四、 水面下



 夕刻。
 週に数回回ってくる受付任務が終わって自室に戻り、暫く経った頃。
(…ん?)
 ドアの外に覚えのある気配がする事に気付いて、イルカは振り返った。
 今手元で付けていた受付任務用の日誌には、「特筆事項なし」の文字が綴られている。とはいっても、「二言三言受付で話すだけなんだ。相当表面に出てきている者しか見つけられないがな」とイビキが言う通り、日誌にはもう何週間も前からずっと同じ言葉が続いているのだが。
 しかも現在自分が受け持っている、数名の治療中の者達も気分が乗らないのか、まるで申し合わせたように誰も来ていない。その表面上の平穏を「今日も何事もなくて良かった」の一言で終わらせることは難しい。

「――どうぞ」
 ペンを置き、出来るだけそっと声を掛ける。
 しかし扉の向こうからの返事はない。
(…シモト?)
 初見の場で何度となく繰り返した、あの沈黙の記憶が自然と重なってくる。この感じは多分彼だ。間違いない。
 今日はお互いにどのくらい歩み寄れるだろうか?
(焦らず、ゆっくり行こうな)
 イルカは日誌を閉じると、椅子から立ち上がった。


 扉を開けると、やはりそこにはシモトが立っていた。扉が開く気配と同時に、栗色の頭をぐっと深く俯かせている。
 今回も挨拶はおろか、目線さえ合うことはないかもしれないが、それでもイルカは嬉しかった。
 彼は約束通り、再び自力でもってここに来てくれたのだ。それだけでも今日は大きな進展だと思う。自分で「何とかしたい」と思った地点で、既に峠の一つは越えていると言っても過言ではない。
 人によっては自宅にこもってしまい、こちらから繰り返し出向かないと対面出来なかったり、恐慌に陥って酷く暴れるために、やむなく術を使って強制的に収容したりしなくてはいけない者もいるのだ。けれどシモトは、何とかして自力で這い上がろうと必死で藻掻いて、前へ進もうとしている。
 そんな仲間の存在を放っておけるはずなど無かった。これは任務だという認識もそこそこに、イルカは勢い込んで話しかける。
「よく来てくれましたね。あなたならきっとまた来てくれると信じてましたよ。けれど、まさかこんなに早くに訪ねてくれるなんて…本当に嬉しいです。さぁどうぞ。ゆっくりしていって下さい」
 イルカは笑顔で扉を一杯に引いて、男の行く先を空ける。
「――――」
 途端、また先日と同じように彼の葛藤が始まるのが分かった。でも一向に構わないと思う。
(今からは、あなたの時間だ)
 後の予定も特にない。効率や時間厳守を唱え、鑑定や治療を急がせる上司もいない。幾らでも付き合おうと思う。
(戦場で、あなたの苦しみに誰一人として気付いてあげられなかった、その分までも)
 だがそんなこちらの心の余裕が伝わりでもしたのだろうか。シモトは思いの外早くに心を決めると、イルカの前を通って室内へと歩を進めた。
 椅子を勧めると戸惑いながらも掛け、冷茶を出すと手は付けないものの、小さく頭を下げている。そんな彼の一挙手一投足に、イルカは細心の注意を払いながらも心底嬉しく思った。
 彼の中に生まれだしたどんな小さな変化も、その背後に押し隠されている苦しみも、彼以外の誰かが受け入れて分かち合えば、やがて新たな別の道が開けていく。彼は第三者を通すことで、もう一度自分と向き合うのだ。他人がこの援助任務にかかわる意義とは、つまりそういうことだろうと思っている。
「どんなことでもいいんですよ。もちろん話したくないことは話さなくて構いません。筋道立てて話す必要もないですから、今あなたの心に浮かんでいることを聞かせて下さいませんか」
 イルカは心を込めて呼び掛けた。


