二、 盲信



「――開いてる」
 ノックをして中に入ると、重い低音の声の主が書類から顔を上げた。
「まずは初期接触成功ってところか」
 顔に幾つもの古傷のある大柄な男が、こちらをチラと見るなり言う。その目つきは鋭く、何もかもを見通しているような怜悧さと強さがある。
「はい。まだ対話には至っていませんが」
「反応がないからって必要な働きかけは怠るな。あまり甘やかしてると、逆に復帰が遠のくぞ」
「…はい」


 この組織は極小さい。構成人員は自分を含めた中忍が三名と、この目の前にいる統括者のイビキ特忍しかいない。自分以外は精神鑑定のベテランだったり、薬剤治療の第一人者だったりするが、去年までは全くの門外漢だった自分には、まだとてもそこまでの知識も経験もない。ちなみに、受付と中ランクの任務中心だった自分を、こんな重要な任務に推してくれたのは、他でもない三代目だった。後になってイビキ本人に教えられて驚いた。
「まぁこの任務は、専門知識で理論武装したから務まるってもんでもないからな。とりあえず一度やってみることだ。心配するな、向いてなかったらすぐに分かるさ」
 心理学など何一つ修めていない無知な自分をいきなり引き渡されても、特忍は至極冷静だった。そして何も持ってなかった無知な自分に、必要な知識を一から叩き込んでくれた。その多識さや深い洞察力、冷静で鋭い観察眼には、今でも感心させられっ放しだ。
 彼は過去に酷い拷問にかかった経験があるらしく、その時心身に負った傷を克服した今では、尋問の第一人者という逆の立場の顔も持っている。自分に対する指導も厳しい。だが、独特の威圧感のあるごつい面貌にもかかわらず、どうかすると時にふっと優しい目になる気がするのだ。
「皆さんも、そう思いますよね?」と他の二人の先輩同僚に言ったら、「絶対に気のせいだ!」と一笑に付されたけれど…。
(この人なら、ついていける)
 とにかく俺はそう思った。だから「もし向いてなかったら」なんて、考える必要はないと思ったし、実際考えたこともなかった。
 任務中の出来事が原因で心に酷い傷を負い、昼夜問わずに苦しんでいる仲間達を何とかしたい。
 とにかくこの半年間は、そのことに夢中だったとしか言いようがない。


「――それとだな。オレは明日から国境近くの陣に長期任務に出る。いよいよ本業の方が忙しくなって来たんでな。まず三月は戻らんだろうから、そのつもりで居ろ」
「ぇ…」
 突然の上司の切り出しに、イルカは返す言葉が見つからないまま立ち尽くした。早く一人前になりたいと精一杯努力してきたつもりだし、実際ある程度の成果を上げつつあったが、それでも上司の不在をこんなにも心許なく思うとは。
「オイオイ、何て顔してる。その間は三人全員がここの責任者なんだぞ。そんな情けないことでどうする。いいか、オレが帰るまでは何があってもお前達で考えて全ての判断を下せ。それが出来るだけの力は付いているはずだ。――イルカ、分かったな?」
「ぇ…あ、はい!」


(…ったく、しょうがないヤツだな…)
 イビキは小さく溜息をつく。
 相談者に要らぬ不安や雑念を与えないためにも、「己の考えは出来るだけ悟られないようにしろ」と日頃から言っているのに、この男だけは未だにそれが徹底できない。
 ただ、イルカが荒削りながらも心理診療者としての資質を持った希な人材である事は、初めて会った時からある程度分かっていた。更に言うなら、テストを繰り返しながら診断する能力よりも、その後の治療に向いているタイプだ。
 任務に対しては非常に真面目で、何事にも熱心かつ粘り強い。また忍として過酷な修行や任務を数多くこなしてきたにもかかわらず、他人に対しては常に和やかで寛容だ。援助者として最も必要なものは、もう既にあらかた揃っていたといっていい。
 何より彼は、この援助任務において大抵の者が知らず知らずのうちに陥ってしまう「自分とあなたは違う人間だ」とか「自分は病んでない。だからあなたを治してあげる」という誤った考えに陥らない。もし一度でもこの考えに陥ったなら、相談者達はすぐさま認識のずれや疎外感を感じ取り、「この者には何を話しても無駄だ」と失望して二度と心を開かなくなってしまう。
 しかしイルカは、どんなタイプの相談者であろうと、不思議とその視点を見失わずに居られた。
 彼のこの得難い資質は、彼自身が子供の頃、九尾の一件で両親を一度に亡くした事とも無関係ではないだろう。
 今は穏やかでくっきりとした黒目がちな目元にも、事件当時には幾色もの激しい苦悩が渦巻いていたであろう事は、容易に察しが付く。それを決して短くない歳月をかけて克服したことから図らずも得られたものにより、彼は今身を立てようとしていた。
(この男ならやれる。――いや、やらせてみたい)
 ふと気が付くと、自分でも可笑しいほどの期待を寄せていた。
『懲罰独房より、尋問室より行きたくない、忍として最も恥ずべき場所』と言われているこの薄暗い鑑定室に、初めてと言っていい一筋の光を見たような気がした。



