「うわ、もうこんな時間か!」
 何気なく携帯の時計に目をやった途端、湖畔の大木の下に置かれた古びたベンチから慌てて立ち上がった。いつの間にうとうとしてしまったんだろう。眠りたいなら帰りの電車の中で寝れば良かったのに、湖面とそれを取り巻く山々の爽やかな景色を眺めていたら、いつの間にか意識を手放してしまっていた。肌寒くて目が醒めたのも当然だ。さっきまではベンチ一杯に晩夏の日射しが注いでいて木陰に避難していたのに、そいつはいつの間にか山々の向こうへとっぷりと沈んでしまっている。話には聞いてはいたが、山の日暮れというのは都会のそれより本当に早いらしい。日頃ビルの大きな窓から陽が落ちる様を横目に見ているせいか、そんなことまでが新鮮に感じられる。
(靴、少しは乾いてるかなぁ)
 でももし乾いてなかったとしても、ここから駅まで一時間近く歩くことを考えると、履いて歩きはじめないといけない。
「あーー、やっぱダメか〜」
 広大な湖をぐるりと取り巻いている白い鉄柵に引っ掛けて乾かしてあったデッキシューズを手にした途端、そのキャンバス地の冷たさにガックリした。朝濡らしたのならまだ何とかなったかもしれないが、この時間では仕方ないのだろう。一緒に乾かしてあった靴下の方も、もちろんまだたっぷりと湿っている。とても履く気になれない。
 週に二度の休みを利用して、都心から二時間半ほどの湖に来ていた。都の貴重な水瓶にもなっている、なかなかに風光明媚な所で、平日にもかかわらず年配者のハイカーも散見されていたから、どこかに登山道とか散策路があるのかもしれない。
 自分はネットで偶然見つけた、湖の上に浮かぶ「ドラム缶橋」というのを渡ってみたくて都心から遙々やってきたのだけれど、電車と徒歩を合わせて三時間近くかけてきたというのに、実際にその橋をひと目見た途端、少なからず不安を覚えていた。
(うーわー…本当に手摺りとか、何もないんだな)
 橋の作りはとてもシンプルだった。横にしたドラム缶をただひたすら何十と繋げ、果てしなく長くなった上にベニヤ板をぺたんと乗せただけのものが、対岸まで延々と一本続いている。それが山々に囲まれた深緑色の湖面にぷかりと浮かんでいる様は、何だか非現実な光景だった。でもネットで見たときから、そこを無事に渡りきれば、願い事の一つくらいは叶うんじゃないかという気もしていた。
(やっぱここまで来たら、渡らなくちゃな)
 渡るつもりで来たのだ。ここで尻込みしてやめるなんてとんでもない。生徒達に示しがつかない。
 現在進学塾の講師をしている。数ヶ月後に迫った共通一次に向け、みんな必死で努力している真っ最中だ。ここで俺がビビったり、ましてや「落ちたり」するわけにはいかない。
(うん、これ渡ったら、みんないけるな!)
 絶対成功してみせる。もちろん日々の努力は怠ってないのだから、渡れなくたってきっといけるはずだ。でもここは一つきれいに渡りきって、弾みをつけておきたい。
 何よりここ最近、ちょっと迷いがちな自分に対して。
「全員、全力が出せますようにっ!」
 ドラム缶橋の一番端まで降りていき、誰もいない湖の畔に向かって声を上げた。遠くの水面ギリギリを、スマートな鳥が一羽かすめるようにして飛んでいくのが見える。オレンジ色のトンボがついっと目の前を横切って、「行くのかい?」とでもいっているかのようだ。


