三、 向日葵



 今日もまた、朝から強い日射しが巨大な樹木に降り注いでいる。暦の上ではもうとうに秋を迎えているというのに、まるで知らぬ存ぜぬといった風の日射しに、人々は諦めで応じるしかない。
 大木の下にある古い木造の建物には、不規則な斑模様が映しだされて微かに揺れ動いていて、窓は開け放ってあるものの、風は殆どない。
 イビキはあの後、未明に国境付近へと出立していた。
 普段から不要なことを言わない寡黙な人だったにもかかわらず、居なくなるとすぐに言葉に出来ない心許なさを感じだした。この組織において彼が占めていた役割の大きさを、今更のように思い知らされるが、それを安易に表に出すことは憚られる。
 残された三人の部下達は、皆いつになく口を噤んで任務に臨んでいた。

 新しく受け持つことになったシモトの“援助計画書”を作りながら、イルカはさっきまでのやりとりをつらつらと思い起こしていた。
 精神鑑定のベテランである同僚の一人は、シモトの様子や過去の経緯を聞くや「あぁ、それは心的外傷後障害と、そこからくる鬱の複合だな」と早々に断定した。
 するとすかさず隣の薬剤治療に長けた同僚が、「じゃあ新しく出来たあの薬、一応渡しておくからさ、頃合いを見て出しておけよ。その方が早く対話に移れるしな」と答えて、その場で包みを渡されていた。
 心的外傷障害とは、戦場などで心や体に到底耐え難い衝撃が起こった時、その辛い記憶がいつまで経っても忘却の方向に進まずに、ほんの些細な切っ掛けから、当時と全く同じ光景を何度でもリアルに体感してしまう状態を指している。
 誰しもに起こる「忘れる」という行為は、一見すると全く不要で無駄なシステムのように思われがちだが、実は本人の苦痛を和らげて守るという、とても大切な役割を果たしている。しかし、受けた体験が余りに酷いと、希にその働きが壊れてしまって働かなくなるために、本人は何度でも激しいショック症状に陥ったり、それを恐れて常に不安に駆られ続けたり、夢でもその光景に出くわして不眠に陥ったりしてしまう。
 確かにシモトを見た時、自分もそれらの病名が脳裏を過ぎったのは確かだ。
(――でも果たして本当に、それだけなんだろうか…)
 目の前に置かれた白い紙包みを見ながら、自分は次回どういうアプローチをすべきかと考える。今までベテランである彼らの見立てが間違っていたことは一度もないが、時期尚早な切り込みや決めつけは、時に奥深くに潜んでいるかもしれない問題を見えにくくしないだろうか。
 結局「今回のシモトの解釈や評価は、もう少し先にしたいと思います」と言って、直後漂いだした微妙な空気の中を出てきていた。
 自分がこの組織の中で一人だけ特異な立場にあり、ともすれば孤立しかかっていることは、何となく気付いていた。
 他の二人は薬物療法を重視し、その使い方、組み合わせ方にも最新の知識と工夫を凝らす、とても合理的な人達だ。併用する心理療法もベテランらしく理屈に合っていて無駄がなく、決められた時間内に必ず終わりながらもきちんと成果を出している。
 けれど俺は、その真逆をいっていた。
 自分も薬の力を否定している訳ではない。否定している訳ではないが、精神治療薬は薬効が切れたらそこで終わりという一面を持っているため、基本的にはどれも似たり寄ったりのように思えるのだ。もちろん苦痛の緩和にはなるから自分も出しはするのだけれども、出来る限り薬は必要最小限に留め、本人の力を最大限活かすような治療を目指したいと思っている。「まず薬ありきでそこに重きを置く」という姿勢では、根本的な治療には繋がらない気がするのだ。どれほど時間がかかって効率が悪いと分かっていても、本人達の将来を考えれば安易に薬を出すことは憚られた。
 だがその考えは、いつの間にか組織の中の自分の立ち位置までも、不安定なものにしだしていた。


