十、 氷面




「――とうさま?」

 渡り廊下の先にある離れの小部屋に向かって声を掛けると、それまではびくともしなかった板戸が、嘘のように軽く開くようになる。
「うんしょっと…」
 銀髪の幼子は、まだ紅葉に隠れるほどの手で持った漆塗りの盆をまっすぐに保ちながら、板を肩で押して先へと進む。長い睫毛に囲われた灰青色の瞳が、真剣そのものといった様子で見開かれ、小さく柔らかな唇は、彼なりの固さでもってしっかりと結ばれている。
(そーっと、そーっとだぞ…)
 盆がどんなに重くても、決して足音をさせてはいけない。もちろん盆の上に乗った食器も、カタとも鳴らしてはいけない。
 そうやって何とか障子の前まで来たら一度盆を置き、中に向かって「しつれいします」声を掛ける。中からの返事はない。が、即ちそれが入ってもいいという父からの合図だった。ダメなら最初から渡り廊下の板戸が開かないことになっている。

 父サクモは山野の自然が好きで、四季の移り変わりをこよなく愛していた。しかし床に伏してからは襖を固く閉ざし、縁側の障子さえも全て締め切って、決して外を見ようとはしなかった。
 でも幼かった自分は、その一連の変化を見て正直ホッとしていた。それまでの父が、明らかにおかしくて怖かったからだ。
 礼儀作法には厳しかったはずの父が、ある日を境に突然母に怒鳴り散らしたり、かと思えばむっつりとふさぎ込んで何日も口をきかなかったり、急に顔を覆って嗚咽しだしたりと、まるで父であって父でないような奇妙な状態を頻繁に繰り返していた。
 けれど離れで一人暮らすようになった父は、いつ行っても信じられないほど優しかったのだ。
 だが中に入れて貰っている時が、すなわち状態の良い安定時なのだとは、当時は知る由もなかった。

 それでも自分が、そんな父と周囲の人達との繋いでいるんだということは、幼心にも何となく分かっていた。他の者は例え薬師や母でさえも、渡り廊下の板戸に張られた結界を跨げなかったが、自分だけは彼の枕元まで行くことが出来ていたのだ。そのことを、内心誇らしく感じていた。唯一自分だけが、父に認められている気がしていた。だから食べ物や薬を持たされて、日に何度も部屋を訪れることも苦ではなかった。いや、むしろ何よりの楽しみだったといっていい。

 障子を開けると、父が床に伏したままゆるゆるとこちらに体を返す所だった。長い銀髪が枕の上を滑っている。
「ばんごはん、もってきたよ。あとね、しょくよくはなくても、すこしでもたべて、おくすりはかならずのむようにって」
 伝言を伝え、盆を置くと、大抵すぐに声が掛けられる。
「カカシ、こっちにおいで」
「うんっ!」
 いつものように父が少し持ち上げてくれた布団の端から、いそいそと中に潜り込む。
「うわぁ、あったかい!」
 父の布団は、部屋の冷え込みとは比べ物にならないくらい温かかった。そしてそのことが邪魔をして、彼が酷く病んでいるという実感が全く湧かなかった。
 ゆっくりと伸ばしてくれる腕にちょこんと頭を乗せると、子供の目にも真面目で厳しくて誰より強かったはずの父が、なぜあのように急におかしくなっていたのかが、ますます訳が分からなくなる。
 けれど北風の吹き抜ける渡り廊下で凍えていた手足を、他でもない今の父ならいつでも迎え入れて温めてくれるのだ。
 ただそれが切ないほど嬉しくて嬉しくて、おかしかった理由などいつもすぐにどうでもいいことになっていた。
 今ここにいる優しい父が全てだった。
 でも布団の中に入れて貰っていることは、母には内緒にしていた。言ったら怒られて止めさせられるんじゃないかと思ったし、何となくではあったけれど、母が可哀想な気もしたからだ。けれど夜寝るときはいつも部屋で一人だったから、その大きくて温かい懐の中に入れて貰えることは震いつきたいほどの喜びで、いつもその言葉がかかるのを待ち望んでいた。
 そしてその事にばかり心を奪われていて、最早彼が起きあがれない程にまで憔悴していたなど、思いもよらなかった。

