(――はあぁ〜、あの言葉がイルカ先生の恋人としての誓いの台詞だったら、どんなにか〜…)
 オレは内心でやれやれと溜息を吐きながら、丸い曲線を描く執務室の窓から隠れ里を見下ろした。眼下を子豚と付き人を従えたお下げ髪の女が歩いていく後ろ姿が小さく見えている。その歩みはどう見ても意気揚々といった様子で、どこか勝ち誇っているかのようだ。
(なにそれ。結局は自分が遊びに行きたかっただけなんじゃない)
 幾ら上忍待機室での出待ち状態だったからって、こんな茶番に付き合わされて振り回されるんなら、イズモやコテツみたいに真正面から「手伝え!」と言われて問答無用でこき使われた方が遥かにマシだったと思う。
 ただ現実には、曲がりなりにも上忍に対してそのような露骨な指示は流石に憚られるし、こっちだってすげなく断ると重々分かっているから、わざわざこんな回りくどくて馬鹿馬鹿しい策を講じたのだろう。
 けれど。

(んー…まっ、オレもあえて意地を張り通さなかったしね〜)
 そう。実は途中から、恥ずかしげもなくコロリと気が変わっていた。
(オイオイ、ちょと待てよ…? もしかしなくても、白昼堂々とこの人と一緒の部屋にいられるなんて、またとない機会だよな? しかも火影公認だしー?)などと思ったら、正直ちょっとだけその…欲望に負けてしまった。
 だって受付で顔を合わせる程度だった彼との関係を、共通の弟子をダシにして呑み友達にまで発展させるのに、一体どれほどの時間を費やし、心を砕いてきたことだろう? 考えるだに溜息ものの、涙ぐましい昨今なのだ。だから例えそれが、無責任極まりない上司から発生したものだったとしても、千載一遇のチャンスであることには何ら変わりはない。有り難く利用させて貰おうと思う。
 とはいえ、部屋の中央にある、いわゆる「火影椅子」と呼ばれる所にふんぞりかえる気など最初から毛頭ない。もしも目の前にいる中忍先生が理由を聞いたなら、「いやだな、考えすぎですよー」と一笑に付されるかもしれないが、今そんな所に不用意に座ったが最後、第一線の現役の座から真っ逆さまに転がり落ちそうな、何やら縁起の悪さみたいなものをひしひしと感じるのだ。
 とりあえず夜半過ぎには次の任務も入っていることから、「今日一日だけ」という条件は忘れずに取り付けてある。それまではこの火影プレ……いや「火影ごっこ」を、二人で存分に楽しもうという気になっていた。
 内心では(これを切っ掛けにして、単なる酒飲み友達から、もっと別の関係に進展すればいい)などと思いながら。


「――それにしても、また随分と溜めましたねぇ」
 イルカがしげしげと書類の山脈を眺めながら感心している。
「来る度に10センチは確実に高くなってますよ。ったく格好つけてこんな大きな机にするからー。子供用の勉強机くらいにしとけば、置きたくても置けないからもう少しはかどったでしょうにね」
「ハハッ、違いない!」
 イルカが大きな口を開けて、屈託なく笑っている。そのささやかだけれど大切な光景に、オレはそれまで小腹を立てていたことなどあっさり忘れ、一緒に笑った。


 しかし当然のことながら、本当に大変なのはそこからだ。
「火影椅子になんて、どうあっても座りたくない。勘弁して」というオレに折れたイルカ先生が、その総革張りの肘掛け椅子に腰掛けたものの、結局やることは火影の尻拭いで、目の前の残務処理なのだということは彼自身ちゃんと心得ている。
 座った直後こそ、その実直そうな顔一杯に『何だかおかしな心地です』と書いてあったものの、一番頂上にあった書類を手に取るや、受付に座っているのと何ら変わらぬ真剣な顔付きになって、早くもにらめっこを始めだした。
 この素晴らしい柔軟性と、切り替えの早さはどうだろう。
 出窓近くにパイプ椅子を寄せてきて、何をするでもなく座っていたオレは、そんなイルカを目の当たりにして心底感心する。
(はー流石、この人らしいといいますか……ていうか、もうこの人が六代目火影で良くない? ね、決めちゃわない? だって老若男女に一番顔が広くて、信頼も篤くて、隅々まで目が行き届くから当然求心力もある。何より言ってることに嘘とか裏がないのが分かるから、どんな言葉にも皆最後には従っちゃうよね? そんな一生懸命な人、ほっとけないでしょうよ誰も? この人のためなら何だって是が非でもやらなきゃって、みな思うでしょフツー? や、五代目がオレのことを次期火影候補って言うんならさ、もうオレが決めちゃってもいいってことだよね? ハイ、木ノ葉の里六代目火影、うみのイルカ決定〜〜)
 などとつらつら巡らしていると、高そうな火影椅子に座っていたその当人が、急に何かに気付いたようにハッと頭を上げた。
「ぁ! すみませんカカシ先生、お茶もお出ししないで!」
「いえいえ、あなたはそこで続けてて下さい、ね?」

