七、 諍い


 
 イビキが出立してから、瞬く間ふた月近くが過ぎ去った。
 初秋が確実に深まっていき、時には次の季節が音もなく忍び寄っていきていることにも、ふと気付かされるようになってきている。
 担当している数名の相談者の中で、最も回復が困難だと思っていたあのシモトも、意外なほど順調に復調の兆しを見せていた。
 最初の頃こそ俯いて一言も喋れなかったり、嗚咽したり、発汗して震えたりを繰り返していたものの、一旦その荒れた心が落ち着いて、自分が他でもない里への入り口である援助者に受け入れられていると感じだしてからは、随分と色んな事を話すようになっている。

 彼は戦場で休息中に、すぐ近くで仲間が踏んだトラップに巻き込まれて土砂に埋まり、奇跡的に傷一つなく助け出されたものの、生き埋めになった際の耐え難い恐怖と苦しさから心的外傷後障害を発症させていた。だがそれでも彼は戦場で「使い物にならない」と言われることを恐れ、ひたすらその症状を隠し続けていたのだという。けれど、結局はちょっとした物音で度々パニックに陥るようになり、そのせいで不眠にも悩まされて、最後には自分自身でトラップにかかってしまい、周囲にいた仲間達をすんでのところで全滅させかねない大失態を引き起こしていた。
 今でも大きな声や物音を聞くと、生き埋めになった時の状況が、まるで今現実に目の前で起こっているかのようなリアルさで思い起こされるのだと、シモトは苦しげな表情で切々と訴える。
「爆破の瞬間の音も、土の匂いも、体にのし掛かる土の重みも、長い長い息苦しさからくる恐怖も絶望感も、何もかもが当時そののままに、出し抜けに五感に甦ってくるのだ」と、冷や汗を流しながら繰り返される言葉に、イルカは一つ一つ丹念に耳を傾ける。
 やがてシモト自身が、そのどこか懺悔に見えなくもない長い“告白”の行為自体に慣れてきた所で、援助は新たな段階へと移っていく。
『恐怖体験を思い出しながら、同時にイルカが動かす手の指の動きを、眼球だけで追わせる』という治療だ。一見何の意味があるのかと思われるこの治療だが、「目で追うという無意識の行動が、意識して思い出している記憶と繰り返しぶつかり合うことで、記憶の側が打ち消される作用がある」ことが分かってきており、近年かなり有効な手段として確立してきている。
 最初のうちこそ何をさせるのかと不信感や抵抗感を露わにしていたシモトも、彼の鮮明すぎる苦い記憶が僅かずつながら確実に摩滅してゆき、あれ程耐え難かったパニック発作の頻度が少しずつながら確実に下がりだしていくのが分かってくると、素直に指示に従うようになっていく。
 そしてその頃になると、彼の言動は、次第に別の色味を帯びだした。