「――あと一つ。オレが受け持っていた相談者を、お前に振っておく」
「ぁ、はい」
 イルカの顔に、さっと緊張の色が走った。イビキは常に役職が上の者や、特別に扱いが難しいケースを抱えている。引き継がれるのが一筋縄ではいかない相談者であることは明らかだ。
「その相談者だがな。名前、戦歴、会得術、当時の任務状況、顔写真、生年月日、その他一切不明だ」
「は…?」
 イルカは眉根をくっと寄せながら、目を瞬かせた。
 相談者なら、皆予め多くの参考資料が手元に回されてきていて、それを元に様々な鑑定や援助方法の計画を立てていく。なのにそれらが全く無い、どこの誰とも分からない者とは一体…?
(…あ、もしかして…)
「分かったか? ……そう、暗部だ」
「はい」
 イルカの顔がさっと引き締まる。
「だが、本当にお前に引き継げるかどうかは分からん。なんせ今日もここに行けという上からの命令をすっぽかしているからな。これでかれこれ三度目の命令無視になる」
「それは……任務で時間が合わない、とか?」
「ふん、そんな都合のいい任務ばかりある訳がないだろう。暗部は火影の直轄機関だ。ここに行く命令だって一応火影の名で出てる。要するに野郎はここを馬鹿にしてるってことだ」
「怯えて来れないってことは…」
「奴に限って怯えるなんてことは有り得ない。会えば分かる。…と言っても会えないんじゃな」
 イビキは無骨な表情は変えないままに、大きな手でこめかみを押さえる。
「ご存知なんですか? その人の事」
「あぁ、前にも二度ほど来たことがあるからな。野郎は…本来は恐ろしく切れる知能指数の高い奴なんだろうが、同時に狡猾で気紛れで我が儘なところのある酷く扱いにくい男だ。いわゆる『紙一重』なタイプだが、どうせまた任務先で訳の分からん行動でも起こして班長の逆鱗にでも触れたんだろう。ここに行けと言われたのも半分は命令を聞かなかった事に対する腹いせみたいなもんだろうが、その度にこっちがいい迷惑してる。…まぁ奴にとっちゃ、ここの鑑定や援助なんてのは、ガキの遊びか暇潰しくらいにしか見えてないらしいからな。いつも適当に世間話をして『シロ』で放免してやってるが」
 小さく頷いた時、つい喉が鳴ってしまった。そんな暗部の上官や百戦錬磨の特忍でも手を焼いているような者を、新米の自分が相手に出来るだろうか? にわかに不安になる。
「それとこれはオレの印象だが、恐らく奴はどんな異常な状況に対面したとしても人格障害を発症しない質だ。もし来たら適当に相手をして帰してやれ。まだ到底お前の手に負えるような相手じゃないが、どんなタイプの人間が発症しないのかを見るのも勉強にはなるだろう」
「はい、分かりました。では関係資料は本当に何も…」
「無いな。暗部なら、名前はおろか経歴から任務内容まで一切秘匿出来るっていうあの下らない特権さえ剥奪されれば、もう少し何とかなるんだろうがな。お陰でやりづらくてかなわんが、仕方ない。そいつの身体的特徴は…そうだな。――長身で痩せ形。銀髪。狗(いぬ)の面を付けている事くらいだ」
「分かりました。それだけ分かっていれば人違いはしないでしょうから大丈夫です。何とかなると思います」
 何事にも前向きな中忍は、上司に向かって一つ大きく頷いてみせる。
「まぁ何とかするしかないんだがな。これもいい機会だ、やってみろ」
「はい」
 くっきりとした目元には、何物にも揺るがず染まらない清潔さが一杯に現れている。
 イビキは内心、(自分が里を出たと知ったら、奴はもうここには来ないだろうな)と思いつつも、その目元を見ているとつい(もしや…)などと考えてしまう。
 何の根拠もないのに、そんな期待を抱いてしまっている自分は、イルカを買っているというよりはむしろ盲信と言えた。
『自分は刻一刻と失いつつあるものを、まだきれいなまま持っている』者に対するこの思いを、何と言おうか。
(…まぁいい)
 最終的にどの程度里を空けることになるかは分からないが、(珍しく戻ってくる楽しみが出来たか)と男は思った。

