八、 淵の底
「おい」
男が珍しく自分を呼んだ。
「あ、はい」
すぐに返事をして、狗の面にある暗がりの奥を見つめる。その闇は相変わらず濃く、底知れず深い。
(おや?)
丸い暗がりの片方に、不意に赤い光りが瞬いた気がして、イルカは思わずそちら側を注視した。だが本来、赤い瞳など有り得ない色だ。
(危険だ、ひとまず離れておけ)
今まさに意識を注ごうとしている動きに、訳の分からぬものに対する本能が警鐘を鳴らす。
だが身構えるより早く、それは既に始まっていた。
(――っ?!)
最初、何が起こったのか全く分からなかった。それはまるで、体という体の隅々にまで一斉にヒビが入って砕けていくような、いまだかつて感じたことのない恐ろしい感覚だった。
一拍後、それが痛覚を伴いながら末端から一気に押し寄せてきた瞬間、イルカは喉一杯に叫んだ。いや、叫んだつもりだった。だが既に、喉からは息さえもろくに吐けない。ザッと音を立てて一気に引いた全身の血は凍りつき、藻掻こうにも最早四肢の感覚は痛みに砕け散っていて、その役目を放棄していた。
(――そうか、俺は…ここで…このまま…)
遠くで光より早く、なのにどこかゆっくりと理解した。
ああそうか、と。
幾千の理屈など遙かに高く跳び越えて、かかる全てを受け入れたことが諦めでないとするなら、それが「死を悟る」ということなのだろうか。
目を閉じた。
気が付くと川端に突っ立っていた。
(ぁ…)
微動だに出来ないまま、暗い川のほとりでただひたすら、棒のように立ち尽くしていた。
(――あぁ、ここか…)
意外にも見覚えのある世界に、イルカは少し落胆した。
天は一面に黒く、地も天の切れ目まで遥かに暗い。光源はどこにあるのか、朧すぎて輪郭しか分からない。
そこは今まで幾度となく見つめてきた、己の心の中だけにある漠然とした心象風景だ。子供の頃は特によく見つめていた。最近は見なくなったからすっかり忘れたのだと思っていたが、どうやらそういう類のものではなかったらしい。イルカはまるで、もう一人の自分が見ているような視点で思う。
目の前にある長大な大河は片時も止まることなく、滔々と何処かへと流れ続けている。こんなに長大な河川など、この世界のどこにもありはしない。そう、自分の心の中以外には。
距離感があるのか無いのか判然としない向こう岸に、大勢の人々が音もなく歩いているのが見える。こちらは誰一人いない漆黒の闇なのに、あちらの暗には大勢の人が見える事を、別段疑問とも思わなかった。それらもまた、何度も見慣れた風景だからかもしれない。
中にはよく見知った者達も歩いている。ある者は川岸をゆったりと歩き、ある者は人々の間を駆け回り、またある者は疲れているのか座って一休みしたりしている。
その無数の人々の中に、連れあいと手を繋いで歩いている一組の男女が見えた。二人はどこか遠くを見つめながら、何処かへと向かって歩いている。
(……あぁ…)
誰に教えられた訳でもないが、今度こそあそこに行けるのだと感じる。
(足が…!)
その確信を後押しするように、あれほど川岸に縫いつけられて言うことをきかなかった二本の足が、嘘のように動くようになっていた。
自分という人間をこちら側の岸に縛り付けていた、目に見えない何本もの黒い鎖が、まるで花びらのようにはらはらと解けていくのが分かる。
(行ける)
動かせなかった四肢が自由になったことを察すると、イルカはその理由すら考えずに、ためらうことなく真っ直ぐ川に入った。水は冷たくも温かくもなかったが、いつまた手足が動かなくなるか分からないという焦りが、自然と手足を早くする。
(急がなくては。今のうちだ、頑張れ!)と、手足を動かしているのとはまた違った、もう一人の自分が繰り返し言っている。
水は見る間に膝を越え、一気に胸辺りまできたが、構わず夢中で進んだ。ざばざばという水音がしているように思うのは、恐らく自分が長年に渡って積み重ねてきた記憶が、そんな風に聞こえさせているからだろう。
(急ぐんだ)
今の流れより速くなったらという不安から、時間が止まったような音のない世界で、夢中で手を掻き、歩を進める。
一刻も早く渡りきらなくては。
向こう岸に行きたい。
向こう岸へ。
ただひたすらその一心で、手足を動かし続ける。
両手を懸命に掻くと、水飛沫が次々と顔に降りかかってくる。でも構っている暇はない。
(早くしないと…早く行かないと…! また…また置いて行かれてしまう…!)