「こんにちは。よく来て下さいましたね」
 イルカがいつも通り室内に迎え入れると、シモトは挨拶もそこそこに、長いこと誰にも話せずに内側に溜め続けていたらしい言葉を、ボロボロと吐き出しはじめる。
「…イルカ先生、オレって……異常なんでしょう?」
「ん? 急にどうしたんです? なぜ、そう思うんですか?」
 開口一番の言葉にも、イルカは慌てず穏やかに答える。ここまで長きに渡りじっくりと対話を重ねてきても、言葉遣いは決して崩さず、適度な距離感は保ち続けている。
「異常なら異常だって、はっきり言って下さいよ。それとも異常か異常でないかはっきりしてもないのに、分かってるような顔をしてるだけなんですか?」
 シモトの言葉は、イルカを正面から見据えることなく、宙を泳ぎながらぶつけられる。
 するとイルカは、ひとつ大きく柔らかく頷いて「確かに、あなたがそう思うのももっともですね」と、あっさりと肯定する。
「辛い思いを隠さず、よく聞いて下さいました。いい機会ですからここで確認しておきたいのですが、私の目的はシモトさんが異常かどうかを判定することではないんですよ。んー…こんなことを言うと誤解されてしまうかもしれませんが、実はそんなことには全くと言っていいくらい興味がないんです。それよりも、“困っているあなたの悩みを、いかにあなたと一緒に解決していくか”ということに、一番関心があるんです。それこそが、私の目指しているところなんですよ」
 だが、イルカの答えを聞き終わるや否や、向かいの男の頬は不均等に強張っていく。
「やめて下さい、そんな気休めなんていいんです。分かってるんですから、オレはもう隊には戻れないって。もし万が一戻ったとしても、あの仲間達の信用までは元に戻らないから、結局はまた追い返されてしまうんですよ。全部、分かってるんです!」
「なぜ、仲間達の信用が戻らないと思うんですか?」
 イルカは昨日も、一昨日も、そしてその前日も聞いた全く同じ内容の話に、今日も真正面から向き合う。こうして何度も何度も対話を重ねるうち、本人が最も言いたいことや、固執していることが、一番多く繰り返して言葉に出てくるようになるからだ。
「当たり前じゃないですか、一度使えない奴だと烙印を押された者の行動を、一体誰が信じるっていうんですか?! そんなもの、オレだって信じませんよっ!」
「シモトさん、こうは考えられませんか? ――最初に起爆札を発動させたのはシモトさんではない訳だし、その後もあなたのミスで怪我人が出たわけではないのでしょう? ――ひょっとすると、あなたが思うほど仲間達は大ごとには思っていないのでは?」
「世話になってる先生にこんなことは言いたくないですが、現場の連中の目がどれほど厳しくて冷たいかなんて、先生には絶対に分かりっこないですよ!」
「ん……そうですか…。――そうかも、しれませんね」
 ここまでのやりとりは、この一週間ほぼ全く同じで、一言一句違わないと言っても過言ではない。だが、シモト自身がそのことに気付いている様子はない。
(シモトさん、もう少しだ、頑張れ…)
 ここでイルカはまた少しだけ、対話を掘り下げることにする。彼の発する言葉の輪郭を、注意深く、じっくりとなぞるようにして。
「シモトさん、あなたはさっき『一度使えない奴だと烙印を押された者の行動を、一体誰が信じますか?』と言いましたが」
「――――」
 言葉を丸ごとなぞられた男は、いきなり鏡に写った自身の姿に思わず押し黙る。
「気に障ったらすみません。でもあなたの正直な気持ちを聞かせて下さいませんか? ――もしかしてシモトさんは、仲間の誰かが同じように心を病んで戦列を離れた場合、その人が復帰してきても、忍として信じられないと、そう思っていますか?」
 こうして当人の言葉を、出来るだけ責めない範囲で言い換えてみせる事で、本人が自身の内面により近付きやすくしてやるのも、有効な援助方法の一つだ。
「――そっ…、それは、誰だってそう…でしょう」
「誰でも、皆そうですか? 本当に、そう思っている?」
「――――…」
「一度失敗を経験した人なら、次からはそれを活かして行動してくれるのでは? 少なくとも私は、一度も失敗をしていない人よりは経験値が上がっているように思いますが、シモトさんはそのことについて、どう思いますか?」
「せっ…先生は甘い! 楽観的すぎる!」
「それに関しては否定はしませんよ。けれど考えてみて下さい。――あなたという心強い人が隊に一人居れば、もしも同じような心に苦しみを背負った仲間達が新たに生じた場合も、他の誰よりも早く理解と救いの手を差し伸べることが出来ると――そんな風には、思いませんか?」
 途端、シモトの陽に焼けた顔が、くしゃくしゃと歪みだした。
「…イルカ…先生っ…! …オレには…あなたが…あなただけが頼りです。お願い…どうかオレを見捨てないで。先生が居なくなったら、オレはもぅ…生きていけない、…死んだ方が…よっぽどマシだ…っ…」
 片手で顔を覆って、こみ上げてくるものを必死に押し止めようとしている。
「私みたいな者を頼ってくれてありがとう。でもあなたは、もう随分と良くなってきましたよ。これからは私とだけでなく、同じような体験をして苦しんでいる仲間達と一緒に、その辛さを話し合ってみませんか? 皆と苦しかった体験を分かち合えば…」
「なッ…、なんだってェ?!」
 突然上がった大きな声に続きはみなまで言わずに、その代わり彼を見つめながら小さく頷いてみせる、が。
「みんなと、会うだってぇ?! …いっ、嫌だ、断るッ! お…オレはまだ、具合が悪いんだ。なんでだよ先生っ、どうしてそうやってオレを突き放そうとするんだよ?! 『いつでも来ていいし、どんなに遅くなってもいい』って、あんなに長いこと付き合っててくれたじゃないかッ!?」
 それこそあっと思う間もなかった。シモトが立ち上がるなり両の肩を掴んできたことで、背もたれのない椅子に掛けていた体は呆気なく浮いて、たたらを踏みながら後ろの壁へと勢いよく押しつけられる。
 ずっと食べものが咽を通らず、不眠も重なって不健康にやつれているとはいえ、日夜最前線で戦っていた青年の容赦ない力の前に、咄嗟に無抵抗を貫いたイルカも思わず眉を顰めた。
「あなたはっ、あなたはやっぱりオレのことなんてどうでもいいんじゃないか! この…この大嘘つきめ…!!」
(……ぅぅ…)
 襟元を両手で掴まれて、一気に咽が狭まる。間違っても脅しなどではない、逆上した男の、本気の力だ。
「何とか言えよ! 今まで散々きれいごと並べてたくせに!」
 体の後ろで組んだ両手が本能に突き動かされ、今にも目の前の男に向かって伸びそうになるのを、懸命に堪える。
(……っ…!)
「なんだよ!肝心な時に限って何もしない、何も言わないなんて、卑怯じゃないか! ホラ、いいから殴ってみろよ!」
 とその時、出入り口のドアをノックする音が室内に2度響き渡り、同時に室内に張り詰めていた気配がパッと掻き乱されていく。

