「――ふあああぁ〜〜〜…」
「…………」

 魂までが口から丸ごと抜け出ていきそうな大あくびをした黄色いお下げ髪のくノ一を、脇にいた付き人がチラリと見やる。
 ショートカットがよく似合う黒髪の付き人の面には、生来の生真面目さがくっきりと表れているものの、長年の経験から半ば諦め顔だ。

 ここ何ヶ月か、取り立てて大きな事件もなく、里は平穏そのものといった日々が続いている。だがそれと反比例するかのように、畳一畳分はゆうにあろうかという広い火影デスク上の書類の山は、日一日と切り立ってその標高を上げている。今では脇で「早くやりましょうよ〜」と宥めすかすよりも、高々と連なる書類の山脈が突如崩落しないようにバランスを取り、支える事に時間を割くことの方が多くなっている有様だ。
(綱手様っ、今日こそは…、今日こそはっ…!)
 黒髪のくノ一は、真珠の首飾りをした子豚をその胸にぎゅっと抱き締めた。





  
言わぬが花





(あぁ〜〜ヒマだねぇ〜。こうヒマだと書類見る気も起こんないねぇ〜)
 今日も木ノ葉の里長は、何とかしてこの暇ボケ死しそうな状況から逃れる策を巡らす。当然逃れる先は、誰が何と言おうと盛り場だ。盛り場に限る。
 もちろん自分の場合に限っては、仮病という最もスタンダードな策が他のどんな方法よりも嘘臭く、アカデミー生ですら鼻で笑ってしまうほど説得力に欠けた愚策であることは先刻承知だ。しかもその策では、よしんば上手く事が運んだとしても、見張り付きの病院で日がな寝ていないといけないときている。寝たいだけなら、いつものように机で寝ればいい。外を自由に動き回れない策など、巡らす意味がない。
(――んぁ…?)
 だが今日何度目かの伸びをして、その両腕を下ろしかけた瞬間に閃いていた。
(――ふっ…そうか…、そんな手もあったな…)
 五代目火影は、その小さな赤い唇をきゅっと片側に吊り上げた。



   * * *



「――で、なんです? 緊急の任務って」

 里長は、呼び出しに使った伝鳥よりも早く自身の前に参じた、背高い銀髪の上忍に内心で眼を細めた。隣では子豚を抱いた付き人が、これから一体何がおっ始まるのかと内心で首を傾げているだろうが関係ない。
(…ふん、はたけカカシか。――コイツはねぇ…)
 実に賢く、判断力、知識量、実行力ともに申し分ないものの、どちらかというと人を一方的に使う立場よりは、優秀な同胞達と共に使われた時にこそ、その多彩な能力を遺憾なく発揮するタイプだ。
 まぁでも自来也辺りは孫弟子ということもあってか、この男を次期火影にと考えているらしいから、この機会にどんな反応を寄越すか見てみるのも悪くないだろう。我ながら一石二鳥のなかなかいい案を思いついたなと、内心で自画自賛する。

「折り入って、お前に相談したいことがある」
「なんでしょう」
「私もこう見えてもいいトシだ。いつ何時、どんなことがあってもいいように、不測の事態に備えておく必要がある。それでだ。――カカシ、お前に六代目火影になる能力があるか、その適正を見たい」
「ヒィィィ?!」
「あぁシズネ、いいから静かにしろ! フッ…心配するな、何年も付き人として世話になったお前をお払い箱にしようって訳じゃないさ。――まぁ〜〜、今のところはだがな?」
 子豚と共に顔の前に片手を翳して引きつっている付き人を、勿体をつけながら一括する。そう、今回の策は、一石二鳥どころか三鳥、四鳥も狙える可能性のある、素晴らしい案なのだ。