 結局その日、シモトは随分長いこと葛藤を続けた後、その面貌に色濃く憔悴を張り付かせたまま、思い余った様子で席を立っていた。
 彼は自分から何ごとかを「切り出そう、切り出さねばいけない」と確かに思ってはいるらしい。けれど、その気力を重く塞いでくるものに邪魔をされて、表面上は前回と全く同じ「対話無し」の状態となっていた。
 但し沈黙の途中、それまで何の変化も見られなかった固い面差しに、パニック症状と思しき症状が現れていた。それでもなお無言のまま我慢に我慢を重ね続け、堪えきれずに立ち上がった時には、両手はおろか、陽に焼けた額や首筋にまで多量の汗が滝のように滴っていた。目はカッと大きく見開かれ、早い呼吸が胸や肩を激しく揺すっている。どうやら彼が心を病むきっかけになった、戦場での忌まわしい出来事を思い出したか、或いは思い出しそうになったことで、恐慌状態に陥りかけているらしい。
 しかし水と薬を手渡して、「どうしたのですか?」「何か辛いことがあるのではないですか?」と何度問いかけても、彼が薬を口にすることはおろか、声を発することも最後まで無かった。
(でも…、でも今日の無言は、前回のそれとは中身が違う)
 イルカは、シモトの逃げるような後ろ姿を見送りながら思った。