「――なぁなぁ、オレだってばよ!」

「ナルト!?」
 襟元に込められていた力が一瞬弛んで、思わず声が上がった。だが横目で時計を見やると、とうに夜半を過ぎている。
(こんな時間に、一体…?)
 だがその子供の声を耳にするや、シモトはまるで、それまで何かの幻術にでもかかっていたかのようにハッと我に返り、酷く慌てた様子で踵を返した。
「シモト、さん…!」
 その後ろ姿に詰まり気味の声を掛けるが、男が立ち止まる気配はない。だが深追いは、互いの間にあってしかるべき“枠”を壊すことにも繋がりかねず、禁物だ。
「今日のことは気にしないで。明日また来て下さい!」
 可能な限り平静に勤めた言葉は、彼に届いただろうか。
 今はただ、そうであることを願うばかりだ。





「――アンタさー、まーだあんなことやってんの?」
 シモトによって乱暴に閉められたドアの音の余韻が長い廊下に消え、再び静寂が訪れたと思った瞬間、背後から不機嫌そうな低い声がして、ハッとなる。
(えっ…?)
 振り返ると、風になびくカーテンを片手で払いながら、背高い暗部装束の男が飛び降りてきた所だった。
「ぁ、…こんばんわ。先日はどうも」
「あれだけ止めろって忠告してんのに、いい加減しつこいよ?」
 今までと同様、挨拶はない。物言いも相変わらずぞんざいだ。
(でも…ここのことを、気に掛けてくれている…?)
 ドアの外に少年の気配が全くしない。彼の心遣いにふっと優しい気持ちになる。

「あんなヤツ延々愚痴らせて、挙げ句の果てに暴れさせて、一体何になるわけ?」
 だが目の前の男の言葉の端々には、もう既に自分を攻撃しようとする意志が表れている。
(でも、それこそが彼の心の扉が開きかけている証しだ)
 不思議なほど確信できた。内側は鏡のように凪いでいる。
「あなたが何と仰ろうと、私は苦しんで助けを必要としている仲間を見捨てることは出来ません」
 男と真っ直ぐに向かい合うと、きっぱりと言い切った。
「助ける? ――はっ、笑わせる。誘導の間違いでしょ。いや洗脳か」
「違います。国や里、恋人や家族…みんな自分の中にある大切な何かを守るために戦ってるんです。そうすることで、皆初めて自分が自分で居られる。なのに急に満足に戦えなくなって、自分は誰からも必要とされない存在なんだと思う辛さがどれほどのものか、あなたは分かりますか?」
「あぁ、きれい事なら沢山だから。いいからアイツの事はもう放っておいてやんな。なんでそっとしといてやんないの? なんで治すの? あれはね、『もうダメだ、自分は戦えない』っていうサインなんだ。なんで分かんないの?!」
「いいえ、それは私も分かっています。だからこそ治さなくてはならないんです。治ればその克服体験が、次の傷を付きにくくしてくれます。確かに今回のことは、彼には辛い試練になるでしょう。私も少し気を緩めていた部分があって、彼に無用の期待をさせてしまったことは認めます。でももうご心配には及びません。明日もう一度二人で“枠”を確認して、この山を一緒に乗り越えられれば、彼はまた少しだけ強くなれるんです。戦えなくなったからといって無責任にただ放っておいても、何の解決にもならないんです。これは忍として生きることを選んだ彼が、彼でいるために必要な援助なんです」
「援助? …フッ、ものは言いようか。そんなもの、聞こえがいいだけの詭弁にしか聞こえないね。――いい? アンタら二人はね、服従か支配かを巡って、狭い世界でただ自分の欲望を満たそうと、醜い泥沼の争いを繰り返してるだけなの。そんなことも分かんないわけ? 耳障りのいいような言葉並べてオレを丸め込んだつもりだろうけど騙されないよ。結局は使うだけ使って、使えなくなったらいつでも捨てればいいって思ってるだけじゃない」
「いいえ、決して思ってなどいません」
「思ってる。立場上、口に出して言えないだけだ」
「思ってなどいません。少なくとも、私は今まで一度も思ったことはありません」
「いいや思ってるね。ここで苦しんでるヤツらをわざわざ洗脳しなおして、無理矢理戦場に送り返してるのが何よりの証拠だ」
 互いの意見が、視線と共に真っ向からぶつかり合う。でもイルカは怯まなかった。彼は非常に弁が立つ上に、人を困惑させる物言いにも長けているが、決して悪い人じゃない。この諍いめいた論議だって、純粋な悪意からではないと分かるから何とかしたい、その一心だった。
「――あなたは森羅万象、それこそ私の考えも何もかもよく見えてるって仰いましたよね?」
「ぁ? あぁ。それがどうした」
「そんなの嘘です」
「…なんだと?」
 男の声に、一段高い剣呑な響きが加わった。しかしイルカは構わず続ける。
「あなたは確かに人の心を簡単に読めるのかもしれない。でも自分自身の本心だけは読めてない。――いや、わざと読もうとしてないと言った方が正しいでしょうか。本心を見ないまま、とりあえず何もかも『ダメだ、出来ない。無理だ』と決めつけて排除していれば、心は一時的ではありますけど楽になりますから」
「――オマエ…!」
 男の殺気の滲む声に、面の向こうの銀髪までが逆立ったように見える、
「でもそれではダメなんです。根本的な解決になっていません。時が経てば、また同じ問題に直面して苦しみます」
「黙れ!」
「黙りません。例えばあなたは、『今の自分が本当の自分だ』と思っていますか? そして人は必ずしもそうではないことを、ご存知ですか?」
 自分でも信じられないくらい、言葉が後から出てくる。
「うるさい! 黙れ!」
「人は、辛いことや苦しいことから自分の傷付きやすい心を守るために、知らぬ間に本当の自分との間に別の自分を立てていることがあります。もちろんそうすることが悪いなどと言っている訳ではありません。責めたり恥じたりする必要もない。でも長いことそうしていると、いつの間にか本当の自分は深いところに埋もれてしまって、誰からも、ついには本人からも見えなくなっていたりするんです。その間にも偽りの自分は一人歩きを始めて偽ったまま成長し、自分でも気付かないうちに周囲までも巻き込んで、酷く生きにくくさせてしまいます。私の任務は、そういう重荷を背負った人達と向き合って、もう一度本当の自分と繋がって貰う手助けをすることなんだと、そう思っています」
「ハッ、下らない。知ったような顔をしてそれらしい言葉を並べたって、何の解決にもなっちゃいないから。そもそも人の心を『救ってやろう』なんていう考え自体に反吐が出る。それでなに? アンタは神にでもなったつもり?」

