十一、 異常



(――ぅ…)
 自分の唇から細い呻き声が漏れていることに気付いて、カカシは重い瞼を上げた。
 視界は随分と明るい。最初、夜が明けてきたのだと思った。
 だが見上げた木々の間から見える空の色が、随分と深みのある茜に染まっている。すぐさま(そちらは西だ)と、頭の中の方位磁石が囁く。
(夕方…)
 どうやら力尽きたことで自失半分眠っていたらしい。動こうとすると、まだずっしりと全身に重くのしかかってくる疲労感が、それもむべなるかなと教えている。
 それより自分は、いつここに辿り着いたのだろう? まるで記憶がなかった。頭だけを動かして周囲を見回し、ようやく時々水を飲みに立ち寄る細い清流の砂地に、仰向けに倒れていることに気付いたが、どうやらここで水を飲んだあと、そのまま力尽きたらしい。
 体は水面を滑る澄んだ涼風に当たり続けていたことで、すっかり冷え切って強張っている。極力動きたくはなかったが、仕方なく肘をついて、のろのろと上半身を起こそうとした。
 とその時、急に昨夜の記憶の切れ端が脳裏を過ぎって、はたと動きが止まる。
(――ふ……そうか…、ハハハ…そうだったな…)
 酷く濁った水の底に沈んでいた記憶が、ずるずると芋蔓式に明るいところへ引き上げられてきていた。

 自分はあの後、未明に本陣に辿り着いていた。
 そしてずっと脇に抱えていた白い包みを、「土産」とだけ言って、上官の前に放り投げた。
 ごとん、という独特の重い音がして、中から岩の額当てをしたままの男の頭部が転がり出ると、流石の彪も思わず飛び退いた。上官の足を掠めながら止まったその青黒い顔は、かねてからの斥候で目を付けていた、北方部の最高責任者のものだ。周囲に集まってきていた数人の仲間達が、一斉に面の下で息を呑むのが分かる。
「――!! ッ!…待て! 待たんか! このっ…気違いめ!」
 背を向けたと同時に、背後から数本のクナイと共に浴びせられた上官の罵声を聞いても、全く屈辱と感じなかった。
「人を散々コケにしおって…! 覚えていろ、ただでは済まさんからな!」
 易々とクナイを避けながら高く跳ぶと、殺気だけが刺さってきたが、もう気にならなかった。むしろ胸につかえていた何かが取れて、すっきりしたくらいだった。


「…ふふふ…くっ…くくくくっ、…ククク…」
 一連の記憶を全て手繰り終わると、カカシは肩を震わせながら嗤った。脇の小さなせせらぎまでが、すぐ側で一緒に嗤っているように聞こえる。寒さに胴震いが始まっていたせいで力のない嗤いだったが、それは一頻りも続いた。

 やがて嗤いすぎて肩で息をする頃になると、ようやく固く口を引き結んで、のっそりと半身を起こし、片膝を立てる。
 傍らには水を飲んだ時のままに、白い面が落ちていた。
「…………」
 カカシは水面に背を向けたまま、再び面を付けた。






 朝夕が随分と肌寒くなってきていた。
 この障壁に囲まれた里にも、冬が訪れようとしていることを、肌身が感じるようになってきている。
 イルカは鑑定室の窓を僅かだけ開けて、書類の束に向かっていた。重くなりがちなこの部屋の空気を、一時に比べれば随分と減ってしまった虫の音が、それでも交互に和らげてくれている。
 にしても、イビキの抜けた穴を埋めるのは、予想以上に骨の折れる作業だった。自分も、そして同僚らも戦場から送り返されてきた新たな相談者を抱え、皆多忙になっていた。
(これは今夜も泊まり、だな)
 鑑定書作成や援助計画の立案は、今この瞬間にも苦しんでいるであろう本人達の身になって考えてみれば、出来るだけ早くせねばならない類のものだ。軽々しく先延ばししても構わないものなど何一つない。
(――よし、やるぞ…!)
 思ったときだった。
(?)
 窓の外で人の気配がした。
(大木の、陰…?)
 多分、間違いない。
(こんな遅い時間に、誰だろうな。まさか…シモトさんか?)
 遠くで思った。だが先日こそ昂ぶった挙げ句部屋から飛び出していったが彼だが、その翌日には珍しく日中に訪れてきて「夕べはすみませんでした。誰より必要としているとしている人をなじるなんて」としきりに後悔の言葉を口にしていた。
 そして意外なことに「勇気を出して、仲間達との対話に参加してみたいと思います」と、その日から数人の輪の中に入っていき、少々居心地が悪そうな表情ながらもじっと耳を傾けだしている。さっきもその生気の戻りつつある横顔を見ながら、ホッとしたばかりだ。
(シモトさんじゃない…な)
 彼ならばドアから来るだろう。もちろん必ずしも鑑定室に用のある者とも限らない。単なる通りすがりかもしれないし。
 振り向かないまま、書類を一枚めくった。

