汗を拭き、服を着たあと、「どちらが腕枕をするか」でしばし意見の相違をみたものの、キスという名の実力行使に黙らされて渋々従っている。照明については、服を着替え終わってもう一度寝袋にインした地点で、再び消して貰っていた。どうもいま彼の顔を見ていると、気持ちとかその他色んな所が騒いでしまって宜しくない。甘みのある独特の低い声だけで十分だ。
「――事務所に、テント借りに行った時さ」
「うん」
「イルカが『二つはいらない、一張りでいい』なんていうから、オレそれまでほんとに必死で押さえてたのに、なんてこと言うんだって腹が立ったよ」
 言いながらも、最後のほうは小さく笑ってしまっている。そうか、俺はカカシさんからツーリングキャンプのノウハウを一つでも多く得たかったから、別々のテントじゃダメだと思っただけなんだけど……ってすみません伏して訂正します。こんな山の中で、小さな一人用のテントに一人で寝るのが何となく怖かったんでした。
「でもね、少なくともイルカがシュラフに入っちゃえば、そんな気も起こらないだろうって、思ってたんだけどね」
(ああ、それは俺もそうかも)
 なのに彼はランタンを消そうとして、手も足も出ていない俺の姿を見た途端、(ああこれでやっとオレの好きに出来るんだ)と、真逆の方向に思考が展開してしまったんだそうだ。
「結局、何がどうなってもこうしたかったんだーね」
 再びみのむしになった俺を、寝袋から上半身だけ出した男がぎゅっと抱き寄せる。
 でも「触りたくてたまらないのに、なかなか触れない寝袋と、厚着が必要な冬場のキャンプはもういいかな」と言われ、二人で額を擦り合わせながら笑った。



     * * *



「っ?! なにっ、つめたっ?!」
 頬に飛び上がりそうなほど冷たい何かが降りかかった感覚に、慌てて飛び起きる…つもりが、手足が全く動かせない。世界は見渡す限り黄色一色で、目を開けた瞬間(これは夕べ調子に乗りすぎて、あれからまた致してしまったせいか…)などと思うが、もちろん違った。テントの色だ。そして寝袋にすっかり自由を奪われている。もう随分と日が昇ってきているとみえ、ドームテント全体が明るい黄色に輝いている。
「わっぷ?! ぇ、なに雨っ?!」
 と間髪入れずにまた顔に水滴。一体外は晴れなのか雨なのかどっちなんだと、顔を顰めながら起き上がろうと、寝袋の中から両手を出した時だった。
「ぁ待って、動かないで!」
「へ? カカ…うわあっ?!」
 黄色い頭上から、大量の雨粒がどしゃーと落ちてきて、パニックになる。ヤバい、外は大雨かよ!
「っ、……つっめてえぇ〜〜」
 二人して黄色い世界で一時停止。
(…って、待てよ?)
 ドームテントの丸い天井を見上げると。
「もしかして……結露?」
「…ね」


「うっわ、さっむ!」
 テントの外に這い出して、そのきりりとした山特有の空気の冷たさに驚く。そりゃあ空気中の水分も液体になるわと納得だ。
「しかも夕べは、二人で50人分くらいの呼吸しちゃったしね?」
「あはーー」
 快晴の雄大な富士山を前にして言われると、何だかもう恥ずかしさなんて端から別の物へと変わっていく……ことはないな、ないない。

「そうか、畳む前に裏も乾かすんですね」
「そう。レンタルでもそれくらいはね」
 カカシさんがドームテントをおもむろにひっくり返していて、撤収途中の手を止めたところだ。
 東京から走ってきて、腹一杯食べて呑んで、更に適度な運動をしたせい(?)で、キャンプ二日目の朝は少々寝坊をしてしまっていた。いつ車を出したのだろう。全く気付かなかったが、両端のキャンパーはもうとっくにいない。
 一晩俺達の番をしてくれていたカタナは、びっしょりと濡れてしまった寝袋等の物干し台と化している。一人用のテントで普通に寝ても、寒ければ結露はするそうだが、今回は「論外の濡れよう」だったとのことで、『キャンプは全日程が晴れの日に行うに限る』と脳内の旅帳にこっそりメモする。