 男は明らかに逆上しだしていた。でも本気で怒るということは、自分の言った何かが、彼の琴線に触れているからに他ならない。イルカも夢中だった。
 何かに酷く苦しめられているらしい彼を、なんとかしたい。
 ただそれだけを願った。



    * * *  



「それでなに? アンタは神にでもなったつもり?」
 はたけカカシは、面の下で半ば叫ぶように言い放った。
(現実を知らない奴に、何が分かる!)
 こんな身の安全を保証されたような所で、己の弱さから病んだ者の話をただ聞いているだけの男に、何もかも知ったようなことを言われたくなかった。
(黙れ、黙れ! ――黙れ!!)
 お前の瞼の裏など、ただ暗いだけに過ぎない。

「――いいだろう」
 カカシは、何がいいのか言葉の意味が分からず、ぱちぱちと瞬きしている中忍を、二つの穴の奥から見つめた。
(せいぜい身をもって実感してみることだ)
 他人に恐ろしい“死のイメージ”を見せる事など、自分には雑作もないことだ。なにもわざわざ凝った幻術など施す必要はない。この左目を使って少しばかり脳神経を操作し、急激に苦痛という信号を与えてやれば、その者は自らの中に即座に恐怖を作り上げ、本来「無であるはずの死」を勝手に垣間見て、酷く怯える。
 そしてその苦しみの狭間では、人は『自分自身が内心で最も恐れて、一番遠いところに遠ざけていたもの』を最大の恐怖として認識する傾向が強い。そのため恐怖がよりリアルに強く感じられ、他人が作りだした荒唐無稽な幻術などより、ショックも遥かに大きくなる。
 この男はあまり戦慣れしていない感じだから、その程度のセルフイメージだけでも衝撃は相当大きいだろう。
「おい」
 呼ぶと、男は何の警戒心も抱いていない様子で、馬鹿正直に真っ直ぐこちらを見た。
「あ、はい?」
 それにしても何という無防備さだろうか。その余りと言えば余りな愚直さに、心の奥でチリチリとした言葉に出来ない苛立ちを感じる。
 そしてその意味不明の苛立ちは、すぐさま内側で強い摩擦を引き起こし、付いた火種は一本の導火線に姿を変えて、一直線に彼に向かって走りだす。
 直後、カカシは何のためらいもなく、目の前の男に向けて瞳術を発動させた。












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