九、 無



 鼻を突く異様な匂いが、一帯に漂っている。
 ある程度戦慣れした者なら、その匂いを少しでも嗅げば、そこでどんな戦いが行われて結果どうなったか、おおよその見当がつく類のものだ。
 掘り返されてからまだ間もない湿った土の匂いに、幾種類かの火薬と、独特の生臭い血臭が入り交じっている。
 音もなくその一角に下り立った二つの影が、ややあって声を上げた。
「――クソッ! だからあれ程止めておけって言ったのに…! 何をそんなに焦ってやがったんだよォ! 畜生ーッ!」
 鳥の面を被った小柄な男が激しく毒づく。そのすぐ足元には、一目で絶命していると分かる、一体の骸が転がっていた。
 鬱蒼とした深い森の中、僅かに青白い月明かりが差し込んでくるだけの地面に、汚れた白い龍の面と防護ベストだけが薄ぼんやりと浮かんでいる。全身が血と汚物と泥にまみれ、周囲の土くれと同じ温度になった彼は、生前のそれとは似ても似つかぬ無惨な姿を晒していた。
「…なぁ獅子ィ」
「なんだ」
「こいつよォ、最近夢見が悪いとかで、毎晩うなされてただろ?」
「ぁ? …ああ」
「まっ、まさかとは思うけどよォ…、その…噂に聞く…冥途の暗闇なんか、彷徨ってたりしてねえよなァ…?」
「あぁ大丈夫だ。龍はきっと成仏してる。――オレ達がそう思わなくて、誰が思ってやるんだ」
「…そっ、…そうだな…」
 俯く鳥の横顔に、獅子の面が小さく呟く。忍術には特異な才能を発揮するものの、まだ未発達なところのある小柄な鳥の体が、心なしか一層頼りなげに見えた。

 最近、仲間が立て続けに死んでいる。国境線付近の衝突を有利に進めるべく、敵方の要となる北方戦線を先制して叩こうとしているが、その指導者の察しの良さと守りの堅さに手を焼いていた。
 近年、忍の質は各里とも急速に向上しつつあり、木ノ葉だけが突出して一人勝ちを収めていた時代はとうに幕を下ろしている。お陰で各国と結んだ同盟条約の類も形骸化の一途を辿る一方で、国同士の力関係は年々そのバランスを失いつつあった。


「――はっ、下らない」
 突然、二人の背後の暗がりから声が掛かった。骸を囲んでいた二人の男が、ぱっとそちらに振り返る。
「死ねばその瞬間、そいつは何もかも無に還る。見た目の死に様がどんなだろうが、もうそいつはただの無だ。要するに無に動揺するなんてのは、なんの意味もないし、無駄ってこと」
「死んで……ゼロに戻る、か…」
 獅子が、面の下で溜息と呟きが入り交じったような声を漏らす。
「ゼロじゃない。無だ」
 言うや、狗面の男は目にも留まらぬ速さで印を結びだした。それを見た二人が慌てて飛び退く。
 直後、目映いばかりの紅蓮の炎が骸を包んだ。高温の炎は煙さえ殆ど出さぬまま、轟々と激しい燃焼音をあげて、夜空に長い舌を揺らめかせる。
 新たに漂いだしたむせ返るようなおぞましい臭いは、まだ骸が決して無などではないことを主張しているようにも見えた。燃えさかる炎は、周囲の冷えた大気を勢いよく巻き込みながら、澱んでいた不穏な臭気までも遠く高く天へと吹き上げ、散らしていく。
 そしてその赤い舌が次第次第に短くなり、やがて周囲に元の暗がりと静寂が戻ったとき。
 骸のあった場所には、最早骨すらも残ってはいなかった。ほんの小さな焼け焦げ跡だけが、そこで何が行われたのかを暗に物語っている。
 結局、横たわっていた男がこの世で最後に残したものは、仲間だった数人を赤々と照らす、束の間の光と熱だけだった。
 狗面の男が焦げ跡に歩み寄ると、上半身を腹からくっと折り曲げる。伸ばした長い片手で拾い上げたのは、高温で焼かれてくすんではいるものの、一本の細い鎖だ。
「…………」
 かぎ爪の先に引っ掛けられて、僅かな月明かりの中で心細げに揺れる認識票を、鳥と獅子は黙って見つめた。狗面の男は、すぐにそれを背後のポーチへと押し込む。
「龍のことはさっさと忘れな。覚えてたって、何の利益にもなりゃしないんだ」
 分かったなら散れ、と言い残すと、狗面の男はあっさりと背を向けた。
「――――…」
 月明かりに照らされていた銀髪が闇に溶けると、立ち尽くしていた二人の男達もまた、別々の方向へと高く跳んだ。






「…ううむ龍め、先走って余計なことを…。また人員補充の要請をせねばならんのはこの儂だぞ。恩を丸々仇で返しおって…」
 焼かれて灰色になった認識票を前に、彪の面を付けた男が呻いた。
「補充は必要ない。足したその分、死体の山が高くなるだけだ」
 向かいの背高い銀髪男の声音は静かだが、譲らない空気が滲んでいる。
「ほざけ若造が。死人の数などいちいち気にしているようでは、戦には永久に勝てぬわ。いいか狗、鑑定結果が異常なしだったからといって、図に乗るなよ。死体の山の上に立つ勇気もない臆病者に、この斥候隊の隊長の座は絶対に渡さんからな。覚えておけ」
「――――」
 彪と狗の面が真っ向から睨み合う。が結局、その場は狗が無言のまま消えたことで、鋭い気が正面からぶつかり合っただけで終わった。