 結局、更に旨くなったチリビーンズサンドの朝食を食べ、全ての撤収を終えて再び二人が都心に向かって走り出したのは、昼過ぎのことだった。

 ――え? 尻は大丈夫だったのかって?
 ははっ、大丈夫なわけないだろ。リヤシートに座ってエンジンかかったら、すげぇ痛くて飛び上がりそうだった。(高速のつなぎ目の、ガタンてなるヤツなんて大キライだ!)
 それでも…まぁなんだ、一人で新幹線に乗ることを考えたら、なんとか我慢出来るレベルだってことだろ。聞くなよ、そんなこと。



     * * *



「こんばんは、このあいだはどうも」
「あら、来てたの?」
「はい、こないだ旅行に行った時の、お土産を持ってきたんで」
「あらミルフィーユ、嬉しい。じゃあ早速アンコも呼ばなくちゃ」
(えぇっと…、これで大体、揃ったかな)
 その日はショップでナルトやサスケ達とポケバイの話をしながらも、何となくではあるものの、一番お客が集まりそうな頃合いを見計らっていた。アスマさんやガイさんも居るし、半時ほど前には、カカシさんも来ている。いやお客は少なくても良かったのかもしれないけど、ただ何となく、味方は多い方がいいような気がして。
(…よし!)
 アスマさん達との話も一段落して、偶然近くにいたアンコさんもそろそろ到着するという連絡が入ると、いよいよ気持ちを固めて立ち上がった。頑張れ、俺。
 一番話したい人…、いや話さなくては何も始まりそうにない人は、今日も店の奥で油にまみれてオートバイをいじっている。
「あの、綱手さん」
「あん? どうしたぃ」
「――俺、バイクの免許取りたいんですが」
「ハァーーー?!」
「なんだ、原付か?」
 近くで三代目と話をしていたゲンマさんが、まだどこか理解しきっていないような顔をしてこちらを見ている。
「違います、自動二輪。でもってバイク買って、みんなと一緒にツーリングに行く!」
「「「「ええぇぇーーー!!」」」」
 先立つものなら、今まで飲み代とラーメンくらいしか使ってなかったから、多少はある。ウェア類もメットも、必要なものはここにくるまで一通り揃えてきた。
(あとは、免許だけ!)
 幸いなことに、季節は冬本番へと向かっている。バイクにいい季節からは遠のきつつあるわけだが、その間に免許を取ってしまえば、来年の春から秋にかけての絶好のツーリング日和に備えることが出来るはずだ。
 彼の後ろに乗っているうち、乗せて貰うだけではだんだんと物足りなくなってきていた。もちろん一緒に乗っているのは楽しい。それを完全に止めてしまおうなんて気はない。
 だが決定的だったのは、カカシさんにお願いしてカタナに跨がらせて貰ったときだ。あの瞬間、バイクに圧倒されたのも確かだけれど、それと同時に『もしもこれを操れるようになったら…』と、いつのまにか忘れかけていたものを揺さぶり起こされたような気がしていた。
 もし自分が行きたいと思った時に、行きたいと思ったところへ、それも彼の後ろではなく、並んで一緒に走ることが出来たらどんなにいいだろう。一旦そう思ったら、もうその思いはどんどん膨らんでいく一方で、とても消すことなど出来なくなっていた。
「やっ、だってアンタ車さえ…」
 カカシさんが、少しガニ股猫背になって狼狽えている。いや、色男がそこまでするほどのことはないと思うのだが。
「ええ、免許取ってから、まだ一度も運転したことないです」
 それどころか、自転車だって高校生以来だから、今いきなり持ってこられてここで乗れと言われたら少々怪しい気もする。でも幸いにも車の免許があることで、二輪の学科講習が圧倒的に少なくて済むこともまた確かで。
「それに、ドラム缶橋で水被るくらいバランス感覚なくて、喧嘩っぱやいわけでしょ?!」
「バイクと浮き橋は違います。喧嘩は……いい加減忘れて下さい」
「しかも、もの凄い方向オンチだって…」
「大丈夫です。予めそのつもりで準備して出かけますから。それに道は、どこかには繋がってます。必ずね!」
 途方もない、俺の大旅行が始まった予感がする。長い長い、けれど最高に楽しそうな旅。