 オレは生まれて初めて、他人のためにいそいそと茶を淹れた。



    * * *



「――あぁ〜〜ホッとしますね〜」
 オレが淹れた、さして美味くもないであろう茶を一口口にするや、イルカは腹の底からホウーと息を吐いて、ふんわりと目尻を下げた。泣く子も黙る天下の火影デスクに座っているというのに、まるで彼の座るそこだけが日当たりのいい縁側状態だ。
 そんな幸せそうなイルカを見ていると、取り立てて何と言うこともないはずののどかな光景なのに、自分の中の奥深くから、何にでも利用できそうな力が沸き上がってくるのを感じる。
(ふっ…、や〜参ったねぇ、どうも)
 『お国のため』なんていう、うすのろな大義名分よ、さようなら。

「――さてと……じゃあこっちも、やりますか〜!」
 いつの間にか火影の残務処理をすることに、笑ってしまうほど何の疑問も無理もなくなっている。
 まるで夜の間に葉に降りていた朝露が、広がってゆく朝の光にきれいに消えていくように。
 すっかりその気になって、一番上の書類を手に取った。



「カカシ先生、この決済、どう思いますか?」
「…ん? どれ、見せて」
 イルカが書類に目を通すスピードは、流石に速い。聞かれる度に立ち上がってイルカの側に行き、わざわざ背後から覗き込むようにして書類を見下ろす。ただ単に一枚の書類を、同じ目の高さで見ているというだけなのに、一人で見ている時とは明らかに何かが違う。
 時折高く括った髪が揺れて、耳や頬に当たってくすぐったい。けれどそんなことさえ楽しくて、いちいち側に立っていることはもちろん内緒だ。
 大真面目を装いながら、書類をざっと見渡す。
 例えどんな内容であれ、本気で火影が判断を下さねばならないような火急の重要案件なら、まず真っ先に彼女の耳に直接入っていて、こんなところでのんびりとハンコを待っていたりはしない。
(要するに、良きに計らえってことなんでしょ?)
 ハイハイ、分かってるよ、もう。
「…ま、いいんじゃない? 計算も合っているし、書き方が多少まずいってだけで、悪意があるとも思えない」
 自分がこんな所で、こんなまじめくさった返答をしていることまでが、何やら可笑しくなってくるがじっと我慢だ。

「ですよね!」
「んっ!」

 このプレイ、これはこれでなかなかよろしい。



(――ああぁもうーー、ちょっとぉー、なんなのこれー。なんかの罰ゲーム?!)
 だが、開始から一時間と経たないうちに、室内を覆う二人だけの濃密かつ静まりかえった空気に堪えきれなくなったオレは、内心で苛々しながらじりりと顔を上げた。
 一見すると地味で目立たない男が発揮しだした有能さに、すっかりあてが外れていた。
 彼はあっという間にオレの方針を了解したかと思うと、すぐさまその意向でもってフル回転で動きだしていて、オレの手などこれっぽっちも煩わさなくなってしまったのだ。
(……くッ)
 こっそりと胸の高さまで差し上げた両の手指が、欲求不満でワキワキする。
 ついさっきまでは、同じ部屋に居られるというだけでも幸せを感じられていたはずだ。けれど一旦期待と共に膨らみだした欲望は果てしなく、更なる刺激を求めて満たされるということがない。
 自分にとっては、すぐそこに居る男を意識するな、という方がどだい無理な話なのだ。真面目にやりたい気持ちは(多少は)あっても、好きな気持ちが邪魔をする。
(ったく、オレが何したってのよ…)
 こちらに背中を向けている男は、窓一杯に射し込む小春日和の光に背中から包まれて暑くなってきたらしく、ジャケットを脱いで腕まくりまでしている。でもそうやって真面目にやっている無心な姿を見れば見るほど、こちらは何やらモヤモヤとしてきて堪らなくなる。
 まさかとは思うが、この部屋に「本来の」火影が居ないことを、皆気付いていたりするのだろうか。不思議なほど誰もやって来ない。お陰でますますその後ろ姿にばかり意識が集中してしまうのを、もうどうしようもない。
(あーあー、こんなに誰も来ないんなら、もうちょっとイチャイチャしたいよー)
 火影部屋がパラダイスになるなんてこと、もう二度とないだろうから。


『――うわぁ、随分と片付いてきましたね、流石カカシ先生だなぁ!』
『フッ…全部君のお陰だよ。じゃあ、折角広くしたんだから、この上でイイことしようか?』
『えっ…カカシ、先生――あっ…!』
『ダーメ、暴れると、残りの書類の山が崩れるよ?』
『でっ、でも…っ、…んっ、あぁ…!』
『ふふ…いい声。扉の外で里の者達が聞いてますよ。もっと聞かせてあげましょ?』

「☆ダァ*ッ#?!▽$%」
 突然、頭上から大量の書類が倒れてきて、凄まじい紙の重さに押し潰されたオレは、顔面をしたたか出窓の板に打ち付けた。
「うあッ?! す、すみません! まさかそっちに倒れるなんて…先生っ! カカシ先生ッ! 大丈夫ですかッ?! うわわどうしよう、今なんかボギとかゴギとか凄い音がしたような…?!」
 おろおろとした声が、遠くに聞こえている。
(…てーーぇ…)
 正直言うと、脳内映像に意識を集中していたせいで全く無防備もいいところだったオレは、その瞬間、一般人以下の受け身を取ってしまっていた。だからもの凄く痛かった。ホントに痛かったけど、イルカに大量の雪崩の下からペラペラになった状態で救助されたオレは、彼の温かい胸に抱き抱えられながら(書類の山脈も、たまには役に立つじゃない…)などと、暫しその想定外のハプニングの甘い余韻に浸った。










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