「――ふん、礼儀一つ知らぬ気狂いめが。結局父親と同じではないか。幾らまともを装ったって、儂の目は誤魔化せんぞ」
 周囲が静まりかえると、彪は若者を罵りながら携帯用の巻物と筆を後ろから取り出す。
 そして今回の潜行作戦の失敗には触れず、『近々敵の居留予定地と思しき村を叩く。至急増員を求む』とだけ短く記した。続いてその文字を術で全て消すと、伝令用の大型の木菟を呼ぶ。
 彪は、高低すら分からぬ暗冥に向かって、伝鳥を放った。






(――…ッ!)
 足が向くまま、カカシは深い森の中をただ奔る。
(…あぁ、そうだ…分かってる……分かってるって…)
 暴れる足を宥めるように、頭の奥で繰り返し呟く。

 いつ頃からかは定かではないが、中忍になった時にはもう既に『この世は「清」と「濁」が複雑に混ざり合うことで出来ている』と認識していた。やがて上忍になり、死んだ仲間から左目を貰って使いだすと、その考えはよりはっきりとした実感を伴いながら、己の真ん中から奥底にかけて広く固く根付いていった。
 もちろん人間とて、その混ざりからは決して逃れられない。中でも国防を司る忍の世界は、薄っぺらな「清」の下の大半が「濁」で出来ていて、忍として生きることを選んだ者は皆、そこの濁った水を昼夜問わず呑み続ける事になる。
 だが元々我々は、そうして「濁」を呑み慣れ、「濁」に染まりきった親から生まれ落ちた者ばかりだ。どれほど濁った水を呑んだところで、それは「調整の範囲」でしかない。
 もし調整出来ないとなると、呑み込めない辛さに延々苦しむ事になるのだろうが、かなり早い段階から「己は濁の一部なのだ」とはっきりと認識していた自分は、そんなものとは無縁だった。

(…ただそれだけの、ことだ…)
 何もかも全部分かっている。この両の目で、全て、はっきりと万物を捉えて理解している。なのに、突然暴れだした足は一向に止まる気配を見せない。
 走り出した時には、まだ行き先は無かったはずだ。けれど、どれほど狂奔しても、疾駆することを命じた“そいつ”が鎮まる気配はなく、やがて思い通りにいかない苛立ちが頂点に達すると、(そうかい、なら行ってやる。オレがやれば文句はないんだろう!)と内側に向かって吐き捨てた。
 そうして目的さえ出来れば、後はどんなに荒れ狂っていようとも、体が勝手に反応してくれた。まるで朝起きて窓を開け、歯でも磨くかのように、行く手に仕掛けられたトラップを次々と暴き、破壊していく。すっかり日常の一コマとなったその行為に、何かの意味を見出したり動揺したりすることはない。

 同じ班だった龍が死んだ。
 顔も分からぬ程の死に様だった。幸か不幸か、その見た目の酷さに動揺することは無かったが、彼を無惨な死に至らしめた原因まで無視することは出来ないでいた。
 入隊時は誰もが認める仲間思いで通っていた龍が、最終的に命令無視の無茶な単独行動に走って死んだのは、恐らく心を病んでいたせいだ。
 他の者達の目に、龍がどう映っていたかなど知らない。だが彼は口にこそ出さなかったものの、眠ると決まって酷い悪夢にうなされていた。地の底から漏れ出るような彼の細く長い呻きは、戦いに明け暮れて心身から疲弊していた仲間達の心胆を冷やすに十分な、恐ろしい響きを持っていた。
 お陰でやり場のない動揺が募る余り「龍は肝心なところに限ってよく迷って、きれいに留めを刺すのが下手だった。だからきっと、悶死させた者の魂に取り憑かれているのだ」などと触れ回って、ますます隊の空気を澱ませる者まで出てくる有様だった。
 また彼は、任務中に突然何かに怯えたようになり、驚愕の表情に体を強張らせて動けなくなることがあった。かと思えば時に酷く無気力になって何日もふさぎ込んだり、逆に何かに取り憑かれたように粗暴になったりもしていた。
 だが、明らかに自分自身をコントロール出来なくなっているその行動の数々も、昼夜を問わない戦闘に余裕を無くしている現場では、「単なる臆病者で無鉄砲な、使えない者」としか認識されていなかった。
 勿論そんな彼らとて、ある日いきなりこの緊迫した最前線に放り込まれた訳ではない。幼い頃から時間をかけてじっくりと戦い方を叩き込まれ、無数の実戦をくぐり抜けてきた手練ればかりだ。その数限りない戦いの過程で、彼らはみな、己の中に過敏すぎて厄介な部分があればそれを徹底して摩滅させ、同時に薄くて脆い部分は、極限まで厚く固くしてきている。
 忍術などの技量に加え、それらを的確に操る心という二つの“武器”を手にする事の出来た『与えられた任務を確実に遂行できる者』だけが、暗部として引き抜かれているのだ。
 にもかかわらず、“声無き仲間”の不可解な行動の数々が、残された者達の前に見えない枷をちらつかせ、聞こえない声を発している。


「――ッ!」
 カカシは背中の刀を抜くや力任せに振り下ろし、トラップの鉄線を叩き切った。
 斬るものなど何でも良かった。何でもいいから目についたものを片端から斬り捨てたい衝動に駆られて、忍としての本能が、飢えて狂った野良犬のように、手当たり次第に標的を探し回っては斬りつける。
(次!…次だ…!)
 そうしている間は、煩わしい“そいつ”から離れ、自分でいられる気がした。












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