「気付いてんのに無視?」
「…ッ?!」
 すぐ背後で覚えのある声がして、ガバと振り返った。
「…!」
 そのまま絶句した。
 白い狗の面を付けた、背高い銀髪男が幾らも離れていない所に突っ立っていた。だが、もう二度と会わないだろうと思っていたあの暗部がまた来た、ということよりも、彼のその余りに凄惨な姿に言葉を無くしていた。
 髪の先から足もとに至るまで、べっとりとこびりついた夥しい量の赤黒いものは、本人一人のものにしては余りに多すぎる。防具には無数の真新しい傷が付き、きれいだった白い肌を泥や土埃が幾重にも覆っていた。更に強い火薬臭に混じって、何かが焼け焦げたと思しき異様な臭いも立ち上っており、顔の見えない男に一層の凄みを与えている。
 一体どんな任務を遂行したら、こんな壮絶な姿になるというのか。イルカにはとても想像がつかなかった。
「――だっ…大丈夫、なんですかっ?」
「るさいな、こっちの質問が先っ」
 疲れて掠れた中にも、今まで以上に棘のある声音にハッとする。ここは極力刺激しない方がいい。
「無視なんて、していませんよ。まさかあなただとは思わなかったんです。もう、お会いする事もないだろうと思ってましたし…」
 言いながら差し出したタオルを、男は手で振り払うような荒っぽい仕草で拒否している。しかし一体どうしたというのだろう、今まで会ったいつより明らかに苛立っている。当然こんな姿になるまで過酷な任務をこなしてきたなら、興奮して気も立つだろうが。
(でも、なんでまたここに…?)
 面に開いた二つの穴を、無意識のうちに覗き込む。
「こんな姿のまま、わざわざここに来る必要があったのかって?」
 あっさりと先を読む言葉にも、思わず頷く。どうやら男の怪我の方はさほどでもないらしいと分かると、むくむくと疑念の方が膨らんでくるのを、イルカはもうどうにも押さえられない。

「アンタの見立てね、アレ、何の役にも立ちゃしなかったから」
「え…?」
 だが、掛けられた意外な言葉に、水を出すつもりで手にしていたコップが止まった。
「あんなお綺麗な鑑定書、かえって迷惑だったって言ってんの」
(――ちょっと待てよ…)
 気のせいだろうか? あれほど自分のことをひた隠しにしていた男が、今とても大事なことを言い出そうとしている気がする。
(何か言いたいのに、言えないでいる…?)
 イルカは傾けかけていた水差しをテーブルに置くと、全神経を男の言葉へと傾けた。
(いいか、一緒になって熱くなるんじゃないぞ)と、内側で慎重に呟く。
「あの…それってどういう意味でしょうか? それじゃあまるで『異常有り』の方が良かったみたいに聞こえますけど…」
「だからそう言ってんだろ!」
 いきなり上がったトーンに、場の空気がぴしりと張り詰める。
「…なにか、あったんですね?」
「フッ…――答えるとでも?」
 勿論、イルカも聞くまでもないとは思っている。強い火薬臭が染みつき、血と泥に汚れた着衣、致命傷はないようだが、気配すら消しにくくなるほどに衰弱しているらしい肉体。これを見て、何もなかったと思う方がおかしい。ただ、逆撫でするのを避けるために何も訊かないでいると、彼は何も話さないまままた風のように立ち去ってしまいそうで、何とかしてそれだけは回避せねばと思う。
「…とりあえず、少しそこに横になって休んで下さい。落ち着かれたら、話せる範囲で構いませんから説明して頂けると助かります。あ、刀は外して下さい。お預かりしておきます」
 後で自分が横になるはずだったソファを示して、刀を寄越すよう軽く手を出す。