「アンタみたいなのがバイクに乗ると、早死にするよ」
「え」
 けど、その浮かれかけた気持ちに、容赦なく冷や水をぶっかけてくれる人がいる。綱手さんだ。でも俺みたいなのは、特にこういう人を大切にしなくちゃいけない。わかってる。落ち着け俺。
「聞いたよ、あんなイカレた連中相手に一瞬でアツくなってるようじゃ、命が幾つあったって足りやしない。悪いことは言わない。やめときな」
 だがその点については何としても否定しておきたくなる。おかねば。
「それは誤解ですよ、そんなしょっちゅうアツくなってるわけじゃないし」
 まぁ一年に…一回くらい…? でも、ないか?
「俺、基本すっげぇビビリなんですよ?」
「あァ? このアタシに真っ向から平気な顔して喧嘩売ろうってヤツの、どこがビビリなんだい!」
(いやそれは…)
 俺にとって綱手さんは、言うほど怖い人じゃないからで。
 バイクの陰からこちらの様子を見ているナルト達が、青くなったり赤くなったりと忙しそうにしているのを、目で「大丈夫だ」と合図する。
(うーん)
 でもなんと言えば納得して貰えるんだろう。ゆくゆくはこの店でバイクを買って、ここの人達とツーリングに行きたいだけなんだけど、どうもそれだけじゃダメらしく。困った。
「いいか。今ここに居る連中は皆、感情より理性の方が勝っている。或いは感情よりライディングテクニックや体力の方が遙かに勝っているからこそ、ここに居るんだ」
「はい、そうですね」
「オートバイってのは、生身の体を剥き出しのままで乗る乗り物だ。シートベルトやエアバッグの類はどこにもない」
「はい、それもわかってます」
「しかも車と同じ大きさのエンジンを、三分の一の軽さの車体に乗せている。そいつに乗って、感情が先走ったらどうなるか」
「―――…」
 いつも賑やかなショップが、水を打ったように静まりかえっている。
 確かにカカシさんの後ろに乗せて貰うようになってから、気持ちが高揚していることが格段に多くなった。そのお陰か、最近は仕事場で何があっても落ち込むことがなくなっている。
 でもだからといってそれは、抑制のきかない感情の高ぶりとは違うと思うのだ。
「俺は…確かに感情先行型かもしれないです。多分、元々持ってる能力だって低い。それくらい、自分自身が一番よくわかってます」
 カカシさんのすぐ後ろで、あれだけ見てきているのだ。自分に何が足りないかなんて、もう嫌と言うほど目の当たりにしている。
「――でももう、誰かに言われてぐらつくような、そんな生半可な気持ちで話してるわけでもないんですよ」

「カカシ!」
 と、それまで俺をぐっと見上げていた綱手さんが、急に視線を反らしたかと思うと男の名を呼び、彼が「ハぁ…?」という間の抜けた声を上げている。
「お前がコイツを拾ってきたんだ。最後まで責任持って面倒見るんだよッ!」
「なっ…?! ええぇ〜〜?!」
「ありがとうございますっ、宜しくお願いしますッ!!」
 間髪入れず、声を張りながら二人に向かって勢いよく体を折った。

(やったぞ、ナルト、サスケ!)
 いいから黙って見ててくれな、とだけ伝えておいた一番心強い応援団にも、小さくガッツポーズをして見せる。
「河川敷のオフロードで、スーパーカブから修行だぞイルカァ!」
「はい、お願いします!」
「前転二回宙返りだッ!」
「やらないよう気をつけます!」
 みんなが一斉に笑うと、店内はいつもの和やかな空気に戻り、再びそれぞれの場所へと戻っていく。

 ナルトとサスケの所に行き「俺も一緒に頑張るから、宜しくな」と言うと、「へっ、ぜぇんぜん心配なんかしてねぇってば」「まったくだぜ」とあっさり言われた。
(この人も、これ位あっけらかんとしててくれればいいんだけど…)
 その二人の側にいる背高い男は、明らかに戸惑いの表情をしている。まるで俺が、どっか遠くに走って行っちまうとでも思ってるような。
(やれやれ…)
 俺は、あんた達に追いつきたいからバイクに乗りたいんであって、逃げたいわけじゃないのに。
(ふふ、でもそんなに心配なら、これからはもっとしっかりつかまえててくれるよな?)
 二人の少年の頭を撫でながら微笑むと、男の見事な銀髪を、初冬の風が優しく揺らした。



                  『風になれ!』 fin


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