「うわっ?! ――おっとっとっ…ひッ…ととっ! や、べっ?!」
 だが出来るだけベニヤ板の真ん中に足を着いて歩き出したはずが、想像していた以上に不安定な作りに、全身から一気に嫌な汗が噴き出していた。浮き橋の沈み込みが、予想以上に大きい。子供なら平気でも、大人は体重の分揺れ幅が大きい。(ひょっとして体重制限の看板を見落としていたとか?)と嫌な想像が過ぎる。入社以来続いている、近隣のラーメン屋巡りと運動不足が、マイナスの相乗効果を見せはじめていたり、する?
(…やめといたほうが……よかっ、た…?)
 けれど今すぐ岸に戻りたくても、後ろを振り向いたその瞬間に、大きくバランスを崩しそうで怖くて出来ない。
 一応泳げる。――はずなのだが、高校の授業以来、風呂以外の水溜まりに入ったことがない。服を着たままでは、大抵の者がまともに泳げなくなるという話が、さっきから脳裏に貼り付いたまま消えていかない。
「ぶあっ、とっ、ええっ?! …ゆれっ!!?」
 一度はドラム缶の揺れを押さえかけたものの、次の区画に踏みだそうとするとまた不安定に揺れて、ベニヤ板の上に盛大に水が乗ってくる。靴が濡れるのが嫌で、それを何とかして避けようとすると、ますますバランスが崩れて大きな振幅になっていく。広い湖面に、規則正しい波紋が次々広がっていくのが、斜めになった視界の端に映る。
(マズイ、早く押さえないと!)
 これ以上振幅が大きくなったら、本当に湖に落ちかねない。(靴は多少濡れてもいいから、とにかく踏ん張る!)と思った時だった。
「わあっ!!」
 踏み込んだベニヤ板が、かつてなく勢いよく沈み込んで、それに掬われた大量の水がざーっと勢いよく右足にかかった。更に水平を保とうと踏ん張った左側からも水が来て、まるで何かの冗談のように左足も浸水。
「うあっちゃーーー…」
 両足深くに一気に染みていく、何とも言えない不快な感覚に暫し呆然とする。でもやっちまったものは仕方ない。こうなったら「守るものは無くなったのだから、行きやすくなった」と思うしか。
 そこから先はもう、チノパンの裾を膝まで織り上げて、根性で渡りきっていた。
「――ぃよっしゃっ!!」
 ゴールの際は、両手を挙げてガッツポーズ。
 100メートル以上もある長い浮き橋を一人で渡りきった達成感はなかなかのもので、途中バランスを崩して五回ほど湖に落ちそうになり、長袖シャツの袖口までびっしょり濡らしてしまうオマケ付きではあったものの、気分はなかなかに爽快だった。


(――しょうがない、歩きながら乾かすか)
 平日は一時間に二本しかないダイヤだ。まだまだ終電には相当に時間があるが、万が一乗り遅れたなんてことになったら、宿など皆無のこんな辺鄙な所では洒落にならない。
 駅で写メってきた時刻表を確認し、恐る恐る足を差し入れた靴の冷たさにぶるっと一つ身震いすると、元来た駅の方に向かって歩き始めた。


     * * *


「…あれ〜〜? っかしいなぁー…」
 元来た道を戻っているはずなのに、どう見ても見たことのない狭い道に出くわして後ろを振り返る。一体どこから間違ったのだろう?
(やっぱ…あそこか?)
 心当たりなら、無いこともない。いや訂正します、大アリです。実は歩いているうち、濡れた靴が素足の踵に引っかかりだして不快な靴擦れを起こしはじめていたために、少しでもショートカットしようと、来るときに(帰りはここを行けば近道だな)とアタリを付けていた脇道に入っていたのだが、どうやらそこが怪しい。というか、どう考えてもそこしかないだろう。
「イルカお前、ホントに方向オンチだな〜。ちょい貸してみー?」
 都内のラーメン屋巡りでも、携帯の地図を縦横斜めとグルグル回すばかりでなかなか目的地に辿り着けないことが多い。そのたびに同僚や、下手をすると通りすがりの女の子にまで代わりに道案内を頼んでしまったりする。面目ない。
 えーと、要するに、また道に迷っている。
(なんだけどー…)
 今来た道をもう一度戻るとなると、かなり大変だ。踵もだんだんと痛くなってきている。いちいち戻っていたらますます傷が広がって、いよいよ歩きたくなくなってしまいそうだ。
「絶対こっち方向だと、思うんだけどなー」
 そんなわけで、駅と思われる方角に再び針路を調整。いつもこんな感じで、大抵何をするにしても必ず一度は遠回りをするけれど、最終的には何とか辿り着くタイプだ。大丈夫、時間はまだある。
 道は必ずどこかで繋がっているのだ。


