十二、 道




 防護材の入ったベスト部分に手を掛けて、最後の最後まで必死で術に落ちるのを拒んでいたイルカの体から、残りの力が抜けていく。その体が頽れて地面に倒れ落ちる直前、カカシはイルカの脇に腕を掛けて、一気に引き揚げた。鋭い爪で不用意に傷付けないよう、手指を握った形でしっかりとイルカを抱き寄せる。と、かねてから遠くに感じていた男の甘い体臭が、すぐ近くで立ち上って鼻腔をくすぐった。穏やかな温かみと重みが、それをより確かな実感として伝えてくる。
「……ごめんね」
 カカシはぐったりとして微動だにしなくなった男の体を、まるで壊れ物でも扱うかのように、そっとソファに横たえた。


 まるで背後の窓にかかったカーテンから生まれ出るように、白い暗部装束の男達が次々に部屋に下り立つと、ソファの脇で男の黒髪を撫でていた背高い男がのっそりと立ち上がって、一歩前に進み出た。
「随分遅かったねぇ。暗部ともあろうお方がなにやってたの?」
 面を付けていない男の嘲笑の混じった声はことさらよく通り、皆の前へと放り投げられる。だが強気な発言とは対照的に、その上半身は明らかに左斜めへと傾いて、支える足も中心を保てていない。
 ずらりと居並ぶ白い面の中から、彪の面を付けた男が進み出てきた。直後、無言のままいきなりカカシに鳩尾に強烈な一撃をくれ、避けも呻きもせずによろけた半身に、更に容赦のない回し蹴りをくれる。
 カカシは何の抵抗もないまま飛ばされて、部屋の壁にぶち当たると、そのままずるずると床に崩れ落ちた。
「上官をコケにしてまで手柄が欲しいなら、貴様一人でやれ! 気狂いの面倒まで見れるか!!」
 持っていた狗の面は衝撃で手から吹っ飛び、乾いた音を立てながら部屋の隅へと転がっていたが、意識のない彼の体同様、拾い上げる者は誰もいなかった。




    *  *  *




「カカシさん!」
 息を切らせて廊下を駆けてきたイルカが、勢い込んで病室のドアを開けた。
 白く四角い世界の中で、黒い袖無しのアンダーを身に付けた銀髪の男が、ベッドに伏している。ネックラインを顔半分まで上げたその横顔は、とっくにイルカの気配には気付いていたものの、起き上がるのに苦労してる様子だ。
 イルカが慌てて手を貸し、彼が半身だけ起き上がったのを確認すると、待ちきれないといった様子の中忍が勢い込んで話し出した。

「俺っ、あれから何度も、真剣に考えたんです。今のままじゃ、いつか本当に里がダメになっていくかもしれないって。あなたの言葉、気持ち、何もかも無駄にしたくない。だからさっき、三代目に掛け合ってきました。もう一度だけ二人にチャンスを下さいって! アカデミーで子供達の指導させて下さいって!」

 しかしイルカの弾んだ声とは逆に、俯いたカカシの声は少し掠れて沈んでいた。
「…ふっ……教師か。でもそのうちオレ達の教えた子供達が、続々と鑑定室に行くようになるかもしれないよ? だったら今のままの方がいいんじゃない?」
 その色素の薄い顔色は、別れ際に初めて素顔を見た時に比べれば随分と明るくなってはいるものの、目元だけは相変わらず何かを放棄したような目をしていた。
「今の教えのままならそうかもしれません。でも俺は、アカデミーでの教え方次第で、この先を大きく変えられるんじゃないかって思うんです。戦は人がするものです。人が変わらない限り、何も変わっていきません」
「…………」
 二人は白い面を挟まず、初めて正面からじっと見つめ合った。

 三代目に掛け合いに行った時、カカシとのことも何もかも包み隠さず話した。
 最初にカカシの術が解けてソファから起き上がった際、誰もいない部屋に、割れた白い狗面が転がっているのを見つけて、何だかとても嫌な予感がしたのだ。彼が最後に言った言葉も耳の奥にはっきりと残っていて、更なる不安を煽っていた。まずは彼の安否を確認したくて、火影への直訴などという強硬手段に出たといっていい。
 すると、菅笠の向こうで暫し黙していた長が重い口を開いて、「実を言うとな、精神鑑定室が出来たのは、あやつの父親が心を病んで自害したことが切っ掛けでの」と切り出されて、暫し言葉を失っていた。
 カカシは自分とのやりとりの中でどんなに激昂しても、そんなことはおくびにも出さなかったが、そのことが一層事実を重くしていた。里長の前から辞去した後も、その話が耳元から離れていかない。

