か私に力になれそうな事はないですか?」
 元の場所に戻って本棚の隅に凭れると、暫くした所でイルカが声を掛ける。

「――――」

 しかし辛抱強く待ってみたものの、返事は返ってこない。
 たっぷり五分以上過ぎたところで、ようやくイルカは次の言葉を口にした。焦ってはいけない。矢継ぎ早に質問を投げかけても、彼の固く強張った心象を悪戯に悪化させるだけだ。
「どんな小さな事でも構わないですよ。あなたの心に浮かんだことでいいんです。もし何か心配事があるようでしたら、教えて下さいませんか?」

「――――」

 だがかなりの時間待ち続けたものの、立ったまま俯いている青年の生気のない横顔には、相変わらず目立った変化はない。ただ唯一、陽に焼けた傷だらけの指先が、自身のズボンの縫い目をしきりに弄っているだけだ。
「――そうですか…。今はあまり喋りたくない気分なんですね。それは…上官に行って来いと命令されて、止むに止まれず仕方なく来た…、から?」
 今は極力急かしてはいけないと判断し、問いかけの内容を変えてみる。

「――――」

 やはり返事はない。指先でズボンを弄り回している以外は、体も表情も硬く虚ろなまま固まってしまっている。恐らく彼自身でさえも、自分の指がそんな動きを繰り返しているとは自覚してないだろう。もししていたら止めている。
 しかしその傍目にはまるで意味のない行動も、実は彼の奥深い所で巻き起こっている何らかの激しい葛藤による代償行為であり、サインなのだろうなと、イルカは思った。

 更に五分ほどが過ぎたところで、イルカは再び声を掛けた。
「もし情報が漏れることを心配しているなら大丈夫ですよ。ここで何かを喋ったせいで、あなたの立場が不利になるような事は決してありませんから。約束します」
 心乱れ、疑心暗鬼にもなっているであろう彼にはなかなか信じて貰えない言葉だろう。が、これはある意味至極当然のことだった。
 実はもう、この部屋に行けと上から指示された地点で、その者の忍としての評価は地に落ちている場合が殆どだからだ。精神鑑定を指示されていない者は即ち正常とみなされ、今もこの世のどこかで任務を遂行している。
 よってこの青年が今ここで何をし、何を話そうとも、彼が班に復帰するまでは、その地に落ちた評価は何一つ変わることなどないのだった。

「――――」

「でも今日は来て下さって嬉しかったです。ありがとう」
 大事なのは、鑑定によって彼がどんな過程を経て、どのように病んでいると明文化することなどではないはずだ。
 本当に大切なのはその先にある援助であり、本人の病が完治することなのだ。
 彼は砕け散ったプライドを引き摺りながらも勇気を振り絞ってここを訪れ、復帰への長い道のりの一歩を踏み出してくれた。今日はもうお互いに十分やれたはずだ。

「――――」

「…すみません、今日はもう時間のようです。……あ、待って! 気が向いたら、また近いうちにここに来てくれますか?」
 早速と立ち上がって、逃げるように踵を返しかけている青年を呼び止める。

「――――…」

 これだけはじっくりと待ってでも色よい返事を貰いたかった。だが、長く待つことを覚悟していた割には、男の意思表示は早かった。
 声は発しないものの、それまでぎゅっと噛み締めていた男の唇が緩められ、ほんの僅かだが顎が下がったのが見て取れた。
 男の初めての小さな意思表示に、イルカの声も思わず明るくなる。
「良かった…! ずっと待ってますよ。気持ちが動いたら迷わずにいつでも来て下さい。勿論夜でも構わないですからね」
 本来は応対時間はきちんと決められている。でもそんな規則で縛りつけて、仲間の復帰を阻害したくなかった。上司や同僚には内緒だが、そのことに罪悪感はない。


 結局男は、一言も喋らないまま部屋を出て行った。出て行く時は、入って来るより遙かに速やかだった。
(――でも一応、第一段階は通過、か…)
 何か目に見えないものにでも押されるようにして、足早に遠ざかっていく後ろ姿を、戸口に立ったまま見送る。
 きっと暫くしたら、彼はまたここに来てくれるだろう。いや、来て欲しい。次も、その次の対面でも何も喋らないかもしれないが、今暫くはそれでいい。
 この分だと復帰までかなりの時間がかかるだろうが、大事なのは早さなどではないのだから。上からはスピードも要求されてはいるが、自分はそれは違うと思っている。
 彼等に今最も必要なのは『一言も喋れない自分でも、例え忍として役立に立たなくなった自分でも、常に受け入れて貰える場所がこの里にあるのだ』と強く実感して貰うことだ。
 そこまでなってようやく、『自分は里に見放されている訳ではない。まだやれるのだ』と自覚して貰うための、本格的な援助が可能になる。
 そして病むきっかけとなった辛い出来事を共に探し、もう一度見つめ直し、克服のための対話をじっくりと繰り返しながら、最終的に再び班に戻れれば、イルカに課せられている「精神鑑定及び復帰援助」の任務が、ようやく一件完遂したことになるのだった。

 同僚達の話によると、この部屋は陰では「懲罰房以上に行きたくない場所」などと囁かれているらしい。だが、この任務は決して仲間に非難されるような筋合いのものではないし、正真正銘火影に認められた公の組織だ。
 それでもここの存在が殆ど知られていないのは、病院に比べて利用者が遥かに少ないこともさることながら、詳しく知ってる者がいても、皆人前では口を閉ざしているためと思われた。
 また、イビキを始め、長である火影もこの組織の存在を広く内外に知らしめようという考えはないらしく、指揮官クラスにのみこの組織の存在が知らされていると聞いている。結果、発足からかれこれ十五年以上が経つというこの組織は、その姿を明るい日の下に現すことなく、実質水面下の存在となっていた。
 だが今この瞬間にも、戦場で心を病む者は増え続けているはずだ。「我々の目に留まるのは、氷山の一角に過ぎない」と、イビキもかねてから断言している。
 例え上層部がどういう考えであれ、上からの命令などなくても、自分はここを「必要なら、いつでも誰でも気軽に来ていい場所」として認識している。
 勿論こういった事が毎日あるという訳ではない。受付で書類を受け渡しする際に少し様子のおかしい者を見つけたり、今のように任務中に不自然な失態をして、班から外されてきた者が居た時だけ機能する組織だ。
 だが国境線付近で戦が始まってからというもの、あの部屋に居ることが明らかに多くなって来ていた。












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