 シモトの姿が廊下を曲がって消えると、イルカはほうと一つ溜息を吐いてドアを閉めた。ポケットの懐中時計を見ると、もう随分と遅い。そんなに時間が経っていたのかと、内心少し驚く。
(…記録は明日にして、帰るか)
 背後の机に向かって振り返った。
「っ?!」
 ギョッとして息を呑んだ。
 異様な風体の男が、つい今し方までシモトの座っていたソファに、のたりと腰掛けていた。顔は白塗りの面ですっかり覆われている。上半身をベストタイプの防護服に包み、剥き出しになった白い右肩には、独特の紋様の赤黒い刺青がこれ見よがしに浮いている。
 だらしなく左右に投げ出された長い腕には鋼の防具を装着しており、二つの穴がぽっかりと空いた狗の面と相まって、一種独特の威圧感を放っていた。
(この人…?!)
 暗部だ、と思った直後には、イビキの言葉が浮かんでいた。銀髪で細身の長身、それに狗の面。間違いない、この男が自分に引き継がれた男だ。
「こ、んばんわ」
 何とか声を出した。同じ里の同胞とはいえ、暗殺戦術部隊になど全く縁がない。あの九尾襲来の時でさえ、遠くにその姿を認めただけで、十年後の今でもその実体は何一つ知らないといっていい。
「――ねぇ、アイツは? 居ないの?」
 面の奥からいきなり問われて、知らず眉が寄る。馴れ馴れしくぶしつけに訊ねてくるその声音は、予想外に軽薄な印象だ。
「…あいつ?」
「鈍いな、ここのボス」
 成人男性特有の低い声は端々で甘く、どこか優男的な印象すら匂わせるが、台詞自体は男の苛立ちを匂わせている。
「あぁ、イビキ特忍のことですね。…ええ、申し訳ありませんが暫くは戻りません。代わりに私が応対するよう、伺っています」
「なんだ、アイツもついに国境戦線送りか。――じゃあいい」
 溶けた飴のようにだらしなく腰掛けていた男は一転、別人のように軽い身のこなしで、ついと音もなく立ち上がった。続いて目の前のイルカには全く興味がないどころか、視界にさえ入っているかどうか怪しい様子で、さっさと開いていた窓から出て行こうとしている。
「あ、待って下さい!」
 思わず声を張り上げて一歩踏み込んだ。と、面が僅かにこちらを向いて止まる。しかしそこから発散される気は、間違っても穏やかなどと呼べる代物ではない。
「せっ…折角いらして下さったんですから、少しお話しでもして行かれませんか?」
「なんで? 必要ないでしょ」
「あのっ、イビキ特忍とは、以前どんなお話しをしてらしたのですか? 良かったら教えて下さい」
「そんなのそっちが知ってないといけない事でしょ。こっちがわざわざ話してやる必要がどこに?」
「――確かに…、ありませんね」
 直後、男はやれやれといった感じて首を振った。
「あーやだやだ。オレね、バカ正直ってのがこの世で一番嫌いなの。話してても苛々するだけでさ、面白くも何ともないでしょ? バカ正直と話すくらいなら、アンタんとこのボスみたく、上手い嘘つきと話す方がよっぽど面白味があるね」
 窓の前で立ち止まっている面の下で、わざとらしい溜息が聞こえる。
「すみません、気の利いた受け答えが出来なくて。そのっ、まだ新米なもので…」
「あぁ言い訳なら要らないから。――あぁそれより、さっき出てったあの男」
「え? ぁ、はい?」
 俯きかかっていた頭が、ぱっと上がった。シモトがどうしたというのだろう。
「いいからもうヤツの事は放っといてやんな。お前のやってる事はね、一から十まで戦力の無駄使いでしかないから。向こうだって迷惑してるしね。こんな下らない事延々やってる暇があんなら、低ランク任務の一つでも消化した方が遙かに意味があるに決まってるでしょ」
「なっ、そんなっ…」
 男の意外な言葉に、イルカは眉間にぐっと皺を寄せた。いつ頃からかは知らないが、彼は先程の二人の様子をどこからか密かに伺っていたらしい。もちろん暗部ならそんなことなどお手の物なのだろうが、モラルという面ではあまり頂けない行為だ。今しがたの発言だって格下相手とはいえ、随分礼を欠いていると思う。
 腹を据えたイルカは、面の奥を真っ直ぐに見つめた。
「お言葉ですが、あの人は決して迷惑などしていないはずです。もしも迷惑しているというのなら、どうして自発的に何度もここを訪ねて来るんでしょう? 彼は今、口に出来ない程の辛い過去を乗り越えるために、血の滲むような努力を必死で重ねてるんです。縁あって私がその手助けをさせて貰ってますが、迷惑をかけている覚えはありません!」
「あーあ、アンタ最高にタチ悪いよ。まさかホントに無自覚だとはねぇ」
(な、なんだって…?!)
 表情など無いはずの狗の面が、両手を広げて薄嗤っているように見えた。イルカはその虚ろな穴をキッと睨み付ける。
「それ、どういう意味ですか? 俺のどこがタチが悪いっていうんですか? 馬鹿な私にも分かるように説明して下さい」
 いつの間にか男に向かって身を乗り出していた。任務柄、怒りなどのマイナス思考は普段から遠ざけ慣れているはずが、彼の言葉には簡単には聞き流せない棘があるように思えてならない。
「何もかもでしょうよ。――まっ、でもオレには関係ないから? いいっちゃいいけど。せいぜい二人でそうやって、なーんも考えずに長いものに巻かれてれば? そのうち嫌でもとんでもない間違いに気付くでしょ」