「道は、誰かが引いた今足元にある一本だけじゃない。俺達にだって、きっと付け替えられます。今すぐは無理でも、五年後、十年後には、やってきて良かったと思えるだけの道が、俺達の後ろにも必ず出来ているはずです」
 イルカの目元は、いつも通りくっきりとしていた。その温かいのに張りのある声には、震えの一つも無い。

 カカシは黙ったまま、イルカに向かって動かせる方の片手をゆっくりと伸ばした。イルカがそれに応えてぴったりと体を寄せてやると、ほう、という小さな溜息が耳元で聞こえてくる。
「……オレ…、何でこんなことがしたいんだろね?」
 男は懐で独り言のようにそう言うと、イルカの背中に酷く緩慢な動作で片腕を回してくる。
「おかしいよねぇ。…死んだらこんな記憶も、きれいさっぱり消えて無くなるっていうのに」
 辛うじてイルカに回された腕は滑り落ちる事を拒んで、彼の背中で懸命に服を掴んでいる。
「おかしくないです。――生きてるんですから」
 イルカは両の腕を回して、しっかりと男の銀髪を包んだ。





「――どうした。おめぇともあろう者が、留守中にまんまと虎の子を持ってかれちまったってか?」
 病院の屋上で、イビキが障壁の遙か向こうに落ちていく夕陽を睨み付けていると、背後からよく耳に馴染んだ男の声が掛かった。
「ぁ? ――あぁ、まぁ…そうなるか」
 特忍は古傷が跨いだ唇を、片側だけ歪める。
 イルカの意志を半ば強制的に奪い、本心には気付かぬふりをして都合良く利用しながら、治療任務に体よく縛り付けていたのも確かだ。適材適所を言うなら、本人の意向を汲んでやるべきなのだろう。それに…
(お前らにしか見えないものが、そこにあるんだろう?)

「今更行くなと言ったところで、無駄だろうが」
 イビキの隣りまで来た背高い暗部の男が、無言のまま獅子の面を上げ、たっぷりとした髭に覆われた横顔を見せ付けるようにしながら、取り出した煙草に火を付ける。纏ったマントが、正面から吹いてくる寒風に高くなびく。
 最初に吐き出された白い煙が自身の前を勢いよく通り過ぎたとき、イビキがふと何かに気付いたように振り向いた。
「オイ、ちょっと待て! まさかお前まであっちに付いて行くつもりなのか?」
「…ん? まぁな。ちーとばかし面倒くせぇが、ダメ元で希望を出してみるってのも悪かねぇだろ。――おめぇは、どうするよ?」
 鳶色の瞳の髭面男は、どこか楽しげな様子で障壁の向こうを見つめている。
「フッ――仕方ねぇな。じゃあ、オレは――残るとするか」
 我々が忍である以上、血みどろの戦いからは決して逃れられない。どんなに理不尽で人の道から外れた行為と非難されようとも、戦がある日突然この世から全て消えて無くなる訳ではないのだ。
「誰かがやらねぇとな」
 イビキは誰にともなく呟いた。
「ヨシ、じゃあ任せたぜぇ。たまには遊びに行ってやっからよ」
「ッ…たく…相変わらず調子だけはいい野郎だな。もういい、アカデミーでも何処でもとっとと行きやがれ」
 黒い革手袋に覆われた大きな手の平を、ぶんとぞんざいに振る。

 髭面の男が、最早獅子の面すら付けずに、マントをはためかせながら火影の執務室の方角に消えていくのを、イビキは黙って見つめた。

(――泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑う…、か…)
 口端が僅かに上がる。
 連綿と続く黒い鎖が断ち切れる日など、人が人である限り、決して有り得ないと思っていた。
 けれど。

(――失望はしても、絶望はしないで見ててやる――)

 髭面の男が消えた方角に背を向けると、イビキは元来た道をゆっくりと戻っていった。









                      「偽りの面」  終



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