「なにそれ」
「は…?」
「一度鑑定の済んだ奴は、もうどうだっていいってわけ?」
「…どっ、どういう…?」
 男が言わんとしている意味が分からない。恐ろしく不機嫌そうで、『冷静なまま激しく苛立っている』ということ以外は。

「ねえ、知ってる? どうやって自分が狂わずに、後腐れなく相手を大量に殺すか」
(ぇっ…?)
 更に唐突な質問を畳みかけられて、ギョッとしたイルカは刀を受け取るべく差し出していた片手を引っ込めた。
「実際はさ、刀なんて一番使えないんだよね。こんなものいちいち使ってたら、あっという間に頭おかしくなるから。――ホントはさ、ここではそういうこと教えるべきだと思うけど?」
 男は背中に右手を回し、束を握った瞬間、振り下ろすようにして勢いよく白刃を抜き放った。
「なッ…?!」
 ビュッという風切り音と共に、半弧を描いて鞘から現れた刃が、イルカの目の前に突き付けられる。
 鼻先まで数ミリという所でぴたりと止められたそれは、「そのまま黙ってオレの話を聞け」と命じている。
「…………」
 イルカは了承を意味を込めて、半端に浮かせていた腰をそろそろと古びた木の椅子に戻した。

「まず第一に」
 突き付けられた長い刀の峰の向こうから、二つの黒い穴が見下ろしている
「殺す相手を人と思わない」
「…!」
「必ず、相手は倒すに値する、ただの的(まと)なんだと認識する」
「待って!」
 イルカが再び椅子から腰を浮かせるが、すぐに尖った切っ先が「動くな」と命じてきて、その場に座り続けるしかない。
「拳や刀は極力使わない。遠隔から放つ大技で、短時間に一気に倒す」
「止めて下さい!」
「まだあるよ。――この面てさ、他人に顔を知られないためのものだと思ってる?」
 黒いかぎ爪で狗面を指す。
「もう…もう止めて下さい! 落ち着いて…!」
「へぇー、なに、アンタでも面の有効性知ってんだ? 意外だねぇ…って、まぁ人の心を悪戯に弄んでるようなとこだもんね。そりゃ多少は知ってるか」
「なっ…、いたずらって…どっ、どういう…!」
「そっ、面を付けてんのはね、『こんな酷いことをやってんのが自分なんだ』って認識させないため。本名じゃなく、狗だの鳥だのってコードネームで呼び合ってるのも、情報漏洩防止っていう名目の、その実“個を消し去るための”最善策。――ハッ…よく出来てるよねぇ、『殺ってるのは自分じゃないし、相手が人でもない』と思えるなら、誰だって後々罪の意識に苛まれないでまた殺せる」
「――…っ」
「戦で里を守るってのはね、そういうこと」
「……そん、な…」
「上層部達は皆『仲間を大切にしろ、家族を愛せ』なんて言っておきながら、同じ人間である敵は殺せと命じてくる。そりゃ普通、誰だって狂うってもんでしょうよ?! あちこちに生じてくる矛盾を消して、最初から無かったことにするために、アンタらを始めとする精神医療の連中が、ありとあらゆる手を尽くして治してる訳だしね!」
「…お願いです、…落ち着いて……止めて下さい…!」
「『お前達のやっている人殺しは絶対に間違ってない。だから仲間が死んでも、一般人を巻き込んでも、それは仕方のないことなんだ。我々の戦いは常に正当だ』って暗に言い続けてるでしょ!」
「…やめて、分かりました。分かりましたから…! …もう…もう…やめて下さい…」
「忍服着てクナイ握ったら、オレ達はもうそれですぐに人でなくなるとでも?」
 何度も何度も、ただただ大きく首を横に振る。もう制止の声も出ない。
「アンタ今まで何見てたの? どっち向いてたの? 狂ってるオレに分かるように教えてよ!!」
 男が突き付けていた刀が力任せに床に突き立てられると、イルカは堪らず立ち上がって男に歩み寄った。だがイルカが近寄った分、全身を血泥で汚した男は後ろに後ずさる。
「――――」
「…………」
 両者の距離は縮まらないまま、その空間を重苦しい空気が流れていく。