「カカシ、忍び足上手くなったな」
 布団に入ると、頭の上から穏やかで優しい声が響く。
「ほんと?!」
「ああ。今日は水差しの水面が動かなかった」
「やった!」
 枕元にある、硝子の水差しとコップの方を振り返った。小さな水面には、自分と父の動きに合わせ、僅かな波紋が次々と生まれては消えている。
 父を離れに訪ねていくようになって暫くした頃、「この水面が動かないように歩いてみろ」と言われた。
「そんなのかんたんだ!」
 すぐその場でやって見せたけれど、思いの外上手くいかない。口惜しくて、歯痒くて。でも心の底では密かに嬉しいようなくすぐったいような、堪らない気持ちもあって。
 それからはいつ父に呼ばれてもいいようにこっそりと、懸命に稽古を重ねていた。母に対しては時折「えーまた行くのー?」などと格好を付けてみたりもしたけれど、内心では練習の成果を見て貰いたくて毎日うずうずしていた。
 部屋から持ち帰っている水差しの中身が、最近殆ど減らなくなってきている、ということには気付きもしないで。

「ぼくね、ひとりでしゅぎょうしてるんだ!」
 腕に頭を乗せたまま、自分と同じ色の瞳を見上げる。その腕はやせ細り、眼孔は深く落ち窪んで、双眸はすっかり生気を失っていたが、誰よりも頻繁に顔を合わせていた幼子の目には、それが大好きな自分の父親なんだとしか映らなかった。
「偉いぞ。そうやって何でも一人で出来るようになるんだ」
「うん、がんばる!」
 本当は父に修行を見て貰いたくて、遠回しにそう言ったつもりだった。なぜって近所の子達が皆寄ってたかって「お前んちの父ちゃん役立たず!」と馬鹿にするから。もちろんそんな奴等は得意の喧嘩で片端からのしてやったけれど、全然気持ちが晴れないから。
 けれど、他でもない父に偉いと褒められたのだ。これからも一人でやっていこうと素直に思えた。

「この額の傷は? どうしたんだ?」
「…ぇっ…」
 傷の周りを撫でられながら急に聞かれて、答えに詰まった。実のところ、生傷は額だけではなかった。手も足も服の下にも、その頃はいつでもあちこちにあった。ただ目立つような所に喧嘩傷をこさえて来なかっただけだ。
「…ん、と…」
 咄嗟に何と答えていいか分からなかった。
 喧嘩はいけないと母からも日頃から厳しく言われていたし、何より本人の前で「とうさまのことをバカにするやつがいるから」なんて、口が裂けても言ってはいけない気がした。
「――――」

「忍という字はね、刃に心と書くんだよ」
 突然、父が酷く険しい顔付きになって喋りだした。
「え?」
「刃物の心を持つ人、ということだ」
 枕元にいつも置いてあった、よく使い込まれた短刀を手にして、二人の目の間で少しだけ鞘から出すと、鋭利な白い刃をこちらに見せ付けるようにかざす。
(とうさま…?)
「忍はね、人であってはならないんだ。いいかカカシ? 何があってもこのことを絶対に忘れてはいけないよ。よく心に銘じておきなさい」
 そんな表情、最近は見たこと無かった。急に怖くなって布団の中で体を硬くする。言っている意味もよく分からない。
「…でっ、でも…ぼくってにんげん、なんでしょ?」
「…………」
「どうすればいいの?」
「――――」
「とうさま?」
「――…面を、被るんだ」
「めん?」
「顔と一緒に、何もかも全て覆い隠すんだ。自分が思っている本当の気持ちも」
「…うっ…うん、わかった!」

 もちろんその言葉の意味など、当時は何一つ分かってはいなかった。でも何かとても大事なことを言われた気がして、頷くことは忘れなかった。
 その後広い胸にぎゅっと抱き寄せられ、大きな温かい手で何度も何度も頭を撫でて貰ったことを覚えている。