     * * *


「ってえええ〜〜どこだよここ〜?」
 だんだん大きくなってきている独り言が、聞く者のいない山の木々の間に消えていく。
 ちなみに道というのは、目的地でない所にも繋がっている。当然だな。でも俺はこんな民家もないような、山道のどん詰まりを目指していたわけじゃない。流石にすごすごと元来た道を戻る。
 山に一人で来たのは始めてだったが、都会と比べると手掛かりになるようなものがなかなか見つからないことに、来てみて始めて気付いていた。似たような山と木に囲まれた道路が延々続くばかりで、人影もない。迷っている者には致命的な悪条件ばかりが揃っている。
「うっへーーなんだこれ、全然違う方向に行ってるしー」
 暫くして偶然現在地を示す標識を見つけて携帯で検索したところ、現れた地図に我が目を疑っていた。
(あーあ、まーたやっちまった〜)
 『多分こっちナビ』、大失敗。


「うはっ、ヤバイぞ急げ、急げ!」
 その後ようやく会うことが出来た地元の人に、しつこいくらい何度も繰り返し駅までの道を聞いて、何とか見覚えのある駐車場に辿り着いていた。駐車場の向こうに見えている大きなトンネルを抜ければ、あと十分程で駅に着くはずだ。来たときはこの広い駐車場も半分近くが観光客の車で埋まっていたが、今は一台も見当たらない。それもそのはずで、陽はとっくの昔に暮れていて、外灯がなければ湖がすぐそこにあるかどうかもわからなくなっている。
(あー腹減ったなー)
 来たとき、駐車場に屋台を出していた移動販売車をちょっとだけ期待していたが、甘かった。駅前も寂れていてビックリするくらい何もなかったから、このまま自宅の最寄り駅までは我慢だ。
(踵、いってぇ〜)
 すっかり靴擦れしてしまった足を、半ば無理やり前へと動かす。最寄り駅に着いたら、飯より先にコンビニで絆創膏を買わなくては、家に歩いて帰るのも難儀しそうだ。明日からの授業を前に気分転換をするつもりが、思わぬものをこさえてしまった。
 乾いた山の大気が、温度を下げながら湖面へと降りてきている。歩き通しだったから体は汗だくだけれど、これは電車の中でよく眠れそうだぞ…と思ったときだった。
(――ん…?)
 何だろう? さっきから山々に轟々というような低い音が鳴り響いていたのは気付いていたけれど、それが次第に大きくなって近付いてくるような気がして耳を澄ます。
(ひょっとして雷か何かか?)と思っていたのだが、山と湖にこだましているそれは、都会で聞くものとは音の感じが違っている。それに雷にしてはやたらと長たらしくて、切れ目がない。何より真っ暗な山が全く光らない。
(…来た…?)
 そうこうするうちにも音はどんどん近付いてくる。穏やかな一日が終わり、静かに眠りにつこうとしている山を強引に揺さぶり、眠らせるものかとでもいっているような轟音が、カーブを曲がって目の前のトンネルへと入ってきた。
「うわっ?!」
 瞬間、トンネル内に響き渡ったバリバリという耳を劈く轟音に、今まさにそちらに向かって歩いていた足が、否応なく止まっていた。耳を塞いでも殆ど効果のない音は破壊的で、とても自ら近づいていく気になれない。しかも音が反響して増幅されるトンネルに入った途端、全員が一斉にエンジンを空吹かししながら、わざとゆっくり走っている。
 音の主はオートバイだった。しかも十台近くいる。その後ろには少し距離をとりながら、数台の車がのろのろと走っているのが見える。どうやら危なくて追い越せずに溜まってしまっているらしい。道路一杯に広がって走っているせいで、反対側から来た車が慌ててブレーキをかけている。
(うわあぶねっ?! ――はぁーびっくりした、ったくなんてヤツらだよ…)
 その対向車に対して全員で拳を突き上げ、やたらと盛り上がっているが、迷惑このうえない危険行為だ。やがてトンネルを抜けると、ウインカーも付けずに自分のいる駐車場にぞろぞろと入ってきた。静かな湖面にさざ波が立ちそうなほどの音と振動に、自然と眉が寄る。後ろでノロノロ運転に付き合わされていた車達が、やれやれようやくかといった様子で加速していくのが見える。
(えっと…これはアレか? いわゆる暴走族とかいう…?)
 俺が子供の頃にはまだ時々いたように思うが、この近さで実物を見たのは初めてだった。最近では「警察二十四時」系のTV番組の中にしか存在しないと思っていただけに、目の前にやってきた騒音集団をしげしげと眺める。




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