六、 少年時代



 戦線から離脱してきたシモトが、一進一退を繰り返している。
「…ぅっ……、ううっ…」
 固く黙したまま一刻ほども何も喋らない日もあれば、今のようにちょっとした声掛けによって突然嗚咽しだすという「表現」を繰り返していた。

「シモトさんは上官に命じられた通り、数日おきにはここを訪れています」と担当者会議の場で同僚に話すと「組織に属する者の痛ましい習性だな」などという意見が出ていた。しかしイルカは、何とかして前に進もうとしている彼の力の表れに他ならないと思う。
 シモトがどんなに後退しているように見えたとしても、決して前へ前へと急かそうとせず、同僚達が呆れ、やがて脱帽する粘り強さで、彼が自らの力で上向いてくるのを辛抱強く待ち続ける。
 そう、その昔、イルカ自身にも苦い経験があった。
 周囲から「頑張れ」「元気出せよ」などと言われるたび、その者との距離がますます広がっていくような無力感に襲われたあの日々。そして後になって一番救われたと感じたのは、何も言わずひたすら静かに見守り続けてくれていた人達の存在だった。
(今、彼に励ましのアプローチをすべきではない)
 理屈ではない。誰かにそうしろと教えられた訳でもなかったが、イルカは些かの迷いもなく思った。

 
(おや?)
 ドアの向こうに人の気配がして僅かに顔を上げた。けれど向かいのシモトは、相変わらず溢れ出るものを押さえきれないでいる。
(取り込み中、なんだけどな)
 咄嗟に(頼む、中の気配を察してくれ)と念じた。同僚なら余程ぼんやりでもしていない限り、ノックをする前に中の様子に気付くはずだ。もしも急ぎなら、ドアの隙間にメモが差し込まれる事になっている。
 しかし意外な声が廊下から響いた。
「なぁなぁイルカセンセぇー、オレー!」
(ナルト?)
 思わずドアの方を見た。午後の授業が終わって、もう随分経つはずだ。一時より日が落ちるのが早くなってきていて、周囲は暗くなりだしている。今時分、一体どうしたというのだろう。
 と、咽び泣いていたシモトが、いきなり立ち上がった。
「あ、待って!」
 しかし彼はその制止を振り切ると、顔を伏したままドアへと駆け寄る。
「シモトさん、明日またいらして下さい! 待ってます!」
 慌てて背中に呼び掛けたものの、衝立の向こうでワッという子供の声と、バタンというドアが乱暴に閉まる音がすると、イルカは溜息を一つついて、浮かしていた腰を元の古びた椅子へと落とした。

「――なっ、なんだってばよォ、いきなりビックリすんじゃんか」
 ブツブツ呟く声と共に、金髪の小柄な少年が入ってた。
(やれやれ…)
 知らず眉がハの字に下がっていく。慌てて出て行ったシモトのことが全く気にならないと言えば嘘になるが、白昼後を追いかけて引き止め、半ば強引に連れ戻すのもどうかという気がする。ここはひとまずそっとしておくべきだろう。
 入ってきた少年は、あまり良くないタイミングで来てしまった、という事は分かるらしい。衝立の脇に立ったまま、イルカの顔色を伺っている。
「おう、どうしたナルト。ん? なんだ、目が赤いぞ?」
 すぐに困り笑いしている青い目元に気付いて訊ねる。
「…ぇッ? あ…そ、そうかな? んーと…あの…ちょ、ちょっとな、じゅぎょう中に…その、いねむりしちゃっててさ。アハハ〜」
 すぐにタッと元気よく飛び跳ねたかと思うと、ぴょこんとソファに座る。
「ナルト」
「えッ? ぁ、うん……なに?」
「最初に約束したよな? ここに来てもいいのは、どういう時だったっけ?」
「やっ、あのな、あのなっ、違うってば!」
「どう、違うんだ?」
「そっ、それは…その……よォ…」
 少年は俯いて言葉を濁している。約束を守らなかったことは、一応悪いと思っているようだ。それが分かるだけに、頭ごなしにも叱りにくい。でも「授業をサボらない」と約束させたばかりなのに、端から破っているのを黙認するというのもどうだろう。
 イルカが答えを出しかねていると、ソファにちょこんと胡座をかいていた少年が、何やら思いきったようにすっくと立ち上がった。真剣な中にも困ったような表情を浮かべながら、すぐ側まで近付いてくる。この間も随分と人懐こい子だとは思ったが、その他人との境界の無さは、忍を目指す者には珍しい気がする。

