「…もうっ、あんまりびっくりさせないで下さいよっ!」
 瞬く間に三人に分身して、わたわたと書類を元の状態に積み直していたものの、中忍は机に戻るや書類を見下ろしながら「まったく…」と、溜息を吐いた。
 大慌てで書類の中から助け起こしてくれたのも束の間。すぐにイルカは素っ気ないというか、つっけんどんというか、つれなくなってしまい、さっさとオレの元を離れたかと思うと、そそくさと書類を片付け始めていた。だから、てっきり雪崩事故はスルーされたのだと思っていたのだけれど。
「驚いてくれたんだー?」
 うっかり外れそうになった肩をコキコキ回しながら呟く。髪もぐしゃぐしゃになってそうだけど、まぁそれはいつものことだからいいとする。
「そっ?! そりゃあ、驚くに決まってるじゃないですか。何ですか、わざわざ術なんて使って、あんなに薄っぺらくなって見せなくったってっ。大したことないって、一言言えばいいだけでしょうっ?」
(それって…、ちょっとは心配して、くれてたってこと?)
 書類の方を向いたまま喋っているその様子を、斜め後ろからチロリと目だけ動かして伺う。が、その視線に気付いた中忍がぱっと振り返ってきて、オレは慌てて視線を紙に戻す。
「――――」
「――――…」
 ここで作業をしだしてから、最も静かだと思われる時が流れていく。

(――ねぇ、イルカ先生? あと…どれくらいだろうね?)
 諦めたのか、再び書類に視線を戻した男の背中にそっと問いかける。
(二人だけの時間って、あとどれくらいだと思う?)
 分かるわけない。
 でもその間に、幸せそうな笑顔はもちろんのこと、呆れ顔も、戸惑い気味の表情も、青筋立てて本気で怒っている所だって見ておきたいと思うのは、そんなに間違ってることだろうか。
「…もう…、そんなおかしな事に術使うくらいの余裕があるんなら、ちゃんと避ければいいじゃないですか」
(んー参ったな、まだ怒ってるよ)
 でもどうやらこの空気からするに、すっかり機嫌を損ねてしまったらしい。
 かなり格好悪くドジったから、いっそ笑いでも取ろうかと思っただけなんだけど、全くの逆効果だったようだ。
(だって、さ?)
 まさかそこまで本気で心配してくれるなんて、誰も思ってないじゃない?

「…一応これだってちゃんとした任務なんですからね、ふざけないで下さ……ブっ…、くくくっ、あんた子供ですか! ったく思い出すたんびに力抜けちゃうじゃないですかっ、こっちゃ真面目にやってるってのに…ふはッ、どうしてくれんですかホントに…っ、もうっ、ヘンな人…っ…」
 言いながらも、男はこちらに向けた背中をぷるぷるさせている。高く括った髪が小刻みに揺れている。
(あはー確かに。ヘンな人かもねー?)
 どこか他人事のように、けれどじんと温かく思った。


 その後も入室してくる者は誰もいなかったが、オレは心機一転。文字通り心を入れ替えて、大人しく真面目に書類に向かった。

(んーそうねぇー。もし仮に、本当にオレが何かの間違いで火影になったとしたら…)
 すぐ斜め前で、革製の豪華な火影椅子に座っている男が走らせているペンの心地よい音を耳にしながら、頭の隅で考える。その間にも右目は素早く上下左右に動いて、指先は書類を一枚、また一枚とめくっている。
 そう、もし万が一にも自分がそんな肩書きになったとしたなら。
 受付中忍の劇的な待遇改善だって、里外への温泉遊山のボーナスだって、贅を尽くした城のプレゼントだって、それこそ意のままだ。他の奴がどんなに反対しようが、この人がそれを望むのなら、オレは万難を排してきっとやり遂げるだろう。
 でもそんなことでは、目の前で書類と向き合っている男の気持ちがこれっぽっちも動かないどころか、逆に軽蔑されるであろうこともよーく知っている。だからこそ、ますますこの気持ちをどうしようも出来なくなって持て余しているのだけれど、結局は上忍であっても火影であっても、現実には彼に対して何も…そう、せいぜいこんな突発的な書類整理の手伝いくらいしかしてあげられないなんて。
(里一番の業師〜? ――大したこたーないねぇ)
 その実体は、自身が一番望んでいることが何一つ出来なくて、いつまでも同じ場所に佇んでいる、ただの男だ。


「ねぇ、イルカ先生」
「はい?」
「これもいい機会だろうから言っておきますがね。この先どこまでいっても、オレは火影にはなれませんよ。――いや、なり得ないといった方が、より正しいかな」
 きっとこの人も…いやこの人だからこそ、誰よりよく分かっているんじゃないだろうか。
 木ではなく、林でもなく。この広大な森全体を、高みから力強く照らすに相応しい者が誰なのか。
「なっ……? えっ…と…?」
 その証拠に、彼は上手いこと二の句が継げないでいる。
(いいのよ、それでいーの)
「オレもね、もう随分木を伐ってきちゃったから。だから伐られちゃう前に……そうね、もうちょっと育てとかないとなー、なんてね。――アハハ〜…」
 なんだろう、話慣れない話題のせいか、勝手に顔がへらへら笑ってしまう。火影候補が聞いて呆れる。