(ん…?)
 ふと、戸口付近で戸惑っている人の気配を感じて、イルカは頭を上げた。
(誰だろう。予定は入ってないけど…。もしかして、シモトさんか?)
 チャクラを練っていない者は、それが誰なのか特定が難しい。
「――どうぞ、お入り下さい」
 戸口に向かって声を掛ける。と、すぐに衝立の向こうで扉が引かれる気配がした。
(おや?)
 随分と濃厚な気配と、意外なほど軽い足音にそちらを注視する。とすぐに目隠しにしている衝立の脇から、小柄な少年がひょこんと顔を覗かせた。
(子供…)
 意外な訪問者に、ぱちぱちと瞬きをした。こんな時間に一人でどうしたというのだろう。教室でも分からなくなってしまったのだろうか?
「ここってさぁ、何やってるとこ?」
 少年は、晴れ渡った夏空を思わせる真っ青な瞳で訊ねた。溌剌とした、子供らしい明るい元気な声だ。黄金色の髪は、盛夏を代表する大輪の背高い花を自然と思い起こさせる。
「ここはな、んーそうだなぁー、色々な心の悩みを持った人から相談を受ける所だよ」
 この部屋にはまず縁のないはずの珍客に、イルカは面食らいながらも答えた。子供は嫌いではない。いやむしろとても好きだ。
「なやみ…そうだん?」
 まだ十にもなっていないであろうその少年は、意味がよく分からないといった様子で繰り返す。
「そうだ。心に不安がある人を助けてな、元通り元気になって貰う所だ」
「ふう〜ん。なんか色んなところがあるんだなぁ〜?」
 分かったような、分からないような声を上げながら、簡素な室内を物珍しそうに見渡している。
「アカデミーの子か? 授業は? もう終わったのか?」
 まだ日は高い。返答次第では帰さないといけない。
「えへへ、実はまだ…。でもよーでもよー、スッゲーたいくつなんだってばー。もう何が何だかワッケわかんねーの。だからアカデミーたんけんに来たんだって」
 てへっと舌を出して頭を掻いている。
「たはっ…、んーーまぁ正直なのは褒めてやるがな。授業を抜け出すっていうのは感心しないぞ」
 口調を強くして言うと、少年は「分かったってばよー」と言いつつも、その場から立ち去ろうとしない。こちらを見て何やら言いたげだ。
「ん、どうした?」
「なぁなぁ、またここに遊びに来ても、いいか?」
「あぁ? あぁ、そうだな…授業が終わった後でなら、少しくらいならいいぞ。但し、授業をちゃんと受けたらだ」
「えぇぇ〜〜!」
「当たり前だろう。ここは授業をサボりに来る場所じゃないんだ。授業を全部受けて、今日はよく頑張ったなーと思ったら来ていい」
「……んーーんーー……分かったってばよ〜」
 口をへの字に曲げて、不承不承といった様子で了承している少年を、イルカは可愛いなと思う。彼がそこにいるだけで自然と心が軽くなっていく気がする。
 きっとこの子は約束を守ってくれる。そう思った。
 やがて遠くで耳慣れた鐘の音が響きだすと、少年は「やべぇ! 昼メシだってば!」と叫んで急に焦りだした。
「あ! オレ、ナルト! うずまきナルトってんだ。センセーは?」
「イルカだよ。うみの、イルカ」
 先生じゃないよと言う間もなく、少年は「んじゃ、イルカセンセーまたなっ!」と扉を開けるや、転がるように駆けだして行った。
「……ったく…」
 その生気に満ち溢れた弾むような後ろ姿を、開け放たれたままの扉を閉めがてら見送る。
 どれほど蒸した日々が続いていても、強い日射しに焼かれようとも、ことさら季節を意識した事などなかった昨今だったのに。
 それがあの少年を見た途端、夏を思ったなんて。
 面白い子だなと思う。
 彼が名前を名乗った途端、記憶の中で「九尾の容れ物になって疎まれているらしい少年」の名前と一致して少なからず驚いたが、妖狐に抱くような不快な感情は微塵も沸かなかった。そんな自分に、心の奥でホッとする。
(大丈夫だ、俺は俺のままで、まだやれる)
 統括者であるイビキが居なくなり、組織内での孤立にいつの間にか揺らぎかかっていた心のぶれが、すっと元に戻っていくのが分かる。
(――がんばれよ)
 窓の外、鬱蒼とした木の葉の向こうで、燦々と煌めいている陽光を見上げた。












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