「お断りします」
 だが、向かいの男の返事は、至極素っ気ないものだった。右の目元は、かえって作っているのではと疑いたくなる程、いつもと何ら変わりない落ち着いた色だ。とは言うものの、口布と額当てとベストの下はどうだか分かりゃしない。恐らくは『藪から棒に、一体どういうつもりなのか?』と不信感で一杯なのだろう。でもそれでいいのだ。それでこそ全ては計算通りにいっている。
「まぁそう言うな。自来也も次はお前を火影に推したいと言っているのだ。少しはアイツの気持ちも汲んでやれ」
「自来也様が自分をかって下さっている事には感謝しますが、私にはそのような重責は荷が重すぎます。自分で言うのもなんですが、求心力も足りませんしね。そもそも私は書類決済の能力も、こういった現場外での大きな決断も不得意ですし、――まっ、器ではないでしょうね」
「ふん…、まぁそう言うとは思ったのだがな。…ではこうしよう。カカシ、実はもう一人、優秀な火影候補を選んでおいた。お前は次期六代目候補の一人として、暫くその者と共に『里長という役どころを学んでみる』、というのはどうだ? それならお前の知識や判断力も、存分に活かせるだろう。日頃からチームワークを標榜しているんだ。相手の良いところを引き出して大きな事を成し遂げるのは、何も戦場だけとは限らんぞ」
「それは要するに、二人で協力して里長をやってみろってことですかね? んーー五代目、幾ら今里が平穏だからって、少し無茶が過ぎやしませんか?」
 言うと、側の付き人もぶんぶんと音がしそうなほど大きく首を縦に振っている。
「馬鹿者、逆だ。平穏な今だからこそ、有事の際の危機管理に着手しているんじゃないか。そんな危機感のない悠長なことを言ってて、この先万が一にも何か事あったとき、準備不足で誰より苦しむのはお前達だよ」
「やっ…まぁ…、それも一理あると言えば、そうなんですけどねぇ〜…」


 しかし危機管理と言うには、余りにも取って付けた感が満々で、突拍子がなくはないだろうか?
 オレはどうにも納得いかないまま、それでもこのまま退出するわけにもいかず、内心やれやれと溜息を吐きつつ対話に付き合う。
「でー? そのもう一人の次期六代目火影候補ってのは、誰なんです?」
 他のことには興味ないが、これだけは聞いておいてもいいだろう。訊ねながらも、求心力と決断力に長けた上忍を、一通り巡らしてアタリをつける。
「あぁ、そちらも自信を持って推薦するよ。――そうだな、そろそろ任務が終わる頃だから来るはずなんだが…」

 しかし、彼女がその言葉を最後まで言い終わるかどうかという頃合いに、きっちりとしたノックの音が二度響いて元気よく入ってきた男に、オレは膝から頽れそうになった。
 逆に子豚を抱いた付き人は、何となく『ああそうか、この人ならまぁ確かに…』みたいな感じで早くも納得したような表情を見せていて、こっちとしては納得いかない。
「あーイルカ、お前に折り入って相談したいことがあるんだが?」
「え? ぁはい、なんでしょう?」
 呆気にとられすぎてガニ股になっているオレに向かい、いつもの明るい笑顔で軽く頭を下げていた中忍の横顔が、すぐさまぴっと引き締まった。その顔はいつ見ても誠実そのもので愛おしい。のだけれど。
(今日この場では、見たくなかったなー)
 気のせいだろうか、この無茶振りもいいところな依頼を、突然断りにくくなったような気がする。
「実はだな、ここにいるカカシが次期火影に適しているかどうかを、実際に火影の椅子に座らせてみることで確かめてみたいのだ。つまりはお試しというやつだな。ついてはイルカ、お前がカカシの補佐役をしてやってはくれんか? お前なら三代目とも近しい間柄だったし、書類を相手にしたデスクワークもお手の物だろう?」
(あらま、しかもいつの間にか火影「候補」じゃなくて、火影の「補佐役」になってるし…)
 至極いい加減な五代目の言動に呆れた直後、続いたイルカの言葉に息をのんだ。
「ぁー、そのお話ですか。んー…そうですね、分かりました。この間、五代目に『ナルトを次期火影にしたいが、お前を補佐に』と打診された時は、流石に時期尚早と思いましてお断りしてしまいましたが、カカシ先生をサポートするのでしたら私も何ら異存はありません。自分もきっと学ぶことは多いと思いますし」
「よし、決まりだな。じゃあ早速やって貰おう。シズネ、一通り説明を」
「ぁ、はい!」
「――なッ?! いやあのっ、そっ…ちょとっ?!――えええええぇ?!」
 イルカの横顔に向かって、盛んに目ヂカラを込めた危急の合図を送っていた、その右目を限界までひん剥く。
(ちょっと待て! 三人とももう少し考えろ! アカデミーを卒業した忍なら、何か少しは疑問に思え!)
 三人と一匹の子豚が醸し出す、納得と合意の濃密な空気を、雷切で薙ぎ払えるものなら迷わずやっただろう。後でアスマや紅が聞いたなら、たっぷり小一時間は待機室のソファに深々と埋もれること間違いなしの爆笑ネタだ。
 しかしそんな上忍の思いなど梅雨知らずの生真面目中忍は、そのくっきりとした目縁でもって真っ直ぐオレを見つめてくる。

「カカシ先生、至らないところも多いかと思いますが、どうぞ宜しくお願いします!」






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