(酷い、何て嫌な物言いをする人なんだろう)
 イルカは一気に気分が重くなるのを感じた。今まで暗部に対して何かしらの先入観を抱いていた事などなかったのに、彼のお陰で悪いイメージを植え付けられてしまいそうだった。
 と同時に、その言葉に真っ向から反論したくて堪らなくなる。
(このまま黙って引き下がってなるものか)
 もし引き下がったら、今の彼の心ない発言を肯定してしまうことになる。
 イルカは下腹に力を入れた。
「お気付きですか? ここに心を病んで来る人達はね、元々はみんな正常でまともな心を持っていた善良な人ばかりなんです。正常だからこそ、戦場に行って苦しむんです。なのにそんな言い方しないで下さい!」
「あぁそうなの。やー良かったな〜、オレは善良じゃなくて」
「ちっ、違いますっ! そんな、つもりじゃ…」
「そういう事でしょうよ」
「違います! お…俺はっ、俺はただ…」
 ただ、同胞達を頭から否定するようなそんな言葉、仲間の口から聞きたくなかっただけ。
 でも、上手く言葉が返せなかった。
 里付きで非戦闘任務中心の自分は元より、国境防衛にあたるシモトよりもまだ、この顔を隠した男の方が、恐ろしい地獄の淵を覗いてるのかもしれないなどと、ふと思ってしまったから。
「ただ、何よ。何がどう違うのか、それこそ説明して貰いたいね」
 男の追求はおさまらない。その背後に、単なる怒りだけでない何やら執着めいたものを感じた気がしたが、目の前に突き付けられている鋭い矛先に、その思いははっきりとした形を成さないまま散っていく。
「……っ…」
 きつく噛んでいるはずの唇の痛みさえ、ろくに感じなかった。
「どう? 少しは分かった? アンタみたいな、何も分かってない半端な考えのヤツがいるとさ、周りが迷惑するんだよ。それが分かったんなら、さっさと配置転換の希望出してきな」
「嫌です! お断りします!」
 反射的に言い切った。ここで言い淀んではいけない、迷ってはいけない。いや、迷うことなど最初から何もない。
 話すことが主な任務とは言え、こんな相手を負かすような言い争いには慣れてなかった。そんなもの自分の任務には必要ないと思っていたし、元来不得意だし、出来るなら避けて通りたい類のものだ。
 でもこのまま屈服したくなかった。不器用な自分が上手く反論出来ないことは重々分かっている。それでも黙って嵐が通り過ぎるのを待つなんて出来ない。
(まずは落ち着け、流されてるぞ。自分を見失いかけてる)
 繰り返し内側に向かって言い聞かせる。
 自分はイビキに留守を任されているのだ。その間は何があっても残された部下達でここを守っていかねばならない。でなければ国や里のためにと戦ったせいで心を病んでしまった仲間達を迎える場所が、どこにも無くなってしまう。他の誰一人として迎えなくても、この部署だけは、自分達だけは常に彼らに門戸を開いていなければいけない。
「こんな俺にだって里のために出来ることがある、役に立てることがあるんです。今この瞬間にもそう信じてくれている人達を裏切るような真似、俺には出来ません」
 一度は不意を突かれて揺らぎかけていた心も、陰に日向にと自分を支えてくれている人達のことを思うと、すぐに確固たるものに変わった。己の未熟さから一瞬でも不安になったことを、恥ずかしく思う。
 くっと顔を上げて、男と正対した。面の黒い穴からは双眼は見えないものの、真正面から視線がぶつかり合うのがはっきりと分かる。
「きれいごと言ってると後悔するよ。必ずね」
「脅しなら屈しません。絶対に」
「脅しじゃない。予告」
 男は低い声でそう言い残すや、あっさりと姿を消した。まるで瞬きをした刹那、夜風にたなびくカーテンの中に吸い込まれたかのようだった。
 直後、窓の外を音もなく大型の木菟(みみずく)が横切っていく。
(ぁ…)
 そのタイミングは、彼がまるで夜鳥の化身だったかのように錯覚させたが、あれは彼の元に来た伝令鳥だ。間違いない。
「待って…」
 部屋の中央で立ち尽くしていたイルカは、慌てて窓際に駆け寄った。視界を塞ぐカーテンを、勢いよく片手で払いのける。
「また来て下さい! 俺、待ってますから! ずっと待ってますから!」
 茫漠とした暗闇に向かって、声を張り上げた。
 しかし聞こえてくるのは、大樹があげる不規則なざわめきだけだ。
(もう一度…)
 窓枠に乗り上げるようにしていた上半身から、どっと力が抜けていった。

 男は多忙な合間を縫って、わざわざ訪ねて来てくれていた。イビキが言っていたように、ここに来たのは確かに上の命令だったのかもしれない。でも限りある時間を割いて、自らの意志で時間一杯まで居てくれていた。
 なのに彼の言葉に翻弄され、いつしかすっかり怒りに呑み込まれた状態で応対してしまっていた。結果、自分に与えられていた任務は、当然の如くまともに果たせなかった。
 引き継ぎの際、イビキにあれほど気を付けろと注意されたのに。
(しっかりしろ、俺!)
 男に新米だからと詫びた時、『言い訳はいらない』と言われた言葉が、耳元に繰り返し響く。
(本当に…、その通りだ…)
 何の返事も返って来ない、真っ黒な虚空を見つめた。












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