「ここってばよ、そうだん、するところなんだろ?」
「あ? …ああ、まぁ…そうだけど?」
 意外な言葉に、イルカは意識せず椅子に深く座り直す。
「オレさ、じつはな……あんま、友達いねぇんだ」
「ん? そうなのか? クラスの好きな女の子をいじめたりしてないか?」
「してねーよ! だからさ、だからさイルカセンセー、その…さ、オレの友達に…なってくんねぇ?」
「ぁ…? …あぁ、いいとも。喜んで」
「えへ、えへへー。やったぁ〜。イルカセンセー、オレの友達第一号だってばよ」
「おいおい、ホントか。いいのか一号が俺で〜」
「いいのいいのっ!」
 少し萎れてどこか元気の無さそうだった黄金色の花が、再び大輪の輝きを取り戻している。そこにはずっと友達と呼べる者がいなかったらしい過去の翳りも、未来への憂いもない。あるのは身を捩りたいほどに嬉しい今だけ。
(自分も…この子くらいの時はそうだったっけ)
 そう、遠い昔。あの頃はまだ、何の不安も無かった。
(まだ、何も知らなかった…)


 『知ると言うことが、決して楽しくて面白い事ばかりではないということを知った』のは、十を幾つか過ぎた頃だった。
 自分が余りに無力な存在だということを、最悪の現実と共に思い知っていた。
 今では当時のことをつぶさに思い出したとしても、襲いかかる苦しみに、息も出来ないほど藻掻き苦しむようなことはもうなくなっている。三代目はそんな俺を、「里の誰よりも強くなった」と評して下さったが――それはどうだろう。
(ただ何も分からぬまま、時を過ごしただけ、か…)
 辛い時代だった。もちろんそんな思いをしているのが自分だけではないということも頭では分かっていたけれど、それが救いになることはなかった。むしろ里の皆が傷付き、飢え、嘆き悲しんでいたから、誰にも話せなかった分、ただただ苦しかった。
 ここを訪れる仲間達には、心が傷付いたことであのように無意味な辛い時間を悪戯に過ごして欲しくなかった。もうあんな思いをしている誰かを見たくない。あんな思いは自分だけで沢山だ。
 だから今、俺は俺に出来る精一杯のことをすべきなのだ。そうすれば、己の中にあった辛い時間にも何らかの意味が生まれて、いつかはその傷も含めた全てを受け入れられる日が来るような気がする。
 過酷な戦場体験のない二人の同僚は、それを「昇華」という美しい言葉で表現している。
 でも俺は「諦めて、許す」のだと思っている。



「なぁなぁ、さっきの人よぉ」
「うん?」
「なんで泣いてたんだぁ?」
 金色の頭を撫でて貰うと、ますます嬉しそうに身を捩っていた少年が、ふと思い出したように問うてきた。
「…ぁ、…うん…」
 思わず答えに詰まる。
「ヘンだよなぁー。なんでかなしいとなみだが出るんだ? 目からなんて、なんも出なきゃいいのによー」
 心当たりでもあるのだろうか、少年は口先を尖らせてそんなことを言う。ふと(先程赤くしていた目元は、本当に居眠りだったのだろうか)などと思う。
「……そうだな…。自分は悲しいんだと周りの人に分かって貰うためかもな。『涙を見せるべからず』なんていう掟もあるけれど、そういうのも…時には許されていいんじゃないか?」
「んなの、分かられたくないってば」
「そうかな。俺はそうは思わないよ。それに……」
「それに、なんだってばよ?」
「今自分は悲しいんだって、自分自身でもよく分かってない人だって、居るだろうしな」
「え〜〜、そんなヘンなヤツいるかなぁ〜。だって自分のことなんだからよー。うれしいならうれしい、かなしいならかなしいって、だれでもちゃんと分かるはずだってば」
 金色の睫毛に縁取られた瑠璃色の瞳が、こちらを見ている。その輝きには一筋の捻れも、一点の曇りも認められない。
「ナルト」
「あ?」
「お前は何があっても、その心をずっと持ち続けるんだぞ」
「え、なに? モチ?」
「あぁいや……何でもない。独り言だ」
 イルカは「えー、なんか気になるってばよ〜」という少年の金髪をくしゃっとかき混ぜると、はははと明るく笑った。












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