「終わったなら、いいぞ」
 僅かな手振りでイルカに「出て行け」のサインを出す。
「なんだ、まだ何かあるのか」
 ふと顔を上げると。
「いえ、…お気を付けて」
 こちらを見つめる黒々とした瞳と目が合った。
「馬鹿、気を付けるのはお前の方だ。いいか、絶対に相談者に深入りするな。何があっても、それだけは忘れるなよ」
「はい。『深入りと受容は違う』ですね」
「そうだ。本来の目的を見失うな。共倒れではこの組織の意味がないぞ。お前は手順書で決められている“枠”から決して出るな。例え向こうがどんな手を使って揺さぶって来ようともだ」
「分かりました。気を付けます」



 イルカが丁寧に一礼して出て行くと、イビキは短い溜息を一つついた。
 自分がこの組織を抜けても、任務内容が特殊なだけに、代役は入らない事になっている。よって残された三人の部下達の負担は確実に増えるはずだ。そのことで彼等が成長出来ればよいが、逆の結果になりはしないだろうかと少し気掛かりだった。

 情緒不安定、うつ症状、睡眠障害、パニック発作、不安障害…。
 様々な症状から『精神検査及び治療』を必要とする忍は、火ノ国の国力の増大と共に年々増加傾向にある。忍の総数自体が年と共に増えているのだから、仕方ないと言えば仕方ないが、原因は他にある。
 国境付近で度々起こるようになっている戦だ。
 政治、宗教、貧困、人種、領土、資源、過去の戦の遺恨…。しかもそれらの全てに金と権力が介在するために、様相は年々複雑化し、単純だった発端を何重にも厚く覆い隠している。当然和解への道はどれも遙か遠い。
 そんな大義のあやふやな戦にばかり投入されて、昼夜を問わず襲い来る敵と戦い続けていれば、幾ら戦うための訓練を受けているとはいえ、自分は何のために戦っているのか次第に分からなくなり、状況によっては拠り所を失って精神を病む者が増えるのも当然の成り行きと言えた。
 どんなに優秀な血継限界の一族の生まれだろうと、どんなに優れた秘伝術を受け継いでいようと、己の心だけは決して自在に操れない。人の心に付いた無数の傷を見てきて、改めてそう思う。
 そして一旦ついてしまった深い傷は、どんなに高名な薬師が調合した薬をもってしても、症状の緩和しか出来ないのが現状だ。
 我々は薬や外科的手術はもちろん、発展著しい医療忍術をもってしても治せない「心の傷」……誰も底を見ることの出来ない深い闇……と向き合っている。

 この組織に検査に訪れ、『問題あり』と診断された者は、一定期間の間、戦線復帰のための“援助”と称した回復治療を行う。そしてある程度の改善が見られた者から、再び物資の補給や連絡などにあたる兵站――いわゆる後方部隊――へと編入されていくという過程を辿る。
 だが障害の度合いが重すぎて、最早兵站への復帰も不可能と判断された者は、最終的には忍社会から外れる事を余儀なくされる。しかし一般人になったとしても、やがては酷い悪夢や幻覚症状による不眠症、疎外感や過度の警戒心などから、家族や恋人や知人とも折り合いが悪くなり、次第に孤立の度合いを深めていく者が後を絶たない。最悪の場合、戦場で守り通してきたはずの命を、自宅の部屋の片隅で自ら断ってしまうというケースも、最近では珍しくなくなってきている。
 戦場から遠く離れても、忍を辞めても尚、一生をかけて戦い続けねばならない重い枷を填められた者達。
 そしてその枷を何とかして取り除こうとする我々もまた、間接的にではあるものの、その戦場で共に闘っているのかもしれない。
(共に、か…)
 イビキは机の上に置かれた己の分厚い手の甲をじっと見つめた。
 戦場から遙か遠く離れたこの平穏な隠れ里にも、連綿と続く黒い鎖の連なりが見える。
 戦で心を病む者達の増加は、単に慢性的な戦力不足を招くだけではない。それだけの失業者とその者達の生活補償問題までも新たに抱える事になっていくのだ。更にそんな状況を目の当たりにしては、幾ら目の前に見返りの札束を積んでいったとしても、新たに忍を志す者も減少の一途を辿っていくに違いない。人格障害者の存在は、里の存亡に関わる重大問題といえた。
 黒い連鎖は、やがて一つの巨大な枷へと形を変えて、大国の頭上に重くのしかかっていくだろう。
(間接的に国を疲弊させ、没落させる事も可能…か)
 人の熾した火種だ、必ずや人に還っていく。
 この国は豊かな大国になったが、その代償として他国とのほぼ全ての揉め事に関わり合ってしまっている。戦力も今では五大国一を誇っているが、なまじ最強国であることが、かえってこの国の未来を薄暗いものにさせている気がしてならない。
(――ふん…光か…)
 そんなものをあの新入りの中忍に見たことが、我ながら滑稽に思えた。自分も、知らず知らずのうちに枷が重くなってきているのだろうか。
(―――…)
 イビキは残務を処理するため、再び書類へと目を落とした。












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