「あなたのこと、分かりたいんです」
「分かってなんか欲しくないね!」
「協力…し合いたいんです」
「協力なんかしたくない!」

「……寄り添い、たいんです…」
「――――…」

「…あなたは…、あなたは狂ってなんか、いません…」
 以前書類を提出した、その時と同じ結果をもう一度伝える。
(でも、だったら何がいけなかったんだろう。何でこんな…辛いことになるんだろう…)
 イルカは頭の隅でぼんやりと思った。
 何もかもが「正常だったからいけない」なんて、そんなことがあるだろうか。


「…こっち、見ないで」
 男は居心地が悪そうな声で、間近で正対することを避けようとしていた。面を付けているとは言え、すぐ間近から顔を見られるのはやはり抵抗があるらしい。
「はい…」
 イルカは素直に男に背を向けた。

「――オレの名はね、カカシ」
「えッ?!」
 男が暫しの沈黙を破って切り出した言葉に、ドキリとした。
 思わず振り返ろうとした体を、イルカは慌てて押し止める。いいのだろうか? これは明らかな規則違反だろうに。
(なぜ今突然?)と、背を向けたまま混乱でまとまらない頭で思う。けれどそのあとから、訳の分からないじんわりとした不思議な喜びが一杯に胸を覆っていく。
「……カカシ、さん」
 違反を助長させても、不思議と背徳心は沸かなかった。
「そう。はたけ、カカシ」
「あ、私は…」
「知ってる。イルカでしょ。――うみの、イルカ」
「はい」
 理屈抜きで嬉しかった。自分のことを少しでも知ろうとしてくれていた人の存在を、改めて有り難く思う。

「ねぇ、イルカ」
「はい」
「もしまた会える時がさ」
「え? …えぇ…?」
「思ったことを、素直に言い合える世界だといいねぇ」
「――なッ…」
(どういう意味ですかそれっ?!)
 堪らずイルカは、バッと男の方へと振り返った。
「ぁ…っ?!」
 瞬間、息を呑んだ。
(そんな…)
 そこに見慣れた白い面はなかった。余りに面を見慣れすぎていて、彼がその当人なのだと理解するのに、束の間を要した。
(…あぁ…)
 すぐ間近で対峙した男の素顔は、自分がいつの間にか朧気に形作ってしまっていた想像など遙かに超え、驚くほど明敏で凛々しく、そしてどこか寂しげだった。
 胸の中を、今まで感じたことのない痛みが過ぎるのが分かる。
(め、目が…)
 長い刃物傷に貫かれた左目が、我が目を疑うほどに赤かった。一瞬、義眼でも入れているのかと思ったが違った。
(っ?!)
 そして何かおかしい、と気付いたときにはもう始まっていた。
(あの時と、同じ…?!)
 覚えのある感覚に、足が無意識にその場から退避しようと試みるが、既に全身から力が抜けだし、目の前が暗くなりだしている。
「…ぁ…!」
 それが彼の言っていた『森羅万象を見通す目』――瞳術だったのだと、イルカは膝から頽れていきながら遠くで合点する。
「…いや…だ……」
 同時に彼の意図に気付き、必死に抗いながらも、イルカはみるみるうちに暗い淵へと落ち込んでいった。












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