何よりそれが怖かった。
もうどれほどの時間進んでいるだろう。3分と言われればそうとも思えるし、3日と言われても信じてしまいそうだった。既に腕は鉛のように重く、足は水底に着いてはいるものの、よろけて真っ直ぐ進めていない。でも対岸まではもうすぐなのだ。もう目の前に、手を伸ばせば届きそうなすぐそこに見えているのだ。
思えば随分と長いこと川端に立って、早く渡りたいと願い続けていた。そして今ようやくその時が来たのだ。間違ってもここで諦めるわけにはいかない。なんの根拠もないはずなのに、一度渡り始めたら最後、引き返すことはおろか、次の機会さえも二度とない気がしてならない。
(もう少し、もう少しだ…!)
人々の中に、懐かしいあの二人の姿が見え隠れしている。
今声を掛けたら、何もかもが消えて無くなってしまいそうな気もしたが、気付いて欲しくて堪らず声を上げた。
「……とう…さ…」
「……かあ、さん…」
「――…いま……いく……」
(――なに?)
床に転がった男が呟いた思いもよらぬ言葉に、カカシは僅かに目を見張った。
(この男…?)
一体今、何を見ているというのか? 予測していたこととは些か違う様子に、素早く解印を切る。
一拍後。
「…ッ…、げほっ…」
盛んにむせ返り、ぜいぜいと荒い呼吸をしながら、男はほんの刹那の術から解放された。覚醒した直後には、もう見慣れた室内がはっきりとその目に見えているはずだ。しかし男は焦点の定まらない黒い双眼でもって、ぼんやりとこちらをいつまでも見上げている。どうやら己が勝手に作り上げていた世界から、まだ抜け出せていないらしい。
「――…川の、…水…?」
男は頬に流れていたものを、しきりに手の平で拭い続けた。
「…ぁっ、あのっ……今のは…?」
(一体何だったんだろう。なんであんな…?)
イルカは何度も瞬きを繰り返した。まず間違いなく目の前の男が何かしたのは確かだが、それにしても今しがた見ていたのは、自分の中の…
(…夢…?)
でもあんな夢ってあるだろうか? あんなリアルな夢、みたことない。
「なにが?」
立ったままの男は、面の奥からジロリと睨み下ろしてきた。冷えた短い声には明らかに棘が含まれている。
「…ぃっ、いえ。…何でも、ありません」
「なにそれ。――馬鹿馬鹿しい」
苛立ちを一杯に含んだ声だった。
「ゃ、あのっ、待って…!」
だが短く言い捨てた直後にはもう、男の姿は掻き消えていた。
引き止められるであろうことを、とうに見越したような去り方だった。
(――アイツ…!)
黒々とした濁りのない瞳や黒髪が、繰り返し脳裏を過ぎっている。
カカシは閉めたばかりの玄関のドアに乱暴に凭れた。
あの男、死をイメージさせた途端、何故か酷くほっとしたような顔をしていた。
そんな奴、今までたたの一人としていなかった。どいつもこいつも皆、自らの中に勝手に溜め込んできた恐怖に、恐れ、おののき、四肢を縮み上がらせ、ただひたすら本能のまま、必死で生にしがみつこうと足掻いていただけなのに。
なのにあの男は己の死を悟った途端、まるで肩の荷でも一気に下りたような安堵の表情をしていた。
(どういう事だ。それじゃあまるで…)
それではまるで。
しかもそれを裏付けるかのように、奴が半身を起こしてオレを見上げた時、その表情に安堵はなく、戸惑いの中に明らかな落胆の色が見て取れた。
(――畜生、なんだっていうんだ、一体…!)
「クソッ…!」
背後のドアを、平手で叩く。
背筋の寒くなるような恐ろしく耳障りな音がして、金属製の固い扉に数本の長い爪痕が残った。
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