 翌朝。
(…あれ?)
 まだ離れに向かって声を掛けてないのに、渡り廊下の板戸が開いていた。
(へんだなぁ?)
 未明から降り続いていた粉雪が隙間から吹き込んで、小さな吹きだまりを作っている。
(ねてるのかな)
 うっすらと半分ほどが白くなっている渡り廊下に小さな足跡を付けながら、離れへと向かう。部屋の前まで来ると盆を置いて、障子を開ける前に「しつれいします」と声を掛ける。
 いつも通り返事はない。だから障子を開けた。
「とうさま?」
 開けた瞬間、室内の空気が何となくいつもと違うことには気付いていた。なのに、その理由が分からなかった。
「とうさま? あさごはん、もってきたよ? あとね、ごごからくすしのひとがみえるから、きょうこそおとおししてって」
 壁側を向いたまま一向に振り返ろうとしない、銀色の長い髪に声を掛ける。ここに来るまでの間、足音はずっと消していたけれど、他でもない父なら間違いなく自分に気付いているはずだ。なのに起きる様子がない。それともそれすら気付かぬほど深く寝入っているのだろうか。
 部屋はきりりと刺すように冷え切っていて、足先が冷たくて痛くて仕方ない。一刻も早くその温かな布団の中に入れて欲しかった。何とかして父に気付いて欲しくて、足を盛んにもじもじさせ、手を擦り合わせる。
(ちょっとだけだから。ね、ちょっとはいるだけ)
 最近、特に穏やかで優しくなっていた父のことだ。大丈夫、起こしてしまっても怒られやしない。きっと許して貰える。
 そう思い、自分で布団をめくった。
「…とうさ…」



 父は前夜の言葉通り、最後まで誰にも本当の気持ちを言わないまま、自害していた。
 その手にはあの短刀が握られていた。
 温かだった柔らかな白い布団は、一面朱に染まって冷え固まっていた。

 枕元にあった水差しの水面が、凍っていた。







(――くそッ…!)
 病んでいた仲間の死が、遠い昔に封印したはずの苦いものをまた勝手に掘り返している。
 龍を隊から外せという自分の主張は、もう随分前に隊長である彪からは勿論、本人からもあっさり退けられていた。
 その結果があれだ。
(…畜生…!)
 否応なく叩き起こされて深いところを無理矢理抉られた、当時の己が苛立っている。
「――あぁそうさ、こいつは今のオレじゃない」
 誰もいない、外側の空間に向かって吐くように言い捨てる。
 本当のオレであってたまるか。

 後はもう、いつもの如く内側に滾るものの捌け口を求めて彷徨うしかなかった。他にこの体を宥める方法など知らない。上官が何をどう言おうが知ったことではない。
(消してやる、何もかも断ち切って捨ててやる!)
 行く手を遮ろうとするトラップをただの塵に変えながら、目の前に延々と立ちはだかり続ける闇を蹴散らす。
(消えろ! 何もかもオレの前から消え去れ!)
 その間にも、左の目は逐一詳細な情報を送り付けてくる。
(何もかも失せろ、無くなれ、全て無になれ!)
 カカシは、龍が一人で落とそうとしていた村へ、真っ直ぐに向かった。

 そこから先の記憶は、部分的に酷く曖昧だ。
 濁ったり、途切れたりを繰り返していて、模糊とした断片的なものになっている。
 それは、覚えている余裕などなかったせいか、覚える必要などないと思っていたためか、或いは覚えたくなかったせいか。
 いずれにせよ、以前から綿密な偵察を繰り返して先制の機会を狙っていた、岩の新たな補給拠点と思しき山村を、たった一人で叩きに行ったのは確かだ。
 橋脚に無数の起爆札を仕掛け、井戸を破壊し、備蓄されていた大量の物資に次々と火を放った所までは覚えている。
 のどかだった未明の山村に、突如同時多発的に耳を聾する爆発音が響き渡ったのを皮切りに、天を焦がす火柱に村人が逃げ惑う中、飛び交う怒号や悲鳴を遠くに聞きながら、自分は侵攻してきていた数十人の岩忍と対峙した……

(……はずだ…)
 速くなることで極端に狭くなっている視界の中、樹上を渡りながら、カカシは薄ぼんやりと思う。
 のろのろと左側を見やると、脇に白い包みを抱えていた。
(…………)
 鼻は強い火薬臭ですっかり麻痺しているが、頭上に散らばる無数の星々と、頭の中に次々広がる地形図が、行く先を教えている。
 もしこのまま脳裏に何も思い浮かばなくなったとしても、足さえ動かせるならそのうち自陣へは辿り着けるのだろう。
(…ま、着けなくても…いぃ……けどね……)

(…………)

(……)












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