「――カカシ、先生…」

(…ぁ、あれ…?)
 その男の眉間の辺りを見たことで、オレはようやく、二人の間の空気がおかしなことになっていることに気が付いた。どうやら場の雰囲気にそぐわない発言をしてしまったらしい。
「…ぇーっと…」
 どこで何をしていようと、生まれた時から忍の水を呑んで育った現実からは、一生逃れられないんだろう。そのことを今更恥じるでもないのだけれど、さてどうしよう。参ったな。

「あの、俺、好きですよ、カカシ先生」
(――エ…ッ?!)
 唐突に飛び出した言葉に、思わず息を詰めた。知らず体が硬くなる。
「それって『先人 木を植え、後人 涼を楽しむ』――ですよね? あれ? そうですよね?」
 中忍の眉はぎゅっと寄っていて、少々キツそうな笑顔だけれど。
「……ぁ〜〜ん〜〜〜そ〜〜ねぇーー」
「あぁ、やっぱりそうでしたか。それ、俺の大好きな言葉なんです。とっても、素敵な言葉だと思いますよ!」
(――はあぁ〜〜〜)
 胸の中でにわかに膨らみかけていたものが、しゅーーと萎んでいくのが分かる。
 けれど不思議なことに、気付けば彼のその一言が、オレの作りだした鬱陶しい空気を一瞬で吹き飛ばしてくれていた。まるで幻術か何かみたいに。

 惜しむらくは、だったらなぜそこですかさず彼の手を取って真っ直ぐ瞳を見つめながら「分かりました。じゃあイルカ先生、これから一緒に大きな森を作りましょう。作れたら、そこでいつまでも二人幸せに暮らしましょう!」くらい言えなかったのかということだ。己の気の利かなさに、内心で臍をかんで項垂れる。
 のだけれど。
(――まっ、いーかー?)
 すぐ目の前で、こうして優しい笑顔を見せてくれてるんだから。




   * * *




「ご苦労だった。――でイルカ、お前が言っていた、その…今回『個人的に知りたかったこと』という件は、解決したのかい?」

 時に怖ろしく長いようでもあり、ほんの一瞬のようにも感じたけれど、現実にはいつもと同じ24時間だった一日の終わり。
 執務室の前の廊下で黒髪の中忍を見上げていた小柄な里長が、如何にも意味が分からないと言いたげな、気持ち探るような面持ちで訊ねた。
 既に次の任務へと赴いて行った上忍の姿はそこになく、燭台の灯りだけが三人の横顔を柔らかく照らしている。

「ええ。お陰様で、すっきりしました」
 男は暗がりの中でも一目で嘘偽りなどないと分かる、本当に清々しい秋の空のように晴れやかな表情をしている。
「一体なんなんだい、それは? あの猫背男がどうかしたのかい? んーどうにも気になるねぇ」
 女性特有の細い眉を寄せながら、二人と一匹が詮索顔で見上げている。
「火影様、それについては――お約束、しましたよね?」
 イルカが気持ち顎を引きながら、軽く睨むようにして見下ろすと。
「あーはいはい、分かった分かった。聞かない聞かない」
 ふっくらとした白い手が、観念したようにぷらんぷらんと顔の前を行き来している。
「今回のことは、皆には内緒にしておきますけど、次は勘弁して下さいよ?」
「あぁ恩に着るよ。お陰で随分と羽が伸ばせたからな。…まったくお前には敵わんな。お前こそが木ノ葉の里長を影で操る、真の火影だよ」
「あはっ、そりゃすごい! ナルトもびっくりですね!」
 ぱっと咲くように明るく笑った中忍は、ぺこりと一度、軽く頭を下げると、高く括った黒髪を左右に揺らしながら廊下を曲がっていった。



(…ったく、赤い顔して…、見てるこっちが恥ずかしいよ)
 今し方の幸せそうな笑顔を思い出して、里長はうっかりすると弛みそうになる丸い頬と小さな唇をきゅっと締める。
 どうしても次の一歩が踏み出せないでいる二人を巻き込んだ外出プランをお膳立てするのも、執務室の前に「不在のため入室禁止」の張り紙をこっそり貼っておくのも、当人を前にして何も気付いてないフリをするのも一苦労だった。
(あーー疲れた。こんなことなら執務室で寝てた方がマシだったよ)
 うーんと大きく伸びをしながら、軽く酒臭い息を吐いた。


「シズネ」
「ぁ、はい?」
「お前は――自分の美しさを知っているか?」
「うっ?! 美しさ、ですか…っ?」
 この里長のことは、幼い頃からとても尊敬している。けれど、相変わらず何を考えているか分からない所のある人だと、面食らった付き人は密かに思う。
「その場できれいに咲いている花というのはな、みな己の美しさを知らないものなのさ」
「――はぁ…?」
 黒目がちな瞳を、ぱちぱちと瞬かせる。
「あのー、つまり綱手様は、毎日をお花畑で過ごしてると、そう言いたいわけですか?」
「あァ? そうきたかい?! はぁ〜〜シズネ、お前って子は、幾つになっても相変わらずだねぇ。――ふっ…まぁいい、そういうことにしておくさ!」

 だが半日ぶりに執務室を開けた里長は、天井まで時間の問題だった書類の山がすっかり消失している代わりに、室内にでんと鎮座していたはずの重厚なデスクが、まるで一人用の卓袱台の如く小さく作り替えられているのを目にして、「前言撤回ーーーッ!!!」と叫んだという。






          『二人で花の話をしよう/言わぬが花』 ‐fin‐



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